鎌倉散策 鎌倉歳時記 二十三、鎌倉の歴史を記する諸本『太平記』(七) | 鎌倉歳時記

鎌倉歳時記

定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 『太平記』第十巻八、鎌倉中合戦の事において、相模入道(北条高時)は、一千余騎にて葛西谷の東勝寺へ引き籠った。父祖代々の墳墓の地であり、心静かに自害の地と定めたのである。その後の第十巻八は、長崎三郎座衛門入道(長崎円喜の叔父)の子息勘解由(かげゆ)左衛門為基、大仏陸奥守、金沢武蔵守貞将、普恩寺相模入道信恵(第十三代執権北条基時)等の討死が記されており、また、北条高時は、子息・万寿(邦時)を産んだ側室の常葉前の兄、五大院右衛門宗繁に万寿を託した。後に第十一巻一、「五大院右衛門並びに相模太郎の事」において、預かった万寿を報奨目当てに裏切り、新田義貞の執事船田義昌に在所を密告する。万寿(邦時)は相模川で捕縛され翌日鎌倉で斬首された。宗繁の行為が人々に不忠として非難され、これを聞いた新田義貞は、宗繁を糾弾し、処刑を決めるが、それを察知して逃亡した。その後も逃亡を続けたが、宗繁の所業を知った人々は誰も助ける者もなく、旧友からも見捨てられ、「乞食の様に成り果て、路傍で餓死したという風聞があった。」と記されている。先日放送された松井優征氏のアニメ『逃げ上手の若君』では、日本屈指の鬼畜武士との称号も与えられた。

 

 また北条高時の次子・亀寿(時行)は、数度の合戦の中に郎党が皆討たれた得宗家被官の諏訪盛高(頼重)が敗戦の屈辱を後生に託すため、北条高時の側室新殿が居る扇ヶ谷に行く。新殿と乳母女達だけで、亀寿を前に、「敵に懸かるならば、頼重の手により死なせて下さい」と願った。頼重は、気丈に声高らかに「武士の家に生まれる者は、赤子の時からこの様な事もあると思わねばならず、相模殿(北条高時)もそのようにお思いであられます」と言って亀寿殿を抱きとり、自らの鎧の上に背負い連れ去った。そして諏訪氏の本拠、信濃国の諏訪神道の下で匿われる。後の建武政権期に時行は、北条氏復興のため、わずか十歳で鎌倉幕府残党を糾合し鎌倉街道絵を進撃し、建武二年(1335)中先代の乱を起こした。この北条時行については『太平記』第七巻四、中先代の事から、八、相模次郎時行滅亡の事に記されている。数年前『平家物語』がアニメ化されて十二話が放送された。独自の架空の少女から視点から見た『平家物語』の表現と、美しい映像に評価が高く得ている。この『逃げ上手の若君』は、『太平記』を基に、後の中先代の乱を蜂起する北条時行をモデルにした少しコミカル的で架空の要素を多く入れた物語であるが、これも非常に面白く評価が高い作品であった。また、『太平記』を読む前に一見しておくと理解しやすく、項数も進むと考え、このようにアニメ化することで多くの人に興味を持ってもらうことは大変喜ばしい事と考える。

 

 第十巻九、相模入道自害の事で鎌倉幕府滅亡の様相が記され、北条高時の自害を以て十巻を終えている。この巻九も、長文であるため、現代訳にて記してみたいと思う。

 現代訳「長崎次郎基資は、小手指原(こてさしはら)久米川、分陪、府中、関戸の武蔵の合戦より今日に至るまで、昼夜八十四度の合戦に毎回先頭に立ち戦ったが、自身も手負い、郎党も多く討たれる。そして今は、わずかに百四十騎になってしまった。

二十二日には、官軍の源氏の軍勢は、早くも鎌倉の谷あいの地に乱れ入って、幕府の平家の大将の大方が討たれたと聞くと、誰が守る陣とも言わず、ただ敵が近づく所へ馳せ寄り集まり、八方の敵を払って、東西南北の手強い敵を破った。馬が疲労すると、乗換え、大太刀が折れれば、はき替えて、敵を切って落とすこと三十二人、陣を破ること八か所であった。こうして相模入道(北条高時)のおられる東勝寺へ帰り、表門と本堂の間の中門に畏まって、涙を流して申すには、「基資、ありがたくも代々北条得宗家にお仕えして、朝夕を間近かに殿の御顔を拝し奉るその名残りも、今生において今日を限りにと思います。基資は、数か所の合戦に敵を打ち払い、毎回打ち勝ってきたと言えども、方々の鎌倉へ入る道を破られて、源氏が鎌倉中に充満する上は、今となってはいかに武勇を尽くしましても叶う事は無いでしょう。敵の手にかからないように自害する事を御覚悟なさいませ。ただし、基資が帰り着くまでは、お待ちいただきますように。殿の御存命の間に、今一度、この敵の中に駆け入って、思う存分戦って冥途のお供をする時に、思い出話としてお聞かせ申し上げましょう」と言って、また東勝寺を打ち出て行くと、入道(高時)は、後ろか遠くまで見送り、涙を流して立っていた。基資、これが最後の合戦であるため、まず北条高時創建の禅宗寺院である崇寿寺の長老の南山和尚への所に参った。禅師は、則ち上座に座って面会された。事が急ぐため、甲冑を着けてるため正規の挨拶はしないで、基資は立ったままで、軽く左右を会釈して問う。「勇士はこのような時にはどの様に振舞えばよいのか」。和尚は、答えて曰く、「剣を激しく振るって進む外ない」。基資は、末後の一句を聞いて、合掌低頭して敬意を示して帰り、敵味方を区別する布の笠印を皆捨ててしまい、門前より馬に打ち乗って、百五十騎前後を駆り立てて、閑に馬を進めて、敵の陣へ混じり入った。その志は、義貞に近づいて勝負を決しようとするためであった。

 

 基資は、旗を掲げず、長刀の鞘をも帯びなかった。兵は、敵である事も知る余地がなく、おめおめと陣の中を通して、基資は(新田)義貞に近づく事、わずか半町(約五十メートル)程になった。速やかに見つけたところ義貞の前に由良新左衛門が控えており、基資を見つけて、「ただ今、旗を持たずに近づく者どもは、長崎次郎と見るぞ。余すな、漏らすな」と指示を出すと、前陣に控えていた武蔵七党の武士ども一千余騎が東西より押しつ取り包んで、真ん中に長崎等を取り囲んだ。長崎次郎は、企てが外れたので百五十騎、一ヵ所に隙間もなく寄せ集まり、一斉に鬨(とき)の声を挙げ、この大勢の兵の中に駆け入り、交り合い、うまく紛れ込み、ここに現れて、火を散らすように戦った。長浜(六郎左衛門)は、これを見て、「敵は印となる笠符を付けていないように見える。それを印に組んで討て」と、支持すると、甲斐の武田氏、信濃の小笠原氏の兵は、押し並べ押並べ、引き込んで組落として頸を取った。濛々たる土煙は天を覆い、汗と血は大地をぬかるませた。その有様は、楚の項羽が、敗死する直前、漢の三人の将軍を打ち取り、楚の魯陽公が漢と戦った時に、日が沈もうとしたのを、𠀋(ほこ)を振りかざして太陽を星宿三つ分の距離に引き戻した故事と同様である。しかしながら、いまだ長崎次郎は討たれず、主従八騎になって戦うが、なおも大将に組懸かろうと窺って近づく敵を打ち払い、ややもすれば敵勢と刺し違えても、義貞兄弟を狙った。武蔵国の住人の横山太郎重真は、押し隔てて汲もうと、馬を進めて近づく。長崎も、戦うに相当する敵であれば組倒そうと、探しているうちに、横山太郎重真が現れた。自身には相応しくない敵として、左側に重真を見据えて四尺三寸(約134㎝)の大太刀を用いて強く打ち落とした。太刀は、甲の首を覆う錣の部分の板まで割って、重真は二つになって臥し、馬は尻持ちをつき膝を曲げてどっと倒れた。同国の住人、武蔵七党の児玉党の武士である庄三郎長久は、これを見て、強敵と思い続いて組み合おうと懸かりつけた。長崎は打ち笑って、「党の武士を相手にするくらいなら、どうして横山等を嫌おうか。格下の敵の殺し方をお前に教えてやろう」と言って、長久の鎧の背中につける総角結びの飾り紐をつかんで、その身を中に引き上げて弓の長さ三つ分ほど投放った。長久は即座に血を吐いて死んでしまった。…・」。

 

■鎌倉時代の太刀の長さは、二尺五寸から二尺八寸(約75.8~84.8㎝)程であり、一般的に使用する刃長の平均は、二尺六寸四分(約八十㎝)であった。平安末期から鎌倉初期には、『源平盛衰記』により畠山重忠が用いた太刀として「身巾四寸(約十二㎝)長さ三尺九寸(薬120㎝)の「秩父がうや平」や武蔵国綴党の大将である太郎、二郎が四尺六寸(約140㎝)を用いたとの記述があり、当時三尺越えの大太刀が使用されていたことが伺える。当時の武士達が戦闘手段として弓馬の戦を行っていたため、太刀の使用は、馬乗同士の敵と組合った際に討ち取る手段が主であった。従来が多く出現すると雑兵は大長刀(薙刀)を持って騎馬武者と対抗する。鎌倉末期から室町期に懸けて騎馬戦または雑兵を相手に長刃の使用が目立ち、それにより適した長さの太刀が多くなった。『太平記』のこの巻では、四尺三寸(約134㎝)の大太刀の記載が見られるが、南北朝期に入るとその記述が五尺以上の大太刀の記述が記され、最大で九尺三寸(約282㎝)の記述例が描写されている。この時期には戦闘形態も変わり雑兵が増加し、大長刀(薙刀)を用いていたことから、馬上より雑兵を討つために大太刀の使用が求められたと考えられる。室町後期、戦国期に入ると槍が出現していく、そして江戸時代では、太刀の定寸としてとして二尺三寸五分(約七十㎝)が定められた。   ―続くー