『太平記』第十巻九、相模入道自害の事、現代訳にて続けていきたい。
「長崎基資は、大声を掲げて名乗りを上げる。『天下を手中に納め、すでに九代葛原親王(桓武天皇の皇子)の十八代の後胤、前相模守高時の管領、長崎円喜入道の嫡孫、長崎次郎基資と言う者ここにあり。手柄を立てようとする者は寄ってこい』と鎧の袖も、鎧の胴の下に垂れ下げた太ももを覆う草摺りも皆切り捨て、髻が解けてバラバラになった髪となり、敵の中に割って入ろうとすると、後ろにいた郎従が馬の前に走り寄り塞いだ。そして郎従は、「いかなる御時にて思われます。敵は早々に谷々へ乱れ入ったと思われます。今は、打ち帰り、主である殿(北条高時)のご自害を進め申されました」と言うと、「そうであった。人を斬る面白さに、大殿に約束を申した事を忘れそうであった。さあ、それでは帰り参ろう」と主従八騎、山之内へ引き返せば、児玉党の五十余騎が、「見苦しいぞ、戻れ」と言って追いかけた。敵が近づけば郎従八騎の者どもは返し合わせながら、山内より葛西ヶ谷まで十七度ほど戦った。
(鎌倉 東勝寺跡)
基資の鎧には、二十三本の矢が蓑に編んだ菅(すげ)や茅(かや)の様に刺さり、相模入道殿の前に参ったところ、祖父の長崎円喜が待ち受けて、どうして今まで戻るのが遅かったのだ」と問いかけると、「もし新田義貞に近づく事が出来たなら、引き組んで、直接勝負を決しようとしたため二十回程、敵陣の中に駆け入り、伺っていると、ついにそれと思える敵に遭遇しました。とるにたらない武蔵、相模の党の雑兵どもを四、五百人斬り捨てました。なおも奴らを由比ヶ浜へ追い出し、車切り切り、胴切りで胴を二つに、そして立破(わり)にして雑兵を砕きました。上(北条高時)の御事は如何でございましょうか。早々皆さまも、鎧兜をお脱ぎになり御自害なさいませ。基資が先ず自害いたし、手本をお見せいたします」と言うと鎧をぬいで投げ捨て、御前にある盃を以て、舎弟の新左衛門に酌を取らせ、三度傾けて、摂津の刑部大輔入道道準(中原親鑑〔ちかのり〕)の前に差し置いて「席次の順にとらわれず、特定の者を差して盃を回す事。これを肴に御覧下さい」と言って、左の脇下に刀を突き刺して右の脇腹まで切れ目を長く搔き割って、中の腸(はらわた)を繰り出して、道準の前に伏した。
道準、盃を取って、「哀れ、肴や。いかなる酒の飲めない者であってもこれを飲まぬ者は無い」と戯れて、その盃の半分ほど飲み残し諏訪左衛門入道(諏訪盛高〔頼重〕)の父の前に差し置いて、同じように腹を切った。諏訪入道直性はその盃を持って、心静かに三度傾けて、相模入道の前に差し置いた。「若き者ども、ずいぶん芸を尽くした振る舞いが、年寄りになってもただ何も芸はしないでは済まされません」と言って、「今より後は、これを送り肴に使うように」、そして腹十文字に搔き切って、その刀を入道殿(北条高時)の前に差し置いた。
(鎌倉 東勝寺跡)
長崎入道円喜は、これまでも、入道殿の御事は如何と思うように見えた事があるが、長崎左衛門次郎(基資の舎弟)が祖父円喜の前に畏まり、「父祖の名誉をもって、子孫の孝行とすることでございますので仏・法・僧の仏神三宝もきってお許し下さるでしょう」と言って、円喜の肘の間接辺りの脇腹を二度刺して、返す刀におのれの腹を七寸ほど掻き破って同じ枕に臥した。この元服したての若者に義を勧められて、相模入道が腹を切られると、上入道(安達時顕)も続いて腹を切った。
これを見て、北条一門と他家におる人々が皆次々に半身裸になり腹を切り、自ら首を欠き落とす人々は、誰であったか。金沢大夫入道宗顕、佐助近江前司宗直、甘名駿河守、子息左近将監、名越土佐前司時元、印具越前前司宗末、塩田陸奥守入道、摂津刑部大輔入道小町中務権大輔朝実、常盤駿河守則貞、長崎左衛門入道円喜、城加賀前司師顕、秋田城介時顕、越前神有時、南左馬頭義時、摂津左近大夫、長崎三郎左衛門入道思元、明石長門介入道忍阿、名越の一族三十四人、赤橋、常盤、佐助の人々四十六人、その血筋に繋がる一族の人々二百八十三人、我先にと腹を切った。その後に、館に火を放ち猛火となり盛んに燃え上がった。黒煙が天に充ち溢れ程に庭上門前の兵は、燃え上がる炎の中に入って腹を切り、あるいは父子兄弟、刺し違えて重なり合い臥した。
血は流れて、黒く濁った大河の如く死骸は充ちて、折り重なった町はずれの野原の様であった。死骸は焼けて誰であるかはわからなかったが、後に名字を尋ねて、個々の一所に自害した者を合わせると八百七十三人であった。この他の平家の血筋の者達、その恩顧を被る一族、僧俗男女を言わず、聞き伝い聞き伝へ、命を絶ってあの世(泉下)で恩義に報いようとする人々は、数が絶えなかった。鎌倉中数えるに、全ては六千余人と聞こえた。
於戯(ああ)、この日は、いかなる日であるか。元弘三年(1333)五月二十二日、平家九代の繁栄は、つかの間に皆滅び果て、源氏は長年の愁いや悲しみを一時にして払うことが出来た。」。
(鎌倉 北条高時 腹切りやぐら)
これで、一部が終了することになる。宝治合戦の三浦氏一門の自害と酷似する。第二部は、建武の新政の失敗と南北朝分裂から後醍醐天皇の崩御迄が描かれており、後醍醐天皇の崩御が平清盛の死に相当する『平家物語』の影響がみられる。また後醍醐天皇は徳を欠いた天皇として描いた。第三分は南朝方の怨霊の跋扈(ばっこ:のさばり、はびこる様子)による足利幕府内部の混乱を描いている。『太平記』を『平家物語』と比較すると、「一貫性に欠如している」「完成度が未熟」等の批判があり、江戸時代の俳諧(はいかい)宝井其角は、「平家なり太平記には月を見ず」と評し、「『月』は豊かな情緒、風雅の象徴であり『平家物語』にはあるそれらが『太平記』にはない」と両者を比較した。また一方では、「平家物語とは異なる文学性を通太、軍記文学の新境地を開いた作品」と言う評価もある。
(鎌倉 北条高時 腹切りやぐら内部)
私自身両者を読み比べると、『平家物語』は、経過事項を仏教的な説話を用いながら記して、個々の人物に焦点を当てながら、その人物の心境にも非常に繊細に描かれた。平重盛の死の様相を書き止められた「医師問答」や「重衡生捕」「知章最期」「敦盛最期」「維盛入水」「重衡被斬」等、そして灌頂巻で、その後の建礼門院徳子の描写は、日本人の心を圧巻させ、完成度は非常に高く、私自身中世での文学作品の最高峰と考えている。『太平記』は、歴史的経過を詳細に書き描き、その中に神事的な神話も挿入させた。個々の心境に対しては儒教的な側面で描写し、そして実に、激烈に血の描写が明確に記されている。「相模入道自害」での壮絶な長崎基資の自害は、その以前に記載された戦記物語には、決してなかった描写である。それを評価しない事は出来ない。その時代時代に作られた作品の特徴でもあり、『太平記』はその後の文学作品にも影響を与えている。戦国武将にとっては、兵法書の側面で捉え、さまざまな評論を加えた書物も生まれている。その集大成が『太平記評判秘伝理尽鈔』であった。江戸期に至るまでの武士の不可欠な兵法書となった。 小町にある腹切りやぐらは、衣張山ハイキングコースの出入り口で、鬱蒼とした山のふもとに存在する。現在、宝戒寺が管理されており、霊所浄域に就き参拝以外の立ち入りが禁止されており、鎌倉にはこのような地が多く存在するので、むやみに入るものではないとされている。また入ったならば、手を合わせ御冥福を祈願することを忘れないようにしている。 ―続く―