『梅松論』『太平記』の成立した南北朝期から室町期において、鎌倉期に著された史書・史論書である慈円の『愚管抄』に匹敵する重要な資料とされるのが、北畠親房の『神皇正統記』である。『神皇正統記』は、南北朝の動乱期に村上天皇を祖とする村上源氏の庶流、公家の北畠親房が著した歴史書である。「歴史書」「史書」「史論書」とは、文書・日記のような単に史実を記した書でなく、史実の見方を自身の考えに基づき主張する書である。
『愚管抄』は九条兼実の弟で、比叡山天台座主であった慈円により著された。慈円は神武天皇から順徳天皇までの歴史を貴族の時代から武士の時代への転換を捉え、仏教の末法思想と「道理」の理念に基づき世の治し方の方法が道理にあり、道理に基づく方法を論じている。その著作の目的としては、後鳥羽院周囲の人の諫言書、また、兄九条兼実のひ孫にあたる後の仲恭天皇と兼実の孫である摂関家将軍藤原頼経の教育目的の著書であるともされる。
北畠親房は、元弘三年に長子・顕家が義良親王(後の後村上天皇)を奉じて陸奥守に就き、陸奥国に下向した際、共に下向した。建武二年(1335)に顕家が津軽において北条氏残党を追討し、その功績で顕家は鎮守府将軍に任じられる。その後顕家が中先代の乱を平定し、尊氏の討伐のため上洛を果たし、豊島河原戦で勝利し、尊氏は九州へ落ち延びた。その後多くの激戦の末、延元三年/建武五年(1338)五月に堺浦(大阪府堺市)石津の戦いで戦死している。享年二十一歳であった。『神皇正統記』の著者である北畠親房が南北朝の混乱期において、長子・顕家が陸奥国を離れ足利尊氏らと激戦を繰り広げる中、親房は陸奥国に留まり、陸奥国を守った。長子・顕家が死去した翌年の延元四年((1339)に常陸国での籠城戦を繰り広げていた時期に手もとにあった、簡略な「王代記」一冊を基に書かれたとされる。構成としては、序論に神代・地神について記し、続いて歴代天皇の事績を後村上天皇の代までを記している。伝本により、これを上中下または天地人の三巻に分けた。その場合、序論から宣化天皇まで、欽明天皇から堀河天皇、鳥羽院から村上天皇と区別している。
『神皇正統記』の著作の目的は、幼少の後村上天皇に、神代から後村上天皇に至る皇位継承の歴史を述べながら、南朝の正統性を主張する物であった。天皇のあり方について「王権論」「帝王学」を独自の概念から主張している。高倉院から後鳥羽院・の貢で源頼朝の功績をたたえ、その後に廃帝(仲恭天皇)の貢で、承久の変の功罪を記している。そして北条泰時を例にたとえ徳を持った治政について賞賛した。今谷昭氏の現代語訳『神皇正統記』「廃帝(仲恭天皇)」を引用させていただく。
「さて。この世の乱れについて考えてみると、まことに後の世においては迷う事もあるだろう。また、下克上の端緒にもなるだろう。事の起こる理由をよくわきまえておくべきであろう。
源頼朝の勲功が昔から例のないほど大きなものであったとしても、ひとえに天下の実権を握ってしまった事は、天皇として心安らからずお思いになるのも当然であろう。まして、頼朝の子孫が絶え、尼となった後室の北条政子や、陪臣の北条義時が幕政を握る世になってしまったからには、後鳥羽上皇が彼らの地位を削って、御心のままに政治を執り、行うべきである。という事も一応、筋が通った道理である。しかし、白川・鳥羽・の御代の頃から天皇政治の古い姿はしだいに衰え始め、後白河院の御時になると、武力による争いが続き、奸臣のために世は乱れた。人民はまさに塗炭の苦しみに落ち込んだのである。この時、頼朝が「一臂:いっぴ(わずかな力)」を振るってその乱を鎮めた。王室は古き姿に帰るまでにはならなかったが、都の戦塵は収まり、民衆の負担も軽くなった。上も下も安堵し、国の東から西からも人々は頼朝の武徳に伏したので実朝が暗殺されたと言え、鎌倉幕府に背くものがあったとは聞かない。
天皇方がそれにもまさるほどの徳政を実行することなくして、どうして簡単に幕府を倒すことが出来るのだろうか。そして、たとえ倒すことが出来たとしても、人民が安心できないようであれば、天も決してこれに同意して与する事は無いだろう。
次に、王者の軍(いくさ)とは、科ある者のみを討ち、在の無い者を滅ぼす事は無い。頼朝は高官に上り、守護の職を賜ったがこれは全て後白河法皇の勅裁によるものであり、頼朝が椎で盗み取った物と決めつけることはできない。頼朝の後を後室の政子が仕切り、義時が長く権力を握ったが、人望に背かなかったのだから、臣下として罪があったと言うべきではない。一通りの理由だけで追討の兵を挙げられたことは、君主としての過ちと申すべきであろう。謀反を起こした朝敵が利を得た場合と比べて論ずることはできない。
そうであるならば、後鳥羽上皇追討は、時節に至らず、天も許さぬ事であったことは疑いの無い事である。しかし、臣下が武力で君主を打つなどと言うことは極めて非道な事である。いつの日か皇室の威徳に従わなければならない時が来るだろう。まず、真の徳政を行い、朝廷の徳威を立て、幕府を倒すだけの道を作り出す事であり、その先のことは、それが実現できてからのことである。それと同時に、私の心を無くして、征討の軍を動かすのか、弓矢を収められるか、天の命にまかせ、人々の望むところ従われるべきであろう。
最後には、皇位継承の道も正路に復帰し、御子孫である後醍醐天皇の御世に、公武一統の聖運を開かれたのだから、後鳥羽上皇の本意が実現されなかったわけではなく、たとえ一時であっても、気の毒な境遇に陥られたことは不本意な事である。」と、承久の乱での後鳥羽院の討幕に対し、厳しめの評価を下し、後の後醍醐帝の討幕においてその評価をしている。その中で君主及び為政者の徳政による人臣の従属を説いている。 ―続くー