鎌倉散策 鎌倉歳時記 二十六、鎌倉の歴史を記する諸本『神皇正統記』(二) | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 北畠親房が『神皇正統記』を著した目的としての理由とは、現在でも多くの説か唱えられている。第一に、後村上天皇への帝王学の書として著作されたと説明される。

初稿執筆当時、後村上天皇が十二歳であったため、ただ単に「南朝の正統性を主張した」という物では無く、英明な君主として教育するための帝王学の書しての扱いであった。その内容はには、朝国の古代の書物で、儒教の基本書籍である五経の筆頭にあげられる経典『易経』(周易)、及び『孟子』の影響が見られ、「徳がない君主の皇統は断絶して別の皇統に正統が移る」という厳しい理論をも記している。『孟子』の易姓革命論ならぬ「易系革命」思想の影響も受けており、正当な血筋と「三種の神器」を兼ね揃えた天皇であっても帝位を失う可能性があり、北朝などの別の皇統に敗北し、自身の皇統が断絶する可能性が常にあると指摘した。また自身の皇統が正統であり続けるためには、自己修養を疎かにせず、欲を捨てて民のために尽くすように訓戒した物であるとされる。『神皇正統記』は、帝王学の書としてだけではなく、「皇統内革命」また「易系革命」を示した思想書ともとらえることが出来る。そしてこれらは、北畠親房が、南朝に従う自身の正統性の理由として捉えることもできた。 

    

(Wikipediaより引用 後嵯峨院像、後深草天皇像、亀山天皇像)

 『神皇正統記』において、承久の乱後に践祚された後堀川院、四条院、後嵯峨院が記され、その後に北条泰時の善政について良き例として記されている。今谷昭氏の現代語訳『神皇正統記』「第八十七代・第四十五世 後嵯峨院」を引用させていただく。

「そもそも、泰時は心正しく、その政治も実直で、人を大切にして驕ることなく、公卿のことを重く見て、本所の煩(わずら)いも解決したので、風の前に塵がないように、兵乱が無くなり世は鎮まった。こうして年月を重ねられたことは、ひとえに泰時の力によると申し伝える。

 陪臣がこれほど長く権力を握った事は、「和漢両朝」にも先例がない。主君の源頼朝ですら(頼家・実朝)の二世で断絶した。義時にどのような果報があってか、思いもかけない〔家業〕(執権職)をはじめ、「兵馬の権」(軍隊統帥権)を手にしたことは、これまで聞いたことがない。だが、義時に特別な才能や人徳があったとは聞こえてこない。優れた名誉の下に誇る心があったからか、承久の乱から二年程で亡くなった。この泰時が跡を継ぎ、徳政を優先させ、方式(貞永式目・御成敗式目)を確立した。泰時は自らの事を考えるだけでなく、親族並びにすべての武士を戒めたので、高位・高官を望む者はいなかった。その後、北条政権の権威は執権の代が下るにつれて衰え、ついに滅亡したのは、天命の尽きた姿と言うべきである。七代の長きにわたって政権を維持し得たのは、泰時の余慶によるものであり、恨む所は無いと言うべきである。

 およそ、保元・平治以降の乱れきった世に、頼朝という人もなく、泰時と言う者もいなかったとすれば、日本国の人民はどうなった事であろうか。この「謂(いわ)れ」をよく知らない人が、理由もなく皇威が衰え、武家が勝ったと思うのは誤りである。」と記されている。

 

 『神皇正統記』「後嵯峨天皇」の貢で、後嵯峨天皇と北条泰時の徳としての記載がある。

「これまでも、所々で述べてきたことがあるが、皇位継承は天皇の御譲位に任せ、傍流から正統へお戻りなさるには、十分意を用いるべき事があるはずである。神は万民の生活を安らかにする事を「本誓」とする。天下の万民はすべて神の物である。天皇は尊い存在であるが、一人だけで喜び、万民を苦しめるようなことは、天も許さず神も祝福しないはずである。その政治が徳政か否かによって、天皇の運が開かれるか塞がるかが決まってしまうものだと思われる。

 まして人臣としては、君を尊び、民を慈しみ、頭が天につくことを恐れて背を屈し、地が窪むことを恐れて足音を殺して歩く。また、日月の照らす光を仰いでも、心の汚れゆえにその光があたらないことに怖じ気づき、雨露の施しを見ても自分が正しくないためにその恵みから漏れてしまうことを、顧みるようにしなければならない。

 朝夕に長田・狭田の稲を食べることが出来るのも皇恩である。昼夜に生井(いくい)・栄井(さくい)の水の流れを飲むことが出来るのも神徳である。こういったことをよく考えず、あるに任せて欲をほしいままにし、私を先にして公のことを忘れるならば、世に永らえる理(ことわり)は無い。まして国政を司る人として、また「兵権」を預かる人として、正直で誠実な道を歩まないならば、どうしてその運を全うすることが出来ようか。

 

 泰時の時代を思うと、まことに道理があった世であったのであろう。子孫には泰時程の心は無いが、かたく定めた法に従って政治を行うことによって、及ばずながら世を重ねてきたのであろう。外国では乱撃がうち続き、規律のない例が多いので、先例とするには足らない。わが国は神明の誓い(諸神の誓)がはっきりしていて、君臣の上下の分も定まっている。しかも、善悪の果報は明らかで、因果の道理も決して失われていない。かつまた、遠くない時代のことなのだから、近代(保元・平治の乱以降)の政治の可否に学んで、将来の「鑒誡(かんかい:戒め)」とすべきである。

 そもそも、この後嵯峨天皇によって正統に帰り、皇位を継承されたが、それに先立って数々の「奇瑞(きずい:不思議な瑞相)」があった。また父土御門院は配流された阿波国から、告文(こくぶん:神祇に誓約を書いて告げ奉る文)をお書きになって石清水八幡宮にお願い申し上げなさった。その御本懐が後になって通じたので、さまざまの御願(ごがん:告文の願いが実現した時のお礼を行う事を記す)を果たされたという事は、感銘深い事である。

 いまだに、皇位継承の君で後嵯峨天皇の御子息でない方はいらっしゃらない。壬寅の年(みずのとら:1242年)に即位し、葵卯の年(1243)春に改元された。

 

  御身を慎まれなさったからだろうか、天下を収めること四年で、皇太子(後深草天皇)が幼少(四歳)であられたが譲位なさった。慣例に従って太上天皇の尊号を受けられた。院中で政を治められて、御出家して法皇となられた後も変わらず、二十六年の間執政なさった。白河院・鳥羽院以降では穏やかで見事な御代であった。五十三歳で崩御なされた。」と記されている。

後嵯峨天皇の二人の皇子である後深草天皇(後に大覚寺統)とその同母弟の亀山天皇(後の持明院統)に譲位した事から、両統迭立の道を歩んでいくことになる。そしてこの両統迭立により後に、後醍醐天皇と足利尊氏の対立により、後醍醐天皇を正統とする大覚寺統の南朝と、足利尊氏が擁立した持明院統の北朝により、南北朝の戦乱期に導入していった。現在の天皇家は、持明院統からの直系である。 ―続く―