鎌倉散策 五代執権北条時頼  三、公卿勢力 | 鎌倉歳時記

鎌倉歳時記

定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 北条時頼が生まれた安貞元年(1227)の六月十八日には、泰時の次男・時実が家人の高橋二郎に殺害された。享年十六歳であった。この事件の原因は不明で、他にも仲間の御家人参人が殺害されており、高橋二郎は即刻捕らえられて、その日に鎌倉の腰越で斬刑に処せられている。当時武士の家系で個人が罪に問われてもその罪に加担していなければ連座は免れた。高橋の家系は断絶することなく後の六波羅探題北方に付く北条重時の家臣として存続しており、北条重時は泰時の異母弟であり、重時の同母兄が名越流朝時であったが、長兄の異母兄の泰時を慕い、泰時もまた最も信頼した弟であった。後の北条時頼も宝治合戦後に空席であった連署に就かせ、北条得宗家を支える家系極楽寺流北条家の祖として、後の赤橋・常盤・普恩寺・塩田流北条氏として存在した。また、時実殺害には、情状を酌量する何らかの事情があったとも考えられる。北条泰時の子息は時氏一人となる。

 

(『天使摂関御影』より後堀河天皇像

 京において承久の乱後、後鳥羽上皇の三皇子を配流して、仲恭天皇を退位させ、次代の皇位継承者から乱の首謀者である後鳥羽上皇の直系子孫を除外した。幕府は承久の乱後、天皇後鳥羽上皇の兄の守貞親王(行助入道親王)の三男で、出家をしていなかった茂仁王を(後堀河天皇)を即位させている。天皇即位の承認権を有した事になった。守貞親王は天皇に就くことなく後高倉院として「治天の君」として院政に就いた。幕府は茂仁王の母が持明院棟子(北白河院)であり、その父・基家は源頼朝の妹婿である一条能保の叔父である。母は平頼盛の娘であり、平治の乱において頼朝の命を救い伊豆国の配流に留めた池禅尼(平清盛の継母)の孫にあたる。棟子(北白河院)の存在が大きかった事と、鎌倉幕府にとっても棟子(北白河院)の産んだ茂仁王の即位は系統的にも望ましいものであった。また仲恭天皇廃位に伴って九条道家が失脚し、近衛実家が摂政・太政大臣摂政に補任される。そして、貞応二年(1223)、後高倉院崩御後は、家実は後堀河天皇の生母である棟子(北白河院)と連携し、天皇を補佐する事で名実ともに朝廷の主導者として立場を強化していく。

 

 

 禄二年(1226)に後白河法皇の皇女であり、長講堂領の所有者であった宣陽門院と近衛家実が結んで、後堀河天皇の最初の中宮である三条公房の有子を(安喜門院)を退室させ、家実の娘である長子(鷹司院)を宣陽門院の養女として、わずか九歳で新しい中宮に立てていた。一方、失脚した九条道家も同年、子息の頼経が鎌倉幕府四代将軍として正式に就任した事で、近衛実家と九条道家の摂関を巡る争いが激化していく。道家は舅である西園寺公経と共に家実の排斥を画策し、さらに正妻の西園寺凛子の大叔母にあたる後堀河天皇の北白河院(姉が公経の生母)に働きかけた。そして、近衛家実は天皇の二人の兄である天台座主尊性親王と仁和寺門跡道不可新皇と対立した延暦寺や興福寺の宗徒に対する対応に失敗に不満を抱いた北白河院も道家等に近づいて行った。

 

(『天使摂関御影』より 九条道家像 西園寺公経像)

 安貞二年(1228)十二月に道家は後堀河天皇に関白交代を求めたが、天皇はこれを拒絶する。しかし二十四日になると北白河院の使者が鎌倉から道家を次期関白に推挙する頼経の挙状を持ち帰ると生母・幕府が関白の交替に同意していると知り、『民経記』安貞二年(1228)十二月二十三日・二十四日それに賛同する意向を幕府に伝えている。そして、家実更迭と道家再任を行った。『吾妻鏡』では、これらに関する記載は見られない。寛喜元年(1229)に九条道家と西園寺公経の娘・綸子との娘九条竴子(藻璧門院)を入内させて女御となり、翌寛喜二年二月十六日に中宮となった。寛喜三年(1231)二月十二日秀仁親王(四条天皇)を産んだ。またこれらの件で道家と後堀河天皇の距離が生じ、道家等の工作により、貞永元年(1232)十月四日、後堀川天皇の譲位と道家の外孫・四条天皇の即位が決定した。朝廷内で九条道家が旺盛することは、幕府にとっても脅威であった。

 

 九条道家は、いずれ秀仁親王が皇位に就く事が確実であったにもかかわらず、外戚としての権力を強固にさせるために、貞永元年(1232)十月四日、後堀川天皇から秀仁親王(四条天皇)の譲位を行わせた。わずか二歳の天皇への譲位は、四条天皇の外祖父・九条道家が西園寺公経の了解をとり、強引に行われた。譲位に先立ち道家は、幕府に対し、相次いで二度派遣したが、二度目の使者は譲位がすでに決定したことを幕府に告知する物であった。道家は幕府に譲位の承諾なく強行した。幕府は当然「すこぶる不快の躰」を示す。承久の乱の再現を防ぐための天皇即位の承認や、今後に幕府内で問題を引き起こす藤原頼経・頼嗣の摂関家将軍の父である九条道長への警戒心を幕府執権・北条泰時をはじめとする幕府首脳が強く持つ事となり、対立の始まりとなった事は言うまでもない。

 

(京都 仁和寺)

 二十一歳になる後堀川天皇は将来的には治天の君としての院政を行うことが確実であったが、九条道家の天皇外祖父の地位を得るための強引な譲位であったために、皇位を去ることになった後堀川天皇も『民経記』貞永元年閏九月二十九日条、十月四日条に「御軟之色」があったと記されている。また『民経記』貞永元年閏九月二十八・二十九日条にて、道家を指示した北白河院が、道家の工作により後堀川天皇の譲位と道家外孫にあたる四条天皇の即位が決まった際には道家が外祖父になりたいために譲位が強行されたと道家を批判し、嘆いたという。後堀川天皇が上皇に就き、院政を開始した翌年天福元年(1233)九月十八日に中宮竴子が皇子を死産した上、二十三歳で逝去した。そして、後堀川上皇も天福二年(1234)八月六日、後堀川上皇も宝算二十三歳で崩御する。京の洛中にて後鳥羽上皇の生霊のなせる怪異であると噂されている。

 

(『天使摂関御影』より四条天皇像。 『集古十種』より藤原頼経像)

 二歳で践祚され即位した四条天皇は仁治二年(1241)一月五日二十一歳で元服した。その年の十二月十三日に九条彦子を入内させて女御とした。後白河上皇が譲位後の二年間、院政を敷いていたが、後堀川院が崩御したために外祖父の九条道家とその舅である西園寺公経が事実上政務を行っている。上皇の生前の意向により、天皇は宣陽門院(後白河法皇の娘で、天皇には曾祖父の異母妹)の猶子となり、さらに彼女の養女で後白河上皇の中宮でもあった近衛長子(鷹司院)を准母に迎えさせて母親代わりとしていた。また上皇の実姉であった利子内親王(式乾門院)も天皇の准母となっていた。しかし四条天皇は、仁治三年(1242)一月九日に不慮の事故にて宝算十二で崩御した。突然の早世については、幼い天皇が近習の人や女房たちを転ばせて楽しもうと御所の内裏渡殿の廊下に蝋石を塗り、誤って自ら転倒したことが直接の原因になったという。『百錬抄』によると転倒したのは崩御のわずか三日前の事とされる。十二歳であったため子供はおらず、承久の乱後擁立した後高倉・後堀川流の皇統は途絶えた。  ―続く