鎌倉散策 五代執権北条時頼 二、生誕の時代 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 北条時頼の父の時氏は建仁三年(1203)の生まれで、承久三年(1221)の承久の乱においては、父・泰時と共に東海道を下り、宇治川での窮地に迫る戦闘を行って、敵前渡河の功績を挙げた。乱後、泰時が六波羅探題北方に就くと、時氏は鎌倉に残る。元仁元年(1224)六月十三日、二代執権北条義時が急逝し、この年に時氏の長子・経時が生まれた。義時の長子である泰時が、北条政子・覚阿(大江広元)等により、三代執権に就く事になる。義時の急逝により、家督の継承がなされていなかった。義時の葬儀において泰時は、京都六波羅探題に就いていたために葬儀には出席できず、その際の兄弟の順列は朝時・重時・正村・実泰・有時(本来生年順とすると重時の次に来るが、有時であるが、側室であったため正村・実泰)であった。それらの順列は北条政子や幕府の考えであったのかは定かではない。

 

(鎌倉 法花堂跡 源頼朝墓・北条義時墓)

 比企の乱まで正室であった姫の前の子息・朝時、重時がおり、また、その後の義時の継室となった正村の存在があった。朝時、重時が比企一族の姫の前の子である事と、尼将軍北条政子の泰時の就任の意向により、家督継承には引かざるを得ない。その時の継室であった伊賀の方の子息・正村が候補に挙がっても当然であるが、北条政子が泰時の人望、承久の乱とその後の六波羅探題での功績において義時の家督を継承するのは、泰時しかいないことを力説する。しかし、母方伊賀の方が実子・正村を執権に就けて、兄の伊賀宗光に後見させ、娘婿・一条実雅を将軍に擁立しようとしていると、また、伊賀宗光らの伊賀氏の者が、正村の烏帽子親であり、御家人の中でも最も武力に長けた三浦義村の邸を度々出入りしたとされ、この様な風聞が立った。北条政子は、急遽幕府転覆の恐れがあるとして、三浦義村邸を訪れ、詰問し泰時の執権就任を説得させる。

 

(鎌倉 妙本寺祖師堂 比企一族の墓)

 伊賀氏の事件の結末は、伊賀の方を伊豆に流罪、光宗は信濃、弟の朝之・光重は九州へ配流となり、公卿である実雅は朝廷に配慮して京都送還後に越前へ配流となった。正村は泰時の配慮で、連座していないとして、累を及ぼさなかった。後に正村は、重時と共に泰時を支援しながら北条得宗家の確立に寄与し、重時の引退後には連署に就任し、時頼の子息・時宗の執権の中継ぎとして執権に就く。そして時宗の執権就任後には再び連署に就いている。三代執権に就いた泰時は、父・義時の所領の多くを弟の朝時、重時、有時、正村、実泰に与えた。そして、泰時に代わり、六波羅探題北方に子息・時氏を就任させ、南方は北条時房(泰時の叔父)から時房の長子・時盛を任させた。

 

 鎌倉幕府を牽引してきた文人・覚阿(大江広元)が嘉禄元年六月に、翌七月に北条政子が執権就任を見届け逝去し、頼朝頼の御家人も次々と逝去していった。承久の乱以前までは、朝廷と幕府による二元政治が行われ、文治元年十一月も十八日に出された諸国の守護・地頭の設置・任免を許可した文治の勅許により幕府による諸国の管轄が認められていたが、現実的には幕府は東国武士の「御家人」の武士の管理掌握。そして朝廷は、本家・領家の権問勢力に属する西国武士の管理掌握が行われている。承久の乱後は、その圧倒的な勝利により、後鳥羽院等の所領、院に与した貴族の所領、それらに属した西国武士達の所領を没収し、乱に勲功を挙げた御家人や幕府に与した武士に褒賞としてそれら所領を与え、寺社における本所・領家の権門勢力に属する武士以外の西国武士を御家人に取り上げ管理統括を行う。朝廷政治・律令を尊重しながら、武士においては一元化的政策が行えるようになった。しかし北条義時が逝去し、泰時を執権とする新体制が始まるが、朝廷や寺社における本所・領家の権門勢力と新地頭との間に訴訟問題が多く検出されるようになる。

 

(鎌倉 鶴岡八幡宮)

 嘉禄元年(1225)七月に北条泰時は、叔父である北条時房を連署として、幕政を十一人の評定衆からなる集団指導体制を作り始動させた。しかし、その指導体制においても、拒否権を行使できる存在として三浦氏、小山氏、千葉氏が育ち、彼らの行動により合議制の破綻させる要素が含まれていた。北条氏一門においてもその破綻の起爆剤となりうる存在が見られ、対抗策として北条泰時は家令征を設けて尾藤景綱を任命している。北条家督家の直臣、得宗被官として、評定衆の合議を運用する際に助けと共に、決定事項を明確に行使できるように備えた物であった。

この年十月から宇都宮辻に幕府の心臓が始まり十二月には移転が行われた。そして同月二十九日に泰時自ら利発・加冠を勤めて八歳になる三寅の元服を行い、頼経と改名し、翌嘉禄二年正月二十三日に正五位下・右近衛少将・征夷大将軍に任ぜられ、将軍、執権、評定衆の組織が整備される。この年から北条泰時は評定における公平性と迅速性に尽力しだした。

  

 京都六波羅探題北方に就いた北条時氏は、嘉禄三年(1227:嘉禄三年十二月十日に安貞に改元)時頼が生まれ、出生時には二十五歳であった。時頼の兄弟は兄の経時、弟に時定(得宗家から鎮西に下向した阿蘇家の祖)がいる。また、妹とされる檜皮姫(ひわだひめ:鎌倉幕府五代将軍藤原頼嗣の正室)、足利泰氏室、北条時定(時房流)室、北条時隆室がおり、北条時氏は正室として松下禅尼のみとされているため同父母であったとされるが、兄弟姉妹生誕日の資料はなく不詳であり、姉か妹かも不詳である。時頼の幼名は、『吾妻鏡』嘉禎三年(1237)四月二十二日条に「戒寿」、「系図編纂に「戒寿丸」、『野津本 北条系図』は「皆寿」、『口伝鈔』では「開寿」とされており、口音で「戒寿」から当て字が使用されたと考える。祖父泰時の幼名が「金剛」、父時氏は資料がなく不詳。兄経時は「藻上御前(薬上とも伝えられている)」でありる。得宗家を完成させた時頼の子時宗は「正寿」、宗政は「福寿」であった。さらにその子孫を見ると、定時は「幸寿」、高時は「成寿」、国時は「万寿丸」と「寿」のつく幼名を名乗るようになった。 ―続く