鎌倉散策 五代執権北条時頼 一、時頼生誕 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 鎌倉時代の北条執権体制において名執権とされるのが、二代執権北条義時、三代執権北条泰時、五代執権北条時頼、八代執権北条時宗が挙げられている。泰時が北条執権体制の得宗家を整えて、完成させたのが時頼と言えるだろう。泰時は、長子であるが、正室の子ではなく、生母不詳である。二代執権の父義時の正式な嫡子としての継承は受けておらず、承久の乱後の父義時の急死により小母北条政子・覚阿(大江広元)等により三代執権に就いた。泰時が承久の乱後そのまま卿に残り六波羅探題北方になっているが、当時はその地位につく事が家督の継承と放っていない。泰時の孫である時頼は、父時氏と四代執権となった兄経時の早世により五代執権の地位に就いた。思いがけない就任であったが、祖父泰時に倣い、全国に広まった「御家人」武士の統括と評定組織の改革、そして宝治合戦において三浦氏を滅ぼし、得宗家における北条執権体制の確立を完成させた。

 

祖父と孫の関係である泰時と時頼を簡単に比較すると、聖人君主的である泰時と、二面的性格をもつ時頼というように見られ、強硬的手段や悪辣な行動も見られるが、反面、質素で堅実、真面目で責任感の強い人物であるように見える。泰時は、自身の道理を主体として、明恵上人などを通じ仏教の信仰を強め、貞永式目を制定し法的施行による治世を行った。時頼は、新しく禅宗(臨済禅)を開き、南宋の禅宗僧である蘭渓道隆を鎌倉に招いて建長寺を建立している。その後、兀庵普寧(ごったんふねい:南宋からの臨済宗僧)を建長寺二世に招き、嗣法した。また、真言律宗の寺院も鎌倉建立して、宗教信の強い人物であったとされる。宝治合戦の様に強硬的な「御家人」統制の手段によって、自我の救済を仏教に求めたのかもしれない。また、時頼は執権権力を強化する上で御家人や民衆に対し善政(撫民)を敷いた事が、名君として高く評価される要因である。このような経緯から能の『鉢の木』に登場する人物として有名な「廻国伝説」で、時頼が諸国をめぐり民情視察を行ったという伝承が構成された。

 

 北条時頼が生まれた時代お検証すると、承久三年(1221)に後鳥羽上皇が三代将軍源の実朝の死後に関東における幕府軍の掌握を目指し、鎌倉幕府二代執権北条義時を朝敵として討伐の宣旨を出した。上皇に付く朝廷軍と北条義時による幕府軍(東国武士団)が衝突する承久の乱が発生する。乱は、幕府が圧勝して平定した。朝廷の権威は下落し、東国武士団の幕府が、この国で初めて、上皇・天皇の遠流(流罪)を行った。保元の乱において崇徳上皇の讃岐への配流は、後白河天皇・関白藤原忠通等の調停により決定されている。承久の乱の後、朝廷軍に就いた西国の武士の処分と領地没収。幕府御家人への恩賞としての新領地・地頭設置。そして二代執権北条義時の急死に寄り、三代執権を継いだ北条泰時による西国武士の対応と西国における領主・領家との諸問題が多く残される中、安貞元年(嘉禄三年:1227)五月十四日、後に鎌倉幕府五代執権となる北条時頼が京都で生まれた。

時頼の父は北条時氏、母は安達景盛の娘で松下禅尼である。時頼には元仁元年(1224)に生まれた三歳上の同父母の兄、経時が存在していた。この元仁元年は、二代執権である北条義時が急死し、北条政子、覚阿(大江広元)に押されて、義時の長子であり、六波羅探題北方であった北条泰時が三代執権として就任する。しかし、義時の後室伊賀方の子である正村を執権に擁立しようとする伊賀氏の変が起こった。伊賀氏の変は、家督競争で強硬に泰時を進めた北条政子と大江広元の策略とされる説が大きい。北条政子が過去の牧氏の変を倣ったとも考えられ、後に所領没収・遠流となった伊賀氏は、北条政子が逝去後、恩赦として復権し、所領も返還されれており、冤罪であったとする説が唱えられている。

 

 北条経時・時頼の父である時氏が、同年と六月二十九日に執権に就任した泰時と変わり京都六波羅探題北方に就き鎌倉を出発して京に赴いた。この時期に生まれた経時の記述は『吾妻鏡』にはない。また、『吾妻鏡』が編纂された時期が、鎌倉時代の後期とされている点、執権時の期間が少ない経時の記述は、省かれているのかもしれない。また、二代執権義時の急死による影響もあったかもしれない。しかし『吾妻鏡』には、後の経時・時頼の元服の記述等は、『吾妻鏡』に記されているが、『北条九代記』には時頼の元服のみが記載されている。元服の記載は後に記述することにする。

  

北条時頼の生誕については、『吾妻鏡』安貞元年(嘉禄三年:1227)五月二十三日条(嘉禄三年十二月十日に安貞と改元される)に、「去る十四日の辰の刻(午前八時頃)に、修理亮(北条)時氏の北の方が男子を無事出産したと、今日その知らせがあった。また医師和気清成はその担当であったが、「無事(の出産)は医道の功によるものです」。」と、内々に武州(北条泰時)の御方に申し入れられたという。」と記載されており、京都六波羅で生まれたと考える。公卿の広橋経光の日記『民経記』では、時頼誕生についての記載は無いが、天候が記載されている。十三日は雷雨で、鴨川は大洪水という荒れ模様であったが夜によると月は明るく、風も涼しい状況になり欲十四日は曇りという天候であった(高橋信一郎『北条時頼』)。時頼の出産に立ち会った医師の和気清成は、代々維持の家柄で、清成は天皇を診察する「侍医」であり、後に医薬関係の責任者である典薬頭(てんやくかみ)に就いている。この事から経済的においても、武力においても朝廷にとっては、鎌倉と繋ぐ六原探題に頼る関係性が窺うことが出来る。もしくは、出産が難産であったかもしれない。  ―続く