鎌倉散策鎌倉歳時記 令和六年四月の伊勢神宮 | 鎌倉歳時記

鎌倉歳時記

定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 四月五日の早朝から伊勢神宮に向かう。その夜は名古屋で幼稚園・小学校・大学と一緒だった友人と酒を飲む約束をしている。

伊勢神宮へは、もう四五回は参詣に訪れているが、これといった思いではない。何故ならば、内宮の皇大神宮へしか行ってないからである。今回参詣を思い立ったのは、毎朝、雨でない限り、散歩がてらに、近隣の神明神社を参詣しており、五社を回って御朱印をいただこうと思ったからだ。

 

(御朱印長 伊勢神宮 内宮外宮)

 

【御朱印 月夜見宮 倭姫宮 月読宮)

 伊勢神宮は百二十五社の宮社の総称で、中でも御朱印をいただけるは、皇大神宮(伊勢神宮内宮)、豊受大神宮(伊勢神宮外宮)、月読宮(皇大神宮別宮)、倭姫宮(皇大神宮別宮)、瀧原宮(皇大神宮別宮)、伊雑宮(皇大神宮別宮)、月夜見宮(豊受大神宮別宮)の七社だけである。一日に七社を回るのは、早朝の八時位から回り出し、夕方の四時くらいに完了できるらしい。特に瀧原宮(皇大神宮別宮)、伊雑宮(皇大神宮別宮)の二社は、それぞれ伊勢神宮内・宮外宮と一時間ほど離れているためである。今回は、皇大神宮(伊勢神宮内宮)、豊受大神宮(伊勢神宮外宮)、月読宮(皇大神宮別宮)、倭姫宮(皇大神宮別宮)、月夜見宮(豊受大神宮別宮)の五社を回る事にした。御朱印長は、伊勢神宮内宮(数種)・外宮(一種)での購入は出来るが、それ以外の別宮では販売していないので準備が必要である。御朱印の志納は三百円であり、今回、大阪の上本町駅から八時九分の近鉄特急に乗り伊勢市駅に着いたのが九時五十分であった。駅から歩いて五分ほどにある月夜見宮を目指す。

 

 月夜見宮(つきよみのみや)は、伊勢市宮後(みやじり)に御鎮座する別宮で月夜見尊、乗荒魂をお祀りしている。河川の守り神宮でとして濃厚とも深いかかわりを持つ社で、承元四年(1210)別宮とされた。月夜見宮で御朱印の書置きをいただき、また歩いて七八分の所にある豊受大神宮(伊勢神宮外宮)で、御朱印長を求めて御朱印の記帳をしていただいた。一番目の貢には、皇大神宮(伊勢神宮内宮)の御朱印をいただきたいので、記帳の際に二番目の貢にお願いした。

 

(豊受大神宮)

 豊受大神宮は伊勢市の中心部に高倉山を背にして御鎮座され豊受大御神を御祭神とされている。豊受大御神は天照大御神の御饌都神(みけつかみ)で、食物の神様として、ひいては衣食住、産業の神様として崇敬を集め、内宮創建から五百年後に山田原に迎えられた。下宮では正宮板垣内の御饌殿において、御鎮座より現在に至るまでの約千五百年間にわたり朝夕の二度の、日別朝夕大御饌祭を行いっている。また、宮域内に土宮(つちのみや)、風宮(かぜのみや)、多賀宮大(たがのみや)の三宮があり参詣した。土宮は、土乃御祖神(おおつちのみおやのかみ)を祀る別宮である。古くから山田原の鎮守の神として祀られ下宮創建後は宮行の地主の神として祀られた。風宮は、風の守をお祀りする別宮で、鎌倉時代の元寇の時、神風を吹かせて日本を御守りになった神として知られている。多賀宮は、豊受大御神の荒御魂(あらみたま)をお祀りする別宮で、山の頂にあるため古くから高宮(たかのみや)と呼ばれる。

 

下宮から内宮には、二十分間隔ぐらいで循環バスが出ているため、月夜見宮を通るので、それに乗り、月夜見宮を参詣した。月読宮は伊勢市中村町に御鎮座する内宮の別宮で、天照大御神の御弟月夜見尊を祀っている。宮域には、月読荒魂宮と御祖神をお祀りする伊邪那岐宮、伊佐那彌宮が並び鎮座している。

再びバス停に戻り、内宮へと向かった。あっという間に着き、調度時計が十二時を指していたため「おかげ横丁」で昼食をとる。その日の夜に名古屋で友人と会うため、お腹に重い松阪牛は止めて、大変失礼だが、日本一美味しくない伊勢うどんと鳥釜飯のセットにした。

 

(伊勢神宮内宮 宇治橋 五十鈴川)

 宇治橋を渡り皇大神宮(内宮)の神苑を歩く。五十鈴川御手洗場で手を洗い、心も清めて神楽殿に向かい御朱印をいただいた。少し川の方に向かい、橋を渡ると風日祈宮(かざひのみのみや)がある。風日祈宮は、風の神をまつる別宮で、鎌倉時代の原稿の時に神風を賦課し日本を守った神である。正宮に向かう。社殿の中心の正殿は四十の垣根に囲まれ、唯一神明つくりの古代の様式を伝えており、茅葺の屋根には十本の鰹木がのせられ、四本の千木の先端は水平に切られている。二拝二拍手一拝の参詣の作法でお参りする。曇天の中、多くの外国人も参詣に訪れ、日本の宗教文化に心酔しているようだ。私も多くの国に行き、宗教建造物や宗教文化を見てきたが、日本の神道には他に見られない物もある。伊勢神宮は天照大御神・豊受大神を祀り、『古事記』『日本書紀』における国家の設立に際しての神話記述がなされ、「天照大御神」を祭神として祀られている。

 

 『日本書紀』によると、天照大御神の御魂代として鏡を歴代天皇が皇居内でお祀りされていたが、第十代崇神天皇の御代(即位五年)に疫病が流行して人口の半ばが失われた。祭祀により疫病を治めようとした天皇は、翌年に天照大御神と倭大国魂神を皇居の外にだして祀られる事になった。天照大御神を天皇の皇女である豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)に託し、笠縫邑で祀られた。これが斎宮の始まりとされ、巫女的存在を示した豊鍬入姫命が最初である。

 

(皇大神宮正殿)

 第十一代垂仁天皇の御代に、豊鍬入姫命から豊鍬入姫の姪にあたる垂仁天皇の皇女倭姫命(やまとひめのみこと)が後を継ぎ、天照大御神の御杖代(みつえしろ:神の意を受ける依代)として大和国から伊賀・近江・美濃・尾張の諸国を巡った。垂仁天皇が大御神の神託を受けて、巡行されている倭姫に「是の神風の伊勢の国は常世之波重波帰(とこよのなみしきなみよ)する国なり。傍国可怜国(かたくにのうましくに)なり。是の国に居らむと欲(おも)ふ(伊勢は常世の国から波が幾重も重なり寄り来る国であり、辺境ではあるが美しい国なのでこの国に鎮座しよう)」と告げて、伊勢の国に入り、御鎮座され、皇大神宮(伊勢神宮内宮)を創建された。『日本書紀』(垂仁天皇記二十五年丙申〔十日〕条)には、この時の事を「斉宮を五十鈴の川上に興(た)つ。是を磯宮と謂ふ」と記され、これが斎王の原型であったと推測される。また「天皇、倭姫命を以って御杖(みつえ)として、天照大神に貢奉(たてまつり)たまふ」とも述べ、以後、斎王は天皇の代替わり毎におかれて天照大神の「御杖代」として奉仕したという。また、伊勢神宮を送検するまでに天照大神の御神体である八咫鏡は順次奉斎した場所が「元伊勢」の場所とされる。後の日本武尊(ヤマトタケル)の東征において、武尊の伯母にあたる倭姫が武尊に草薙剣を与え、熱田神宮に祀られた。倭姫は伊勢の地で薨じ、尾上御陵に埋葬されたと伝わる。伊勢の地で天照大御神を祀る最初の皇女と位置付けられ、これが制度化された後に斎宮となったとされる。

 

 皇大神宮・伊勢神宮内宮には荒祭宮(あらまつりのみや)が創立され天照大神の荒御魂を祀る別宮があり、荒御魂とは髪の特別な働きをする状態、または紙が現れた状態と言われる。また、大山祇神社(おおやまつみじんじゃ)が建立されており大山祇神を祀る。三島大明神とも称され、伊邪那岐・伊弉冉の子で磐長姫命と木花開耶姫(瓊瓊杵尊:ニニギノミコトの妃)の父である。そしてその横に子安神社(こやすじんじゃ)がある。大山祇神の娘である木花開耶姫(このやさくやひめ)が祭神で、子授かり、安産、子育ての信仰がある。

 内宮から徴古館方面・伊勢市駅に循環するバスに乗ると倭姫宮に行くことが出来る。伊勢市の倉田山に御鎮座し、倭姫をお祀りしている。神宮と地元民により宮者創立の熱望により、大正十二年(1923)に創建され、神宮のお宮お社の中で最も新しい由緒ある別宮である。倭姫宮を参詣し、御朱印をいただき再びバスに乗り宇治山田でバスを降りた。一日で五社の参詣は可能であるが、三時過ぎの近鉄特急名古屋へ向かう。

 

(倭姫宮)

八百万代の神々を祀る日本的宗教文化に対して、伊勢神宮は少し違った傾向を見ることが出来る。日本の神道には、『記紀』による大和国の僧像神を祀る。また少し町や・村の辻傍に社が置かれ、自然崇拝的な物やアニミズム的な要素も含まれる物もある、自然災害の多い日本では、単一神による救済を求めるには、矛盾も不条理な事も多く存在する。人々を窮地に追いやる地震・疫病・飢饉などは、自然に生きる上ではやむを得ない事で、祟り神や、自然に存在する神々によって引き起こされると考え、窮地に陥ると、再びリセットして立ち上がるための手段と言って良いかもしれない。そこに万物の創生に対し感謝の営みを行うのである。狩猟民族ではなく農耕民族である日本人は何物にも魂が宿るという優しさの原点がそこにあるのだろう。  ―了