岩波新書、兵藤裕己氏校注の『太平記』の第七巻梗概引用
元弘三年(1333)正月、幕府軍は大塔宮護良親王の立て籠もる吉野城を攻めた。一進一退の攻防の中、背後から奇襲をかけられた宮がたは総崩れとなった。宮は自害を覚悟したが、村上義光に叱咜されて城を落ち延び、義光は宮の身代わりとして自害し、義光の子義隆は敵を防いで討死した。二月、楠木正成の立て籠もる金剛山の千剣破(ちはや)城は、幕府の大軍に包囲されたが、正成は智略を用いて再三敵を撃退した。幕府方は次第に士気も乱れ、大塔宮配下の野伏が道を塞いで兵糧を絶ったため、さしもの大軍も十方に逃げ散るという有様になった。金剛山の奇手に加わっていた新田義貞は、後醍醐方に就く決意をし、執事船田義正の謀で大塔宮の令旨を手に入れ、急ぎ本国の上野国へ帰った。閏二月、播磨の赤松円心は、山陽道・山陰道を差し塞いで西国の軍勢を止め、兵庫の北の摩耶山に城を構えた。四国では土居・得能が挙兵し、長門探題の軍を破ったとの知らせが六波羅に入った。三月、隠岐の後醍醐帝は、警護役の佐々木義綱の手助けで、六条忠顕を供として隠岐を脱出し、船で伯耆国名和港に着いた。土地の有力者名和長年に勅使を送ると、長年の弟長茂の意見により一族は衆議一決し、帝を船上山に迎え入れて城郭を構えた。佐々木隠岐前司らの軍勢が船上山に攻め寄せたが、たちどころに敗退した。後醍醐帝の挙兵の噂を聞いて船上山へは近国の勢が次々と味方に参上した。
(京都御所)
■ 鎌倉期において頼朝挙兵時から不遇を受けていた新田氏は、新田義貞の下、討幕を決意し、船田義正に令旨の入手を試みた。義政は若手の家臣三十余人を野伏の姿に変えて、夜中に葛城山に登り、船田入道は落ち行く真似をして、早朝の霧がかかる中、半時ばかり互いの同士討ちの様相をした。宇多、内の郡の野伏がこれを見て味方と思い加勢しようと近くの峰から近づいたところ、船田の武士達が取り囲み十一人余りを生け捕った。船田はそれらを解き放ち、密かに「今、汝らを謀って捉えたのは、全く殺意がある物ではなく、新田殿が本国に帰って御旗を挙げるために令旨無くしては果たせず、大塔宮の御座所に連れて行っていただきたい。と申すと、野伏たちは大いに喜び、宮の御方に参った。一日ほど待つと令旨ではなく綸旨の文章にて書かれた言葉が届けられた。
「綸言を被(こおぶ)つて称(い)はく、化を敷き万国を理(おさ)むるは、名君の徳なり。乱を掃(はら)って四海を鎮むるは、武臣の節なり。頃年(きょうねん)の際(あいだ)、高時法師が一類、朝憲を蔑如(べつじょ)し、ほしいままに逆威を振るふ。積悪(しゃくあく)の至り、天誅已(てんちゅうすで)に顕(あらわ)る。爰(ここ)に累年宸襟(しんきん)を休めんが為に、将(まさ)に一挙の義兵を起こさんとす。叡感尤(えいかんもっ)も探し。賞を抽(ぬき)んずる事、何ぞ浅からん。早く関東征罰の策を運(めぐ)らし、天下静謐の功を致すべし。者(てへ)れば綸旨かくの如し。仍(よ)つて執達件(しったつくだん)の件の如し。 元弘三年二月十一日 左少将(さしょうしょう) 新田小太郎殿」。
現代訳、「帝の御言葉を受けて言う。徳化を行いすべての国を治めるのは、優れた君王の徳である。乱を取り除き、天下を鎮めるのは武臣の節義である。この数年の間、北条高時の一族は朝廷の法規をないがしろにし、ほしいままに悪逆な威勢を振るう。積み重ねた悪行は頂点に達し、天誅は既に下ろうとしている。ここに、多年にわたる帝のご心労を休めるために、まさに義兵の一旗を挙げようとする。帝は深く感じ入っている。恩賞は他の者に抜きんでて必ずや重い。早く関東征罰策略を練って、天皇の命を受け逆賊を退治し、平穏な世を実現させよ。よって綸旨はこの通りである。上位の通達は以上の通りである。 元弘三年二月十一日 左少将(さしょうしょう:四条隆貞) 新田小太郎殿」。
(京都 清水寺 鴨川)
第八巻、元弘三年(1333)閏二月、摩耶上に立て籠もる赤松円心の退治に向かった六波羅勢は、初戦に敗退した。三月にも軍勢を送ったが、坂部・瀬川で戦って大敗した。京の近郊に迫った赤松勢は、三月十二日、桂川を挟んで六波羅勢と対峙したが、円心の子息則祐が渡河して勝利した。京一帯に火が放たれる中、日野資名・資明は、主上(光厳帝)と三種の神器を内裏から出して六波羅に入れた。同十二日、六波羅方の高野九朗左衛門尉と陶山(すやま)次郎の活躍により、六条・七条一帯の戦闘で赤松勢を撃退した。十二日の合戦に敗れた赤松勢は、中院貞能を聖護院宮と称して大将とし、山崎・八幡に陣を置いて西国への道を塞いだ。十五日、六波羅勢は西岡で赤松勢と戦った。二十八日、比叡山の衆徒が法勝寺一帯で六波羅勢と戦って敗退する。四月三日、京の南部一帯で戦闘があり、赤松方の妻鹿(めが)孫三郎の太刀が見る者を驚嘆させたが、赤松勢はまた敗退した。京での官軍の苦戦に、後醍醐帝は船岡山の皇居に壇を立てて金輪の法を行い、六条忠顕を大将として、山陽・山陰道の軍勢を京都に送った。西山に陣を取った忠顕は、四月八日、山崎・八幡の赤松勢と連絡を取らずに京都へ攻め寄せて大敗し、忠顕軍に従軍した児島孝則は、大将の臆病ぶりに憤慨する。この合戦で、西山の最福寺、淨住寺などの名刹が焼失した。
(京都東寺)
■三月十二日、桂川を挟んで赤松勢と六波羅勢と対峙し、赤松円心の子息・則祐が渡河して勝利した。京一帯に火が放たれる中、日野資名・資明は、主上(光厳帝)と三種の神器を内裏から出して六波羅に入れた。しかし同日、官軍の赤松勢は他所で撃退され、八幡・山崎に後退し陣を敷く。その夜に勲功として、高野九朗左衛門尉は対馬守と御剣を下され、陶山次郎は備中守と寮の御馬が下された。翌日洛中では、堀溝に倒れて手負いの者や死人の首が取り集められ六条河原に懸け並べてあった。その数八百七十三体であった。農民や町民、旅人は、敵は多く打たれたが戦もしない六波羅勢は、高名を立てようと、偽の首に様々な名前の札を書きつけていた。赤松円心と書かれた札は五つあったとされる。京の無頼の若者はこれを見て、「偽首を借りて手柄を申し立てる者は、利子を付けて返せ。子は、利子である。赤松入道が、討たれもされてない事を討ったと云う虚偽は、幕府が滅ぶ前兆である」と、口々にして笑ったという。 ―続く―
(鎌倉 鶴岡八幡宮)