鎌倉散策 鎌倉歳時記 二十、鎌倉の歴史を記する諸本『太平記』(四) | 鎌倉歳時記

鎌倉歳時記

定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 第九巻岩波新書、兵藤裕己氏校注の『太平記』の第九巻梗概引用。

 北条高時から上洛の命を受けた足利尊氏は、非礼の催促に怒り、謀反の決意を固めた。京に着いた高氏は、船神山の後醍醐帝に使いを送り、朝敵追討の綸旨を得た。元弘三年(1333)四月二十七日、なふぉえ喬家と足利尊氏の幕府軍は、八幡、山崎の後醍醐方の討伐に向かったが、大手の大将名越は、久我縄手で赤松一族の作用の理家に射られて戦死した。搦手の大将高氏は大江山を越え、五月七日、丹波国篠山で旗揚げをした。足利尊氏と千草忠顕・赤松円心らは西と南から今日に攻め寄せ六波羅探題方の河野通治は、内野で足利群を迎え撃ったが、衆寡敵せず敗退した。東寺一帯の戦闘でモア槓子軍が勝利した。六波羅方には裏切りが相次ぎ、関東へ落ちる決意をした北探題の北条仲時は、北の方と最後の別れを惜しんだ。持明院統の主上(光厳帝)・東宮・両上皇をともない京を脱出した六波羅探題一行は、苦集滅道(くずめじ)で野伏に襲われ、南探題の北条時益が命を落とした。野伏の大軍に包囲され、一旦は窮地を脱した仲時一行は、近江国番場の峠で亀山院の五宮を大将に担ぐ数千の延べ瀬に行く手を阻まれた。頼みとする近江守護佐々木時信も後醍醐方に降り、仲時は自害を決意した。仲時が先ず腹を切ると、続いて四三二人の者達が一斉に腹を切った。主上・東宮・両上皇は、五宮の官軍に警固されて三種の神器と共に京に帰った。六波羅が落ちた報せに、金剛山の寄手の幕府軍も敗走した。

 

浄土寺蔵足利尊氏像・騎馬武者 足利尊氏像又高師直像ともされている。ウィキペディア引用)

 ■足利尊氏は、上洛の途中、三河の矢作宿から伯耆の後醍醐天皇に使いを遣わし、近江鏡宿で後醍醐天皇から綸旨を得たとも、あるいは上洛してから使いを発したとも言われる。しかし、『太平記』には綸旨を受け取った記述はない。後醍醐天皇が足利高氏に綸旨を出したのは元弘三年(1333)に鎌倉幕府を倒した後に建武の新政を樹立した際に発生している。

『難太平記』では、上洛の途中に所領であった三河に立ち寄り、祖父家時の置文(遺言)を披露した。足利家には先祖義家が、「自分が生まれ変わって七代後に天下を取る」という文が残されており、それに当たる家時は、自分の代で成し遂げられなかったため、「三代後の子孫に天下を取らせよと」置文をして、霜月騒動により自害したと言う。『難太平記』の著者である足利一族の今川了俊(貞世)は、この置文を高氏と直義の面前で拝見した事があり、その時に高氏兄弟は「今天下を取る事ただこの発願なりけり」と言ったと記載されている。しかし、討幕後十五年が経過している事から、創作の範囲を超えていない。

 

 第九巻一、足利殿上洛の事。

「先朝、船上に御座あつて、討手を差し上せられ、京都を攻めあるる由、六波羅の早馬頻りに打ち、こと難儀におよぶ由、関東に聞こえければ、相模入道、多きに驚いて、「さらば、重ねて大勢を差し上せ、半ばは京都を警護し、宗徒は船上を攻め奉るべし」と表情合って、名越尾張守を大将として、外様の大名二十人催さる。

 その中に、足利治部大輔(じぶのだいふ)高氏は、所労のことあって起居も未だ快からざりけるを、また上洛のその数に載せて催促度々に及べり、この事によって心中に憤(いきどお)りを思われけるは、我父の喪にも居して未だ三月を過ぎざれば、悲観の涙乾かず。また病気を侵して負新の愁へ未だ止まざる処に、征伐の役に随へて相催す事こそ遺恨慣れ。時移り事反して、貴賤位を易(か)ふと云へども、かれは北条四郎時政が末孫なり。人臣に下つて年久し。われは源氏累葉の貴族なり。王氏を出てから遠からず。この理(ことわり)を知りながら、一度は君臣の儀をも在すべきに、これまでの沙汰に及ぶ事、ひとへに身の不肖によってなり。所詮、重ねてなほ上洛の催促を加ふる程ならば、一家を尽くして上洛し、先帝の御方に参じて六波羅を攻め落とし、家の安否を定むべきものをと心中に思ひ立たれけるをば、しる人沙汰になかりけり。

相模入道、かかるべき事は思ひもよらず、工藤左衛門尉を使いにて、「御上洛延引心得候はず」と、一日が中に両度までこそせめられけれ。足利殿、反逆の企てすでに心中に思い定められければ、なかなか意義に及ばず、「不日に上洛仕(つかまつ)り候ふべし」とぞ、返答せられける。・…・」

  

 現代語訳「後醍醐天皇は船上山(現、鳥取県東伯郡琴浦町)に御座され、討ち手を差し向けて、京都に攻めるゆえ、六波羅は早馬をしきりに出して、次第によっては難しい状況に陥るため、関東に申し出た。北条高時は大いに驚いて、「それでは、再び大軍を差し上らせ、半分は京都を警護させ、主だった軍勢は船上を攻めよ」と評定で決めた。名越尾張守(北条貞家の子、高家)を大将として北条一門以外の大名二十人を招集した。その中の足利高氏は病床に就き快復していなかったが、再び上洛の役に就かせて催促を何度も行った。高氏は、この事によって心中憤りを覚えた。父貞氏の喪について未だ三月を過ぎず、悲観の涙は乾かず、また病気を患い辛い気持ちの中、征伐の役に就かせることを遺憾に感じた。時を遡れば、貴賤の上下が逆になり、高時は北条時政の末孫で臣籍降下して人臣に下ってから長年が経つ。自身は源氏代々の高貴な家柄であり、清和天皇から十六代目で、高時よりも遠くない。この道理を知りながら、一度は君臣上下の関係をわきまえるべきなのにこれまでの沙汰に及ぶ事、ひとえに自身の未熟さゆえである。一層の事、重ねて名を上洛の催促が行われるならば、一家すべてで上洛し、先帝の御方に参じて六波羅を攻め落とし、家の運命を賭けてみてはと、心中に思った事を知る人はなかった。

相模入道・北条高時は、このような事とは思いもよらず、工藤左衛門尉を使い、「御上洛が遅れるのは理解できない」と、一日中何度も責め立てられた。高氏は反逆の企てをすでに心中に思い留めていたので、帰って異議を唱えずに、「直ちに上洛いたします」と返答された…・」。

 

 

(鎌倉報国寺)

 ■高氏は、幕府の命を受け、元弘元年(1331)の元弘の乱に出陣し、後醍醐天皇の据する笠置城と楠木正成の下赤坂城の攻撃に参加した。この時、父貞氏の喪中にあり、出兵を辞退したが許されなかった。承久の乱において足利氏は従軍の役に就き、北条泰時を助け勝利に導く。それ以来、足利氏が大将を勤めるのが嘉例となった。幕府は、その嘉例を再び高氏に求めたものである。下総での強力な軍事力を誇る足利氏は、北条氏にとって脅威であったが、北条執権体制後も北条氏に従順であり、圧力をかけても滅ぼすことはなかったのは、このような経緯からでもあった。同年十一月に元弘の乱で勝利に貢献しながら不本意な出陣であったため、大将を置いて朝廷にも挨拶をせず鎌倉に戻っている。『花園天皇宸記』には、花園天皇を呆れさせたと記述が残されている。幕府はこの高氏の働きにより従五位以上の階位を推挙し与えている。

 『太平記』によると、その後、高氏は一族郎党、女性、幼年の子息までも上洛しようとするが、北条家管領の長崎円喜が不審に思われ、謀反の疑いが無いように起請文と子息・千寿丸(後二代将軍義詮)と妻室(赤橋守時の妹赤橋登子、後二代将軍義詮の母)を鎌倉に留めるよう要請された。高氏は起請文を北条高時に送り出陣する。高時は不審を払い、喜悦の思いを成して、乗り換えの御馬としてよく手入れされた馬十頭、銀で縁取りされた鎧十両を引き渡している。 ― 続く ―