鎌倉散策 五代執権北条時頼 五、北条時氏の死と大飢饉 | 鎌倉歳時記

鎌倉歳時記

定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 寛喜二年(1230)三月二十八日、北条時頼の父・時氏が六波羅探題在職中に病に倒れ、鎌倉へ戻る。

『六波羅守護次第』では鎌倉へ下向中に宮路山(現愛知県豊川市)で発病とされ、『明月記』には、著者の藤原定家が姉小路実世より三月十七日に時氏に会って二十八日に下向すると伝えられ、その記述に病に関するものは無い。その際に四歳になる時頼もともに鎌倉に下向した。その三か月後、『吾妻鏡』の寛喜二年年六月十八日条に「戌の刻(午後九時頃)に修理亮平朝臣(北条)時氏が死去した(年は二十八歳)。四月に京都から(鎌倉に)下向し、数か月も経たずに病気になったと。内典・外典の祈祷が行なわれ、数種類の治療を施したが、全てその効果はなかった。去る喜禄三年(1227)六月十八日にも(泰時の)次男(時実)が死去し、四ヶ年を隔てて今日またこのような事が起きた。すでに兄弟が早世され、歎き悲しみは大きく例え様もなかった。寅の刻に大慈寺の側の山麓に葬った。祭礼については陰陽師大允(安倍)晴憲が紋性の刑部房を推挙したという」と記されている。その一月後に三浦や寿村に嫁いだ泰時の娘が子を産むが、およそ十日後に子が、そして一月後に娘が亡くなり、立て続けの不幸に見舞われた。泰時もそうであるが、父義時、長子時氏、次子時実が全て六月に死去しているのも偶然であろうか。

 

 『吾妻鏡』寛喜二年閏正月二十六日条に、内裏の清涼殿の東北にあたる警護の武士の詰め所の滝口に人が居ないので、滝口の経験のある者の子孫に命じて差し遣わすように既に院宣が下されていた。有力御家人である小山・下河辺・千葉・秩父・三浦・鎌倉・宇都宮・氏家・伊東・波多野の家々の子息一人を派遣するよう命ぜられる。この文書は相模守・北条時房の連署であった。寛憙元年(1229)三月二十三日、時氏の配下である三善為清(壱岐左衛門尉)が借金の返済を巡って貸主の日吉二宮社の僧侶を殺害する事件で、時氏は為清の配流を断乎拒否したことが、延暦寺との対立と朝廷の意向にも抵抗した時氏を六波羅探題からの更迭するための布石であったとする説もある。また同年二月十九日に将軍家(藤原頼経)が、北条重時を京都守護として近日上洛するため御餞別として由比ヶ浜で犬追物が行われている。そして、時氏の後任として北条重時が京に派遣された。また騒動から一年後の更迭は時氏の廃嫡を意図したものではなく、いずれ泰時の後継者として幕府での要職に就かせるという移動であったとも考えられる。北条泰時は、子息・時氏の死により、孫の経時、時頼、時定を養育しながら自身の後継者として育てることになった。

 

 北条泰時は平安末期の養和の飢饉、そして泰時執権時の寛喜の飢饉の発生により、この両飢饉は、極度の餓死者を出している。養和の大飢饉は、西国を中心に発生し、平家を滅亡に追いやった最大の要因ともいえ、泰時の治政における基本理念は、質素倹約と道理に基づき安定を図る事であった。飢饉における撫民を以って治政を行っていることが上げられる。その根源は、建仁元年(1201)九月に鎌倉幕府二代将軍の頼家が蹴鞠に耽けて日々の政務がなおざりであった。当時十九歳の泰時は、頼家の近侍・中野能成に、「蹴鞠は幽玄の芸能、大いに結構。さりとて大風が吹き飢餓の恐れがある時、わざわざ都から芸人を招くとはどうかと思う」と、これを諫めたが、頼家はそれを聞き不興気であった。それで清親法眼は泰時に伊豆に帰り謹慎する事を進めるが、泰時は、「将軍のお咎めを受けるのなら、鎌倉に居ようが伊豆に居ようが同じこと。ただ貴殿に忠告される迄もなく、急用あって明朝伊豆に下向の用意をしている」と言い、旅具を親清に見せた。当時伊豆の北条の地は、不作のために疲弊を極め、百姓たちの中には、借用した推挙米も返済できず、領主の責めを恐れて逃亡の支度をする者もいた。泰時は彼らを集めて証文を焼き、豊年になっても返す必要は無いと言って、 用意した酒や米をふるまい、人々は手を合わせて北条市の繁栄を祈ったと『吾妻鏡』に記されている。泰時の撫民の初めであったと言えよう。

 

 これらの治政は、再び乱後の安貞の飢饉により、伊豆・駿河の伊勢神宮役夫工米を出挙米により納めている。そして安定の飢饉から始まる寛喜の大飢饉は、鎌倉時代を通して最大の飢饉とされ、寛喜二年(1230)六月には、美濃国、武蔵国で降雪の異変、各地で長雨と冷夏にみまわられ、寛喜の大飢饉が起こる。養和元年(1181)に西日本を襲った大飢饉以上の日本中を巻き込む物であった。「草木葉枯れ、偏(ひとえに)に冬樹の如し、穀物みな損亡」と記されるほどの状況であり、翌寛喜三年春には、わずかな備蓄米を食べつくして飢餓に陥る。春窮の状態となり各地での餓死者が続出し「天下の人種三分の一を失う」と語られた。翌年は冷夏ではなく、晩夏には飢餓も一服したとの記述もあるが、逆にこの年は酷暑に見回られて、前年の飢餓で食べつくした事による種籾不足がもたらす作付け不能となり、悪循環に至った。『百錬抄』には源平合戦(治承・寿永の乱)が重なった「養和の飢饉」以来の飢饉と記されている。『明月記』には歓喜三年九月には北陸道と四国で凶作になった事や翌七月に餓死者の死臭が定家の邸宅にまでおよんだこと、また所領のあった伊勢国の住民にも死者が多数出て収入が滞った事などが記されている。京都での儀式での供物が添えられると、空腹者がそれを奪う。また天皇行幸の際の輿を担ぐ供奉人は飢餓のため六波羅の武士が代役を命ぜられた。それらの武士は禁忌であった牛馬の肉まで食用に供された。そして特に京都、鎌倉には流民が集中し市中には餓死者が満ち溢れた。泰時の青年期に伊豆国の凶作で農民を救った事や、安定貞元年(1227)に飢餓を経験した泰時は徳政を行う。    ―続く