鎌倉散策 五代執権北条時頼 六、『吾妻鏡』に見る寛喜の大飢饉と泰時の対策 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 寛喜の大飢饉について、『吾妻鏡』の寛喜二年(1230)六月九日は、「雷雨で、鎌倉の御所の御車屋の東面にある母屋の上に雷が落ち、柱・破風などが破損し、後藤判官基綱の下部一人が気絶した。そこで筵に包んで北の土門からだした。その日の戌の刻に死んだ」とある。同月十一日は、「(鎌倉は)小雨が降った。午の刻に武蔵の在庁官人らが註進して申した。『去る九日の辰の刻(午前八時頃)に当国金子郷(武蔵国入間郡にあった郷)で雷雨がありました。また同時に雹(ひょう)が降りました』」。十四日には、去る九日の落雷に酔って御所を移られるべきかどうか、あるいは御占いでの吉凶により裁定されるべきかの審議に及んだが意見が分かれた。陰陽師等の意見も分かれたが、最終的に御所を離れるのが好ましいとされ、将軍頼経を北条泰時邸に入られるよう決定された。

 

 『吾妻鏡』寛喜二年里九月十六日条には、「美濃国の飛脚が(鎌倉に)参って申した。『去る九日辰の刻(午前八時頃)に当国蒔田荘(しだそう:現、岐阜県大垣市上石津町付近)に白雪が降りました』。武州(北条泰時)はたいそう恐れられ、徳政を行わると決定されたという。美濃と武蔵の間はちょうど十日余りの行程である。その日に同時にこの怪異が起きたことは、まことに驚くべきことである。およそ六月中に雨が頻りに降る事は豊年の兆しであるが、涼気が度を過ぎるており、五穀はきっと実らないであろう。風雨が適度でなければ、その年に飢餓が起きるという。現在、関東では正しい政道が廃れる事無く、泰時は特に畏れ謹んで善を讃得て悪を嫌い、身を忘れ世の中を救われたので、天下が帰服しているところに、このところの気候が異常で、陰陽が一致しないのはただ事ではない。特に六月の白雪が降った事は、その例が少ない。孝元天皇の三十九年六月に行きが降り、その二十六代を経た推古天皇の御代の三十四年の六月にも大雪が降った。推古天皇の御代の三十四年六月にも大雪が降った。また二十六代を経て醍醐天皇の延長八年(930)六月にも大雪が降った。いずれも不吉である。今また二十六代を経て、今月九日に行きが降った。上古であってもやはり奇異であるのに、ましてや末代(の今まで)ではなおさらであろう」。孝元天皇は神話の天皇で『日本書紀』には降雪の記述はない。推古天皇は欽明天皇の娘で十年―推古三十六年〔554-628〕まで在命。『日本書紀』に降雪の記述が見える。菅原道真を大宰府に左遷した醍醐天皇の御代延長八年は清涼殿落雷事件が起こり、難を逃れたが心労が重なり、その後体調を崩し九月に崩御落雷事件等の天候不順が起こり道真の怨霊と噂された。そして同月、鎌倉に戻っていた修理亮平朝臣(北条)時氏が享年二十八で死去した。

 

 同月十六日条、「(鎌倉で)霜が降り、まるで冬の天気の様であった」とある。

 同年八月六日条、「午の刻(午後零時頃)に激しく雨が降り、夜には洪水になった。河辺の民家が流され、人が多く溺れ死んだ。古老は『今までこの様な例は見たことが無い。』といった」。

 同月八日、「申の刻(午後四時頃)から激しく雨が降り、大風が吹いた。夜中になって止んだ。草や木の葉が枯れ、まるで冬の天気の様であった。植えつけた穀物が全て被害を受けた」。十五日には鶴岡放生会が延期されている。

 同年九月八日、「雨が降った。申の一点(午後七時頃)から寅の一点(午前三時頃)の四点まで、大風が特に激しく吹いた。御所をはじめ多くの民家が破損して倒れたという」。

 同年十月二十四日、昨夜丑の刻(午前二時頃)から今日子の刻(午前零時頃)迄激しく雨が降った。

 同年十一月八日「大進僧都観基が御所に参上して申した。「『先月十六日の夜中に、陸奥国芝田郡に石が雨のように降り注ぎました』。その意志の一つを将軍家(藤原頼経)に進上した。大きさはゆずのようで、細長く角があった。石が降った範囲は二十余里(一里は、約三十六町。二十余里は、約七百二十町は。約七百十四万平米。東京ドーム約153個分)という」。

同月十八日、「朝は晴れ、午の刻(午後零時頃)に急に風雨となり、申の刻(午後四時頃)に雷が鳴った。夜になり暴風が吹き、雷を伴った雨が激しく降った。当時の雷は特に変異であり、(将軍頼経は)慎まれるようにという」。同年十二月五日に安倍親職(ちかもと)が新たに見えるようになった星で、彗星か新星かは不明であるが客星が現れたという申し、十一日にも客星がまた現れたと記述されている。他に記述する事は、同年十二月、四代将軍頼経が二代将軍・源頼家の娘・竹御所との婚儀が行われた。

 

 北条泰時は寛喜二年の十一月にこの天候不順に対して、万民の動揺等を防ぐために同年十一月六日、「『西国の矢内・強盗・殺害の一味の物については、守護所から二回(命令)を伝えよ。その上で承知しない場合は使者を派遣してとらえるよう(守護所)に命じるように。』と六波羅に命じられたという」。翌七日には、「『西国にある庄園・公領の地頭の中で、領家や預かりどころの訴えによっての採決される際、二回命令したうえで、内地頭が従わない場合は鎌倉に新註するように。』とまた六原に命じたという」。また寛喜三年正月二十九日には御家人等に贅沢禁止を命じ、泰時の分国である伊豆、駿河で富有者に出挙米を放出させ、利子の偏財を延期させ、偏財能力の無い者には泰時自ら返済した。貞永元年(1233)十一月までには九千余石に達したという。また飢餓の酷い地域など千余町の年貢を免除し、杭瀬川の駅(大垣市)では通過する浪人たちに食料を与え、縁者を尋ねてゆく者には旅料を与え、この地に留まりたい者には付近の百姓に預けた。そして泰時が従来禁止していた人身売買を期限的に認めている。民の家の食い扶持減らしであるが、民衆の中には富豪の家に仕えたり、妻子を売却・質入れすることが相次ぎ、幕府の指示に従って債務や利息を放棄する者や米などを放出した有徳人等の救済者が困窮する事態を防ぐ意図もあったと考えられる。

 

 飢餓対策として根本問題は生産量が少なかった点にあげられる。上横手雅敬氏の『北条泰時』には「全国各地に荘園が散在し、その封建的な枠に阻まれて、商品流通が思うにまかせぬことにあった。泰時の権力も、その複雑な両雄機構の内部には浸透せず、統一威的な社会政策などは行いえなかった。泰時の飢餓対策も、幕府の支配地域全体というよりは、泰時個人の支配地域に留まらざるを得なかった」としている。後の八代執権北条時宗の時代までには、荘園の生産性が鎌倉期でもっとも拡大し流通も整備された。そして、貞永元年(1232)七月に若江島に埠頭を築かせ、日宋貿易に力を入れ、これは飢餓のための流通安定化に基づく築造であったとも考える。同年御成敗式目が制定され、この式目の制定の背景には大飢饉に伴う社会的混乱があったともいわれている。 ―続く