鎌倉散策 五代執権北条時頼 七、御成敗式目(貞永式目)の施行 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 安貞二年(1228)から単発的に天候不順が続き、安貞三年三月に飢饉を理由に年号が寛喜へと改元が行われている。寛喜二年(1320)に発生した寛喜の大飢饉は、天候不順によるもので、鎌倉時代を通じ全国的に発生した最大規模の大飢饉となった。そして寛喜三年(1231)に京都、鎌倉等の大都市部に食料を求める流民が集中し、飢餓者が満ち溢れる。幕府は備蓄米を放出するとともに。鶴岡八幡宮では国土豊年の祈祷が行われ、貞永へと再び改元が行われた。この寛喜の大飢饉により社会秩序は大きく悪化する。その秩序回復にも貢献した物が貞永元年(1232)八月十日に施行された御成敗式目(貞永式目)である。御成敗式目は初めて武士による武家法であるが、制定の背景にも大飢饉に伴う社会的背景があったと考えられ、式目において人身売買・質入れの方針がこの飢饉の間、解除されたことが知られている。そして廷応元年(1239)に飢餓時の人身売買・質入れの方針を再び禁止するという方針が打ち出され、それまで飢饉の影響は九年間続いていたと考えられる。

 

 鎌倉初期において、武士が律令制度の下、国主や荘園領主からの搾取に苦慮し、武士が貴族や寺社の権問勢力等に所領を寄進したうえで、その所領の管理者として残る寄進型荘園が多くあらわれた。しかし寄進すれば、その管理もその勢力の主の言いなりになる。そのような状況から武士の権利を守るために源頼朝は、挙兵し、寿永二年十月宣旨を受け、自身の名誉回復と東国における荘園・公領からの官物・年貢納入を保証すると同時に東国支配権を得て、上洛により木曽義仲を討伐し、平家を滅ぼした。東国分国の支配権を得たのである。

 鎌倉幕府を支える基本は、頼朝と主従関係を結び御恩と奉公という御家人制度の維持であった。頼朝の所領安堵を得た御家人と、それ等御家人の武力による管理体制の上で朝廷等の官物・年貢等の年貢納入を行い。御家人間の紛争を評定(裁判)による裁定(判決)と、朝廷や貴族らの権問勢力との交渉を幕府が行った。頼朝の基本政策・基本法は、律令を基に朝廷に対し従順し、東国分国における御家人を統制するため、問注所の設置による訴訟事項を裁定した。

源頼朝死後、幕府執権体制のもと、頼朝以来の先例を用いて評定を行い、治世を計る。しかし、承久の乱後には、御家人が西国在住の者や、新規に御家人になった者が多く存在することになり、新しく対応しなければならない諸問題も現れ、先例だけでは取り計らうことが出来なくなっていた。そして大飢饉の社会秩序回復と御家人に対する新しい秩序が必要となっていく中、御成敗式目が制定されたのである。

 

 三代執権北条泰時は、御成敗式目を頼朝の先例を継承しながらも、それにより道理と言われる武士社会での習慣や道徳を基に制定した法令である。泰時は訴訟に対しいかなる権力者であっても公平に裁決されるために法規制を整備し、貞永元年(1232)八月十日に五十一ヶ条の条文を制定した。御成敗式目は、よく武家・武士の法令と思われている人も多いが、実質は武家政権のための法令である。その違いは、社会的秩序の基本法となる民事訴訟法なども含まれている点などである。また第一条「神社を修理し、祭祀を専らにすべき事」や、特に第二条には「寺塔を修造し、仏事等を勤行すべき事」、僧侶としてのつとめを行う事と、僧侶に対する条文がある。第四十条、「鎌倉中の僧と、恣に(ほしいまま)に官位を諍う事」、鎌倉在住の僧侶が官位をほしいままに望むことを禁止する。第四十一条、「奴婢雜人の事」と、十年以上使役していない奴婢や雑人は自由となる。第四十二条「百姓逃散の時、逃毀(長期)と称して損亡せしむること」。逃亡した農民の財産について。領内の農民が逃亡してもその妻子を捕まえて、家財を奪う事の禁止。未納の年貢がある場合は、その不足分のみを支払わせること。また残った家族がどこに住むかは彼らの自由に任せる事などが条文にさだめられている。このように中世においては、人的階級が固定され、下僕・賤民等の現在に至る差別民が選定されたが、農民に対しては、技術職の民として扱われたのも特徴である。むしろ近世・近代になるほど農民への扱いは苛酷になっている。

 

 御成敗式目の制定時、古代から中国の制度を参考にして、公地公民制度の徹底による国家体制を強化する律令制が継続していたが、平安期に入り貴族・寺社の権問勢力の庄園が増加し、平安末期には律令制自体が崩壊していたと考える。また、法典の制定は、古代以来、天皇・朝廷の大権に属す物であったが、承久の乱後に天皇の権威は奪われ、権威として位置づけられるようになったことが、泰時が天皇・朝廷の採決も得ずに公的文書『式目』の公布・施行に至った。この制定は、それまでの歴史の転換期であったことは言うまでもない。また泰時は、『御成敗式目』を律令に転換する物ではなく、律令を順守しながら、武士社会の慣わしと実践とをすり合わせ『式目』を制定している。『式目』の完成に至り、泰時は当時六波羅探題であった重時に二通の「泰時消息文」を送り、そこには、『式目』編纂の目的が示され、それを朝廷に答えるように指示している。

 

 「泰時消息文」の内容は、大溝文夫氏の『北条泰時』から引用させていただくと、

『かねてから定められ、候はねば、ひとにしたがうことのいできぬべく候ゆえに』(きちんと定めを作っておかなければ、他の人の言う事には従わぬ者が多い)。

『かねて御成敗の躰(てい)を定めて人の高下を論ぜず、偏波なく裁定せられ候はんために仔細記録しおかれ候者也』(明確に基準を定めて、人の強弱によらない公正な裁許を行うための式目を制定した)。

『ただとうり、(道理)のおすところで作られ』(武士の道徳で正邪を判断する)

『武家の人へのはからいのためばかり』(武士のみを対象とする者である。

『京都の御沙汰は、律令のおきては、いささかもあらたまるべきにあらず』(公家の作った律令を否定するものではない)とこの様にかなまじりでの記載であった。このように「式目」により明確になった事により、法であるため、武士への規制と、法を守る事での武士への守護を目的とした物であったと考えられる。その後、求められる条文は追加法として編纂された。

 経過する時代はこのようであった。そして、その二年後に北条泰時が養育する孫・四代執権となる経時が、天福二年(1234)三月五日十一歳で元服し、その三年後の嘉禎三年(1237)四月二十二日に五代執権となる時頼が元服する。  ―続く