鎌倉散策 五代執権北条時頼 八、両人相互に水魚の思いをなさるべし | 鎌倉歳時記

鎌倉歳時記

定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 貞永二年(1233)四月十五日に天福元年と改元された。その年『吾妻鏡』正月十三日に、北条泰時が頼朝の法花堂を参っている。「武州(北条泰時)が右大将家(源頼朝)法花同に参られた。今日が御忌日(命日)にあたるためである。道の傍に到着すると、御敷皮を道の下に敷いて座られ、しばらく念誦された。この間に(頼朝法華堂)別当尊範が参り、『御堂にのぼられるように。』と何度も申したが、(泰時は)『(頼朝が)生きておられた時には、むやみに堂に参らなかった。亡くなられた今、どうして礼儀を忘れることが出来ようか。』と仰って、とうとう庭より帰られたという」。このような道理と礼節を身上とし、信念を曲げることの無い泰時に養育された経時・時頼は、やがて同じような治政を行っていくことになる。本来、経時・時頼は、泰時の長子・時氏の子で、寛喜二年(1230)六月十八日に病死したために泰時が、その後養育した。『吾妻鏡』等で、その際の記述はないが、分け隔てる事無く三歳違いの兄弟は、同じように泰時の治政学を学んだであろう。泰時の後継者としては、この時氏の長子である経時を選択したが、後に二人を比較する内容が『吾妻鏡』に記載されている。また後に触れることにする。

 

 

(鎌倉 白旗神社 源頼朝墓)

 北条経時が元服する前に、泰時の末弟の北条実泰の長子・実時が天福元年十二月二十九日に元服している。

『吾妻鏡』天福元年(1233)十二月二十九日条、「陸奥五郎(北条実泰)の子息の小童(年は十歳)が武州(北条泰時)の御邸宅で元服し、太郎実時と号した。駿河前司(三浦義村)等の人々が座にあり、すべて亭主(泰時)が準備された。そしてまた加冠の役を勤めた。この元服はあらかじめ予定されていたものではなく、思う所があり急にこのことを行うと仰ったという」。

経時と実時は同年生まれで、泰時は経時の側近として同年代の育成も図ったと考えられ、「両人相互に水魚の思いをなさるべし」(お互いに川に流れる水魚のように思いを成して協力するよう)と言い含めて、実時が交互に別当に就き三度にわたり同職を務めた。後の四代執権経時、五代執権時頼政権において側近として引付衆を務めている。北条泰時にとって極楽寺流・祖である重時と金沢流の祖・実泰は特に信頼を強めた人物であった。正村流と共にこの三家は、後の北条得宗家を支えている。ここで少し、実時の父・金沢流北条氏の祖北条実泰について記述する。

 

(鎌倉 朝比奈切通)

 北条実時は、泰時の末弟であり、母は伊賀の方である。父である北条義時が急死する中、泰時の配慮で伊賀氏事件の連座を免れ、義時の遺領として武蔵国六浦荘(源金沢区)を所領として与えられた。この時に実義であった名を泰時から偏諱を与えられ実に改名したと考えられる。北条実義(後の実泰)は将軍を烏帽子親としてその字を与えられたが、次代の実時以降の金沢流北条家の当主は得宗家の当主化を烏帽子親としてその一字を与えられた。これは、北条氏の一族の中で将軍を烏帽子親として一字を与えられるのが、得宗家と赤橋流北条氏に限定された事が窺われる。金沢流北条氏と大仏流北条氏の当主共に、それよりも一つ地位の低い得宗家を烏帽子親にする家と位置付けられた。実義から実泰への改名もその方針に沿ったものと考えられる。『吾妻鏡』を見ると、嘉禄元年(1225)五月十二日条では、「陸奥四郎正村、同五郎実義」となっていたものが、安貞二年(1228)一月三日条では、「陸奥五郎実泰」となっており、この間に改名されたと推測される。

寛喜二年(1230)三月四日に兄・重時の六波羅探題就任に伴い、後任に二十三歳の実泰が小侍別に当就任した。この人事は、兄である異母兄の有時・同母兄の正村を飛び越したもので、若年を理由に各所から反対の声が上がったが、泰時はそれを押さえて起用した。

 

(横浜金沢区 称名寺)

 泰時は、そ実泰の能力の高さと忠実さを考慮した起用と考えられる。しかし、伊賀氏の事件以降の立場の不安定さから精神的安定を崩したと考えられ、四年後の天福二年(1234)『明月記』同年七月十二日条に「六月二十六日の朝、誤って腹を切り度々気絶し、狂気の自害かと噂された」と記されている。また「北条一門は毎年六月に事が起きる」と述べて、小怪異・妖言等をほのめかした。同月三十日に病を理由に家督を十一歳の嫡男・実時に譲り実泰は二十七歳で出家した。『吾妻鏡』天福二年(1233)十二月二十九日条に、「この元服は、あらかじめ予定されていたものではなく、思う所があり急にこのことを行うと仰ったという」。この事は『明月記』に記載された事であろう。そして嘉禎三年(1236)九月二十六日に死去し、享年五十六歳であった。

北条泰時は、北条庶流での同年代の小童に同様の教育をさせながら、得宗家とその他の諸流北条氏の主従的関係を形成させ、得宗家を補佐させる役割を肯定化させている。是等は、泰時と時房、泰時と重時の関係を継承させるもので、後にも北条得宗家で見られるものである。特に八代執権時宗が、子・貞時と早世した時宗の同母弟・宗政の子・師時を猶子にして二人を養育している。

 

 寛喜二年(1230)年十二月に四代将軍頼経十三歳と、二代将軍・頼経十三歳と源頼家の娘・竹御所二十九歳と結婚しており、頼朝の血を引き継ぐ、頼家の娘・竹御所は幕府の権威の象徴でもあった。御家人たちの尊称も集め、後継者誕生の期待を周囲に抱かせ、そして、その四年後に懐妊している。『吾妻鏡』天福二年(1234)三月一日条に記述があり、「御台所(頼経湿)の御着帯が行われた。午の刻にその儀式が行われた」。

 ―続く