天福二年(1234)三月五日、北条泰時の孫・経時が十一歳で元服した加冠は将軍・藤原頼経が行い、偏諱が行われて経時と名乗った。
『吾妻鏡』貞永二年(1234)三月五日条、「武州(北条泰時)の孫〔匠作(北条時氏)の嫡男。年は十一歳〕が御所で元服が行われた。相州(北条時房)〔布衣:ほい〕・武州〔同じく布衣〕・越後守(北条朝時)・〔式部大夫政―(北条正村)〕・前民部権少輔(三条親実)・摂津守(中原)師員・駿河前司(三浦)義村・出羽前司(中条)家長・大夫判官(後藤基綱)・上野介(結城)朝光等が西侍に着座し、若君〔水干〕は同じく南の座に控えた。しばらくすると藤内左衛門尉(藤原)定員を通じてお召し上がり、若松は寝殿の西向きの御簾の中に参られた。その後、お召しによって泰時が参られ、正村・親実・左近大夫将監(大江)佐房・左衛門大夫(長井)康秀・右馬権助(藤原)仲能等が諸役を勤めた。次に理髪を時房が行い、次に(頼経が)加冠され、(若公は)北条弥四朗経時と名付けられた。次に八条少将(藤原実清)が御剣を取って元服したばかりの経時に与えると、(経時は)これを賜って休所に退室した。次に良国司(時房・泰時)以下の人々が庭に着座した。将軍家(頼経)が何面にお出ましになり、実清が御簾役に祇行した。次に御引きで物が進上された。御剣・御鎧・御馬などと言う。その後、御簾を垂らされた。経時以下の人々はまた堂上での垸飯儀式を行い、(その様子は)まったく元三(がんさん:正月三が日に行われる儀式)の様であった。泰時は退出してから駿馬を時房に比企勧められ、平左衛門尉盛綱が御使者となった。また尾藤左近将監入道(道然・景綱)・諏訪兵衛(盛重)らを通して、今日の役を勤めた人々にお礼をおっしゃったという」。
北条弥四朗経時の弥四朗の仮名は北条時政や北条義時の仮名「四郎」を意識しての名で、得宗嫡流の正統性を示そうとする泰時の意思があったとされる。しかし、泰時が元服に将軍源頼朝から偏諱(「頼」の一字)を賜り、太郎頼時と名乗っている。後に泰時と改名しているが、その時期と理由は不明である、が頼朝の死の後に改名しているため頼朝の死に起因するのではないかと推測される。また、泰時の長子であり、経時の父である時氏は、武蔵太郎であった。経時の同母弟の時頼は、北条五郎時頼と名づけられ、北条泰時は、早世した時氏に代わり、その子息・経時を得宗家の嫡流として継承させたかったことが窺われる。しかし、『吾妻鏡』では、経時・頼時兄弟の元服の記載は記されているが、江戸期に編纂された『北条九代記』には、経時の元服の記載は無い。
(鎌倉 妙本寺)
『吾妻鏡』天福二年六月三十日条、「陸奥五郎(北条実泰)が病気のため小侍所別当を辞した。そうしたところ、この職は重職であり、子息太郎実時は年少なので譲補はしがたいとの審議があった。武州(北条泰時)が、『重い役目であるが、また(実時は)年少であるが(自分が)助けよう。』と申し請われたので、(実時に後任を)命じられたという」。
同年七月に十七日の寅の刻に頼経室・竹御所が出産されたが、子供は死んで生まれた。竹御所は、出産後に苦しみ、辰の刻(御前八時頃)に死去する。享年三十二歳であった。この竹御所(源頼家の娘)の死により、源頼朝の血は絶える事となる。夫婦仲は円満だったと伝えられ、藤原定家の日記『明月記』には、竹御所の訃報が京にもたらされ、鎌倉御家人の武士達は源氏棟梁の血筋が断絶した事に激しく動揺し、こぞって鎌倉に下向したと記している。定家は「平家の遺児らをことごとく葬った事に対する報いであろう」とも記している。『吾妻鏡』の嘉禎二年(1236)年七月二十七日条に、「竹御所の姫君が相州(北条時房)の御邸宅で、御除服(喪が明ける事)の義を行われた」と記された。竹御所の墓は、鎌倉大町の妙本寺内に源媄子之墓として置かれている。
北条経時は、六月に小侍所別当に任ぜられる。北条泰時が竹御所の葬儀を奉行し、憚(はばか)りがあり、しばらく出仕が出来ないために八月一日に北条弥四郎経時が小侍別当に補任された。この職は、嘉禎二年(1236)十二月二十六日まで務めている。また、北条泰時の家令であった尾藤左近入道然(景綱)病気のため職を辞し、平盛綱を家令に任じた。
(鎌倉 妙本寺内 源媄子之墓)
天福二年十一月五日に文暦元年と改元された。
『吾妻鏡』文暦元年(1234)十二月二十八日条、「去る二十一日の除目の聞書が(鎌倉に)到着した。将軍(藤原頼経)は正三位に叙された。またその日に中納言を辞された」。
頼経は喜禄元年(1225)十二月に元服後、翌年正月に正五位下に叙し、右近衛権少将に任官、征夷大将軍を宣下された。将軍としての実権はほとんどなかったが、重なる官位を叙して、東国の御家人たちは頼経に接近するようになる。やがて頼経の年齢と官位が高めて行くと、将軍として鎌倉で崇敬されるようになる。執権泰時の異母弟の名越流北条氏の朝時の嫡男・光時を筆頭とした得宗・執権政治体制に反対する勢力が接近し、幕府内での権力基盤を徐々に強めていった。京都にいる父藤原道家と西園寺公経が関東申し継として、朝廷・幕府の双方に権力を示し始め、深刻な問題となる。後の宮騒動へと発展していくことになった。
―続く
(京都御所 紫宸殿)