◆ 「大神神社史」より 
~3【神体山信仰の考古学的背景 2】






これまでは地質学的な
少々縁遠い感じのお話でした。

それはそれで重要なことなのですが。

今回より一気に
「三輪山」祭祀の実態へと移ります。

「三輪山」及び周辺の考古学調査の
第一人者と言えば樋口清之氏。

もっとも多くの現場を指揮し
もっとも多くの研究をなされた方の執筆です。

この方だけが知るという、禁足地内の磐座も存在します。

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■過去記事
~1 … 【序】

~2 … 神体山信仰の考古学的背景 1
~3 … 神体山信仰の考古学的背景 2

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第一章 神体山信仰の考古学的背景
(執筆/樋口清之氏)


■ 神体山の祭祀

通常は祭祀遺物の発見、または祭祀施設(磐座・磐境・磐群・社殿・遥拝所・祭壇など)が認められる場合に限って実証されるもの。ところが「三輪山」においては山麓一帯が祭祀遺跡であるとしています。



◎三角形内は「水垣内」

磐座として古来より信じられてきた黒色斑糲岩の石組みは山頂・中腹・麓と広がり(奥津磐座・中津磐座・辺津磐座)、また単独の巨石(磐座神社夫婦石など)が広く分布しています。

この巨石崇拝は近隣の村々に及び、祭器の滑石製臼玉(竹玉、茶臼石)も「初瀬川」「巻向川」「三輪山」を囲む三角形内の水田面までに点在します。
樋口清之氏は、「この三角形内、すなわち水垣内は広大な霊域の感がする」と述べています。

実際にこの三角地帯は、古来より墓を作ることすらも許されないと伝わっています。

例として挙げているのが2ヶ所。旧「織田村」(氏神は建勲神社)を古くは「岩田村」と呼んだのは「斎田」の意味と解せられると。また伝説の「神浅茅原(かむあさぢがはら)」は茅原だとされます(神御前神社の鎮座地か)

ところが以後の発掘調査により、「巻向川」の北側で大規模な「纏向遺跡」の発見がありました。「邪馬台国」論争に決着を付けそうな勢いの遺跡群。これらは「三輪山」祭祀とは切り離せないとも思います。下記にて少しだけ触れておきます。

「巻向川」はスクショから切れている少し左先(西方)で「初瀬川」と合流。樋口清之氏はその合流点を一角とする三角形としています。



◎主要9箇所の祭祀遺物分布地

本書は昭和五十年に発行されました。それから約50年が経過しています。以降の目覚ましい発掘成果や研究成果により、さまざまなことが明らかとなってきています。
邪馬台国の居館跡と考えられる纏向遺跡、卑弥呼の御陵の可能性が一段と高まっている箸墓古墳など。

こちらでは本書のままに掲載しておきます。

①金屋三輪遺跡
土器祭器坏の多数、石製臼玉、曲玉の大量出土
②薬師堂
土器祭器坏、高坏、石製臼玉、管玉、石製双孔円板など散布
③馬場
土製祭器坏、石製臼玉など散布
大神神社禁足地
磐座、土製祭器坏、高坏、坩(つぼ)、甕(かめ)、瓮(へ、=水や酒を入れる容器)、柄付埦、陶器片大量。石製臼玉、曲玉、管玉、子持曲玉、石製双孔円板、大型臼玉など大量。
狹井神社下開墾地(「奥垣内祭祀遺跡」と思われる)
磐座?。土製坏、高坏。須恵大甕、坩、高坏、瓮、坏多数と、石製臼玉、石製双孔円板など大量。

磐座。小形素文銅鏡、メノウ曲玉、水晶曲玉、鉄刀片。石製臼玉大量、双孔円板、曲玉、管玉、子持曲玉多数。土器祭器、盤、坏、高坏、臼、杵、箕、杓子、匙、坩、瓮、案(物を載せる台)など多数。
⑦馬場、箕倉山西南狭井川畔
子持曲玉、石製臼玉、土器祭器坏など
⑧桧原、桧原神社
土器祭器盤、坏、陶製瓶子
⑨芝、善光寺垣内付近水田
石製臼玉散布

何せ50年ほど前の遺跡紹介。近年の目覚ましい発掘成果は盛り込まれていません。挙げ出すとキリが無いですが…以後の主な成果のみを追記しておきます。

(1)纏向遺跡

木製仮面、各種土器、画文帯神獣鏡、鶏形木製品、弧文円盤

神籬または磐座
(3)芝遺跡
子持曲玉、銅鐸型土製品、絵画土器

壺形土器、素環頭大刀

茅原大墓古墳の盾持人埴輪



◎祭器の宝庫

④⑤⑥がもっとも著しい遺跡。中でも④の特に大神神社拝殿裏の三ツ鳥居辺りは祭器の宝庫とされています。

━━この禁足地の東には磐座と信じられている一大巨石(おそらくこれが辺津磐座の一つか)があり、その下に地表を流れる細流があって、付近は全体に花崗岩の風化によって出来た白色または淡褐色の砂利粘土層、現在は樹木が密生している。その地表面は一帯に祭器の小片が散布し、その中に石製祭器が混在している。もし発掘が行われると、大量の遺物が発見されるであろうということである。いわば今日の拝殿のすぐ東側は、拝殿造営前の一大祭場であったということが認められる━━

もちろん禁足地であるからして、約50年を経た現在もこの状況は変わりません。三ツ鳥居が老朽化し建替えるなどの特殊な事情がない限りは、発掘は行われないでしょう。

「三ツ鳥居特別参拝と神職の案内による宝物収蔵庫拝観と境内案内」のイベントに参加した際の写真。(定期的に開催されています)



◎須恵器と「三輪山」祭祀

④の禁足地遺跡から発見されている須恵器は5世紀末~8世紀のもの。ところが⑥の山ノ神遺跡には弥生式土器が伴っているので、禁足地遺跡にも須恵器以前の、3世紀以前のものも含まれているのではないかと樋口清之氏は想像しています。

須恵器は元来は祭器、のちに日常用器となったもの。補足をしておくなら、古墳時代中期(5世紀頃)に朝鮮半島から持ち込まれたもの。

崇神天皇の御宇、「三輪山」の大物主神に対しての祭祀興隆に担ぎ出された神孫大田田根子の説話が記紀に記されます。
大田田根子とは、記には「河内美努邑」に居た陶津耳命の娘 活玉依毘売と大物主神の子孫であると。一方で紀には、「茅野県陶邑」に居た大物主神と陶津耳の娘 活玉依姫の子と記されています。いずれも「陶」に所縁を持ちます。或いは陶造部という祭器を造る集団と大神神社とが、深い関係を持ち、その所産の須恵が祭器に使われたものが、ここで発見される須恵器片ではないかと。

垂仁紀には、天日矛が須恵器の工人とともに渡来したと記されています。ところが出石神社などが鎮座する但馬地方や、鏡神社が鎮座する近江の竜王町の窯跡などからもその時代の須恵器は発見されていません。したがって古墳時代中期頃に伝来したものとされています。

ところが、実は弥生時代の須恵器が国内で出土しているという極秘情報を私は知っています。それほどメジャーではないものの、もし発掘調査が進めば日本古代史を揺るがしかねないほどの謎深き神社。境内には弥生時代の祭祀跡があることで知られ…とここまでで留めおきます。これだけで学者さんならひょっとしてあの神社?…となるので。

まだ正式な学術調査が行われていないので発表ができないと、発掘を指揮した学者から宮司は口止めされているので。
この神社の重要さに気付いているようで、実は学者たちも気付いていないと宮司に話していたところ、こっそりと教えて頂き、実物も拝見しました。その展示されていた実物に非常に違和感を抱き、宮司に伺ったということもあるのですが…。

何はともあれ、弥生末期から須恵器は日本に存在したのです。天日矛と所縁のある穴師坐兵主神社は「三輪山」から目と鼻の先。樋口清之氏が想像されるように、大田田根子の伝承も含めて、古墳時代初頭から須恵器は祭器として用いられていた可能性はあると考えます。





⑤の「狹井神社下開墾地」のこと。樋口清之氏はこちらの発掘調査にも立ち会われています。
大型の須恵器甕の中に入って須恵器の各型成のものがほぼ完全な形で発見されたもの。石製祭器の滑石製臼玉なども大量に共存していたようです。

数個の石が磐座として人為的に置かれ、その側に大甕が口を上にして埋設されていたとのこと。おそらく石の配置の表現からして、磐座ではなく磐境または神籬かと思われます。代表的な山麓祭祀遺跡であるとしています。




大正七年に発見された代表的祭祀遺跡。長さ2m未満、幅1.5mほどの巨石を中心に、5体の石が寄り添うように集結している磐座。

小形素文銅鏡3面以上、青メノウ曲玉5個以上、水晶曲玉1個以上、鉄片若干、臼玉2斗以上、管玉数百、双孔円板数百、子持曲玉1個以上、滑製板状曲玉数百、剣状石製品数百…(以下略)

いずれも祭祀後に、ここに埋納されたもの。他にサヌカイト製粗製石器、弥生式中期土器片、須恵器片が出土。
弥生時代から奈良時代に至る長い期間、祭祀が行われ続けたようです。

残念ながらほとんどは損失してしまい、実際の埋蔵量はこの何千倍にも当たるとのこと。




◎子持曲玉

「三輪山」麓の遺跡から子持曲玉の出土が多いのが特長の一つ。今でこそ各地で出土していますが、当時は「三輪山」麓の祭祀遺物の象徴として捉えられていました。

━━生々発展、増殖の信仰の象徴として、穂垂れと同じく、子に子を生む形、とくに玉を魂の象徴とするなら、霊魂の増強やその作用の増幅を祈る魂振りの信仰と関連するものと考えたい━━

このように考えを示しています。



今回はここまで。

大神神社へは少々ごぶさたになっていますが、「春の大神祭」には参列予定。

今回の記事作成中に、かなり昔に拝した参拝可能な磐座を思い出しました。

山ノ神遺跡もなかなかレアでほとんど知られていない遺跡ですが、さらにもっとレアな遺跡。

雨天でなければ…。



*誤字・脱字・誤記等無きよう努めますが、もし発見されました際はご指摘頂けますとさいわいです。