龍田大社


大和国平群郡
奈良県生駒郡三郷町立野南1-29-1
(P有)

■延喜式神名帳
竜田坐天御柱國御柱神社 二座 並名神大 月次新嘗 の比定社

■社格等
二十二社の中七社
[旧社格] 官幣大社
現在は別表神社

■祭神



大和盆地の西端、河内国とを境にする「龍田山」の東麓に鎮座する社。さらに下った南側すぐには大和国のほぼ全ての主要な河川を集める「大和川」が流れています。
◎当社は「延喜式祝詞」にある「龍田風神祭(たつたのかぜのかみのまつり)」に記される社。廣瀬大社とは対になっており、「龍田の風神」「廣瀬の大忌神(水神)」とが、創祀や祭事に至るまで悉く対照的な関係に。
◎「延喜式祝詞」においては、全二十七篇のうち「祈念祭・春日祭・廣瀬大忌祭」に続いて記されます。そこでは崇神天皇の御代、凶作と疫病の流行が続き国力が著しく低下したため天神地祇を祀ったところ、夢に天御柱命國御柱命が現れ、「龍田山」に祀れという神託があったことを由来としています。
「吾が宮を朝日の日向ふ処 夕日の日隠る処の龍田の立野の小野に定めまつりて…」と。
◎その二柱は社伝によると、級長津彦命(シナツヒコノミコト)と級長戸邊命級長戸邊命(シナトベノミコト)の夫婦神であるとしています。いわゆる風神。
◎ところが紀によると、天武天皇四年(675年)に風神を龍田に祀り大忌神を廣瀬(廣瀬大社)に祀ったとするのが初出。「延喜式祝詞」の記述とは異なり、崇神天皇の段に龍田大神のことはまったく記されていません。記も同様に記述無し。
◎これらをどう見るのかは非常に困難。天武天皇の御代の創祀はまず間違いないとして、崇神天皇の御代まで遡られるのかどうか。
龍田大神はまず「御座峰」と称される地に降臨、現在も霊跡地として奉斎が続けられています。また龍田大社 本宮跡という霊跡地が五体の磐座とともに残され(四体まで確認済み)、こちらも奉斎が続けられています。
降臨を崇神天皇の御代、本宮を天武天皇の御代に単純に当てはめることもできなくはないですが。なお龍田大社 本宮跡には社殿があった形跡が見られず、おそらくは磐座を伴う臨時の祭祀場であったのだろうと思われます。紀の記述にも使者を派遣し祀らせたとあるのみで、「宮柱を…」など社殿に関することは一切触れられていません。

◎また龍田神社の存在も気になるところ。現在は当社の摂社となっていますが、おそらくこちらで祀られている神が「龍田山」の本来の神霊であり、当社は後発であろうと考えています。つまり龍田比古神龍田比売神が鎮まっていたところに風神が被さったとみています。
◎これには諸説ありますが天武天皇の頃に朝鮮半島との関係が逼迫、大和朝廷の砦として「大和川」の要衝に龍田の風神と廣瀬の水神を祀ったのではないかというものが的を得ているかのように思います。
また龍田山は古代たたら製鉄の一大産地でした。西側一帯は「雁多尾畑(かりんどおばた)」と呼ばれ金山彦神社金山媛神社もあります。たたら製鉄には「風」が必要であり、そのシンボルとして風神が祀られたのであろうと思われます。

◎関連社・史跡リンク


*写真は過去数年に渡る参拝時のものが混在しています。











境内社 白龍大明神

境内社 龍田恵比須社

境内社 三宝稲荷大明神

境内社 下照社

境内社 安村家邸内社

近年整えられた庭園。

風神を祀る当社ならではの、夏の風鈴祭。

「龍田古道・亀の瀬」が日本遺産に登録されたのを機に、新しい案内板が設置。