廣瀬大社 (廣瀬神社)


大和国廣瀬郡
奈良県北葛城郡川合町川合99
(P完備)

■延喜式神名帳
廣瀬坐和加宇加之賣命神社 名神大 月次新嘗 の比定社
[相殿 櫛玉命] 櫛玉姫命神社の論社
[相殿 穂雷命] 穂雷命神社の論社
[境内摂社 水分神社] 於神社の論社 

■社格等
二十二社(中七社)
[旧社格] 官弊大社
現在は別表神社

■祭神
若宇加能賣命
[相殿] (左殿)櫛玉命 (右殿)穂雷命


龍田大社の風神」、「廣瀬大社の大忌神」と大和朝廷にとって重要な神社であり、「神名帳」や神階などにおいて悉く最高位を授けられた屈指の大社。紀には天武天皇の御代、龍田立野に風神を廣瀬河曲(かわはら、川合町川合)に「大忌神」を祀ったとあり、陰陽道を熟知した天武天皇がまさに風水を意識していたことが伝わります。
◎当地は「大和川」「曽我川」「飛鳥川」「葛城川」「高田川」と、大和盆地のほぼすべてが合流して1本の「大和川」となる要衝の地。「水の守り神として山谷の悪水を良水に変え、枯れることなく水田を守り、河川の氾濫を防ぐ社」であったと考えられています(宮司談)
◎社伝において創建は崇神天皇の御代とされています。廣瀬の川合の里長に夢で大御膳神として祀るようご神託があり、一夜で沼地が陸地に化し「橘」が数千株生えた、それが天皇に伝わり社殿を建てて祀ったとしています(「橘」に関する記事、こちらも「橘」に関する記事)
◎ところが紀には対応する記述がなく、初めて社名が現れるのは天武朝になってから。おそらくはそれまでに何らかの神祀りは行われていたのでしょうが、朝廷が公式にというものではなかったと思われます。
◎ご祭神の若宇加能賣命は豊受大神ということで大方の見解は一致、当社もそうみておられます。廣瀬大忌神、豊宇気比賣大神、宇加之御魂神、屋船豊受姫神と表記はいろいろありますがすべて同神とみなしています。
◎「大忌神」について「大和志料」は、「特に潔斎し其の職を奉ずる(天照大神の御膳を掌る)を以て大忌神と称せらる」としています。屋船豊受姫神について「屋船」はおそらく住居(建物)のことであり、まさに稲倉魂ということでしょうか。
◎この主祭神についてはさまざまな表記がなされていますが、「廣瀬河合神」というのもその一つ。穀物神ではあるものの、その耕作に豊かな恵みをもたらす水神としての神格も持ち合わせていたのではないかと考えています。
そういった点において、現在の社地から西方50mに鎮座する当社境外摂社である水分神社(祭神 : 水分神)が原始の祭祀跡なのではないかという可能性を考えています。
◎ところが天武天皇以降は「水神」という神格を有しつつも、「大物忌神」という神格を有する神へと変わりました。これは荒れ狂う悪神「龍田の風神」を押さえ付けて鎮め、祓ってしまうという神と解釈したいと思います。また都から北西の要衝を守護するという神格をも期待したものと考えています(→詳細は下部に掲げた、8回に渡る「龍田の風神と廣瀬の大物忌神」にて)
◎相殿に見える櫛玉命は饒速日神のこととされています。社家の樋口家が饒速日神六世孫の伊香色雄命(イカガシコオノミコト)の後裔。境内の私邸内に饒速日社があるとのこと(未公開)。ところが饒速日神の妃である三炊屋姫ではないかとも言われ、宮司もそのようであるとしています。「式内社 櫛玉比売命神社」の論社とされているのもその理由から(比定社→櫛玉比売命神社)
◎もう一柱の穂雷神については火雷神のことでしょうか。こちらも「式内社 穂雷神社」の論社とされています。2社ともに廣瀬郡内(現在の広陵町)に鎮座することから何らかの理由で当社に合祀されて、現在は復興したものの当社にても祀られているといったところでしょうか(比定社→穂雷神社)
◎なお境外末社 ハ神殿神社が、当地より西南西200mほどに鎮座しています。

◆ 「龍田の風神」と「廣瀬の大物忌神」


*写真は過去数年にわたる参拝時のものが混在しています。






向かって左側に見える低木が「橘」。

12月頃に実が成ります。

大和の古社らしく冬の境内も趣深いもの。








境外摂社 水分神社







長い参道に沿う「ふけたかわ」。


祓戸社

祖霊社