前回の記事より2ヶ月以上も開いてしまいました。


これは年末年始の体調不良を取り返そうと、
精力的に参拝活動を行ったことが影響。

結局、再発したのですが。

そしてそれらの分やコロナ禍でできなかった遠征も、立て続けに行った結果。



…ごぶさたになった言い訳を少々。



2年ほど前なら
それでもガシガシとやれてた?

ちょっとギアを上げねばと思う
今日この頃です…。



前回の記事では「龍田 風神・廣瀬 水神」ではなく、「龍田 風神・廣瀬 大物忌神」と捉えるべきであると提唱しました。

今回はさらに深く探ってみます。


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「龍田 風神・廣瀬 水神」と捉えていると、両祭の本質が見えて来ないのです。

廣瀬大社(廣瀬神社)が「水神」を祀っているというのは、確かにそうなのかもしれません。

天武天皇の御代、龍田立野に風神を廣瀬河曲(かわはら、川合町川合)に「大忌神」を祀ったとあります。
そして当地は「大和川」「曽我川」「飛鳥川」「葛城川」「高田川」と、大和盆地のほぼすべてが合流して1本の「大和川」となる要衝の地。

大きく捉えるのならやはり「水神」。
樋口宮司も「水の守り神として山谷の悪水を良水に変え、枯れることなく水田を守り、河川の氾濫を防ぐ…」と述べられています。

ところがこれはこの神の持つ性質(神格)の包括的なものでしかないのです。実際に当時に「水神」と記された文献は存在しません。ほぼすべてが「大物忌神」と記されています。

いつの間にやら勝手に、「龍田 風神・廣瀬 水神」と刷り変わっていることに気付かねばならないのです。

知り得る限り例外は「延喜式神名帳」くらいのもの。「廣瀬坐和加宇加之賣命神社」と記されており、つまりご祭神は「和加宇加之賣命」であると。

この和加宇加之賣命は豊受大神のこととされています。豊受大神は「食物・穀物を司る女神」のこと。瑞々しい「宇加(食物)」の女神といったところでしょうか。
宇迦之御魂神や保食神(ウケモチノカミ)、大宜都比売(オオゲツヒメ)など他の穀物神と習合し同神とみなされることも。丹後国(当時は丹波国)から伊勢の外宮へ迎えられた神。

穀物の源となるのは「水」であり、まったく関連がなくもないのですが、結びつけるのは少々無理があるように思います。

また「大物忌神」は一般に豊受大神であるとされます。ですから「水」から関連させて豊受大神ということになったのではなく、「大物忌神」=豊受大神ということになったのであろうと思います。つまるところ「大物忌神」と「水神」とは「まったく関係ない」ものと考えます。


(豊受大神を祀る丹後国丹波郡 藤社神社)



「大物忌神」については第2回目の記事にて記しました。そして前回の記事では「大物忌神」が忌むのは「龍田の風神」であると。

「大物忌神」がなぜ豊受大神と習合したのかについては、私もまだまだ勉強不足。現状手掛かりもない状態。八百万の神々の中で豊受大神をもっとも慕い、余生をかけてこの大神の謎を探りたいと思っているのですがまだまだ…。

「大物忌神」が本当に豊受大神であるのかどうかはさておき、「龍田の風神」がそれほどまでに「悪神」であったのか?それを探らねばなりません。

古代蹈鞴(たたら)製鉄が行われていた時代は、「鞴(ふいご)」といった送風装置が無く、もっぱら自然風が利用されていました。その頃は「龍田の風神」は「良神」であり、それどころか大変にありがたい神であったのです。

「鞴」という送風装置が用いられるようになると、公民(おほみたから)の作る稲を「悪しき風荒き水に相はせつつ 成さず傷(そこな)へる」神としてみなされるようになったのです。

この地で鍛冶製鉄が始まった時期を特定するのは困難ですが、仮に5世紀後半頃に始まったと仮定して、7世紀つまり100年余りから200年ほどの間に、大変にありがたい「良神」から忌むべき「悪神」へと変わってしまったのです。

それほどまでに「龍田の風」は猛威を振るっていたのでしょうか。それを探らねばなりません。

大和と河内の県境に南北に長く聳える「生駒金剛山地」。ちょうど「大和川」の谷地を縫って風が強く吹きます。だからその強い風を蹈鞴製鉄にも利用したようです。

ところが忌むべき「悪神」とされるほどの猛威を振るっていたとも思えないのです。少なくともその悪神に悩まされ続けていたという記述は、正史に見られません。またさほど地形が変わってはいない現在でも、そのような印象はありません。他にも理由があると考えるべきだと思うのです。

それを匂わせるような記述が紀にいくつか見られます。
◎天武天皇元年(672年)
壬申の乱において「大坂」とともに軍備配置がなされる。
「大坂」は「二上山」の北脇。現在でも「屯鶴峯(どんづるぼう)」を越えて…などと言われるように、大和から河内へ抜ける道の一つ。「大坂道」「穴虫峠」とも言われます。「官道」であった「二上山」の南側を抜ける「竹内街道」以外に、大和と河内とを通じる道はこの「屯鶴峯(どんづるぼう)」方面の道と「龍田古道」だけだったのです。また「大和川」の水運もあり、水陸両用の交通要衝は唯一この道のみ。

◎天武天皇八年(679年)
「龍田山」と「大坂山」に初めて関が設けられる。
「大坂山」とは「二上山」のこと。合わせて難波に「羅城」も築かれています。

◎天武天皇十年(681年)
「廣瀬野行宮」の設置。

◎天武天皇十三年(684年)
七月に廣瀬へ行幸。
これは七月の「風神祭・大忌祭」の五日前のこと。ただ行幸したとあるのみ記されます。何らかの意図があったはずですが不明。

つまり「龍田」という地の重要度が増してきたと考えるのです。大和から河内へ通じるルートは3箇所。既に「竹内街道」は推古天皇の御宇に整備が完了しています。残るは「大坂道」と「龍田道」。そのうち「龍田道」は水路「大和川」も伴う要衝。絶対的な中央集権国家を目指す天武天皇にとって、この地を抑えることが必須となった…これ以外に考えようがないのです。


次回は「龍田道」がいかに重要であったか、またその必然性が高まった原因を探りたいと思います。