風神を祀る龍田大社ならではの「風鈴祭」。





◆ 「龍田の風神」と「廣瀬の大物忌神」 
(~5 「風神祭」 後編)





◎「風神祭」の詳細

「大忌祭」でも書いたことをコピペして、ごくわずかに修正を施しそのまま掲載します。

「風神祭」は「延喜式」の定例祭(四時祭)の一つであるということを記してきました。そこには祝詞が掲載されています(巻9)。

祝詞とは言え、これは「天御柱神・國御柱神」に対して奏上する祝詞ではありません。

天皇が詔(天皇の仰せ)したものが書記され、使者を通じて神主や祝部(はふりべ)に読み聞かせたもの。「宣命体(せんみょうたい)」形式の祝詞に分類されます。

「こうこう、こういう風にしなさい!」というもので、詳細を知るにはドンピシャな手段!

余すところなく掲載しておきます。
さらっとだけ知りたい方は【現代語訳】以下を、さらっとご覧下さい(笑)


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【読み下し文】
龍田に稱辭(たたへごと)竟(を)へ奉る皇神(すめがみ)の前に白さく 志貴嶋に大八嶋國知ろしめしし皇御孫命(すめみまのみこと)の遠御膳(とほみけ)の長御膳(ながみけ)と赤丹(あかに)の穂に聞こし食(め)す五穀物(いつくさのたなつもの)を始めて 天下(あめのした)の公民(おほみたから)の作る物を 草の片葉(かきは)に至るまで成さざること 一年二年(ひととせふたとせ)に在らず 歳真尼久(としまねく)傷(そこな)へるが故に 百(もも)の物知り人等の卜事(うらごと)に出でむ神の御心は 此の神と白(まを)せと負(お)ほせ賜ひき 
此を物知り人等の卜事(うらごと)を以て卜(うら)へども 出づる神の御心も無しと白(まを)すと聞こし看(め)して 皇御孫命(すめみまのみこと)の詔(の)りたまはく 神等をば天社(あまつやしろ)國社(くにつやしろ)と忘るる事無く 遺(お)つる事無く 稱辭(たたへごと)竟(を)へ奉ると思ほし行はすを 誰(いずれ)の神ぞ 天下(あめのした)の公民(おほみたから)の作りと作る物を 成したまはず傷(そこな)へる神等は 我が御心ぞと悟し奉れと宇氣比(うけひ)賜ひき

是を以て皇御孫命(すめみまのみこと)の大御夢に悟し奉らく 天下(あめのした)の公民(おほみたから)の作りと作る物を 悪しき風荒き水に相はせつつ 成さず傷(そこな)へるは 我が御名は天乃御柱乃命 國乃御柱乃命と御名は悟し奉りて 吾が前に奉らむ幣帛(みてぐら)は 御服(みそ)は明妙 照妙 和妙 荒妙(あかるたへ・てるたへ・にぎたへ・あらたへ) 五色物(いついろのもの) 楯 戈(ほこ) 御馬に御鞍具へ(そなへ)て 品品の幣帛(みてぐら)備へて 吾が宮は朝日の日向ふ處 夕日の日隠る處の龍田の立野の小野に 吾が宮は定め奉りて 吾が前を稱辭(たたへごと)竟(を)へ奉らば 天下(あめのした)の公民(おほみたから)の作りと作る物は 五穀(いつくさのたなつもの)を始めて 草の片葉(かきは)に至るまで 成し幸はへ奉らむと悟し奉りき 是を以て皇神(すめがみ)の辭(こと)教へ悟し奉りし處に 宮柱定め奉りて 此の皇神(すめがみ)の前に稱辭(たたへごと)竟(を)へ奉りに 皇御孫命(すめみまのみこと)の宇豆(うづ)の幣帛(みてぐら)を捧げ持たしめて 王(おほきみ) 臣(まへつきみ)等を使と爲て 稱辭(たたへごと)竟(を)へ奉らくと 皇神(すめがみ)の前に白(まお)し賜ふ事を 神主・祝部(はふりべ)等諸聞こし食(め)せと宣(の)る

奉る宇豆(うづ)の幣帛(みてぐら)は 比古神に御服(みそ)は明妙 照妙 和妙 荒妙(あかるたへ・てるたへ・にぎたへ・あらたへ) 五色物(いついろのもの) 楯戈(ほこ) 御馬に御鞍具へて 品品の幣帛(みてぐら)献り 比賣神に御服(みそ)備へ 金の麻笥(こがねのまけ) 金の椯(たたり) 金の桛(かせひ) 明妙 照妙 和妙 荒妙(あかるたへ・てるたへ・にぎたへ・あらたへ) 五色物(いついろのもの) 御馬に御鞍具へて 雑(くさぐさ)の幣帛(みてぐら)奉りて 御酒はミカ(*瓦篇に镸)の閉高(へたか)知り 腹滿て雙(なら)べて 和稲 荒稲(にぎしね・あらしね)に 山に住む物は 毛の和物 毛の荒物 大野原に生ふる物は 甘菜 辛菜 靑海原に住む物は 鰭の廣物(はたのひろもの) 鰭の狹物 奥都藻菜(おきつもは) 邊都藻菜(へへもは)に至るまでに 横山の如く打積み置きて 奉る此の宇豆(うづ)の幣帛(みてぐら)を 安幣帛(やすみてぐら)の足幣帛(たりみてぐら)と 皇神(すめがみ)の御心に平けく聞こし食(め)して 天下(あめのした)の公民(おほみたから)の作りと作る物を 悪しき風荒き水に相はせ賜はず 皇神(すめがみ)の成し幸はへ賜はば 初穂はミカ(*瓦篇に镸)の閉高(へたか)知り ミカ(*瓦篇に镸)の腹滿て雙(なら)べて 汁にも穎(かひ)にも 八百稲 千稲(やほしね・ちしね)に引居ゑ置きて 秋の祭に奉らむと王卿等百官人等(おほきみ、まへつきみ、もものつかさのひとら) 倭國六縣(むつあがた)の刀禰(とね) 男女(をとこおみな)に至るまでに 今年の四月(七月には今年の七月と云ふ) 諸参集はり(もろもろうごなはり)て 皇神(すめがみ)の前に宇事物頚根(うじものうなね)築き抜きて 今日の朝日の豊逆登りに 稱辭(たたへごと)竟(を)へ奉る皇御孫命(すめみまのみこと)の宇豆(うづ)の幣帛(みてぐら)を神主祝部(はふりべ)等被け(うけ)賜りて 惰る(おこたる)事無く奉れと宣(の)りたまふ命(おほみこと)を、諸(もろもろ)聞こし食(め)せと宣(の)る。





【現代語訳】(*第一版発行は昭和二年)
龍田に斎き祭れる皇神(すめがみ)の御前に申し上げます事は、磯城島宮(*)に坐しまして、天下を治め給ふた天皇(崇神天皇 *)が、遠く久しく龍顔もおひやかに召し上がるべき、御食の穀物を始めとして、天下の御民が耕作するものを、一片の草葉に至るまで、悉く稔らしめ給はぬ事が、一年二年と云はず、あまたの年月をかけて重ねて害(そこな)い給ふので、多くの物知人に、「これは一体如何なる神慮の祟であるかそれを問え」と命じ給ひました。しかし物知人達が卜事(うらごと)にかけて問ひましても、何神の御しわざとも知れませんと申したので、それを聞こし召した天皇は、更に、「天神地祇を洩れなくお祭り申し上げていると信じて居りますのに、国民が苦労して作っている穀物を悉く害(そこな)い給ふのは、そもそも如何なる神にましますか、その神は速やかにそれは自分の心で致す事だとお悟し下さるように」と仰せられて、誓約(うけひ)を行はれました。

そこで崇神天皇の御夢に神託があって、「天下の御民が耕作する農作物を 、風水の害に遭はせて、成熟せしめない神の御名は、天御柱命・國御柱命である」とお悟しになって、「我が前に獻る(たてまつる)べき供物として、御服は明妙・照妙・和妙・荒妙、五種の絁(あしぎぬ、=絹織物の一種)や楯戈、御馬に鞍を備え、斯くの如くに種々の幣帛を 整へて、我が宮をば朝日夕日の照り輝く龍田の立野の野に営んで、吾を丁重に祭ったならば、國中の御民が作る物は、五穀を 始めとして一片の草葉の末に至るまで成熟させ奉らう」とお告げになりました。そこで皇神の御指図の処に、宮殿を造って鎮め祭り、皇神を丁重に祭り奉る爲に、天皇の貴い供物を捧げ持たしめて、王臣等を使として、玆(ここ)に丁重なる祭祀を営み給ふ所の、神に奏上せしめられる聖旨を、神主祝部等一同謹んで承はられたいものである。

献る貴い供物は、比古神には明妙・照妙・和妙・荒妙に五種の絁(あしぎぬ)を 始め、楯・戈・御鞍を具へた御馬に至るまで品々を奉り、比賣神には、御服(みそ)は明妙・照妙・和妙・荒妙の品々を備へ、金の桶・金の椯(たたり) 金の桛(かせひ)に、御鞍を具へた御馬など種々奉り、なほ二柱の神に、御酒を瓶に十分盛つて竝べ据ゑ、稲を米や穂のままでも奉り、山に住む物では大小の獣、野原に生ずる物では甘菜辛菜の類を盡し(=尽くし)、海原の物では、大小様々の魚類や種々の藻菜に至るまで、山のやうに積んで奉ります。どうか此等の山なす供物を平安に聞こし召されて、國民が耕作致します穀物を、風雨の害に遭はせ給ふ事なく、立派に成熟させて下さるならば、秋の祭には、初穂は御酒に醸して瓶に滿て竝べ、又稲穂のままでもどつさり積んで奉りませうと申して、諸王諸臣百官の人々を始め、倭國の六つの御縣に仕へ奉れる刀禰や男女の者に至るまで、一同今年四月の今日参集致して、神前に頸根を地に突いて、朝日の花やかにさし登る佳い時刻に、お祭を 営み奉ります。此の天皇の貴い供物を神主祝部達は受け取り奉つて、過失なく神前に献るやうにと申さるる勅命を、一同謹んで承はれたい。





現代語訳は故 次田潤氏の「新版祝詞新講」と「祝詞新講」より。( )内の読みや注釈をこちらで付加したり、微修正を施しています。

「祝詞」研究のバイブルとも言える著。
昭和二年の「祝詞新講」が、平成二十年に「新版祝詞新講」として復活しています。

取り寄せサイトを通じて、「新版祝詞新講」を 4年程前かな~?から応募しているも…なかなか出回りません。仕方なく持ち合わせの「祝詞新講」と合体させました。


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【補足】
◎上述したように宣命体形式。使者が神主等に天皇の仰言を伝えたもの。大神に対して奏上する祝詞ではありません。大神に対して奏上するのは神主です。

◎「祈年祭(としごひのまつり)」などとまったく同じ文章が多く見られます。また「廣瀬 大忌祭」と同じ文章も。
定型化していたのでしょうね…。必要な箇所のみを部分改良して詔していたようです。定型化するということは、それだけ完成された文章だったということであるかと思います。

◎大和国の「御縣」と「山口」に坐す神々について唐突に記されています。これは「祈年祭(としごひのまつり)」に記されるものと大部分が重複しています。

◎冒頭で「磯城島宮」というのが見られますが、これは欽明天皇の宮跡の呼称。ところが次田氏はもとより多くの研究者が崇神天皇の「磯城瑞籬宮」のことと解しています。文面から判断してそうなのだろうと思います。

◎「我が宮をば朝日夕日の照り輝く龍田の立野の野に営んで、吾を丁重に祭ったならば…」とあり、これが龍田大社の始まり。

龍田大社 本宮跡とされるのが、大阪府柏原市の「雁多尾畑(かりんどおばた)」の地にあります。大和と河内の境、当時は「龍田の立野」であったということになるのでしょうか。遷座後の龍田大社は現在の「龍田の立野」に鎮座します。この時既に遷座されていた可能性もあるかと考えます。


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次回はさらに一歩踏み込んでみたいと思います。既に多くの先達により研究されてきたテーマですが、そのうち私が納得できるものを寄せ集めて掲載しようかと考えています。