◆ 「龍田の風神」と「廣瀬の大物忌神」
(~6 悪神を忌む 1)




年末年始にかけて体調不良が続き
日頃の敬神参拝活動ができない日々に、

大がかりなテーマを!と始めた企画。


すっかり体調も良くなり
敬神参拝活動を再会すると、

1記事を上げるのに数時間を要するテーマ記事は、少々遠慮がちに…。


1ヶ月近く開きました。
(今後はこれくらいのペースになります)

気合いを入れて再会を!


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■過去記事

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「延喜式」に列記される国家の「定例祭(四時祭)」の中に見える、「大忌祭」と「風神祭」。

「大忌祭」は廣瀬大社(廣瀬神社)で行われ、
「風神祭」は龍田大社で行われます。

毎年、四月四日と七月四日に、ニ社同時に行われます(同時刻かどうかまでは不明)。


これを「へえ~そうなんだ!」と流してしまうのではなく、「なぜ?」と疑うところに研究の進歩があるのです。そうやって研究された成果を、無精者が大いに活用させて頂くわけです。

これほどの大がかりな国家の大祭なら、日を別けて行えばいいのでは?一度に二つも大変なのでは?…ここに研究の進歩があるのです。


また、「龍田 → 風神」なのに「廣瀬 → 水神」と言わないのはなぜ?

廣瀬大社(廣瀬神社)宮司は「大忌神」と称される理由について、とても分かりやすく丁寧に説いておられます。

━━山や谷から下ってくる水は荒々しい水である。それを廣瀬の神様は受けて、良い水として大和平野に配る。山々からザーっと流れてくる水を受けて穏やかな水にして流し、人々の暮らしを守ってくださる。それが廣瀬の水神信仰です。これが「大忌神」である━━

これまで何度も記してきたように、廣瀬大社(廣瀬神社)の鎮座地は大和の主流河川が一同に集まり「大和川」と成すその合流地点。

荒々しく流れてくる水を忌み、穏やかな流れにする神であると。


確かにそうなのでしょうが、龍田を「風神」と称しているなら廣瀬は「水神」でいいのでは?
確かに「大いに忌んでおられる」神なのでしょうが「水神」には変わりない。なぜ「水神」と称されないのか?

何かしら理由があるはずだ!これが研究の進歩を生むのです。

(そうして私は成果を活用させて頂くのです)


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世の中には柔軟な発想ができる優れた人がいるもので。
或いは根を詰めて研究に没頭しさえすれば、誰でも辿り着くことができるのか?

卓見に値する考えが生まれるものです。



なぜ2日に別けずに常に同日に行われ続けたのか、なぜ龍田は「風神」と呼ぶのに廣瀬は「水神」と呼ばないのか。

答えを言いましょう!



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(もったいぶります)



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(ちょっぴり「いけず」な人です)



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廣瀬の大神が「大いに忌む」のは、龍田の「風神」ではないか!


それならわざわざ同日に行う必要性もあり、「水神」ではなく「大忌神」と呼ばねばならない理由にも説明が付くのです。

龍田の「風神」は「悪神」扱いされていたわけで、それを「忌み」、鎮めるために廣瀬の「水神」が宛てられたのではないかと。


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かつての古代蹈鞴(たたら)製鉄においては、自然風が必要でした。吹き荒れる突風を喜んだのは製鉄従事者。

ところが間もなく鞴(ふいご、自動送風装置)が使われ始めると、自然風は不必要となります。それどころか農耕従事者にとっては災害となるのでした。

かつては製鉄従事者に崇められた「龍田風神」も、この時代になると厄介者となっていたのです。



確かに「延喜式祝詞」の「風神祭」には、
「天下の御民が作る農作物が、一片の草葉に至るまで稔らないことは一年二年どころではなく、何年も害(そこな)われる」とあり、神の名を伺うと「農作物を風水害に遭わせ成熟させない神は天之御柱神・國之御柱神」であると。

はっきりと記されていました。



~2 「大忌祭」前編の記事で触れたように、

━━二社は飛鳥の都からは10km以上は離れています。ですが特に龍田大社は河内国から大和への玄関口にあたり、ひいては当時緊迫していた朝鮮半島からの玄関口にもあたります。これは大阪湾から「大和川」を遡ってきたところのもの。「災いが出入りする方角」(陰陽道で言う「天文」の方角)に祀ったといえるのではないかと思います━━

「大和川」中流域の上に鎮座するのが廣瀬大社(廣瀬神社)、下の方に鎮座するのが龍田大社

つまり下に坐す悪神を、上に坐す大忌神で抑え込んだ(鎮めた)ということなのだろうと。



次回はもう一歩踏み込んでみようと思います。


「大忌神」を祀る廣瀬大社(廣瀬神社)