◆ 「龍田の風神」と「廣瀬の大物忌神」 
(~3 「大忌祭」 後編)




入り口はなるべく狭くしていますが…
ご縁あってこのブログに辿り着かれた方に、

龍田大社廣瀬大社(廣瀬神社)で行われていた「風神祭」と「大忌祭」を知って頂くことにより

両社が国家にとって、いかに大切なお社であったかを理解して頂こうと始めたテーマ。



「大忌祭」前編の続き、後編です。

2日続きですが…。

今回は少々退屈な記事に思われるかもしれません。「大忌祭」が記される祝詞をつらつらと。どうしても掲載しておかねばならないので…。



■過去記事



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◎「大忌祭」の詳細

「大忌祭」は「延喜式」の定例祭(四時祭)の一つであるということを記してきました。そこには祝詞が掲載されています(巻9)。

祝詞とは言え、これは「大忌神」に対して奏上する祝詞ではありません。

天皇が詔(天皇の仰せ)したものが書記され、使者を通じて神主や祝部(はふりべ)に読み聞かせたもの。「宣命体(せんみょうたい)」形式の祝詞に分類されます。

「こうこう、こういう風にしなさい!」というもので、詳細を知るにはドンピシャな手段!

余すところなく掲載しておきます。
さらっとだけ知りたい方は【現代語訳】以下を、さらっとご覧下さい(笑)


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【読み下し文】
廣瀬の川合に稱辭(たたへごと)竟(を)へ奉る皇神(すめがみ)の御名(みな)を白(まをさ)く 御膳(みけ)持する若宇加能賣命と御名は白(まを)して 此の皇神(すめがみ)の前に辭竟(ことを)へ奉らく 皇御孫命(すめみまのみこと)の宇豆(うづ)の幣帛(みてぐら)を捧げ持たしめて 王(おほきみ)臣(まへつきみ)等を使ひとして 稱辭竟(たたへごとを)へ奉らくを神主 祝部(はふりべ)等諸(もろもろ)聞こし食(め)せと宣(のたま)ふ

奉る宇豆の幣帛(みてぐら)は御服(みそ)は明妙(あかるたへ) 照妙(てるたへ) 和妙(にぎたへ) 荒妙(あらたへ) 五色物(いついろのもの)楯 戈(ほこ) 御馬 御酒は瓺(みか)の閉高(へたか)知り 瓺(みか)の腹滿て雙(なら)べて 和稲(にぎしね) 荒稲(あらしね)に山に住む物は毛の和(にご)き物 毛の荒き物 大野の原に生ふる物は甘菜(あまな) 辛菜(からな) 青海原に住む物は鰭(はた)の廣き物 鰭の狭き物 奧津(おきつ)藻葉 邊津(へつ)藻葉に至るまで置き足らはして奉らくと皇神(すめがみ)の前に白(まを)し賜へと宣(のたま)ふ 

如此(かく)奉る宇豆の幣帛(みてぐら)を安幣帛(やすみてぐら)の足幣帛(たるみてぐら)と皇神(すめがみ)の御心に平らけく安らけく聞こし食(め)して 皇御孫命(すめみまのみこと)の長御膳(ながみけ)の遠御膳(とほみけ)と赤丹(あかに)の穂に聞こし食(め)し皇神の御刀代(みとしろ)を始めて 親王(みこ)等 王(おほきみ)等 臣(まへつぎみ)等 天下(あめのした)の公民(おほみたから)の取り作る奧都御歳(おきつみとし)は手肱(たなひぢ)に水沫(みなわ)畫(か)き埀たり 向股(むかもも)に泥(ひぢ)畫(か)き寄せて取作らむ奧都御歳を八束穂(やつかほ)に皇神の成し幸(さきは)へ賜はば 初穂(はつほ)は汁にも穎(かひ)にも千稲(ちしね) 八千稲(やちしね)に引居(ひきすゑ)て横山の如く打ち積み置きて 秋祭に奉らむと皇神の前に白(まを)し賜へと宣(のたま)ふ

倭國の六御縣(むつのみあがた)の山口に坐す皇神等の前にも皇御孫(すめみまのみこと)の宇豆の幣帛(みてぐら)を 明妙(あかるたへ) 照妙(てるたへ) 和妙(にぎたへ) 荒妙(あらたへ) 五色物(いついろのもの) 楯 戈(ほこ)に至るまで奉る 如此(かく)奉らば 皇神等の敷き坐す山山の口より狭久那多利(さくなだり)に下し賜ふ水を 甘き水と受けて天下の公民(おほみたから)の取り作れる奧都御歳を 悪しき風 荒き水に相はせ賜はず 汝命の成し幸(さきは)へ賜はば 初穂は汁にも穎(かひ)にも瓺(みか)の閉高(へたか)知り 瓺(みか)の腹滿て雙(なら)べて 横山の如く打ち積み置きて奉らむと王(おほきみ)等 臣(まへつぎみ)等 百官人(もものつかさのひと)等 倭國の六御縣(むつのみあがた)の刀禰(とね) 男女(をとこをみな)に至るまで 今年の某月の某日 諸(もろもろ)參出來て皇神の前に宇事物(うじもの)頚根(うなね)築(つ)き拔(ぬ)きて 朝日の豐逆登(とよさかのぼり)に稱辭竟(たたへごとを)へ奉らくを神主 祝部(はふりべ)等 諸(もろもろ)聞こし食(め)せと宣(のたま)ふ




【現代語訳】
廣瀬の川合にお祭り申上げている皇神(すめがみ)の御名を、御膳を掌り給う若宇加能売能命(ワカウカノメノミコト)と申して、此の神の御前に吾等王臣等(あら おおきみ まへつきみら)を勅使として差遣わされて、天皇の貴い供物を捧げ持たしめて、鄭重に祭祀を営み奉らるる旨を、神主祝部(はふりべ)等一同にお告げ申す。

献る貴き幣帛(みてぐら)として、御服(みそ)は明妙・照妙・和妙・荒妙(あかるたへ・てるたへ・にぎたへ・あらたへ)の五色の絁(あしぎぬ、=絹織物の一種)を始め、楯戈(ほこ)御馬に至るまで奉り、山に住むものは様々の毛物(獣)、畑に生ずる物では甘菜辛菜、青海原に住む物は大小様々の魚類や、種々の藻菜(ワカメや昆布など)に至るまで取り揃えて奉ります事を、皇神の前に申し上げようという仰言(おおせごと)であります。斯様に奉るらむむ貴き幣帛(みてぐら)を善き供物として、皇神の御心に平安に御受けになって、天皇が皇神に奉った残りを、永久の御膳として龍顔(天子の顔)も明々と召し上るべき、稲の成熟する神田を始めとして、親王・王・諸臣(みこ・おほきみ・まへつきみ)等の封田(貴族に与えられた田が荘園化したもの)や、天下万民が耕作致す稲、それは百姓が田に下り立って、辛苦して取作る所の稲を穂も長々と成熟せしめ下さるならば、初穂はまず御酒にも造り、又穂のままでも、どっさり横山のように積み上げて、秋の祭に奉りますという事を、皇神の前に申せよという仰言であります。

大和国の六つの御縣(→大和国六御縣神社)、及び山口に坐します神々(→大和国の山口社)の前にも、天皇の貴い供物を、明妙・照妙・和妙・荒妙(あかるたへ・てるたへ・にぎたへ・あらたへ)の五色の絁(あしぎぬ)、楯戈(ほこ)の類いに至るまで献ります。かようにお祭り致したならば、神々が掌り給う山々の口からさらさらと下し賜う水を恵みの水と受けて、国中の御民が作る所の稲の上に、風雨の災害なく宝熟せしめられましょうから、感謝の祭には、まず初穂を酒に醸して、斎瓮(祭祀用具)に満し並べて献り、又穂のままでも山のように積み上げて献りましょうと、皇族諸卿百官を始め、六つの御縣に仕え奉れる刀禰(在地領主)や男女の者に至るまで、今年何月何日に一同神前に参って、頸根を地に突いて、朝日が花やかにさし登る時刻に、謹んで祭を営み奉る旨を、神主祝部(はふりべ)等一同聞こし召されよと申す。


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現代語訳は故 次田潤氏の「新版祝詞新講」より。
( )内の読みや注釈をこちらで付加しました。

「祝詞」研究のバイブルとも言える著。
昭和八年の「祝詞新講」が、平成二十年に「新版祝詞新講」として復活しています。

取り寄せサイトを通じて、4年程前(?)から応募しているも…なかなか出回りません。


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【補足】
◎上述したように宣命体形式。使者が神主等に天皇の仰言を伝えたもの。
大神に対して奏上する祝詞ではありません。大神に対して奏上するのは神主です。

◎「祈年祭(としごひのまつり)」などとまったく同じ文章が多く見られます。
定型化していたのでしょうね…。必要な箇所のみを部分改良して詔していたようです。定型化するということは、それだけ完成された文章だったということであるかと思います。

◎大和国の「御縣」と「山口」に坐す神々について唐突に記されています。これは「祈年祭(としごひのまつり)」に記されるものと大部分が重複しています。

なぜ一見無関連と思しきものが載っている?

「廣瀬大忌神」の神格の一つ、「稲魂」から考えるのであれば種々の野菜である「甘菜辛菜」をも広義に含んだものと思われます。

また「御縣社」にて祀られる神は、豊受大神等の穀霊神であるとする説も。

「廣瀬大忌神」のもう一つの神格、「大忌」は「山や谷から下ってくる水は荒々しい水である。それを廣瀬の神様は受けて、良い水として大和平野に配る」(樋口宮司)ということ。その山の神霊が山口社の神々。

また原始的信仰である「山神」は、稲作時には山から田に降りて守護神となり、収穫時には穀霊神となります。こういったことも踏まえて天武天皇は詔したのでしょうか。




ここまでご覧頂きありがとうございました。

次回は「龍田風神祭」に移ります。