◆ 「龍田の風神」と「廣瀬の大物忌神」 
(~8 龍田を守る)




「龍田の風神」が天武天皇の時代には「悪神」と見なされ、「廣瀬の大物忌神」がそれを押さえつけるという構図になっていた…と、これまで記してきました。


廣瀬大社(廣瀬神社)の地で「大和川」に大和盆地内の主要河川が一気に集まり、また龍田大社の地でも残りの河川が集まる…

さらに「龍田古道」という官道も通り、水陸両用の要衝。しかも大阪府(河内・摂津・和泉)との境界という要衝でもあった。


天武天皇はここを守らねば!…と考えたと前回の記事にて記しました。

そしてなされた具体的な施策を示しておきました。今回はもう少し深く掘り下げていきます。


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天武天皇が日本の歴史を大きく変えたと、当ブログではあらゆる記事において示してきました。

日本史上、傑出した人物は多く現れますが、
その中でも一二の傑出さ。現在の日本の礎はこの時代に整えられたのです。

日本史上、最高のカリスマとは?と聞かれれば、間違いなく天武天皇を挙げます。

天武天皇が取った行動や施策一つ一つは、その後の行く末や、引いては日本国の歴史に関わる重要なものである可能性が高いと考えます。


以上、しっかりと前置きした上で続けていきます。


天武天皇と言えば、天皇を中心とした強力な中央集権国家を築いたことで知られます。皇族を中心とした皇親政治などとも言われますが、何よりも「専制君主」であったというべきかと。

天武天皇が行った施策については枚挙に暇がありませんが、ここでは要衝を抑えたという点について。


壬申の乱において、兵数の差で圧倒的に不利であった大海人皇子(天武天皇)軍が勝ち得た理由は、戦略に勝ったこと。

その最たるものが、美濃入りし「不破の道」を塞ぎ、近江朝軍(大友皇子軍)の東国との連絡経路を遮断したこと。

大海人皇子軍は美濃に住む豪族を兵として加え、近江朝軍は東国の兵が加わることのないようにしました。また美濃国西部は製鉄鍛冶の盛んな地。ここで武器を大量に調達しています。


即位後、天武天皇はあらゆる要衝を抑え、都を守る施策を行います。

*即位元年 … 大來皇女を墨坂神社に派遣、金幣帛一対を奉幣

*即位二年 … 「不破関」「鈴鹿関」「愛発関」を置く
*即位八年 … 「竜田山」と「大坂山」に関を置く、難波に外壁を築かせる
*即位十二年 … 難波京(副都)を置く
*即位十三年 … 信濃にも副都を置くべく視察者を派遣する(着手に至っていない)

以上、関わるであろう箇所を列記しましたが、多少の漏れがあるかもしれません。

「墨坂」と「大坂」は大和の東西にあって、崇神天皇の頃(或いは神武天皇の頃)より要衝と見なされています。「墨坂」は泊瀬街道の途次、「逢坂」は「二上山」の北側。


「不破関」「鈴鹿関」「愛発関」の三箇所は壬申の乱の舞台ともなった地。天武天皇がここを抑えておかねばと感じたのだろうと思います。
「不破関」は近江から東国へ抜ける道。「鈴鹿関」は大和から伊賀を経て東国へ抜ける道。「愛発関」は近江から北陸へ抜ける道。詳細地は不詳、諸説あるものの琵琶湖北側から若狭へ抜ける辺りと推定。

そして即位八年の「竜田山の関」。これが龍田大社の地であったのです。

大和から西国方面へ抜ける道は三箇所ありました。大和と河内との間には「生駒金剛山麓」が南北に続き、隔たれています。そのうちわずかな谷地がこの三箇所のみなのです。

*「竹内街道」 → 「二上山」の南側
*「大坂」 → 「二上山」の北側
*「龍田道」 → 「大和川」に沿う谷地

「竹内街道」は推古天皇の時代に官道が敷設。「大坂」も古代より要衝とされてきました。

天武天皇はそのうちの「龍田」が殊の外重要であると捉えたものと思います。それが水陸両用のルートであること。

国内の敵はもちろんですが、海外の敵がもし攻めてくることがあるとすれば、必ずこのルートになるのです。瀬戸内を通過し難波に至り、「大和川」を遡ってくると。

天武天皇は即位してから唐に使者を送っていません。即位の報告もしていません。これは体面上、大国であることを繕ったとみなすべきでしょうか。

一方で新羅からの使者は手厚く迎えています。
676年(天武天皇即位五年に当たる)には新羅が朝鮮半島を統一しており、百済国は既に660年に滅亡しています。



以上をまとめると…

・「悪神」と見なされ農業への被害が大きい「龍田の風神」を、大いに忌む必要があった。
・また天武天皇は「龍田」の地を、都を守るという点においてことさら重視していた。

この2点から国家を上げて、この要衝を抑え込もうとしたと結論付けたいと思います。



これにてこの一連のテーマ記事に、一通り区切りがつきました。今後についてはまだ何も考えておりません。
今後も変わりなく龍田大社廣瀬大社(廣瀬神社)の二社は拝し続けていきますが…。


「悪神」と見なされた「龍田の風神」。

「悪神」を大いに忌み、抑え付ける役割を担った「廣瀬の大忌神」。


中央を横断するのが「大和川」。龍田大社は右端のところに。