金山媛神社


河内国大縣郡
大阪府柏原市雁多尾畑4828
(P有)

■延喜式神名帳
金山孫女神社の比定社

■祭神


「龍田山」や「嶽山」(正確な場所は不明)など、古代鑪(たたら)製鉄が営まれたという「雁多尾畑(かりんどおばた)」地区に鎮座する社。
金山毘売神という金属神が祀られる社。1kmほど麓の青谷には金山彦神社(現在記事改定中、リンクへは飛びません、6/7 12:02にUP予定)が鎮座。
◎「雁多尾畑」という古代の名残りある地名。朝鮮語で「カル」はナイフ(包丁)や刀の意味があるとされ、日本語の「刈る」にも通じます。また鍛治と焼畑は通じるようで、兵庫県の美方郡では「カリオバタケ」と呼ぶとも。また「多尾」は「峠」を意味する「タワ」であると。以上は谷川健一氏によるもの。また当社には御神宝として大きさ10cm余りの鉄屎も奉納されています(現物確認済み)。
◎元々は金山彦神社と同様に当社も「嶽山」に鎮座していたとも言われています。これは現在の「竜田古道の里山公園」(当社より北東1km足らず)の辺りとされますが、詳細不明、痕跡等無し。ところがこれは龍田大神が降臨したという龍田本宮 「御座峰」のすぐ近く。だから旧社地がそこなのか、或いは龍田大神の降臨と混同されているのか、意見が分かれるところ。龍田大神は風神ですが、これは鑪製鉄に必要な風を神格化したもの(谷川健一氏の説による)。
◎一方で宮司さんは当社の方は元からこちらだったのではないかと考えておられます。本殿背後には巨大な磐座が座しており、ご神体でも。そのことから考えても遷座されていないのかもしれません。
◎奉斎氏族については「和名類聚抄」に、河内国大縣郡賀美郷に上村主(カミノスグリ)一族が拠点としていたとあります。上村主とは百済からの渡来系氏族。この「賀美郷」は「千年村プロジェクト」によると、「青谷・峠・雁多尾畑」一帯であるとしています。「峠」は「青谷」の東側、「雁多尾畑」の南側にそれぞれ隣接する地(峠八幡神社の記事参照)。
◎また「続日本紀」には、慶雲元年(704年)に上村主ガ阿刀連(アトノムラジ)の姓を賜ったとあります。阿刀連は「新撰姓氏録」に、「山城国 神別 天神 饒速日命孫味饒田命之後也」「摂津国 神別 天神 阿刀連 神饒速日命之後也」「和泉国 神別 天神 阿刀連 釆女臣同祖」とある氏族。つまり物部氏系であり、兵器などの製造・管理を管掌していた鍛冶製鉄氏族。以上を総括的に判断して、鍛冶製鉄を行い渡来系である上村主が阿刀連姓を賜った、そしてそういった特に鍛冶製鉄系の氏族を必要としていた物部氏系に組み込まれた、このように考えます。
なお金山彦神社については異なる氏族が奉斎していたとする説も。詳細はそちらの記事にて。
◎境内は宮司さんの手によりとにかく清浄に保たれ、神威を最大限放つように試行錯誤されたそうです。
拝殿内には現在の最高峰の鏡職人の手による大鏡が奉納されています。これは往時の鏡と同レベル、或いは超越したという精巧さであるとのこと。当社宮司の斡旋で丹後国の籠神社、大和国城下郡の鏡作坐天照御魂神社にも奉納されました。また筑紫の平原方形周溝墓から出土した大鏡が博物館に収蔵されたため、宮司が先頭に立ち製作の上、墓内に奉納されました。

*写真は過去数年に渡る参拝時のものが混在しています。


駐車場から一旦坂を下り、40~50段ほどの石段を登った先に社殿。




ご本殿背後の竹藪内に磐座が座します。

こちらが御神体の磐座。かなりボケ気味ですがスマホではこれが限度かと。現宮司が社殿を築く前は剥き出しの状態であったそうです。