先日読んだ西條 奈加の小説『六つの村を越えて髭をなびかせる者』は、江戸時代に何度も蝦夷地探査の任にあたった最上徳内を取り上げたものでしたけれど、蝦夷地を積極的に開発しようと考えた老中・田沼意次の肝煎りで送り込まれた蝦夷地見分隊が江戸に戻ってみれば一大政権交代が起こっており、前政権の中心人物であった田沼の失脚により、見分隊自体が公儀と関わりないものにされてしまった…というひと幕がありました。

 

田沼意次に代わり、政権トップに立ったのが松平定信であった…とは夙に知られるところながら、本書その他を通じた松平定信のこれまでの印象は、どうも好ましいものではないような(個人の印象です)。田沼を真向否定することにばかりやっきになっている人物としか描かれていないからでもありましょうかね。

 

確かに田沼は金権政治の権化とも見られるわけですが、産業振興に積極的であって(蝦夷地見分もその表れですなあ)受けがいい一面もあったようで。産業振興の恩恵に預かる商人ばかりか、逼迫する幕府財政に苦慮する勘定奉行周辺には、蝦夷地開拓を含めた振興策には田沼失脚後も賛意を示す人たちもいたようで。収賄の有罪になってなお慕う人の多かった田中角栄を思い出したりもしますが、結果的にであるとしてもなんにしても、私腹を肥やす(ま、結果的に私腹が肥えてしまったとも言えましょうかね)のはまあ、いいことではありませんですねえ。

 

ともあれ、だからといって田沼の進めた政策を全部ひっくり返せば良い方向に向かうのかと言えば、「寛政の改革」を進めた松平定信の時代には「白河の清きに魚のすみかねて もとの濁りの田沼こひしき」といった狂歌が流布するのですから、極端に過ぎたのかも。

 

さりながら、てなことを言いつつも「松平定信ってどんな人?」「どんなことをやってのであるか?」となると、浅学にして知る所少なしだものですから、何かしら定信を主人公にしたような小説やら映画・ドラマでも…と思ったところ、これがおよそ見当たらない。ダーティーな?宿敵・田沼は何度か取り上げられている一方、クリーンなはずの定信は描いても面白味が無いのでもありましょうかね、おそらくは。

 

ということで、お気楽に読み流せる類いではないながら、まあ新書だし…と手に取ったのが、中公新書の一冊『松平定信 政治改革に挑んだ老中』でありましたよ。

 

 

本書では、定信がどういう人であったかというような点はさておいて、ひと言で「寛政の改革」と言われる定信政治は、どのような考えに基づいて発想され、どんな経緯を経て実行に移され、到達点として見ていたのはどのようなことであったのか、といったあたり探っていくのですな。そこに目を向ければ、何も田沼政治の真向否定ありきではないとしても、否定して事を進めねばならなかったことが分かってくるのでありまして。

 

定信自身は八代将軍吉宗の孫にあたり、御三卿のひとつ田安家に生まれたわけで、ともすると将軍継嗣となる目がなかったわけでもない出自。それだけに、徳川家、将軍家、幕府(武家政権)、さらには武士といったところに取り分け重い思いを抱いていたような。江戸幕府ができて100数十年、戦乱の世は遥か昔のこととなって、武士たる一分がともするとお留守になる風潮に業を煮やしていたようですな。その風潮に竿刺すような田沼時代の拝金主義は我慢がならなかったというわけで。

 

経済の成熟と言ってあたっているのかはわかりませんですが、金が金を生むことに誰もが(武士を含めて)気付いてしまった世の中で、古来大事にされた「米」という物納システムが「金」に置き換わってきてもいたと。戦国の世でも、戦の無い世となっても、米の備蓄は大事なことであったところながら、幕府においてさえ、米の現物を備蓄する代わりに金を蓄えておくという状況があったようですな。いざとなれば、金があれば米は買えばいいと。

 

ちなみに、定信は中国古典から得た知識として、国たるもの(為政者たる者ともいえましょうか)、九年の備えが必要として、六年の備えでは危うい、三年の備え程度では存亡の危機てなふうに受け止めていたようす。今でもそのままの年数で考えては誤るかもですが、ともあれ、災害対策としては現今の為政者にも全く通じない話ではならろうと思ったりもしたものです。

 

ともあれ、その現物たる米が払底したときには市中不穏になること必至で、定信登場前夜には天明の大飢饉に端を発する江戸市中でのうちこわしが発生したりしていたわけです。将軍のお膝元が揺らぐ事態、幕府の威信にも関わる状況を捨て置けないとなるのも分かりますですねえ。

 

ですから、いざというときに「幕府、将軍、ありがたや」と庶民が思う施策を講じなくてはならない。武士は積極、その姿勢で臨まねばならないわけですね。武家による「仁政」が定信の頭にはあったわけで、その点では封建的思考ですけれど、少なくとも庶民の思いを汲もうという姿勢は「上に立つ者」として持ち合わせていたようで。幕府財政逼迫の折にも関わらず、災害対策用の備蓄には増税が必要となるところを、あれこれ苦心惨憺、できるだけ不平のでない方法を探ろうとしてようでありますよ。

 

と、この部分ばかりが長くなってしまいましたが、揺らいだ幕府の威信を立て直すため、定信は幕府が政権を担う正統性として「朝廷から委任を受けている」ということを持ち出したりもしたようです。幕府の権威には後ろ盾があるのだと示すことにはなりましたが、結果として朝廷(天皇)を持ち上げることになってしまい、その流れは幕末の尊王思想に向かって吹き上がっていく元にもなってしまったようで。このときの「委任」という受け止め方があって、幕末の「大政奉還」(いわば委任契約の解除ですか)にもなっていくと。

 

また、折しも外国船の出没が散見されるようになってきたご時勢に、漂流民・大黒屋光太夫らを送り返すことと併せて交易を求めにラックスマンがロシア使節として根室に到達するのですな。江戸に回って交誼を結びたいとするラックスマンに対して、いわゆる「鎖国」は日本の国法であるとして受け付けない姿勢を示したのが定信であったということで。これまた、鎖国政策というものを厳守されるべき国法、古くから幕府が示してきた祖法であると世の中に知らしめたことが、その後ことさらに攘夷の動きを導いてしまったようでもありますな。

 

てなことで、それぞれにあまり掻い摘んだ話にまとめてしまっては伝えきれないところではありますが、松平定信、寛政の改革はその時期だけに留まらない影響力(その良し悪しは全く別として)及ぼしたものであったと、本書を通じて知ることになったのでありました。ただ、松平定信はどんな人であったか?は別に探る必要がありましょうけれど…。