ともあれ近鉄名古屋線の急行に乗って 、最初の目的地は伊勢若松駅でありました。
こぢんまりとした駅で、下車したのは数人。カメラを取り出したりしているうちに、
あっというまに駅前はもぬけの殻になってしまいましたですよ。


近鉄伊勢若松駅

そんな小さな駅ながら、駅前には立派な銅像が建てられておりまして、
像のモデルが伊勢国南若松村(現在の鈴鹿市若松東)の生まれであることが
解説板に書かれてありました。


大黒屋光太夫像@近鉄伊勢若松駅前

と、この人物こそがかの有名な(?)大黒屋光太夫 であります…といって、
井上靖が小説「おろしや国酔夢」譚に書き、映画になったりもしましたので、
ご存知の方が多いとは思いますけれど、今回訪ねて巡った場所のひとつ、
千代崎漁港が目の前の若松緑地に防潮堤防を利用して作られた壁画を辿って、
どんな人だったのかをさくっと見ておきましょう。


光太夫漂流記の壁画がある若松緑地

ま、こんなふうに置くの壁に絵がはまっているのですが、
どうやらあまり顧みる人もおらず…といったようす。
ま、気を取りなおて一枚ずつ見ていきます。題して「大黒屋光太夫漂流記」です。


壁画「大黒屋光太夫漂流記」
天明二年(1782年)12月9日、船頭大黒屋光太夫以下十七人が乗り込んだ神昌丸が江戸をめざして白子を出帆しました。
遠州灘で強風にあい、船は難破して北へ北へ流されました。
漂流すること八カ月、船は翌年七月、アリューシャン列島のアムチトカ島に漂着しました。
孤島に漂着してから飢えと寒さの過酷な日々が続きました。
この島で三年目の頃、自分たちで船を造りカムチャッカに渡ろうという事になり成功しました。
カムチャッカ滞在一年半の後、光太夫以下の生き残り6人は、海を渡ってオホーツクに上陸、はじめて東から西へとシベリアの旅路にのぼりました。
(シベリア横断)ヤクーツクに着きました。ここは地球上で最も寒い地域で、真冬にはマイナス60~70度にもなりました。
それから一カ月後、光太夫は首都ペテルブルクにて女帝エカテリナ2世に会い帰国を許される事になりました。
送還船は、二本マストの木製帆船でエカテリナ2世号と命名され、九月二十五日オホーツクを出港し根室に着岸しました。
白子浦出帆以来十年の月日が流れました。END

…ということでかなり端折った物語になっておりますが、

現実は過酷極まりないものであったでしょう。よくぞ生還できたものだと思いますですね。


個人的にそもそも大黒屋光太夫という人物を知ることになったのは、
「シベリア大紀行」というTBS-TVのドキュメンタリー番組でありました。
(調べてみますと、1985年放送ということですので30年以上であったとは…)
光太夫たちがたどった酷寒のシベリアを椎名誠が(当時を模してか)犬ぞりや馬などで

移動するのですが、椎名の顔がみるみるつららだらけになるような状況で、

寒さひとつとってももはや尋常でない世界だったなと。


これに加えて、光太夫たちは食料にも事欠いたり

(ロシア人から勧められる四つ足動物の肉が食えないとか)、
言葉も全く分からないとか(だんだんと身に付けてはいくわけですが)。

壁画ではエカテリーナ女帝がすぐにも会って帰国を許してくれたかのようですけれど、
これとてそんなに簡単に事が運んだわけでもないのですよね。


結局のところは大黒屋光太夫という人には

大した人間力があったということなのではと思ったりしますね。
それは単に「いい人」というだけでないというのは言うまでもないことで。


本来ならば日本近海を航海して荷運びする船の船頭で、

歴史上の大人物でもなんでもないところながら、光太夫らの経験したことに触れるたびに、

自らへの発奮を促す何かしらが感じられたりするものです。


ということで、伊勢若松駅からお隣の千代崎駅まで歩く間に出くわす

光太夫らに関わりのある場所場所、辿ってみようというわけでありますよ。