一般的な歴史認識として「ああ、この人は悪人だあね」と目されてしまうような、

そんな人物というのがおりますよね。


例えば明智光秀とか徳川綱吉 とか井伊直弼 とか。

ですが、そうした受け止め方が実際には一筋縄ではいかないもので視点を変えてみれば

人物像も大きく変わってくるとはいわずもがなでしょうかね。


綱吉に関してはちょいと前のNHK「知恵泉」で取り上げていたところを見れば、

また明智光秀のことは南条範夫の小説「桔梗の旗風」で読み、

井伊直弼は舟橋聖一の小説「花の生涯」で読んでみれば、

それぞれにごくごく普通に知られるのとは違って「いい人たち?」と思うところかと。


まあ、そういう軸で作られている作品は上に例示した人たちばかりでなく数多ありますし、

その軸どおりに受け止めれば従来認識と異なる印象があるのは当然なのですけれど。


と、そうした作品のひとつに山本周五郎 の「栄花物語」がありまして、

取り上げられている人物は田沼意次。

その治世は「田や沼や汚れた御世を改めて清らに住める白河の水」などと

狂歌に歌われたりした、その人物でありますね。


ですが、「栄花物語」での田沼意次は「汚れた御世」を現出した人物というわけではなく、

悪評はもっぱら対抗勢力たる松平定信 (上の狂歌で「白河の水」と擬えられてますな)が

流させたということになっている。


そうしたことも関わってか、田沼は失脚、

後を引き継いだ松平定信は寛政の改革を推し進めるわけですが、

それに対してはまた「白河の清きに魚も住みかねてもとの濁りの田沼恋ひしき」てなふうな

狂歌が出回ったりしてしまうのですなあ。何がいいのやら。


とまれ、そんな田沼VS定信を、どちらかといえば前者を良く後者を悪く描いたのが

「栄花物語」なのですけれど、このたびは1983年に単発で放送されたドラマ版で見たのですね。

(ちなみに小説の方は何十年も前に読んで、思いのほか面白かったという記憶があるのみ)


印旛沼干拓事業を通じて、民の農地を増やし、結果税収としての年貢をとることで

幕府の財政も安定させようと考えた田沼意次(森繁久彌 )と、

何かとこれに横やりを入れる松平定信(村井国夫)の確執を

浪人の青山信二郎(北大路欣也)と部屋住みの河合保之助(竹脇無我)という

架空の人物で取り巻いて、この二人には一人の女性(叶和貴子)を絡ませて

艶っぽいところも見せるという、よく作られた話だと思いましたですよ。


ここでの森繁・田沼は芝居「孤愁の岸」で森繁久彌の当たり役となった薩摩藩家老、

平田靱負が宝暦治水普請に奮闘する姿を思わせるような(一度、舞台で見て実に印象的で)。


とまで言っては褒めすぎかもしれませんですが、どうやら最近の日本史の教科書には

田沼=賄賂といったことを匂わす記載はもう無いのだとか。


一説によれば、田沼に阿っても出世かなわずと見たとある侍が

敵対勢力たる松平定信が次代を握ることを目して、田沼追い落としの悪評を立てたとか。

当人としては松平定信が老中になっても出世できないことに業を煮やして、

今度は松平落としの悪評を振りまいたりもしたというのですから、どうしようもない輩。


こうした人物が作った田沼の人物像が見直されてきて、

教科書の記載も改まったということになるのかもしれませんですね。