出津教会堂は集落の高台にありますので、他を巡るにはもっぱら下りに。所縁深きド・ロ神父の事績を辿るべく寄り道しつつ下りていけば、やがて「出津」のバス停に到達すると、後かららくちんになるルートで巡っておりますよ(来た時に下車した「出津文化村」のバス停は結構登ったところにありますのでね。笑)。
ということで、次に訪ねたのは長崎市ド・ロ神父記念館でありまして。ここに至る以前に何度も名前の出てきているド・ロ神父というのは、出津集落の人々にとって慈愛に満ちた方と受け止めれていたのでしょう、記念館脇にはこんな姿で像が作られてあるくらいですし。
マルコ・マリ・ド・ロ神父
1840年、フランス・ヴォスロール村に生れる。パリ外国宣教会宣教師として来日。1879年より出津教会主任司祭をつとめ、1914年に帰天するまで、一度も祖国にもどることなく、人々の魂の救いと福祉の向上のために、生涯のすべてをこの地に捧げました。
記念館に至る途中で見かけたオラトリオ(祈祷所)にあった説明書きには、このように紹介されていたド・ロ神父。「人々の魂の救いと福祉の向上のため」とありまして、魂の救済の方はもっぱら教会堂でなされたものとして、福祉の向上の方は?それが、記念館(と、次に訪ねる施設)で窺えることになるのですなあ。
ところでこの記念館、建物は至って和のイメ―ジですけれど、明治18年に建てられた鰯網の工場というのが元々であるそうな。ド・ロ神父が「村民の窮状を救うために私財を投じて創設した授産・福祉施設」の一つであると。先に外海歴史民俗資料館で見たように、海は近いものの生活ぶりは山村といった雰囲気がある中、海の恵みをいくらかでも生活の助けにするためにド・ロ神父肝煎りで鰯網の製造を始めたところながら、どうも思うような成果には結び付かなかったようで、竣工翌年には保育所に転換利用されることになったようです。
内部のようすはこんな具合ですけれど、ド・ロ神父の祭服や日用品といった遺品の数々が展示されている一方で、幼児用の小さな椅子が置かれてあるのは保育所だった名残でしょうか…にしても、この椅子は新しすぎますけどね。ただ、保育所には付き物とも思われるハルモニウム(要するにパイプオルガンでない小ぶりのオルガンですな)が置かれているのはいかにもなところかと。
とまあ、一見したところではこの広間を保育所に利用し、「給食調理も行うなど、国内では極めて先駆的な取り組み」がなされていたそうですが、床板の下は思いがけずもか地下室のようになっておりまして。
保育所以前からの名残ではあるようながら、「いわし網の生産に係る施設、祭礼用のワイン貯蔵施設など様々な説がありますが、どう利用されていたのかは、よくわかっていません」と説明書きに。ともすると映画の題材にも取り上げられたりしますように、カトリック聖職者による児童虐待がまま生じてしまっていることを想起しますと、「お仕置き部屋か?…」てな想像もしてしまうものの、ド・ロ神父に限ってそんなことはなかろうと。
ところで、後に保育所となった鰯網工場はド・ロ神父が設けた授産・福祉施設のひとつと申しましたが、この保育所は別棟の施設で働く人たちの子どもを預かるという役割でもあったのですな。続いては、その別棟の方を覗いてみることにいたしましょう。