と、長崎市外海歴史民俗資料館の敷地のはじっこから出津集落の中へと続く階段を下りてほどなく、辺りの佇まいとは面持ちの異なる建造物のある園地に出たのですな。ただでさえ平らな場所が少ない土地柄にも関わらず、「なんだぁ?」という感じですが、これ、「祈祷所」なのだそうな。

 

 

「信徒発見」に繋がる宣教師を派遣したフランス、パリ外国宣教会の庭に建てられている「オラトリオ」を模して造られていると。パリのオラトリオは、出津集落に極めて関わり深い同宣教会のド・ロ神父が最初に手掛けた建造物とも言われているところから、そのままの姿をここに設えたようでありますよ。

 

 

で、ド・ロ神父のことはまた後ほど触れることになりますが、こんなふうにひょいっと祈祷所に出くわすあたり、出津集落とキリスト教の結びつきを偲んでしまうではありませんか。とまあ、そんなもの思いをしながら、出津集落の細道を辿っていきますと、高台にひと際目立つ建物が見えてきたのですな。

 

 

「きっと、あれが出津の教会堂であるな」ということで、取り敢えず登って行ってみることに。ここでわざわざ「取り敢えず」と申しましたのは「どのみち外回りしか見られないわけだし…」との思いから。うっかりしておりましたが、世界遺産構成要素のひとつたるこの教会堂の見学は要事前連絡であるということで。こんな具合に。

 

要するに事前連絡を失念しておったからには外側からして見られんのだなあ…と、取り敢えず。折り重なる石積みの擁壁に沿ったジグザク道をもうひと登りで到着です。

 

 

ちなみにここで、解説板による出津教会堂の説明書きに目を通しておくといたしましょう。

出津教会堂は、明治12年(1879)に外海地区の司祭として赴任した、フランス人のマルコ・マリ・ド・ロ神父らの設計、工事監理により明治15年(1882)に建設された。…外壁は煉瓦造り、玄関周りは石造り、屋根は桟瓦葺きである。内部は木造で、三廊式の平面であり露出した木部には木目塗を施す。
…日本では17世紀から19世紀の2世紀以上にわたり禁教政策が展開されたが、明治6年(1873)のキリスト教解禁以降、出津集落の潜伏キリシタンは、段階的にカトリックへ復帰していく。集落を見下ろす高台に建てられた出津教会堂は、出津集落における「潜伏」が終わりを迎えたことを象徴している。

そのような建物の目の前までやってきますと、ヨーロッパで見る堅牢な石造りの教会とは気候風土も違う中、これはこれで見事に瀟洒な佇まいを見せているではありませんか。

 

 

で、予定どおりに外側をうろうろと…と思っておりましたら、お堂の入り口の陰にぽつんと腰かけておられた方と目があってしまったのですなあ。別にやましいところは無いながらも、「すみません、外側だけでも。予約しなかったもので…」と言い訳がましい言葉を発してしまいますと、信徒の方でありましょうか、「どうぞどうぞ、中へ入って」と促されてしまいました。想定外ながらも「それではお言葉に甘えて…」と導かれてお堂の中へ…入ったはいいですが、急展開にちと動転していたのか、内部の写真は全く撮っておらず。というより、撮ってよかったのかどうかも尋ねてなかったような(笑)。

 

ですので、こちらは先に引用した解説板に見る内部のようすでして、外から見る以上に天井が低いと知れますですね。これについては信徒の方曰く、「海風が強いんで低く造られているんです」と。さらに、窓が引き戸で設えてあるのも、風に煽られてばったん、ばったんしないような配慮からであると、教えてくれましたですよ。いかにも(?)信仰を持つ方らしい、穏やかでひと当たりのいい方でしたなあ。

 

ついでの世間話の中で、坂道だらけの集落のようすも「これが当たり前なんで、昔の人はどこへ行くにも、何にも言わずに登り下りしていた」のであるてなふうに。今はバスも通って足腰が弱くなったかも…てな話でしたけれど、そのバス停への登り下りと案じて、散策ルートを捻り出していた者としては「そうですねえ…」と言うしかなく…。まあ、ご禁制の時代を通じて信仰を守りとおしたことに比べれば、「なんだ坂、こんな坂!」でもあったことでありましょう。

 

てなことで、思いがけず中にも入れた出津教会堂。もちろん、長崎市街地にある大浦天主堂のような大がかりなものではありませんけれど、地域に根差した信仰の灯がここにあるのであるなと思ったものでありますよ。