ということで長崎市外海(そとめ)の出津(しつ)集落に来て、「沈黙」の碑のすぐ近くにある長崎市外海歴史民俗資料館とやらへ、まず立ち寄ることに。

 

 

入口のところには「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」資料展示と出ていますし、場所が場所だけに中はどっぷりそれ関係かと思っておりましたら、思いのほか地域ごとにある歴史民俗関係の資料館と同じく、この地に暮らす人々の生活が窺える展示を目の当たりにすることになりました。出津集落は眼下すぐのところに海を抱えておりますので、生業としては漁業関係のものが多いのかなと思いきや、全くもってさにあらず。

 

もちろん、海の幸を得る術の展示もありましたけれど、先に登場するのはむしろ川魚漁の方であって、確かに目の前に海はあるものの、むしろ背後にのしかかる山とともにある人々と考えた方が当たっているのかもしれません。このことは、海の眺めがあることで開けた場所と思ってしまうところが、その実、岬の縁を縫って走る道路などなかったであろう昔、深い山を抜けて来なければ辿りつけない土地なればこそ、キリシタンの潜伏が可能であったのか…とも思ったりしたところです。

 

 

なにしろ集落のようすはと言えば、傾斜のあるところに石積の擁壁を設けて作られた狭い段々畑とその間を縫って、もちろん人が歩いて通れるだけの細い坂道に溢れているわけですし。ま、この状況は何も出津の集落に限った話ではなくして、外海地区全体を見渡しても似たようなものではあろうかと。

 

そんなところにあって、人の往来が非常に多い時期があったようですな。戦後ほどなく開発が始まった池島炭鉱は、半島部から沖合へ7kmほど離れた離島にありますが、それなりに沿岸部との往来はあったでしょうしね。2001年の閉山までたくさんの従業員(とその家族)が島で暮らしていたということですが、今や海の向こうに静かな佇まいを見せておりますよ。

 

 

眺望の開けた道の駅夕陽が丘そとめから遠藤周作文学館の建物ごしに見えたのが池島でありましょうか。目を凝らせば建物群のようなものが見える気がしましたですが、往時は何棟もの炭鉱アパートにたくさんの人が住まっていたようで。言っても詮無いことですが、もしも海底から温泉でも出ていれば、常磐ハワイアンセンター(今はスパリゾートハワイアンズでしたな)のような、一大レジャーアイランドになっていたのかもと思ったり。ただ、そうなっていたらいたで、今の静かな佇まいは大きく変わってもいたことでしょうけれどね。

 

ともあれ、栄華を誇った池島炭鉱だけに資料館でも展示スペースをかなり使って紹介し、大きな作業機械なども置かれていたわけですが、2階へと歩を進めますといよいよもって潜伏キリシタン関係の史料が展示されておりました。実際に集落に残された資料ということで、またまた考え込んでしまう深さにつながろうというものです。

 

江戸時代には寺請制度がありましたから、表向きどこかしらのお寺さんの檀家になっていたキリシタンの人たちも念持仏のようにして「マリア観音」を崇めていたことはよく知られるところですけれど、祭式を司る司祭が不在となって長い年月にわたって伝承を保持するには、表紙の見た目は仏教の経文を書いたもののようでありながら中身はおらしょだったりするものを作っていたのですな。展示にありましたですよ。

 

最後のコーナーには(いずこの地域資料館にもあるように)縄文時代からの遺跡・遺物の紹介があったりしまして、ひとしきりこの地域の長い歴史をたどったわけですが、その上でさらに潜伏キリシタンにも関わる場所へ向かうべく、出津の集落を歩き廻ることに。何しろアップダウンの多い土地柄、資料館からは道標に従ってまずこの階段で下りますが、その後はまた登り返したり…。不便ではあるものの、やはり歩いて探索してこその場所のように思いますですよ。