「神話の世界展」@群馬県立近代美術館(すでに会期は終了しております)を見に高崎まで出かけたのだからと、
高崎駅前に美術館の展覧会にひとつ、立ち寄ったのでありますよ。
東口に出ればペデストリアンデッキでつながっている高崎市タワー美術館では河鍋暁斎の展示があり、
西口から少々歩けば高崎市美術館があってシャガールの展覧会をやっている。
どちらを取るか、いささかの迷いはあったものの、群馬県立近代美術館コレクション展で見たシャガールの、
その鮮やかな色彩に晴れ晴れ感を抱いたところから、後者に出向いたのでありました。
展覧会のタイトルは「マルク・シャガール-愛と祈りと冒険と。8つの版画物語-」というもの。
シャガールの版画作品はあちこちでたくさん見てはいますけれど、
冬の寒いころ合い(まださほどにコロナウイルスは騒がれていません時期でしたが)に目もあやな色使いは
なんとも気持ちをフレッシュにしてくれる気がしたものでありますよ。
そんな色彩にあふれた展示の数々(フライヤーに使われている1枚を見ても分かりましょう)の中にあって、
時折シャガール自身の言葉が壁を飾っていたりするのですが、これを見て「ん?!」と。
私の絵のなかにはお伽話もなければ寓話もなく民話もない。私は「幻想」とか「象徴」という言葉には反対である。
シャガール自身はこのように考えていたのですなあ。
見る側としては、シャガールの絵から「幻想」やら「象徴」やらを思いきり想像しておりましたのに。
われわれの内部の世界はすべて現実であり、おそらくは目に見える世界よりもっと現実的である。
続くこの言葉に接して、「ああ、そうであったか」と(もっとも極めて個人的理解であるとはお断りしておきますが)。
「われわれ」と言われてしまいますと、誰もが、あるいは誰にとってもと受け止めてしまい、
その上で内部世界がすべて現実と言われることに戸惑いするところもあろうかと思うところながら、
個々にひとりひとりのことと考えてみますと、それぞれの人にとってそれぞれの内部世界は
ともすると「目に見える世界よりもっと現実的」とはあながち頷けないことではない。
個々にとってそうであるならば、個の総体として「われわれ」という言い方をしてもおかしくはない、とまあ、
このように思い至って「ああ、そうか」と思ったということなのでありますよ。
シャガールの言葉はさらに続きます。
非論理的に見えるものをすべて幻想とかお伽話と呼ぶことは自然を理解していないことを認めることにほかならない。
ことここに至りますと、もしかするとシャガールは作品を見る人たちから散々に
その絵は幻想である、お伽話であるてな見方をされたことに辟易した挙句、このような言葉を放ったのかもと
思ってしまうところです。肝心な点は、幻想的、お伽話的という表現を悪評として用いるか、好意的に用いるか、
その違いだと思うのですけれど。
版画作品の代表作のひとつである「ダフニスとクロエ」(フライヤー裏面掲載の2枚)に改めて目を向けますと、
幻想的であり、またお伽話的であると思えるところでして、個人的にはもちろん好意的にですけれど、
シャガールの言葉を思い返すと、時代によって、人によって、
それを「俗」なものとして評価を下す向きもあろうかと想像できたりもしましたですよ。
ちなみにシャガールは「ダフニスとクロエ」の制作にあたり、ギリシアに取材して「光溢れる島々と田園風景を見た」ことが
ことにこの作品をに明るく軽やかな色調で描くことになったようですけれど、こうした明るい色使いもまた
表面的な、キャッチーな表現と受け取られてしまったのかもしれませんですね。
今となっては、このシャガールの色彩にこそ癒しの感覚を見る鑑賞者もいることでしょう。
素敵な展覧会だったと思いますですよ。