ということで、群馬県の高崎まで出向いて「神話の世界展」を見てきたわけですが、

結果的には会期半ばで中断の已む無きに至ってしまったこの展覧会、

4月からは愛知県の岡崎に巡回する予定ですけれど、はたしてどうなりましょうや…。

 

と、それはともかく、せっかく群馬県立近代美術館まで出かけたのですから、

どうしたってコレクション展示の方も見ておきたいところでありますね。

これまでにあちこちの県立美術館にお邪魔をしておりますけれど、

その豊富な展示内容はまったくもって侮りがたく、発見も数多あるもので。

 

折しも訪ねたときのコレクション展示のテーマは「日本と西洋の近代美術」、いいですなあ。

印象派を含め、それ以降の画家たちの作品を中心にあれこれ展示されておりましたですが、

モローやルドンが描いた聖セバスティアヌスを見ながら、先にみた「神話展」を反芻したりも。

 

ま、これ自体は神話画ではなくして宗教画ではありましょうけれど、

この図像の作り方も古代ギリシア彫刻の肉体賛美ではありませんが、

そうした意識のもとでなされた人物造形なのであろうと思うところでありまして。

 

この聖セバスティアヌスは男性像なわけですけれど、

女性の裸体像を作り出すときにはもっぱら神話主題を借りてくることによって

「あからさま」さをオブラートでくるんだ状態にすることが行われましたですね。

 

しかしながら、だんだんともっとストレートに女性の身体が描き出す曲線そのものがそれこそ「美」であると

直接的に考えられるようになれば、タイトルを神話から借りてきていながら「ウェヌス・プディカ」のような

お決まりのポーズはそっちのけといったことにもなるようです。

 

マイヨールは「ヴィーナスの誕生」と題して女性像を形作っていますが、その姿は頭も両腕もトルソの状態。

「ギリシャの彫刻は腕がない方が美しいことが多い」とはマイヨールの言葉となれば、これは確信犯ですよねえ。

女性像の美を裸の胴体にこそ見出しているわけで、本当のところはタイトルと作品とのつながりをどう意識していたのか、

分かりかねるところでもあるような、そんな気がしたものでありますよ。

 

マルケの「赤い背景の裸婦」なども、もはや神話の呪縛?からは離れて制作しているようにも思え、

マイヨールの作品もマルケの作品もどちらも20世紀初頭に制作されたという時代性の反映もあるのでしょうかね。

 

なんだか「神話展」の話の続きのようになってますが、

コレクション展示は必ずしも筋のとおった順序だてやらを考えずに一点、一点と向き合える空間でもありまして、

ヴラマンクを見、少し離れたところの佐伯祐三を見て、「ああ、影響強いねえ」と思ったりすのも楽しいわけで。

 

ところで、各地の県立美術館にはたいてい郷土の作家を紹介していることが多くありますですね。

ここで出くわした福沢一郎が群馬県の出身であると。

名前は知っておりましたが、どういう絵を描いたのか知らずにおりましたところ、「おお、シュルレアリスム!」と。

それどころか、日本にシュルレアリスムを持ち込んだ当人とも言われたりするようで。

 

展示されていた福沢作品のタイトル「科学美を盲目にする」はいかにも詩的、文学的で、

見る者の想像をとことん刺激するものではなかろうかと。

 

絵の中には女性の裸体像が描かれて…とは、また「神話展」とのつながりになってしまいそうながら、

もしかすると企画展との関わりを持たせたコレクション展だったのでありましょうか。

それは読み過ぎだとは思いますが…。

 

群馬県の富岡市(世界遺産の製糸場があるところですね)には福沢一郎記念美術館というのがあるそうな。

ウイルス騒ぎが収束したら、こちらにも出かけてみるとしますかね。

差し当たってはいつになることやらではありますが…。