政治とは、世の中のあらゆるものごとに対し、区分けというルールを決めることである。
例えば税金。所得税ならば、年収何百何十万までの人は幾ら幾らの税率で所得税を納めることと決める。収入の段階をいくつか定め、収入にあわせて支払わなければならない税額を分別する。更に各種控除などの追加ルールを設ける。
税金だけではない。我々の社会は全てが区分けされることで機能している。学校も商売も個人も企業も全てはその組織や個人が在するところの国が定めたルールがあって、そしてそれを皆が意識共有し遵守して初めて社会生活が成り立つ。
この区分けのために必要なことは、どこでその区分けの線引きをするかということだ。そしてそれを決めるのが政治の最も原始的で根本的な存在意義であり仕事である。
線引きのための仕組みは国によって様々な形態がある。日本のような議会制民主主義国家もあれば、独裁者が統治する国もある。しかし、どのような国家形態においても、線引きのための共通する基準がある。それは、できるだけその国家社会の主要勢力の利益を損ねないように線を引くということだ。
情勢を見誤り、間違った線引きを行うことはもちろん害悪だ。しかしまた、線引きの基準を決められずに問題を放置する政治も社会を破壊する。
政治とは線を引く作業である。言い換えれば、それは、何を切り捨てるかを決めることでもある。何故ならば、社会構成要素の全てを平等に扱えば、その社会は本来切り捨てるべき部位による負担と損害を被ることになるからだ。それは許されることではない。
震災後、原発事故問題に対して日本政府が行うべきだったのは、まさにこの線引きの決断である。放射能に汚染された地域のどこまでで作物の生産を許可すべきか、それを明確にそして早期に決めるべきだった。それは言い換えれば、誰が内部被曝によって放射能で汚染されるのかという線引きだ。福島東部中部および近隣県の一部地域の農産物を全面的に作付け禁止にすることで、この放射能汚染は東北南部と北関東だけに閉じ込めることが可能だった。しかし、問題地域の作物の生産移動販売を許してしまえば、日本全国に放射能の汚染が拡散することになる。民主党政権の無策によって全ての日本人が内部被曝のリスクを抱えることになってしまった。
我々が本当に取るべき道は、全ての日本人が原発事故の放射能汚染リスクを分かち合うことだろうか。福島の農家という一部の人たちのために、日本国民全てが死ぬことだろうか。今回のように何か問題があった場合、被害拡大を最低限に押さえるための線引きを行うことこそが政治の役割ではないのか。
政治家には3つのタイプが存在する。ひとつは、いままで上に書いてきた線引きを行う職人型。もうひとつは利権のことしか考えていないヤクザ型。小沢一郎が典型だ。今ひとつは因縁をつけて利益を引き出すことが政治だと思っているクレイマー型。サヨク議員のことだ。
小沢の取り巻きと社会党の残党、それらが結託している民主党には、この延々と実直に線引きを続けることこそが政治の本来の姿だと理解している人材がほとんどいない。これが福島原発事故対応が今のような惨状になっている理由だ。現場で動いている人間は既存のルールややり方以外の方法を取ることが許されない。新しい状況にあわせた対応策が政府から示されなければ、目の前で毒物が全国に拡散されていくのを指をくわえて見ているしかない。
民主党政権には政策を決める能力がない。何故なら、ヤクザ屋と職業サヨクにそんなことは関係がないから。彼らが政策と称しているものは単なる票集めのためのエサであり、それ以外は前例のコピーか思いつきでしかない。
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