#ちょっと小耳に(22)

札幌生活と単身赴任

前回は、裁判所は手書き速記ではなく、なぜ速記用タイプライターなのかについて、国会での速記者採用の経緯と比較しながら推測してみました。

 

さて、講座の攻略も終盤となり、ブログの回数も残り少なくなりましたので、速記とは関係ありませんが、機会があればと思っていた思い出話です。

今回は、速記に出会う前の札幌時代と単身赴任の話です。

いつもより長いですが、おつき合いください。

 

私は2度札幌で過ごしました。最初は、中学の終わりから高校時代です。

中学3年生の2学期に父の転勤に伴い、熊本から引っ越しました。約50年前です(半世紀も前のことになります!)。

札幌の情報を得るにも当時はインターネットはありませんし、九州にいて北海道のことを考えることはまずありませんので、札幌と言っても北海道に対する印象でした。それは、雪、寒さ、酪農そして熊でした。そういう印象が強かったのです(それで、後に北海道にも海水浴場があることを聞いたときはとても驚きました)。

夏休みに、寝台列車に乗り、青函連絡船で4時間かけて北海道へ渡りました。文字どおり未知の世界です。

2学期になり、学園ドラマで見たような流れで新しいクラスで転入のあいさつをして札幌での学校生活が始まりました。札幌から見れば熊本は(九州は)考える対象ではありません。真逆の印象を持たれていました。

ある日、クラスの子から「この中学は1学年11クラスあるけど、熊本は?」と聞かれ、「前の中学は13クラスあった」と言ったらびっくりされました。

 

高校受験での受験校の選び方にも違いがありました。

札幌では模試の偏差値を参考に受験校を考えていましたが、熊本では偏差値は使いません。そもそも偏差値という言葉も知りませんでした。

熊本は単純明快です。学校での定期テストの学年順位で受験校を選んでいました。○○高校は学年で○番以内、○○高校は○番以内・・・という感じです。もちろん希望校を受験できますが、目安の学年順位に届かないと合格は難しくなります。

そして、合格者のほとんどは目安のところに落ち着きます。1学年580人ほどいましたからこのような目安ができたのです。熊本市内の他の中学校も同様でした。

 

そんなこんなで、気候、人、言葉、食べ物など(父母は九州の甘口醤油を懐かしがっていました)熊本とは違い過ぎる環境の中、無事に中学を卒業。そして高校です。

当時は、教室には暖房設備のみでクーラーはありませんでした。なくても暑さはそれほど感じなかったと思います。

男子の制服は、詰襟の学生服のみで夏服はありませんでした。というのも、30度を超える日は数日しかなかったので、夏場の2週間を乗り越えれば学生服で1年過ごせました。

暖房はスチーム(中学ではだるまストーブ)でした。2時限目が始まる前に弁当をその上に置き、2時限が終わった休み時間に早弁です。弁当はちょうどいい具合に温まっています。

 

修学旅行は、定番の奈良、京都、東京で7泊8日でした。往復青函連絡船と寝台列車を使ったので実質5泊です。もちろん、USJも東京ディズニーランドもありません。自分たちの4,5年前までは11泊12日でした。

当時の寝台列車が発着する上野駅は、「あゝ上野駅」という歌の歌詞がよく似合い、また構内は「Always三丁目の夕日」のような世界でした。

 

クラブ活動はハンドボール部でした。目標は全道大会出場です。

当時は、札幌の高校でハンドボール部があるのは3校(公立2校、私立1校)だけでした。

地区予選は、総当たりで2勝すれば優勝です!ところが毎年私立が強く勝てません。

そこで、北大のハンドボール部にお願いして一緒に練習させてもらったりした結果、地区予選で勝ち抜くことができました。

念願の全道大会では、残念ながら初戦敗退でした。相手は全国大会出場経験もある函館の強豪校でした。

 

こんな感じで高校時代を札幌で過ごし、大学では上京しました。

熊本にいたなら大学で熊本あるいは九州から出ることはなかったと思います。札幌に転校したことで大学は東京という選択肢になった(そして速記と出会った)と思っています。

 

2度目の札幌は、公務員時代です(事情により国家公務員でした)。

定年退職前の3年間を過ごしました。単身赴任です。今度は飛行機です。青函連絡船はありません。

40年ぶりの札幌は、人口も2倍に増えていました。

地下鉄も1路線だったのが3路線です。

郊外の北海道百年記念塔は健在でした(現在は解体された?ようです。理由は維持費がかかるということらしいです)。確か当時のキャッチフレーズは、「百年を2倍の速さで駆け抜けた街」だったと思います。

その40年ぶりの札幌ですが、私生活では、雪のない時期の休みの日にレンタカーを借り、2年かけて道内の道の駅115か所を完全制覇しました。そのついでに200か所以上の温泉・秘湯・野湯も巡りました。

また、業務でも全道にある出張所に度々出張したことから、道内の地理にも詳しくなりました。

 

単身赴任では、新潟、名古屋そしてロシアも経験しました。

新潟では、宿舎での冬の寒さを避けるために(暖房器具はコタツだけでした)、平日休みの日はカラオケ店を利用しました。平日だと開店から夕方まで格安です。暖房完備でフリードリンクです。歌わずとも曲をBGMとして過ごせます。

当時は一人カラオケという言葉も発想もありませんでしたので、店員さんも男性一人の利用にけげんな感じでした。恐らく一人カラオケのはしりではと思っています。

新潟では、米、水、日本酒はもちろん、日本海の美味しい魚を堪能しました。栃尾の油揚げも忘れてはいけませんね。また磐越西線の車窓からの景観も素晴らしいです。

阿賀野川も信濃川に負けずいい川です。

新潟で忘れられないのは、飛行機から見た水田の光景です。水面に映える青々とした苗が広がる様はさすがの米どころ、素晴らしかったです。

 

名古屋は1年間の勤務でしたが、ハマりました。好みの喫茶店や飲食店がすぐに見つかりました。名古屋めし最高です! 

個人的には地下街の通路の幅が適度に感じ好きでした。名古屋の地下街は日本で最初の本格的な地下街だそうです。

正直もう1年いたかったです。

 

ロシアでは、友人とシベリア鉄道を利用してヨーロッパにも行きました。フィンランドのヘルシンキでは、当時映画にもなっていた「かもめ食堂」も訪れました。

ロシアで感動したのは、赴任後しばらくして、駅の構内で日本の飲料品の自動販売機を見つけたときです。そのまんまで置かれていました。商品名はロシア語表記でしたが、商品は日本の物なので問題ありません。しかも値段は日本とほとんど変わらなかったです。ホットの缶コーヒーを買って、ベンチに腰掛けてゆっくりと味わいました。そのときの空き缶には日付と場所を書いて、今でも保管してあります。

様々な経験をして、改めて日本のすばらしさを実感した勤務でした。

 

赴任先には家族も遊びに来てくれ、同じようにハマってくれました。

特に冬のロシアでは、凍りついた湾の氷の上を感動して歩いていました。何せマイナス30度の世界ですから湖も湾も厚く凍ります。

余談ですが、冬のロシアでは、ニット帽などをかぶらないで外出すると、ロシア人から(かぶるように)注意されることがあります。実際、かぶらないと頭痛がしてきます(脳みそがフリーズしていきそうな感じです)。

 

単身赴任(転勤)で思ったのは、行ってみないとその土地の良さはわからないということです。本来が楽観的な性格なので、転勤はそれほど苦ではありませんでした。

(ちなみに、単身赴任は50歳から始まりました)

家族が遊びに来たときに案内できるような魅力的なところを探すために、情報を集めて計画を立て、実際に行ってみるのがストレス解消でした。

国家公務員に限らず、転居を伴う異動がつきものの会社は多いと思います。異動は自分が希望するところに行けるとは限りません。むしろ希望どおりにならないことの方がほとんどだと思います。私の場合、新潟も名古屋も一度も希望したことはありませんでしたが、前述したようにいいところでした。

辞令が出れば行く。そして何事も前向きに考える。これだけです。

(つづく)

 

 

これまでの「ちょっと小耳に」

(1)速記の始まりと今

(2)日本の速記はいつから?

(3)第1回議会からの会議録があるのは日本だけ! 

(4)日本の速記方式(前編)

(5)日本の速記方式(後編)

(6)弟子たち

(7)他の速記方式は読めない、書けない

(8)原文帳(げんぶんちょう)

(9)速記用語

(10)速記教練会

(11)速記競技会 

(12)なぜ速記に惹かれたのか

(13)なぜ速記が生まれたのか

(14)憲政記念館

(15)速記学校の思い出

(16)学問に王道なし?

(17)速記と鉛筆(前編)

(18)速記と鉛筆(後編)

(19)速記文字はロゼッタ・ストーン?(前編)

(20)速記文字はロゼッタ・ストーン?(後編)

(21)裁判所はなぜ速記用タイプライターなのか