#ちょっと小耳に(18)

速記と鉛筆(後編) 

前編では、鉛筆の起源は古代ギリシャ・ローマ時代あたりまでさかのぼるようだが、現在のような芯の製法で見ると1795年にフランス人が発明した製法がそれに当たる。そして日本では徳川家康や伊達政宗も鉛筆を使っていたようだということでした。

 

今回は、その後編です。

明治に入り、近代国家の仕組みを学ぶために渡欧した者たちが、いろいろな物を日本に持ち帰ります。その中に鉛筆がありました。そして文明開化の中で取り入れられた学校教育で鉛筆が使われるようになると、輸入だけでは追い付かなくなり、日本国内での製造が急務となります。

明治6年(1873)にウイーンで開催された万国博覧会に派遣された伝習生が鉛筆の製法を伝え、これを礎として国内でも鉛筆が作られます。そして、明治10年(1877)の第1回内国勧業博覧会で小池卯八郎(こいけ うはちろう)が国産初の鉛筆を出品しました。

明治11年(1878)、パリ万国博覧会で鉛筆を見た眞崎仁六(まさき にろく)は帰国後に独学で鉛筆の芯の製造を研究し、鉛筆製造所(後の三菱鉛筆)を設立しました。

また小川作太郎が現在のトンボ鉛筆の前身となる商店を創業しています。

こうして多くの鉛筆職人が誕生し、国産の鉛筆が製造されるようになり、現在に至っています。

 

一口に鉛筆と言っても、このような先人たちの国産鉛筆製造にかける多くの尽力があったんですね。

そして、速記の誕生が明治15年(1882)ですから、その頃には鉛筆がある程度普及していたと言えそうです。ただ、ある程度というのは、明治10年頃の鉛筆1本の値段は6~9厘で、かけそば1杯の値段が5厘ほどらしかったので、気軽に買って使えるものではなかったと思います。買ったら1本1本を短くなるまで大事に大事に使っていたのでしょうね。

 

こうたどっていくと、鉛筆の製造、普及が遅れていれば速記の誕生も遅れていたかもしれません。

さらに大胆に言うと、鉛筆がなかったら現在のような速記は生まれなかったかもしれません。

速記と鉛筆との深い繋がりを勝手に感じています。

(つづく)

 

 

これまでの「ちょっと小耳に」

(1)速記の始まりと今

(2)日本の速記はいつから?

(3)第1回議会からの会議録があるのは日本だけ! 

(4)日本の速記方式(前編)

(5)日本の速記方式(後編)

(6)弟子たち

(7)他の速記方式は読めない、書けない

(8)原文帳(げんぶんちょう)

(9)速記用語

(10)速記教練会

(11)速記競技会 

(12)なぜ速記に惹かれたのか

(13)なぜ速記が生まれたのか

(14)憲政記念館

(15)速記学校の思い出

(16)学問に王道なし?

(17)速記と鉛筆(前編)