こんにちは。

今回は「獣になるな、義の道を行け」と題して、心の律を持たないならず者にならず、属せず、神の律を持つ者として神に属して義の道を行くべきであることについてお伝えしていきます。

 

<心の律を持たないならず者>

◯外国人への向き合い方

こちら(令和電子瓦版)やこちら(アメブロ)にあるように、移民等の在日外国人が増え、彼らによる犯罪が増加しているにも拘らず、政府と警察は放置したり、検察も不起訴とするなど不可思議な事案が増えております。外国人犯罪等が問題になっているのは海外も同じで、こちら(ニューズウィーク日本版)やこちら(産経新聞)のように受け入れ厳格化など、見直しが進んでおります。そして、既に多くを受け入れておきながら急に厳格化すれば国内での対立は避けられず、これから多くの混乱や騒動が起きると思われます。その国では外国人でしかなく、寄留者に過ぎない者が何故、他所の国で我がもの顔で振る舞い、その国の秩序や文化を破壊するのかまったく理解出来ません。おおよそ良心の呵責という概念すら無いかのようです。申命記二十八章四十四節に神の律法に従わないことの呪い(契約違反)として、在日外国人が日本人を凌ぐようになり、外国人が「頭」となり、古代イスラエルの末裔(参照:真の聖書福音と預言【第八回】日本はイスラエルである)である日本人が「尾」となると書かれております。「頭」は権力、統治力を意味します。それに対して、「尾」は「頭」からすれば端に位置し、動物の体のとおりに「頭」は常に先を行きますが、「尾」は「頭」に従属するだけです。最近ではこちら(朝日新聞)のように外国籍でも公務員となれる道を開いて売国する自治体がおり、ますます拍車がかかると思われます。また、古くは明治維新(国家転覆)以降、現代に至るまで国家中枢等に入り込んできた外見が亜細亜系で目立たない朝鮮人や支那人らがおり、彼らが日本人の頭に成り代わっております。(参照:真の聖書福音と預言「太陽暦は悪魔崇拝の暦であり詐欺制度」)。

 

ほんま、特に亜細亜系に多い不良外国人を日本に入れるな。行政は移民や難民を積極的に入れるのをやめろよ。移民と難民を日本で増やすのは、日本を潰すのと同義やからな。国民も、行政に対して移民政策に反対の猛抗議せい。なんで何遍もこれを言うか分かるか。日本で外国語表記を増やしたり、外国人のために外国語対応することは、こないな不良外国人を日本で増やすのにも関係してるからや。

「外国人が日本に住みたいなら日本語や日本文化を勉強して馴染め。それがでけへんなら、日本から出て行け」っていう姿勢でええんや。外国人を甘やかすな。

 

引用:真の聖書福音と預言「成功するためには」

 

 

「庇を貸して母屋を乗っ取る」かのような不良外国人に対して、手厚くする必要はありません。日本に来てまで犯罪を犯し、日本文化を破壊するような不良外国人には毅然とした態度を取るべきです。もっとも、以下の点も忘れてはなりません。

 

日本に侵略、搾取、不正な金儲け等の悪事を行うことを目的として来る朝鮮人や支那人、その他の外国人を除き、心から日本や日本人を尊敬して日本が好きで働きに来た寄留者を虐待したり圧迫するのは人の道に外れていますし、律法(出エジプト記22:20、レビ記19:33~34、申命記10:19、申命記24:14)違反です。聖書は、主なる神が人種で人間を分け隔てしているのではないことを証言しています。人種差別撤廃を最初に提唱したのは主なる神であり、主イエスであり、モーセが神の御言葉を預かって人々に宣べ伝えたのです。

 

引用:真の聖書福音と預言「自由と律法に対する誤解」

 

 

あなたがたは外国人の悪口を言ったり、憎悪を掻き立てるデモ行為をしたり等の外国人排斥行動を取ってはなりません。それは主イエス・キリストの品性ではないからです。

 

引用:真の聖書福音と預言「日本乗っ取り計画、日本人抹殺計画」

 

これこそ律法にある隣人愛であり、高潔な主イエスの品性です。言うまでもないことですが、何事にも秩序があります。秩序を尊重し、日本を愛する姿勢があれば、本来は何も問題はありません。問題なのは、それが出来ない不良外国人が大勢いて、日本側も毅然と対応出来ていないことです。「多様性」を建前に日本社会の秩序を破壊したり、日本人を冷遇しながら過度に外国人を優遇するなどの売国は絶対にしてはなりません。それを平気で行う政府や地方行政、推進・容認する国会議員らに猛抗議するべきです。

 

◯ならず者でしかない為政者

こちら(全国保険医団体連合会)やこちら(厚生労働省)のとおり、厚生労働省は被保険者証(健康保険証)の交付義務規定の削除を目論み、そのための意見募集を行いました。個人番号券に保険証が一体化された状態では、健康保険法施行規則に反するため(健康保険証を発行していない状態)、整合性を取るためにわざわざ改悪するようです。本末転倒も甚だしく、健康保険証の交付義務規定を削除する前に、健康保険証の廃止を決めて公言したのは本当におかしいことです。こちら(ヤフーニュース)の記事にあるように、根本的に任意取得が事実上の強制になったことへの異常さも含め、批判が相次いでおり、当然の反応です。こちらの記事(ヤフーニュース)では河野大臣への批判が書かれておりますが、これに限らず記者会見等でも、まともに対話が成立せず(参照:ユーチューブ)、もはや狂人の域に達しております。

また、こちら(TBS・JNN NEWS DIG)のとおり、太陽暦六月十八日、政府は『携帯電話や電話転送サービスを「対面」で契約する際、事業者に対し、マイナンバーカードなどに搭載されているICチップの読み取りを本人確認方法として義務付ける』と発表しました。厳密には『マイナンバーカードのほか、運転免許証や在留カードなどのICチップでも読み取り可能である(引用:TBS・JNN NEWS DIG)』ようです。そうであっても運転免許証が無ければ、個人番号券を持たなければ本人確認が出来なくなります。今回の措置の根拠は『国民を詐欺から守るための総合対策(引用:総理官邸)』にあり、もっともらしい理由を隠れ蓑として、外堀を埋めるような強引な手段に打って出て来ます。個人番号券の所有率が上がるほどに国民の合意を得たと看做して取得を義務化する懸念があるため、既に所持している方は速やかに返納し、取得していない方はこのまま発行せず、反対の姿勢を示し続けるべきです。「小さく導入して、徐々に大きくする」のがいつもの政府の手口です。

 

他にも、裏金問題が判明し多くの批判を浴びた自民党ですが、こちら(東京新聞)のとおり、企業・団体献金の見直しは行われず、使途が問題だった政策活動費の領収書公開は十年後と、殆ど機能しない政治資金規正法改悪案が可決されました。自分たちが規制、取り締まられる側であり、それ故にあからさまに甘々、緩々の改悪法を制定しており何の意味もありません。

 

同じく、規制される側が規制する法を骨抜きにし、それどころか自らが支配者になりかねない憲法改悪(緊急事態条項の創設)についても、相変わらず著しい執着を見せております。こちら(JIJI.COM)のように、自民党は『大規模災害時などに国会議員の任期延長を可能にする緊急事態条項案の「骨格」』を提示して、全党に作成協議への参加を呼び掛ける有り様です。援護するかのように自民党議連が「遅くとも秋の臨時国会までに発議できるよう改正原案をとりまとめるための手続きを終えるように」との決議文を岸田総理に決議文を提出しております(参照:日経新聞)。遡ること、太陽暦五月三十日には『国民の命と生活を守る武道館1万人大会(参照:ニューレジリエンスフォーラム)』というものが開催されました。ここでも大規模災害の対応にかこつけた憲法改悪(緊急事態条項の創設)が呼びかけられております。しかし、災害対策基本法等で大規模災害には十分に対応できます。災害にかこつけた緊急事態条項創設の危険については、永井幸寿弁護士が以下のように警告しております。『この方法は戦争、内乱、大規模な自然災害など緊急事態をひっくるめて定めている。ですから、大は小を兼ねるで一番重たい戦争に合わせて制度設計されている。戦争は勝たなきゃいけないから時間と手間暇がかかる、国会の議決を得る余裕が無い。だから立法権とか予算議決権が全部政府に集中してしまう。つまり、政府に極度な権力が集中する、濫用されやすい。戦争は国民に「お国のために命を捧げて」もらわないといけない。だから人権の保障を停止するということになる。ですから人権の侵害の危険性が極めて高い。(引用:X)』普段、憲法も法律も守らず違憲、違反状態の自民党らが、ことさらに、憲法改悪に執着する理由をもっと人々は警戒するべきです。政府はコロナ犯罪だけでなく、戦争による人口削減を断行しようとしております。そのためには自由と人権の砦である現行憲法が邪魔で仕方がないため、骨抜きを超えて完全に変質させようとしております。緊急事態条項の危険性については、こちら(真の聖書福音と預言「全力で改憲反対してワクチンも拒否せい」等)で再確認してください。

ところで、『国民の命と生活を守る武道館1万人大会』にて、観客席では総理に向けて自民党の裏金問題を糾弾した人がおりました。やり方の問題はありますが、大会関係者に暴力的に取り押さえられ、警察に連行されたようです(参照:NewsSharing)。記事中の動画にある、殴っている様子と警察への連行のくだりを見ると、まるで戦中の「憲兵」を思わせる動きです。現在、SNSの監視等、言論統制に繋がる動きをも政府は見せており、この先にあるのは言論弾圧です。戦中の激しい言論弾圧や拷問が再来する危険があり、運用はされてはいないようですがかつての治安維持法のような機能、性質を持つ違憲な共謀罪があることも忘れてはなりません(参照:真の聖書福音と預言「共謀罪と真のクリスチャンのあるべき姿勢」)。これを可能にしてしまうのが緊急事態条項による人権制限だと思います。故に、最大限に警戒し、反対しなければなりません。狂人と化した為政者の横暴を止めなければ最悪の未来が待ち受けるだけです。

 

 

 

 

そもそも『国民の命と生活を守る武道館1万人大会』の名称と大会内容は乖離しております。ウイルス詐欺を前提にしており、能登半島地震は政府と県の怠慢で今も放置され続け、戦争と自由や人権の制限を視野に入れた緊急事態条項創設を匂わせており、一体どこが「国民の命と生活を守る」なのか呆れ果てます。

 

このように為政者は支配層への忠誠と引き換えに、今の安定した地位を得ており、日本国憲法前文にあるように国民の福利のために働くことがなく、国民の貧困化や少子化を促進し、無秩序がここに極まれりの状態です。残念なことに、今、極まっているように見えても、更に悪くなることでしょう。一体、どんな神経をしていたら、このような事が出来るのかと唖然とすることばかりです。国会議員だけでなく、官僚も、同様に売国を続ける地方議員もその他公務員も同様です。率直に手前がその立場にいたのなら、良心の呵責に耐えかね、犯した罪の重さと取り返しのつかなさを思うと発狂しそうです。彼らに根本的に欠けているのは憲法にある理念で自ら(個人、集団、組織等)を律することです。何より、(彼らに限らず、すべての人は)すべてを裁かれる神を畏れ、また、特に古代イスラエルの末裔ならば、神の律法、掟、戒めを遵守するべきです。それによって、やっと社会的に真っ当な人間となるだけでなく、霊的に神の民となれます。本来、神の律法を大事にするなら、隣人に攻撃的にならず、搾取も、ましてや人口削減(殺人)など絶対にしません。

 

◯獣に等しい人間

人の倫(みち)としての、真の善悪の判断は、神の律法、掟、戒めによって規定されます。これらに適えば善であり、これに違反すれば悪です。世の法と同様に、実にわかりやすい構図です。これまでも繰り返し申し上げてきたことですが、大事なこと故、繰り返しお伝えします。

 

ペトロの手紙二 二章十二節(参照)

彼らは、捕えられて滅ぼされるために生まれた、理性を欠いた本能的な動物と同じように、無知によって冒涜的なことを言い、自らの堕落によって滅ぼされるだろう。

 

過去記事(永遠を決める試験がある)でも触れましたが、理性を欠いた動物とは、無分別で道理を弁えない獣のような人とも言えます。「分別」は神の律法によって、真の善悪の基準を知ることが出来ます。無知なままでは、無自覚に悪行(違犯、罪)を重ねることになります。「獣(けだもの)」人間らしい心のない人を罵って言う言葉であり、無分別者は大事にするべき事柄をいとも簡単に踏み躙ります。知らなかったとしても罪は罪であることに変わらず、無罪とはなりません。それ故、悔い改めなければ律法違犯の悪しき結果が臨みます。

 

兄弟の真氏が以下のように律法違犯の悪しき結果について、且つ、「獣」について以下のように言及しており、手前も同意致します。

 

・他の民族に農作物や家畜、子供等を奪われる。

 

この事については、申命記二十八章三十一節~三十三節等に書かれており (三十一節では「他の民」ではなく、「 (イスラエルの民を憎む) 敵  אֹיֵב」と書かれている) 、同じく契約違反の罰について書かれているレビ記二十六章の二十二節にも、「野の獣 (חַי) 」が子供を奪い去るとあります。この二十二節以外に、子供が奪われるとか家畜が滅ぼされる等とは二十六章に書かれておらず、申命記二十八章の方には獣云々の話はありません。また、「חַי  獣」は例えとして使われていることもあるので (列王記下 十四章九節等) 、この場合は文字どおりの獣ではなく、邪悪な他の民族、不良外国人のことではないかと某は考えます (熊等の猛獣によってそうなる可能性もある) 。

 

引用:主イエスこそ真の道である。「日本人に残された時間はあと僅か」

 

旧約において「獣」を表す原語は複数あり、「生き物」「四足歩行の野生の獣」「家畜」など、意味合い(主たる意味、意味の範囲)が微妙に異なります。その中でも引用にもある「獣 (חַי) 」はそれらとは異なる意味合いがあります。以下は同じ原語が使われている聖句です。

 

レビ記二十六章六節(参照)

我は地に安定を与え、お前たちはおののかず眠る。また、我は有害な獣を追い払い、剣はお前たちの地にやって来ない。

 

こちらは律法遵守に関わる祝福と呪いについて触れられている箇所です。神との契約(律法遵守)を守っておれば「有害な獣」は主によって追い払われるとあります。この「獣 (חַי) 」の原語に包含される意味を列挙いたします。

 

・生き物、動物(獣)

・権力者(集団)

・会社(仲間)

・大衆、群衆

・軍隊、軍勢

・荒々しい残酷な人

 

裏を返すと、神との契約違反(律法違犯)の故に、有害な獣が追い払われず、イスラエルの民に臨んでしまうのであり、その災いの中身(獣の意味するもの)は多岐に及んでもおかしくはないと思います。古代イスラエルの末裔たる日本は長らく主なる神を忘れ、神の怒りは溜まる一方です。違犯によって臨む獣として、上記の「軍隊」から強大な軍事力を誇る米国が想起されます。こちら(真の聖書福音と預言「神の刻印、獣の刻印と黙示録の獣」)で米国は「第二の獣の国」と言われており、米国の野蛮な振る舞いの数々はまさに獣です。戦後、米国の支配下に置かれ、内閣も官僚も米国の言いなりなのは周知のとおりです(参照:真の聖書福音と預言「受け身をやめよ、行動せよ」)。政界に巣食い、国会議員らを操る統一教会やら、経団連やら、それら富を抱えた「権力者」「会社」もまた、獣と看做せると考えます。必ずそうだと決めつけられる訳ではありませんが、神を忘れて律法違犯が蔓延する真正イスラエルの現状と原語を照らすと、当てはまることが多々あります。

 

また、先の引用でも触れられたレビ記二十六章二十二節では「野の獣 (חַי) 」が子供を奪い去るとあります。同様の聖句がエゼキエル書にもあり、同じ内容を指していると思われます。

 

エゼキエル書五章十七節(参照)

我はお前の許に飢饉と有害な獣を行かせる。そして、お前の子供を奪わせ、飢饉と殺戮がお前にやって来る。我は剣をお前にもたらす。主である我が告げたのである。

 

こちらでも同じ原語の「獣 (חַי) 」が使われております。そして、気になるのは「子供を奪わせ」の箇所です。原語には「流産する」「不妊」などの意味があり、手前はどうしても有害ワクチンのことが想起されてなりません。『新型コロナウイルスワクチン接種を受けた子どもたちの死因には、胎児死亡や流産、突然の心停止、突然死、自殺などがあった(引用:アメブロ)』との結果や、新型コロナウイルスワクチンが不妊や流産への影響があることの示唆(参照:メモ・独り言のblog)があるからです。これ以外にも、実際に子供が奪われる事態は連れ去りも含め、該当する出来事は幾つかあると思われます。

 

エゼキエル書十四章二十一節(参照)

確かに、神である我が主はこのように言われた。そうだ、甚だしい我が四つの神罰、剣、飢饉、悪い獣、悪疫を、エルサレムから人と家畜を滅ぼすためにそこに行かせる時、

 

上記の聖句も同様に、一貫しているのは神との契約(律法遵守)への違反に対する罰が臨んでいるということです。「神罰」の言葉が非常に印象的です。世の中の「ならず者」を見ていると、神をも恐れぬ振る舞いだと思います。たとえ不信仰でも、その悪行に対していつか罰が当たるとは思わないのだろうかと考えてしまいます。個人的な話ですが、聖書真理を知らなかった時でも、手前は親から、悪い事をすれば「罰が当たる」「神様は心の中まで見ているのだから」と戒められて育てられました。「ばちかぶる」という方言もあります(参照:goo辞書)。ところで、罰とは『人間が犯した悪事に対して神仏が与えるこらしめ。天罰 (てんばつ) 。(引用:デジタル大辞泉(小学館)』という意味です。人間を超越した存在である神が人間に与えるものです。こちら(やすらか庵)によると、仏教では罰というよりは自業自得という考えが基本であり、明確に罰という考えは無いようです。『悪いことをしたら罰が当たるということ自体が平和な社会を守っていくための掟のようなものですから、その起源は相当に古く、昔話の中にも勧善懲悪ものがとても多いのですから、由来がはっきりしませんが、特に仏教用語と言うことではなくて、昔からの言い伝えと言う方が正しいのかもしれません。』と書かれております。ざっと調べた範囲では神道でも「罰」の概念は確認出来ませんでした。推測ですが、『昔からの言い伝え』であるなら、古代イスラエル(律法)から引き継がれた教えなのではないかと思いました。長らく真の神を忘れていたことには変わりありませんが、それでも基本的な心の律があるかどうかは、大きな違いではないかと感じます。悪徳政府、悪徳政治家、不良外国人等を見ていると根本的に異なる生き物だと思わずにいられません。心が獣じみていて、おおよそ慈愛や品性とか心の律というものが一切感じられません。傍若無人に振る舞う狂人じみた人々を見る度に、真の心の律(神の律法)を持たなければ、自分の欲求のために動いてしまうのだろうと嘆かわしく思います。それは果たして、人間らしいと言えるのでしょうか。

 

ヨハネの黙示録六章八節(参照)

我は見た。見よ、緑がかった馬とその上に乗っている者の名は死、その後に陰府がついて行く。それらには剣、飢饉、死、地の獣によって地の四分の一を滅ぼす力が与えられた。

 

終末預言の黙示録には、六百六十六の獣(ローマ教皇)のことも書かれておりますが、上記箇所にあるように「獣(複数形)」が示唆されております。ここでの地の獣は、比喩的に残忍で凶暴な人間(複数形)を意味します。複数いる反キリスト(参照:真の聖書福音と預言「反キリストについて」)の一部であり、悪魔崇拝の支配層の駒である国際機関や政府機関、大企業などいわゆる世の権威とされるものが該当しうると思います。コロナ犯罪でも分かるように、彼らはこぞってウイルス詐欺に則り偽感染症騒動を起こし、殺人ワクチンを大勢に打たせ、大量死が起こりながらその事実をろくに認めもしません(参照:Totalnews)。これを「残忍」「凶暴」と言わずして、何と言うでしょうか。先にも挙げた奴隷管理制度に至る個人番号券然り、緊急事態条項創設(憲法改悪)、戦争の準備もそうですが、一見もっともらしい建前を並べ立てながら政府の推進するものは人口削減と奴隷管理です。「獣」らもまた、最初から言動が、あるいは外見的に厳ついとは限らず、徐々に悪魔の正体を表すことが考えられます。嘘は彼らの常套手段だからです。気候変動(詐欺)への対策を訴えるローマ教皇が良い例です。故に思慮深く世の動きを警戒し、火の粉で済んでいる内に消さなければなりません。

 

 

今回は「凶悪な獣」を中心に触れましたが、複数ある獣の原語には「家畜」の意味もあります。そして、世の権威を盲信し、搾取されるだけの状態は家畜のようです。

誰もがこの世の虜になっているのではないか。日々仕事に追われ、休み無く働くことが美徳と勘違いし、金銭を多く稼いだり社会的地位を得ることが本分だのと言わんばかりで、娯楽や快楽に興じてる人が多いやろ。かような生活を続けていては獣に等しい。

 

引用:真の聖書福音と預言「常識を疑って悔い改めよ」

 

 

また、獣に「大衆、群衆」の意味があります。新約聖書(マタイによる福音書等)で「大群衆」は『この世の多数派は、不信仰者や異教徒やにわか信者の集まり(引用:真の聖書福音と預言「キリスト者の覚悟」)』とされ、ここでも同様と思われます。不信仰やにわか信者に留まっている状態は悪い状態です。

 

一様に獣には悪い意味が凝縮されており、この世は世の真実と真理を知らずに家畜(獣)のようにされている人々、また、肉の欲にまみれたり、反キリスト行為を平気で行う凶暴で残忍な獣だらけだと思います。これらの仲間となってはいけません。これでは獣の刻印を押されて滅びるだけです(参照:真の聖書福音と預言「現実逃避をやめよ」)。明暗を分けるのは神への畏れ、神の律法、掟、戒め(心からの悔い改めを含む)の有無です。この基軸無くして、何事をも正しく判断することも悟ることも出来ません。「主への畏れは知恵の始まり。これを行う者は皆、ええ洞察力がある。主の賛美は永遠に続く。(詩編百十一編十節)」「主への畏れは理解力(洞察力)の始まり。愚か者は、知恵と矯正を酷く嫌う。(箴言一章七節)」(両引用:真の聖書福音と預言「現実逃避をやめよ」)の言葉は真実です。

 

 

<神の律を持つ者>

凶悪な獣、無分別な家畜に陥っている不信仰者と一線を画し、分別を持つ神の民(真のキリスト者)が如何なるものであるかを前回記事に引き続き箴言から、今回は箴言二章から紐解いていきます。

 

箴言二章一節から二十二節(参照)

 

我が子よ、我が言葉を受け入れ、我が掟を自らと共に大切にするなら、知恵にお前の耳を傾けるために、英知にお前の心を傾けるなら、確かに、お前は知識に向かって呼びかけ、知恵に向かってお前の声を出すなら、お前はそれを銀のように尋ね、財宝のようにそれを捜すなら、その時、お前は主への畏れを悟り、神の知識は現れ出るだろう。知恵を授けるのは確かに主である。主の口から知識と知性が与えられる。正しい人たちのために主は知恵を、完全な道を歩む者たちのために盾を備えた。裁きの道を守るために、主の敬虔な人の道を守る。その時、お前は義と裁きと公平が、それぞれ善の道であると悟るだろう。知恵がお前の心を訪れる時、知識はお前の魂の喜びとなる。思慮分別がお前を助け、知性がお前を守る。悪の道から、邪悪なことを言う者からお前を救い出すために。

闇の道を歩むために真っ直ぐな道を捨てる者たちがいる。悪を為すことを喜ぶ者たちは、より悪い背信を大喜びする。彼らの道は歪んでおり、彼らの道の故に曲がった者たちである。異邦の女から、異邦人の滑らかな言葉からお前を守るために。その女は若き日の伴侶を捨てる者であり、女は自分の神の契約を忘れた。確かに、女の家は死へ傾いた。その道は死者に向かっている。そこに行く者たちは皆、戻らず、命の道に着かない。

善の道を行くために、義の道を守る。真っ直ぐな人は地に住み、完全な人はそこに残されるからである。悪人は地から断たれ、不法者たちはそこから離れる。

 

◯時を超えたイスラエルの民への呼びかけ

箴言二章一節について、「我が子よ」の呼びかけは親切や愛情の表現として使われ、決して実子だけでなくイスラエルの民も含みます。申命記二十九章十四節で主なる神は、契約を結ばれた日に居なかった者とも契約を結ぶと言われていることから、将来的なイスラエルの民も含まれ、我ら日本人に呼び掛けられた言葉と受け止めて然るべきです。「受け入れる」「大切にする」の言葉も、ともすればさらっと聞き流してしまうかもしれませんが、信じて理解すること、心に銘記して尊重する意味があるため、そのように取り扱うべきです。

 

一)耳と心を傾けることの真の意味

箴言二章二節について、「耳を傾ける」は聖書内で頻出の言葉ですが、「心を傾ける」も含めて、どのような状態であれば耳や心を傾けると言い得るでしょうか。エレミヤ書六章十節に「見よ、彼らの耳は割礼を受けていないので、彼らは聞くことができない。(参照)」と書かれております。肉の割礼自体は、今は不要となりましたがエレミヤ書九章二十五節から二十六節にもあるように、重要なのは心の割礼だと書かれております。「割礼(מוּל)」には比喩的に「欲求を弱める」「(自我を)打ち砕く」の意味があり、心が頑なにならず、素直になることが重要と言われているのだと考えます。主イエスが、心を入れ替えて幼子のように自分を低くするように(マタイによる福音書十八章三節から四節参照)、自分を捨てるように(マタイによる福音書十六章二十四節参照)と言われたとおりです。耳に割礼を受けるとは、自我を捨て神に服従することとも言え、耳や心を傾けるにはそう言った姿勢が求められていると考えます。

 

二)本物の知識と知識に対する姿勢

箴言二章三節について、「知識」と聞くと漠然とした印象を持たれるかもしれませんが、ここでの知識は「神の知識」「聖書真理」です。この天地を造られた神のことや神の律法、裁きなどたくさんあります。しかし、この世において、地球球体説、進化論、学歴信仰、科学信仰、政府・行政信仰、太陽暦、西洋かぶれ、世間体を守る、拝金主義、地位・名誉志向等が幅を利かせております。しかも、真理を宗教(虚構)と看做す悪しき動きもあります。しかし、万物の初まりと終わり、正しい善悪の基準や裁きを説明しているのは神であり、聖書のとおりにこの世は終末に向かっております。この世を支配する者たち(悪魔崇拝の支配層、その駒である政府等の世の権威)は、神に反した行いの故に、反キリスト(善を為せというキリストの教えに留まらない)と括られ、どんなに聞こえの良いことを言っても、神の律法(善悪の基準)に反したら悪でしかありません。また、「知恵」とは、神の知識に基づく「分別」です。聖書にある神の知識に拠らなければ、人は何が正しくて、何が正しくないのかの判断や区別はできません。世の常識や私見だけで判断するから、コロナ犯罪のように騙されてしまいます(参照:真の聖書福音と預言【第七回】何故聖書を信じるか )。

 

そして、「声を出すなら」と箴言二章四節の「尋ねる」「捜す」について、マタイによる福音書七章七節が思い起こされます。

自分で探さず、ただ待ってるとか受け身ばかりで、自発的に探す努力もせんようなら、貴重な人との出会いは無いであろうし、神との出会いも無い。主イエスも「求めなはれ。さすれば、与えられるだろう。探しなはれ。さすれば、見つかるだろう。門を叩きなはれ。さすれば、開かれるだろう。」(マタイ七章七節〜八節参照)と教えはったさかい。逆に言えば、自分で努力せえへん人は何も得られへんということであり、救いも得られへんであろう。

 

引用:真の聖書福音と預言「常識を疑って悔い改めよ」

 

元々、世の多数派は楽な広い道(世の常識や偽福音)を通り、真のキリスト者だけが狭く苦しい道(マタイによる福音書七章十四節参照)を見出だす程ですから、相当に労力を注いで探し求める必要があります。必死、懸命にならざるを得ず、骨が折れる作業です。「銀」も「財宝」も希少で価値あるものとしての例示であり、実際、世俗においても金を稼ぐにはある程度の労力が必要です。低賃金という事情を除いたとしても、宝石の類を買おうと思えば、他に余計なものは買わず、財布の紐を固くして、その目的のために心血を注ぐのだと思います。娯楽等の享楽に時間やお金を費やしたら得られません。「等価交換の原則」という考え方が世にありますが、そのとおりだと思います。

 

等価交換の原則とは、何かを手に入れるために、相応の対価を差し出す

 

何かを得るためには、何かを差し出す。

当たり前の話です。

何かを真剣に取り組むと決めたら、余計なことはすべてやめる。

その決断ができる人が成功するし、それをほとんどの人ができないから、真似されにくく、長く稼げる。

ただ、それだけです。

 

引用:キークエストWEBマーケティングメディア

 

「等価交換の原則」は決して稼ぐためだけではなく、他にも受験勉強の例にも当てはまります。この地上の生涯を世俗的なことに費やすのか、神に喜ばれること(福音伝道、慈愛等)に費やすか、この差は大きいです。主イエスが言われた『あんた方の富がある所に、あんた方の心もあるだろう。(マタイによる福音書六章二十一節 引用:真の聖書福音と預言「ゲツセマネの祈り」)』のとおりに、各位の心が露わになります。

 

三)主への畏れ無くして神の知識は理解出来ない

箴言二章五節から七節について、「主への畏れを悟り、神の知識は現れ出る」とは、神の律法を遵守することで聖霊が与えらる(ヨハネによる福音書十四章十五節から十六節参照)、神の知識を理解する過程(同十六章十三節参照)そのものであると感じます。感覚的には神の御心、御意志に焦点を合わせていると、御言葉を通してたくさんの気付きが与えられると感じます。律法を守れていなければ、後ろめたさや引け目を感じて、御言葉に真っ直ぐ向き合えないことも経験した事があるので、この箇所の聖句は言葉どおりだと思います。

更に、七節の「正しい人」について、聖書において頻出の言葉ですが、罪の定義(ヨハネの手紙一 三章四節)と同じように、「正しい」の定義を押さえる必要があります。何度でも言いますが、申命記等に神の律法を守るとの契約があり、遵守すれば祝福があり、違反すれば呪いが臨むことからも、神の律法を守ることが基準にあります。世の諸教会、プロテスタントら偽福音論者(パウロ教徒)は、「律法は廃止されたので守らなくて良い」と平気で大嘘を主張しますが、主イエスはそのようなことを言っておりません(マタイによる福音書五章十七節から二十節参照)。また、「十戒のみ」「守れる所だけ守る」「やがて守れるようになる」など、根拠の無いことを言う者もおりますが、主イエスの言うことに反しており、彼らは一様に反キリストです。この自覚が無いのは、主イエスの言葉を蔑ろにし、畏れが無いために知性が与えられないのでしょう。「神は罪人の言うことをお聞きにならないと我らは知っている。しかし、信心深くあろうとしている人や神を敬い、神の御意志を行おうとしている人には、神は聞いて下さる。(ヨハネによる福音書八章三十一節参照)」とあるように、神の御意志を行おうとしない者に対して、神は聞いて下さることはありません。細かいですが「行おうとしている人」は、最初から完全に「行なった(出来ていた)」という完了形とはなっておりません。「しようとする意志」が強調されている所にも注目するべきだと思いました。意志の無い者に応じようがありません。そして、意志と行いに応じて成長していくことを示唆されているようにも感じました。

 

四)神の律法遵守=正義

箴言二章八節について、「裁きの道」は個人的には意味が分かりにくいとかねてから感じておりました。しかし、原語を見ると一目瞭然でした。「正義」「公正」「法を守る」の意味があり、律法に適うこと(適法)が正義であると明確に述べております。「公正」については、例えば世の裁判についても、裁判は神に属する(申命記一章十七節参照)と書かれており、裁判が公正であれとは申命記十六章十八節から二十節等にも書かれており、主イエスが人を分け隔てしない(マタイによる福音書二十二章十六節参照)と言われている所にもこの言葉の本懐が窺えます。まさしく高潔な品性そのものであると思います。箴言二章九節にもあるように「義と裁きと公平」が倫理的に善であるとも書いてあるとおりです。ところで、「裁き」には「正邪・理非の判断をする」との意味があります。日々、自分の言行を律法に則り判断すること、改めること(真の悔い改め)の重要さも、この言葉に込められていると考えます。。

 

 

五)知識は魂の喜びであり、我らを正しく導く

箴言二章十節から十三節について、知識が魂の喜びとなることは、是非、各位が御自身で体験すると良いと思います。神の御意志を求めて聖書研究をしている時、原語の深い意味に喜びと感動を覚えます。神の御意志が聖書に一貫して書かれており、矛盾が無く、神の言葉に確信を持つ経験がたくさん出来ます。この確信の強さが個人的に大事だと思います。強い信念となり、思慮分別でもって荒れ野のような地上の生涯を守ってくれるのをひしひしと感じます。「荒れ野のような地上の生涯」と言ったのは、世俗に深く染まらずに、世俗と距離を置く生き方は「荒れ野」で生きることに似ていると感じるからです。

 

申命記八章二節から三節(参照)

お前はこの四十年、荒れ野でお前の神である主が導かれたすべての道を覚えている。それはお前の心がその掟を守るかそうでないか、お前を苦しめて試し、知るためである。主はお前たちを苦しめ、飢えさせ、お前も先祖も知らなかったマナをお前に食べさせた。確かに、人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出てくるもの(言葉)すべてで生きることを分からせるためである。

 

古代イスラエルの民はエジプトで奴隷のように働かされておりました。その分、幾分かの糧を得ていた訳ですが主なる神はモーセを導き手として、エジプトを脱して荒れ野に導かれました。古代エジプトは異教で太陽崇拝の国(参照:ウィキペディア)、且つ繁栄した大都市(参照:ウィキペディア)です。そこで暮らせば、霊的に堕落はしても飲食物や娯楽の類は尽きなかったと考えられます。家畜のように生きながらも世俗の娯楽や快楽で誤魔化して生きる現代人にも通じます。そこから抜け出して生きることは世俗と距離を置いて生きる真のキリスト者の姿に重なります。そこでの生活は信仰(神への従順)が頼りです。古代イスラエルの民はエジプトでの生活のほうがましだったと不平を言います(出エジプト十六章三節参照)。しかし、それは悪い状態を欲するようなものであり、以前の悪い生活(家畜奴隷)に戻ったら救いが閉ざされます。確かに「荒れ野(מִדְבָּר)」には比喩的に「不毛の地(時期)」「不遇の状態」の意味があります。さながら、世の繁栄とは対極に位置します。しかし、出エジプト記では荒れ野においても主なる神によって必要な食べ物はすべて与えられ、着物は古びれず靴もすり減らなかった(申命記二十九章四節参照)と書いてあります。このことは『神の王国と神の義を第一に求めなはれ。そうすれば、これらすべてがあんた方に加えられるだろう。(マタイによる福音書 六章三十三節 引用:真の聖書福音と預言「二種類の基礎」)の言葉に重なります。世俗的な欲求に負けず、自分を捨て、神が命じられた善を為していくことがすべてであり、そうすることで必要なものは与えられます。出エジプトの荒れ野について、見るほどに手前自身の真のキリスト者を目指してからの歩みに重なります。過去を懐古する気持ちにも駆られたことも正直ありました。収入も地位も失う心許なさや寂しさがまったく無い訳ではありませんでした。あの時、それは間違っているとミカエル氏に明確に叱咤していただいたことは大変ありがたいことでした。よもや狂った世俗社会には何ら価値を見出だせませんが、それでも折々、神に従うかと言行を試された時であったと思います。多数派にくみせずに、狭く苦しい道を歩む忍耐を「荒れ野」に例えられるなら、今も尚、継続中であり、最期まで貫くのが重要なのは言うまでもありません。

 

途中で信仰や正しい行い(律法遵守や慈愛ある行い)をやめへんという継続性が非常に重要というのが分かるやろ。神の律法を守ることも最期までやめへんという継続が必須や。もし途中でやめて律法違犯をする不信仰者に戻るなら、以前よりももっと悪くなるとも聖書には書かれてる(ペトロ二章二十節〜二十一節)。この世での短い人生において忍耐でけへんのなら、後の永遠の世で生きるには相応しくないからや。無論、最初から信仰に入ろうとせえへん不信仰者も救われることはない。せやから、信仰に入り、死ぬまで続ける以外に道は無いというこっちゃ。「鋤に手を置きながら後ろを見る者は、神の王国に相応しない。」(ルカ九章六十二節拙訳)とも書かれてるとおりや。キリスト信仰には、不退転の決意が必要や。

 

引用:真の聖書福音と預言「聖書の終末預言 五」

 

これまでを振り返って、自分の心の中にあるとおりにしか行動出来なかったと思います。諸々、出来た部分もあれば、不完全だった部分もあります。今、この時も主は手前を試し、見ておられます。今後、例えば自分の命や糧と引き換えに誘惑に遭った時に、万が一にも間違った選択をしてしまわぬようにと、深く警戒します。そのためにも自分の性質(心の中、信念)ごと改まっていなければなりません。

不退転の決意のためには、神の言葉(知識)への確信、神への愛と畏れ、神の御意志に沿って動こうとする自分の意志の積み重ねが不可欠です。ここから更に成長するためにも、もっともっと積み上げが必要だと思います。

 

六)異邦人の道、異邦の邪悪さ

箴言二章十四節について、「悪を為すことを喜ぶ者たち」は先に挙げたような憲法を改悪したくて堪らない悪徳政府、悪徳国会議員らや未だにウイルス詐欺、ワクチン信仰を止めずに「反ワクチン」「陰謀論」などと揶揄する人たち、せっせと偽福音伝道をするカトリック・プロテスタントらなど、大勢おります。彼らは世の繁栄を欲して世の権威を礼賛したり、偽福音を正しいと信じて疑わず、それらの(神への)背信を喜んでいる状態です。二章十五節にあるように歪んだ道、異邦人の道です。

 

真の聖書福音と預言「キリスト者と迎え入れる人が弁える事」においても、『異邦人の道に行ったらあかん』と繰り返し呼びかけられております。神に属する者であることを外形的(和服、房、髭等)にも慣習的(聖書歴、安息日等の律法遵守等)にも証明し続けよ、と強く言われていると感じます。この御命令を認識できるか否かが命運を分けます。『「伝統的な日本式(古代イスラエル式)」の生き方が必要不可欠で、異邦人(日本人以外)も救われたいならこれに従う必要がある。』とは、ミカエル氏だけが聖書に依拠して伝えたことであり、まさに世の終わりの真の聖書福音です。

 

二章十六節について、「異邦の女」との言葉がありますが「異邦(זָרָה)」には「神聖なものを冒涜する」「姦淫を犯す」、また、「女(אִשָּׁה)」には「姦淫を犯す女」の意味があります。神の道(ヘブライ文化)を尊ぶ素地が無ければ、無知や偶像崇拝の故に不信仰に陥るのは避けられません。ところで、聖書内で「女」はさまざまな例えがされております。例えば、「賢いおとめ(マタイによる福音書二十五章)」「花嫁(ヨハネの黙示録十九章七節等)」などは律法を遵守する真のキリスト者の意味があります。一方、ヨハネの黙示録二章十節から二十四節には「女(イゼベルという女)」と悪いものとして書かれております。イゼベルは列王記に登場しますが、黙示録では偽預言者で律法廃止論を唱え、人々を堕落させる者の比喩として書かれております。この嘘に騙される者たちは滅ぼされると明確に書かれております。また、ヨハネの黙示録十八章でも「女」が登場しますが、こちらの元は十七章五節にある「大バビロン」で、富と悪徳の蔓延る大都市の名であり、偶像崇拝と忌まわしいものの生みの親です。黙示録十八章四節に「女から離れよ」と警告されているとおりです。厳密には異なりますが悪しき者として括られます。そして、今箇所では「異邦の女」なので最初に言及したとおり悪い意味です。

総じて正しい道の根幹である律法無くして、正しさはあり得ず、律法を歪めたらもはや別物(堕落)と化します。そういった注意が書かれていると考えます。二章十七節にあるように、本来は古代イスラエルの民は律法を当然のものとして教わる(申命記六章六節から九節参照)訳ですから、その契約を忘れるなど一番あってはならないことです。律法にも「あんたは「我が力と我が体で、この富を獲得した」と内心で言う。しかし、あんたの神である主を思い出しなはれ。あんたの父祖に誓たその契約を今日のように行うために、彼(主)が富を獲得する力をあんたに与えはったからや。」(申命記八章十七節〜十八節拙訳)と書かれてるとおりや。せやから、すべて神のお陰であり、人間が神の律法を守る契約を行えるように必要な富を与えられてるだけで、富を持つ人間自身に何か特別な能力がある訳でも何でもない。(引用:真の聖書福音と預言「キリスト者と迎え入れる人が弁える事」のとおりに、律法の契約を守るために必要な富が与えられるのであって、それを捨てたなら「女の家は死へ傾いた(箴言二章十八節)」となるのは当然です。

 

 

七)一貫する義の道の教え

箴言二章二十節から二十二節について、「義の道」を守ることは神との契約(律法遵守)を守ることです。また、「完全な人」は主イエスも言及している(マタイによる福音書五章四十八節参照)とおりですが、欠けが無くて申し分ない人の意味です。それ以外の悪人が地から断たれるとは、ゼファニヤ書一章三節やヨハネの黙示録二十一章八節・二十二章十五節等で言われていることと同じです。これこそ旧約から新訳において、パウロ書簡を除き一貫して言われている真理です。

 

<結び>

こちら(プレジデント)に『荒れた宴会をする「3つの職業」』というのが書かれております。

 

大槻曰く、1つ目は警察、2つ目は教師、3つ目が銀行員だそうだ。

 

予約してきたのがこの職業の人たちだとわかると、「嵐の宴会」を覚悟しなければならないという。いずれも安定していて、生活に不安を覚える必要などない職業ばかりである。要するに金銭的には恵まれた人たちである。

 

しかし、この職業を聞いて、私はハハーンと思ってしまった。というのもいずれも仮面をつけなければできない仕事だからである。もっとも仕事となれば、ほとんどの人が仮面をつけている。

 

人間音痴の私にしても、添乗業務のときには日常とは異なる顔をしている。だがベストスリーの職業は、自分を律する度合いがきわめて強い。そのために仮面も堅牢にならざるを得ない。アルコールによって堅牢な仮面から解き放たれると反動も大きくなるのではないか。

 

引用元:プレジデント

 

荒れ、乱れた宴会をする業種にまつわる噂は世俗社会ではしばしば耳にしました。他の業種でも幾つか聞きましたが、表面的な印象と裏の顔との差に「人とは、分からないものだ」と思ったことがあります。どんなに取り繕ったとしても、必ずどこかで正体が露わになる好例だと思います。たとえ激務で狂わされたのだとしても、人はそのように堕落し得るのだと思います。たとえ金銭的に恵まれたとしても、腐敗や不正が蔓延る業種、組織であり、悪しきものから離れずに留まって社畜となったままでは、どうやっても狂う危険が高いのだと思います。また、「仮面」を着けている時点で本来の自分ではない自分を演じて嘘をつき続けており、律する軸も間違えております。表沙汰になる不祥事の数々によって悪い内側が示されていると思います。「仮面」は本性を覆い隠すだけです。その人の本性(品性)は何も変わっておりません。他にも、これらの業種は何より神の律法を守る上で、業務内容が相反する所が多いと思います。内面を清めるに妥当な就労環境なのかどうか、考える必要があります。

 

意図的に「~しよう」等と思わないとでけへんようでは、その人の人柄や気質とは言えへんでしょう。意識するのをやめた途端、素の自分が出てくるからです。かように、意識して偽装しても無駄であり、その人自身の人柄や品性までは変わらへんのです。意図的に善い品性の人がするようなことを真似てやろうとしても、その人自身の品性が悪い場合は、苦痛が伴い、長続きせえへん。せやろ。何事も自然に出来ることは長続きするが、自分の気質や柄に合わへんことを無理にやろうとしても、一時的で終わり、長く続くことはない。

 

引用:真の聖書福音と預言「悔いの無い生き方を」コメント欄

 

業務中だけ職業的仮面で自分を律するのは無理があり、言行を自制するには、やはり心からの悔い改めが不可欠です。それは神の律法、掟、戒めに基づきます。神に属して義の道を行く上では、表面的ではなく心から変わることを最後に強調してお伝えします。

 

神の律法に拠らなければ、嘘と偶像崇拝に満ちた悪しき世によって人は騙されて家畜となり、また、真の心の律を持たずに放縦の内に生きてしまいます。そのようなならず者が多いのが現実です。その律法違犯の結果、神から守られず、悪魔崇拝の支配層は残酷で力のある集団等(獣)を用いて、真正イスラエルである日本人は苦しめられております。

 

悪に満ちたこの世は、すべての悪諸共に義の神によって滅ぼされます。ただ神の目に適うものだけが救いを得ます。それは肉体的に守られるというよりは永遠の命という報いを得ると言う意味です。新しい天と地では、この世俗のような悪が存在しません。それ故、復活と永遠の命だけが真の希望です。この地上の生涯も、苦痛に満ちると時間が経つのが長く感じるかもしれません。しかし、忍耐が大事(ヨハネの黙示録十三章十節等参照)と言われている訳ですから、その御言葉に従いましょう。

 

失われた羊は、速やかに真の知識・知恵・英知に生きることを勧めます。まず聖書を自分で複数回通読して、確信を得たなら速やかに心から悔い改めましょう。神は言葉なのですから(ヨハネによる福音書一章一節)神の言葉を拠り所に生きるのが筋です。言葉によって示されるキリストの教えに留まってこそキリスト者です。もちろん、一人で分からないことが沢山あると思いますが、ミカエル氏のブログが多くのことを教えてくださり非常に有効です。ぜひご活用ください。

 

最後までご覧いただきありがとうございました。