たまには愛を選べないこともあるさ。
たまには愛を選べないこともあるさ。自分を完璧な愛100%で生きようとすることも、自分に対する残酷な仕打ちかもしれないね。間違いを犯せない、失敗が許されない。それと同じで、そんな生き方は、常に緊張とストレスが蔓延し、いずれは病んでしまう。もっと、自分に対しても、寛大になっていい。その方が、心にも余裕が出来て、それが結果的に、持続的に愛を実践した生き方ができるようになる。頭では分かっていても、衝動的になって、自制が利かないこともある。落ち着こうとしても、落ち着けないこともある。放っておこうと思ってても、放っておけないこともある。けれど、そういうこともあっていいじゃないか、とゆるく生きることも、アリだと思う。何をしても、離れていく人は離れていく。愛を実践できなかったから、ある人が離れていったと思えても、それはどちらにせよ、離れていく人。そして、そういう捉え方をすることで自分がやったことをうまくごまかそうとするのが許せなくても、何を考えても、もうやってしまったものは仕方がないと、自分を赦してあげる、そういう自分が自分の中に居た事を許してあげる。許せなくても、自分でも、愛を実践できないこともあるんだと受け入れる。けれどそれは裏を返せば、日々の殆どを愛を実践して生きているということの証だと思う。さて、愛を実践して生き続けるということは、当たり前に出来ることだろうか?それは、結構難しいことなんじゃないかなという体感がある。意識していないと、難しい。そんなことを、実践して生きている割合の方が多いってこと、これが如何にすごいことなのか、改めて自覚するといいのかもしれない。それを自覚させるために、愛が実践できない自分が出てきてくれたのかもしれない。人は、自分が出来ることほど、当たり前に出来ることだと錯覚しがちだ。だけど、それは他の人にとっては、到底できないことかもしれない。それを、人生の殆どの時間、実践しているということなれば、これほど素晴らしいことはあるだろうか。そして、たまには不意に愛が実践できない自分が出てこなかったら、それにすら氣付けないんじゃないだろうか。自分が今出来ていること、やっていること、やってきたことも何一つ当り前に出来ることじゃない。そう氣付けたのなら、愛が実践できない自分が出てきてしまったことを、そんなに責める必要もないんじゃないかなと思う。取り返しのつかないことをしてしまうこともあるけれど、それも新たなご縁に活かせるし、また失敗するかもしれないけれど、失敗してしまうこともあっていいやという自分に完璧を求めることをやめる姿勢を採ることで、自分に完璧を求めて生きていくよりも、より愛を実践し続けて生きていけると思う。結局は、そういう自分の心の余裕、己を制そうとする手綱を緩めること、完璧性を手放すことが、逆説的に、もっとも完璧な愛を実践して生きることになるのではないか、と思う。沢山の人を傷つけ、困惑させ、拒絶もされてきた。でも、それは、自分が自分を「完璧」というものに縛り、傷つけ、困惑させ、「完璧でない自分」というものを自分自身が拒絶していたという「投影」そのものかもしれない。そして、自分が出来ること、やっていること、やってきたことを、当たり前なことだとして、過小評価し過ぎた結果なのかもしれない。愛を実践できなかったことで、これだけのことに氣付けた。もっと、自分を誇っていいのかもしれないと思えた。誰も褒めてくれないし、評価もされないけれど、実は、自分は凄いことを継続してきたのかもしれないとそう思えてきた。ジャイアン心理と似ていて、いつも悪いことをしている人物が、たまに良いことをすると過大評価される様なことがあるけれど、その逆で、いつも愛を実践して生きている人物が、たまに愛を実践できないことがあると、まるですべてを否定してしまうみたいなことが起きるのかもしれない。自分の中においても、他者においても。しかも、自信が喪失している時にほど、愛が実践できない自分が出て来てしまう。それは、これらのことに氣付かせようとしている大切なメッセージ、はたらきなのかもしれない。わたしもまだまだこれからも、どんなに氣を付けていても、愛を実践できない自分が出てきてしまったり、何かに傷つき、失敗し、挫折するんだろうなって思った。けれど、その度に、何かに氣付き、次のご縁に活かし、今まで以上に、より深い愛を実践できるようになっていくような氣がする。完璧な愛を自分に課すことをやめたことで、より完璧な愛として存在できるような氣もするようになった。ここで言う「完璧な愛」とは、「まぁそもそもがわたしたちは全ての存在が完璧な愛そのものである」、という意味の「完璧な愛」とはちょっとニュアンスが違うことだけはご注意。ここで表現した「完璧な愛」とは、他人を尊重する生き方だとか、放っておく姿勢だとか、自分を大切にするだとか、見返りを求めないだとか、そういうもの。出来なかった過去があり、分かってても出来ないことだってある。そんな自分が居ること・つい現れてしまうことがあることを許せる心の余裕を持っておくのも大事だな、と氣付いた。むしろ、そういう時は、自分に余裕がないんだなと氣付いて、休息したり、美味しいものを食べたり、癒しを感じられるモノに触れたりして、自分を精一杯ケアするタイミングなんだと、思えばいいんだなと、氣付かされた。自分では何もしていない、何も出来てないって思っていても、心や體にはちゃんと出る。つまりそれが心や體に出る、愛を実践できない自分が出るということは、とどのつまり、何もしていないわけでもなかったということだし、何も出来ていないわけでもなかったということで、むしろ、逆に何かを頑張り過ぎてきた、緊張に晒されてきた、無理がきている、というサインなんだよね。そこから一氣に抜け出せなくて、自分を癒すことさえ儘ならなくても、そんな時は、やっぱり何もしない、無駄な時間を過ごす、遊ぶこれからのことも放っておく。そういうのが特効薬なのかな。個人的に、誰かに不快なことをされるのも辛いけど、誰かを不快にしてしまったことの方が、ダメージが大きい。その相手が、好きな人であればあるほど。けれど、そのダメージの大きさが、メッセージ性の緊急性、大きさそのものなのかもしれない。そう思うと、やってしまった自分を過度に責めるのではなく、(責めたいだけ責めてもいいが)もっともっと自分が必要だと思っている以上に、自分のことを労い、敬い、愛を注ぎ、心に余裕をゆっくりつくっていくことの方が、大事なことなのかもしれない。そして、その心痛い体験から学んだこと、氣付きを次から活かしていけばいい。【まとめ】やってしまった過去は変えられない。けれど、これからは同じ轍を踏まずに生きることができる。勿論また不意に踏んじゃうこともあるかもだし、また大切に想ってた誰かに拒絶されることもあるかもしれない。その度にまた落ち込み、己を恥じ、自責し、やってしまったことを悔むのかもしれない。けどその時もまた自分に愛を注ぐサインだと捉えて、心に余裕をつくり、その体験から抽出された次に活かせる氣付きを見出し、実践することで、更により深い愛の実践体験ができるのだろう。同時に、こうした「不意に愛が実践できない体験」を繰り返してしまう頻度も減っていくのだろう。確かに、氣付きや学びがあったとて、過ちは決して正当化できるものではない。けれども、自分を責め続けても意味はないどころかより有害である。心の余裕が無いサインが引き起こしたことなのに、そこから更に心に余裕を与えないとなると、別の対象に出逢った時、また同じ以上の轍を踏むことになってしまう。だからこそ、氣付きの為に起きたなどという正当化もせず、自責も自己卑下もせず、何かをしてしまった自分が採ったその行動に注目するのではなく、何かをしてしまった時の自分の精神状態を振り返り、やってしまったことは許し、過去の出来事、過去の自分から離れ、今この瞬間から新たな人生を歩むのだというくらいの氣持ちで、心に余裕を取り戻していくことこそが、同じ過ちに手を染めないためにも重要であると思う。-------------------------------------------------------------------自分用のメモのつもりだったが、誰かにとっても必要なメッセージなのかもしれないと思い、愛について語る自分が、愛を実践できなかったことを恥じつつも、ここにシェア。最後までお読み頂き感謝。