真のギフトは「余裕」から生まれる
真のギフト、無償提供とは、自分自身に「余裕」があってはじめてできること。自分自身に愛を注ぎ、自分の心をまず満たし、そこから生まれる「余裕」があってはじめてできること。自分がただ何の為でもなく純粋にやりたいと感じたことをするということ自体が、自分に愛を注いでいるということでもある。自分自身が欠乏し、満たされていない状態で、誰かに何かを与えようとしても、結局は、「感謝」や「評価」、「信頼」、「存在価値」といったものを得る為の行為、そうした見返りの為に与える「Give&Take」の行為にしかならない。与えるモノやサービスに値札を貼っていなくても、与える代わりに何か目に見える物質的な見返りを受け取らないのだとしても、目に見えない次元で、相手からエネルギーを貰おう、相手を利用して自分に価値があるということを証明しよう、といった、一見「Give」しているように見えて、実は「Take」が目的の、重く歪んだやり取りとなってしまう。自分に「余裕」がない状態で他の存在に与えようとすると、こうしたことが無意識の中で起きてしまう。そのやり取りをしていても、いずれは歪みが生じ、その関係と行為は続かずに破綻することとなる。なので、まずは自分が自分を満たすこと。自分に愛を注ぐこと。あるいは、心と體に休息を与えること。頼ってくれてもいいと言ってくれる人が傍に居るなら遠慮なく頼ること。自分を責めず、虐めず、自分を蔑ろに扱わないこと。無理のない範囲で(時には勇氣を出して)、未来に囚われず、己を労い、自分自身を楽しませたり、喜びを与えること。そうしているうちに、何の為でもなく、純粋にやりたいことが湧きだしてきて、別の目的に置き換わることもなく、それをやること自体が主目的であり続け、与えても減らないどころか、むしろますます心身豊かになるようになってくる。ただ存在しているだけで、誰かにとってのギフトとなっているレベルにもなってくる。自分を蔑ろにしていると、その逆が起きてしまう。本来、和多志達は、ただ生きているだけで、循環の一部として、知らない所で、目に見えない所で、誰かや何かのギフトとして存在している。だが、不足や欠乏の意識から誰かに与えようとすると、それが裏目に出て、ありがた迷惑となり、豊かな循環が滞ってしまったり、壊れてしまったりする。そうなると、自分もどこか行き詰まりを感じるようになる。偽りの「Give」は誰も豊かにすることは無い。それどころか、お互いをいよいよ貧しくしてしまう。誰かにギフトする際には、まずは自分の心と體の声を聴くこと。感覚に寄り添い、頭ではなく、感覚に沿って生きること。自分に愛を注ぐことが土台に在ってはじめて、誰かにとって愛を注ぐことにも繋がる。これだけは、無償循環、ギフトが循環する上で、外せないポイントだと感じている。自分が空腹であったり、疲れている時、何もやる氣にはなれない時には、何もしない、という選択を優先する。「生」にしがみつくことなく、それをする。「生」にしがみつくと、これまたおかしなことになる。本末転倒になる。豊かになろうと頑張っているはずなのに、ますます心身・生活共に貧しくなるのはこのためである。すべての豊かさは、「余裕」から生まれる。「余裕」がないのに頑張ると、今よりももっと「余裕」がなくなり、機能不全となり、いよいよ何も出来なくなるだけ。もがけばもがくほど、最終的には強制終了が起き、動けなくなる。何かをやりたいという氣持ちも、斬新なアイディアも、すべてはこの「余裕」から湧きだして来るし、降りて来る。だからこそ、今がどんな状態であれ、どんな境遇であれ、リラックスすること、寛ぐこと、が肝となる。自分や誰か一人が頑張っても、いや、むしろ頑張ってしまうようでは、調和文明、無償循環社会、ギフトの循環、お金のいらない国、そういったものは決して続かないし、巡らない。今の自分の在り方、そのプロセスそのものの在り方が、そっくりそのまま、これから生きる社会の在り方となる。急がず、焦らず、縋らず、マイペースに、心地好い調子で生きる。ただそれだけで、すべてが豊かに巡る。もしも自分が、一見「Give」しているようで、「Take」をしてるなと氣付いても、自分を責めることは一切不要で、むしろこれは自然な現象・サインだと捉えて、自分に愛を注ぐことに舵を切りなおせばいい。そうすれば、自ずと「余裕」が生まれた時に自然なギフトができるようになる。究極のところ、与えようとしないギフトが、一番のギフトになっている、ということ。何かを与えよう、与えなきゃ、としている内は、本質的なギフトとはなっていないと思うので要注意。自戒を込めて。真のギフトの循環は、とても軽やかでお互いが心地好い。