今回は2回続けてとなりますが最近出たばかりのこの本について色々述べたいと思います。
中村雅之 空白の團十郎─十代目とその家族
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20240616/18/germans-badman/70/50/j/o0730108015452280311.jpg?caw=800)
舞台プロデューサーで横浜能楽堂館長の肩書を持つ中村雅之氏が2024年6月に出した五代目市川三升の評伝となります。
彼の著作を見る限り能に関する著書はそれなりにあるものの、歌舞伎に関しては1冊もなく、この時点で既に嫌なフラグが立ってはいました。ただ、先入観で見るのは禁物と言う事で買って見たのですが…
案の定、お話にならないくらい駄目でした。
一応紹介を見ると
「銀行員から市川團十郎になった男の初の評伝。九代目の婿養子で、30歳を前に役者となり市川三升を襲名、死後十代目を追贈された知られざる團十郎の実像に迫る。」
と書かれていますが、最後まで読んだ所で彼の数奇な役者人生に迫れたかと言うと無論そんな事は無く何とも言えない徒労感が残るだけでした。
今回は長くなりますが何が良くて、何がダメだったか、本書では語られていない三升の行動についても交えて解説したいと思います。
三升についてはまずこちらをお読みください
①良かった点について
冒頭からキツイ言葉を並べましたがまず良かった点について先に挙げて置こうと思います。
まず、この本を書くに当たってベースとしては演芸画報、演劇界、第一次歌舞伎を用いて三升の著書「九世團十郎を語る」や姪の翠扇の「九代目團十郎と私」といった自伝本、伊原敏郎の「明治演劇史」や岡本綺堂「ランプの下にて」などの戦前の著名な二次資料、近世歌舞伎年表といった近年の研究者たちの資料、著書、論文を万遍なく参考資料に挙げていてどっかのホラ介の様なそもそも好い加減な資料や小説を典拠に用いる、酷いデタラメや妄想に耽る、典拠の丸写しをするといった論外な行為は一切見られませんでした。
そして分からない事は分からないときちんと言及していてホラ介がよく用いるイタコ行為の様な有識者仕草も無い点は仮初にも市の外郭団体が運営する公演場の館長として職責を全うしているだけあってか評価出来ます。
が、裏を返すとそれだけなのです。
この本の致命的欠陥とも言えますが、この人は典拠である演芸画報や各種代表的な二次資料こそきちんと見ていますがそこに載っている事しか見ておらずその先、一例を挙げると昭和3年に起こった幸四郎の助六の上演を巡る騒動などについて参考資料に挙げている近代歌舞伎年表や各種典拠を全く調べておらずあくまで演芸画報に書かれた事のみを一方的に記述しているに過ぎないなど、評伝を欠く上で必要不可欠な複数資料による中立な考証がなされていないのが挙げられます。
次に何がダメだったのかを具体的に触れて行きたいと思います
②章立てがメチャクチャ
悪い点で真っ先に指摘したいのがこの点です。
この本の章立ては以下の様になっています。
第一章 理想の婿
1 裕福な商家の次男
2 慶應ボーイ
3 持ち上がった縁談
4 教養人であり、良き家庭人
第二章 江戸の守り神
1 江戸歌舞伎
2 團十郎代々
3 遊郭と魚河岸
第三章 「文化人」への道
1 若太夫
2 権之助
3 「市川宗家」へ復帰
4 演劇改良
5 晩年
6 銅像・「劇聖」・胸像
7 「文化人切手」
第四章 女役者から女優へ
1 女優へのこだわり
2 女優になった妻
3 女優、その後
第五章 役者・三升
1 宗家継承
2 突然の役者志望
3 「堀越福三郎」を名乗る
4 「三升」襲名
第六章 「歌舞伎十八番」の復活
1 権威の象徴
2 競い合う門弟
3 三升と「十八番」
第七章 受け継がれる名跡
1 白羽の矢
2 「海老蔵」襲名
3 「花の海老さま」
4 「團十郎」復活
おわりに
市川團十郎家系図
参考文献
「十代目市川團十郎」関連年表
(紹介より抜粋)
これだけだと分かりにくいので各章の内容を補足すると
第一章…三升の生い立ち
第二章…歴代の市川團十郎の紹介(初代から八代目まで)
第三章…九代目市川團十郎の紹介
第四章…妻翠扇の紹介と市川少女歌舞伎
第五章…初舞台から三升襲名までの彼の動静
第六章…三升が昭和に入り手掛けた上演が途絶えていた歌舞伎十八番の復活について
第七章…晩年の三升について
と分類出来ます。
一見そこまでメチャクチャには感じられない様に思えますが第二〜五章において大きな問題があります。
先ず第二章についてですがこれは完全な蛇足となっています。てっきり第六章に書かれてる歌舞伎十八番の解説でも兼ねた物かと思いきや、本当に初代から八代目の事績についてWikipediaを見れば済む様な知識をただ箇条書きに書いているだけなのです。
これが市川宗家について書かれている本であればまだ分かるのですが三升について語る評伝で24Pも割いて書く内容ではありません。更に言うと最後の遊郭と魚河岸に至っては一体何が書きたかったのすらも分からず評伝と全く無関係な内容となっています。中村氏はこの本を読む歌舞伎初心者に気遣ったもかも知れませんが市川三升の評伝なんて一部の歌舞伎マニアしか読まない様な内容だけに市川宗家の代々など基礎知識として履修済みと考えるのが妥当であり、わざわざ独立した章を作ってまでページを割く意味がありません。もし三升に関わる範疇で書きたいのであれば初代から七代目までは系図を1枚張って彼が市川宗家の養子に入る事になった要因、七代目の子沢山と九代目の後継者に恵まれなかった点を重点に置いて第三章に書けば良い話だと言えます。
次に第三章についてですが三升の義父である九代目市川團十郎の生涯を書いているのも正直蛇足の感が否めません。
しかも、この九代目の事績自体、明治演劇史の九代目のページから抜粋した物に「守田勘彌 近世劇壇変遷史」や「九世團十郎を語る」などの著書の記述を付け足した物になっています。ホラ介みたいに言い回しを少し変えただけの丸写し程酷くはなく抜粋の範疇に留まる程度である事や不足している部分を他の著書からの記述で補っている為にその点は目を瞑るとしても三升とおよそ関係の無い九代目の事績、特に銅像や切手などと没後の事を触れた6や7など含めてを44Pも割いて書く意味は第二章同様に感じられません。
この章は第一章から話を繋げる意味でも後継者と目されていた五代目市川新蔵に先立たれ、後継者不在となった明治30年代の九代目から筆を書き始めて三升が婿に入った時点での市川宗家の様子を書いて第四章に繋げるべきだったと言えます。
結論から言うとこの第二章と第三章は2つに分けずに1つの章にすべきだったと言えます。
そして第四章ですがこれもかなりメチャクチャな章と言えます。この章では三升の妻である二代目市川翠扇と妹の市川旭梅が明治座などで女優として活動していた時期の話と三升が戦後になって創設した市川少女歌舞伎の話を一緒くたにして書いているのが問題点であります。
中村氏は市川少女歌舞伎の設立を妻たちが途中で挫折した女役者としての活動の延長戦上に考えていたのではないかと推察していますがこれはあくまで演劇評論家の高谷伸が雑誌幕間に書いた所感にしか過ぎず、三升がその様な考えを公式に出した物ではない以上、この事を一緒くたに考えるのはかなり乱暴な話であり別問題として書く事案と言えます。
その為、この市川少女歌舞伎は本来なら第7章に書くのが相応しい事であり、ここに書いた事で観た人は時系列が急に戦後になるなど混乱を来しやすく且つ翠扇と旭梅らの活動と関係性があるのかと誤解を生む可能性が高いです。
三升が地方の地歌舞伎の延長線上にある市川少女歌舞伎を保護して一門とした事は九代目が市川九米八を弟子と認めたのと同様に男女の性差を問題とせず歌舞伎の発展になればと思った可能性は確かにありますが、この問題を書くのであれば当時の歌舞伎評論家たちが市川少女歌舞伎を単なる地歌舞伎が東京にやってきた程度の過小評価をした事や武智鉄二が全否定レベルで彼女たちを拒絶していた事などの彼女たちを取り巻く当時の状況や三升が姪に当たる市川紅梅(三代目市川翠扇)を自身の開いた三升座等で活用していた事も本来ならもっと書いて然るべきですが中村氏はこの事については全く触れようともしないのも手落ちと言えます。
そして最後の第五章ですがこちらに関しては主として三升が大阪の中村鴈治郎を頼り初舞台を踏み三升を襲名し、歌舞伎十八番の復活上演を手掛けるまでを時系列順に書いてはいますが後述する通り初舞台に関する深刻な認識不足と調査不足が見受けられます。
更に問題なのはその内容の偏り方であり
團門の紹介…10P
初舞台から三升襲名前までの7年間…22P
三升襲名…2P
三升襲名後から昭和8年頃までの16年間…3P
なのです。
冒頭の團門の紹介についても内容が浅い上に直弟子ではない左團次や小團次までも紹介している点が理解しかねますがページ配分を見てもお分かりいただけると思いますが九代目の死後から7年後の明治43年に林長平と名乗り初舞台を踏みその後堀越福三郎と名乗って大阪にいた時分については20P以上割いて書いているのにその後の三升襲名までの3年間については僅か5P、而もその後の16年間をたった3Pで終わらせるという明らかに評伝として偏り過ぎた構成になっています。
これは次の章で指摘しますが彼が典拠と頼みにする演芸画報や各種資料が三升について述べた割合が多い初舞台前後のみ書き、記述が無くなるその後については殆ど何も書かないという歪な書き方をしているからに他ありません。
正直何冊も著作を出している人の書いた物とは到底思えない章立てとしか言えず、評伝としての体をなしていないとしか言えません。
③知識不足、調査不足、典拠不足
次に挙げるのがタイトルにある3つの不足です。
最初に細かなミスから申し上げると
「初代市川猿之助の母は、吉原の妓楼・澤瀉楼の娘。」(56P)
→母ではなく妻
「八代目だった実の兄が、嘉永七(一八五四)年に自殺すると、数多い兄弟の中でも、役者の道を歩んでいたのは権十郎一人」(64P)
→八代目市川團十郎の自殺した時点で現役の役者であった九代目の兄弟は三男新之助(後の七代目市川海老蔵)、四男初代市川猿蔵、七男壽(後の八代目市川海老蔵)と少なくとも3人いる。
「(九代目市川團十郎十五年祭追善公演を)帝国劇場は、座付きの六代目尾上梅幸、八代目市川高麗蔵、七代目澤村宗十郎らが出演した。」(92P)
→大正6年の時点では七代目松本幸四郎になっている。
「(高麗蔵の名跡が)途絶えるのを惜しんだ」(145P)
→高麗蔵の名跡は1856年に既に空き名跡となり、先代の高麗蔵(上記の三男新之助)も明治7年に死去していて既に名跡は途絶えていた。襲名は当時存命していた先代の娘お麗から「高麗蔵の名跡を継いでくれ」という依頼があって実現した。
「大正二(一九一三)年十一月号の「演芸画報」には、「福三郎の廃業」という見出しの記事が出ている。この記事は「九代目」の追善興行で、福三郎が東京での初舞台を踏み、やがて十代目團十郎を継ぐだろう、としている一方で、親友が素人に戻るよう諫め、本人も追善興行を最後に廃業する決意をしたようだ、としている。追善興行とは大正六(一九一七)年に予定されていた「九代目」の十五年祭のことだ。」(169p)
→中村氏は追善興行の事を十五年祭追善と推定しているが記事の中の追善興行は正しくは明治45年9月に予定されていたが7月の明治天皇の崩御により延期になっていた十年祭追善を指しており、後にこちらは中止となった。
と1回読んだだけでざっとこれだけあります。
この辺は歌舞伎に関しては初心者に近い著者などでまぁこれ位のミスは致し方ないと言え少し多い気がします。
しかし、次の調査不足に関しては流石に言い訳の余地がない物があります。
一番目に余るのが冒頭にも書いた昭和3年12月の南座で七代目松本幸四郎が助六所縁江戸桜を演じる予定であったのを市川宗家からクレームが入りすったもんだの末に上演を強行した件です。
この一件に関してこの本ではどう書かれているかと言うと
「昭和三(一九ニ八)年十二月、京都・南座の「顔見世」興行では、七代目松本幸四郎が、「助六」を演じようとしたが、三升は、季節外れであることを理由に許さなかった。結局は了承したものの幸四郎の長男・初代松本金太郎(後の十一代目團十郎)が「外郎売」を演じることは許さなかった。金太郎は、予定していた京都行きを取り止めた。この問題は波紋を呼び、世間の注目を集めることになった。
松竹創業者の白井松次郎、大谷竹次郎兄弟も乗り出して、三升、幸四郎ら関係者の間で話し合いが持たれた。
その結論は「故團十郎(九代目)が洗練した芝居を尊重し、上演に際してはすべて本格に則り、完全な演出を心がけよう」と申し合わせ、「市川宗家」側も矛を収めた。三升は、「歌舞伎十八番」を通じ、「團十郎」の権威を示そうとしたのだ。」(193〜194P)
とまるで一方的に三升側に非がない様な書き方をしていますが、これについて当時の新聞に掲載された幸四郎へのインタビューを見ると
「師匠團十郎が没して間もなく私達門下の者が全部集合して堀越宗家のお台所を考へて版権(上演料)を定めたのです。その時は百円二百円三百円などの説が出ましたが結局五百円を上演の度に差し出すことに話が全部で決定したのです。それが時勢にもよりますが三十倍五十倍の金額になってゐるそうです。(中略)今度の話の発端は師匠團十郎の没後初めて「勧進帳」を追善興行として上演する時中車、壽美蔵、段四郎と私が一日交代でも弁慶を勤めることになったのでしたけれど中車と壽美蔵は故あってこれを辞退しました。(中略)当然二人が一日交代で演る筈の處を壽美蔵(段四郎の間違い)さんから「貴方はまだ若い、今後何時でも弁慶を演る機会はあるけれど、私は老先長くないこの身体で今度をはづして又勧進帳の板にかかる時に出会ふかどうかわからない、だから今度は是非共私一人に勤めさせてもらひたい」との話、まだ若い聞いて見れば宗家もその意向だったのです、そこで宗家と「此の次には何んな都合があっても私に上演させる」といふ約束で(中略)その時の約束通り次の上演の時に私に宗家から一言でも挨拶をして呉れたらよかったが、悪くいへばひどく踏み付けられた様な事をされた、その時も私は父母に合せる顔もなく黙って居ました。最初の動機がこんなありさまでしたから私は其後度々勧進帳が出る度に誠にいやな苦い思ひをして舞台を勤めて来たのです。」
(京都日出新聞 昭和3年12月1日「助六」上演に就いて 上より引用)
「何事も問題が起るので今度の「助六」以後は断じて十八番ものに手をつけないと決心した様な次第です。松本家を名乗ってゐて松本家に伝はってゐる「暫」や「助六」を演らないで宗家のものを上演してゐる宗家へ忘恩せずといふ意志からであるのですが、その苦しい心底をも汲んでもらえないのでしたら是亦致し方のない次第だと思ってあきらめてゐます。」(京都日出新聞 昭和3年12月2日「助六」上演に就いて 下
より引用)
と九代目の没後25年間に渡る版権料の不当な値上げや九代目の三年祭追善公演での掘越ます未亡人の不公平極まりない決定から端に発した市川宗家側に対する不信感が外郎売の上演拒否で限界を超えた為であったと見て取れます。
この歌舞伎十八番の上演に関する版権料の話は何も幸四郎側の一方的な主張ではなくこれまで何度と無く話題になっており一例を挙げると大正11年11月に帝国劇場で暫が上演された時には版権料がそれまでの3,000円から2倍以上の7,000円にまで一気に値上げを行った事について釈明を求められ新聞のインタビューに応じた三升は
「従来歌舞伎十八番が上演される都度話は順調に済んでゐるが自分の考へとしては上演の押売りをしないそれが故人の芸術を浮薄なものにせぬ自分の責任だと感じて寧ろ出し惜しみの態度を執ってゐたのが或は此の問題を惹起する一因になったのかも知れぬ」
(都新聞大正11年11月22日付)
「従来「暫」の上演は余りせぬ単に「暫」に限らず十八番ものに一定の承諾料は定められていないのだから」(都新聞大正11年11月22日付)
と答えていて三升側の方で歌舞伎十八番の上演許可を出し渋っていた事や版権料は定まっていないと苦しい言い訳で大幅値上げした事を認めており、認めない理由を「故人の芸術を浮薄なものにせぬ自分の責任」と釈明しているとは言え、市川宗家側が松竹や帝国劇場に対して不当な値上げを行っていたのが分かります。(余談ですがこの時勧進帳と助六だけは1万円に値上がりした為、松竹、帝国劇場、市村座は対応を協議し今後一切歌舞伎十八番は上演しないと決めてしまい、事実東京では大正13年10月まで1年11ヶ月もの間歌舞伎十八番の演目は一切上演されませんでした)
更に言うとこの南座での助六騒動について中村氏は九代目の演出を尊重する事で矛を収めたとしか記していませんがそんな綺麗事で収まる理由がなく結論から言うと幸四郎側の言い分にも一理あったのか松竹、帝劇側と協議の結果、
・今後京阪で行われる歌舞伎十八番の版権料に関しては市川宗家に収めずに慈善事業に寄付する(京都日出新聞11月29日付)
と決まり、三升の余計な介入が却って市川宗家の貴重な収入源を減少させる結果となってしまいました。
もし三升が「「歌舞伎十八番」を通じ、「團十郎」の権威を示そうとした」という事実を書きたいのであれば本人へのインタビューもある大正11年の事を触れれば良いのであって「季節外れだから」が表向きの原因であり九代目の権威云々とは無関係の昭和3年の一件を取り上げる一方で歌舞伎十八番の版権料問題に一切触れない辺り彼の知識不足と調査不足なのは明らかであります。
次に酷いのが福三郎の初舞台に関する話で上述の通り資料が豊富な事もあって中村氏は福三郎の初舞台について以下の通りに私見を述べています。
「「演芸画報」の記事には「小倉の興行の二日目」に、福三郎と新井が、鴈治郎の一座に泊まっていた「梅屋」という旅館に来て、名前の相談をしたとある。当時の興行を記録した「近代博多興行史」を見ると、鴈治郎一座は、明治四十三(一九一0)年六月二十八日から七月五日まで、国鉄小倉駅近くの船頭町にある常盤座で興行している。「二日目」ならば明治四十三年六月二十九日ということになる。」(158~159P)
「いよいよ「林長平」として舞台へ上がることとなった。この時の演目は、鴈治郎と福三郎とが、それぞれ「演芸画報」の記事の中で語っていることに食い違いがある。鴈治郎は「良弁杉由来」「盛綱陣屋(近江源氏先陣館)」、福三郎は「銭屋五兵衛」「良弁杉由来」の順だったとしている。調べてみても、どちらが正しいのかは解らなかった。」(159P)
この部分、一見するときちんと典拠と考察を元に正しく書いているかの様に思えますが中村氏は資料や典拠の選定を甘く見たのか中々に悲惨な間違いをいくつも犯しています。
・初舞台の演目について
中村氏は福三郎の初舞台について上述の通り6月29日以降に小倉常盤座での良弁杉で初舞台を踏んだとしていますがこれは間違いであります。何故ならこの時の福三郎の行動について鴈治郎一門にいた市川箱登羅が自身の日記である「箱登羅日記」の中で以下の様に詳細に記しているからです。それによると福三郎は
「堀越氏東京より来ル 福三郎氏ニシテハ大記念日也」
(市川箱登羅日記 明治43年6月28日付より引用)
とあり、6月28日に東京から小倉常盤座にいる鴈治郎を訪ねた事が記されています。
「大記念日」と記述がある事からこの日を以て正式に鴈治郎の門下に入った事が伺えます。
そして翌日の29日に関係者一同に挨拶して役者になる事を周囲にも正式に表明し30日になって化粧や簡単な稽古を箱登羅相手に行った上で小倉に到着してから3日後の7月1日に
「堀越氏芸名林長平ト改 舞台へ登ル 但寿役加賀乃御金御用達也」
「此日はセリふハなし」
(市川箱登羅日記 明治43年7月1日付より引用)
とある様に「銭屋五兵衛」の加賀お金御用達の役で舞台を踏んだのが彼の正しい初舞台となります。
因みに7月1日の演目は
銭屋五兵衛
紙治(心中天網島)
蘭平物狂
であった事が当時の新聞である福岡日日新聞に記載されており、決して福三郎の記憶違いではない事が証明されています。
中村氏は「調べてみても、どちらが正しいのかは解らなかった。」とか書いていますが素人である私が僅か1日でこれだけ調べられた事を踏まえても如何に彼が何も調べていないかが如実に浮き彫りになります。
そして翌2日になり演目が変更となり
・妹背山婦女庭訓
・良弁杉由来
・揚巻助六
が上演され長平は良弁杉の供侍士役を振られて演じ
「良弁僧正の供侍士長平出勤 セリふ三言有ル 中々うまし大成功」
(市川箱登羅日記 明治43年7月2日付より引用)
と褒められており、福三郎の供述通り「銭屋五兵衛」「良弁杉由来」の順が正しいのが分かります。
ここにもある通り鴈治郎の記憶が良弁杉と盛綱陣屋と記憶していたのは銭屋五兵衛での彼の役が台詞無しのただの端役だったに対して良弁杉由来の供侍士役は台詞もあった事で文中にもある様にハラハラしながら様子を見守った事から記憶に強く残った様で同様に東京の記者にも台詞がなく急遽追加された銭屋五兵衛ではなく良弁杉由来が間違って初舞台と伝わってしまったのが分かります。
・何故間違えたのか
中村氏がここまで酷い間違いを犯したのかについて述べると
・典拠となる資料への過信
・歌舞伎の習慣についての基礎知識不足
が挙げられます。
彼がこの部分で典拠に用いたのは演芸画報のみであります。確かに演芸画報は戦前の歌舞伎研究において基幹資料の1つであり、研究するのに不可欠な資料であります。
しかし、演芸画報は今まで紹介してきた通り、時代の変遷によって編集部の方針も様変わりする雑誌であり、ましてや東京ではなく遥か離れた小倉に関する記述に関しては東京や大阪の公演と同一の信憑性があるとは限らない事を加味して使う必要があります。中村氏は三升及び鴈治郎のインタビューと該当月の地方の短信のみに全幅の信頼を置いて書いたのが明白ですが、鴈治郎に関係する資料であれば私が用いた市川箱登羅日記という超一級の資料が存在し大正初期の記述分までは翻刻され簡単に手に入れる事が出来ます。更に言えばもし知識不足で市川箱登羅日記に辿り着かなかったにしても続々歌舞伎年代記 坤にもこの巡業の詳細はある程度載っておりこの事に気付けた可能性は十分あります。
また、地方巡業であれば当時の地方新聞にも詳細が載っている為、これら資料を複合的に駆使しないと上述の様な視野狭窄となり、結果として間違った結果に行きつく事になります。
また、当時の歌舞伎の地方巡業は今と違って数日単位で演目が入れ替わる仕組みであり、この時の鴈治郎一座は五の替りまで用意しており、公演場所によって四の替りで終わらせたりあるいは五の替りまで出したりするなどしていました。(鴈治郎が言及した盛綱陣屋は最初に出す御目見得狂言で出していた演目になり彼は次の公演地の広島での盛綱陣屋を次の役だと誤認していたのが分かります)
この小倉では四の替りまで出していてしかもこの小倉でのみそれまで三の替りで出していた演目を急遽二の替りに変更して出している等、かなりイレギュラーな動きをしており、こればかりは演芸画報だけでは信憑性を確認するのは不可能であり現地新聞での裏付けは必須と言えます。
彼は能に関する仕事が本業であり、こういった戦前の歌舞伎の基礎知識がまるでなかった故にこの様なミスを犯したと言えますがいみじくも22Pに渡って長々と書いた挙句に自信満々に調べたけど分からなかったと書いてしまったのは評伝としてあまりにお粗末であり、彼の日頃の資料精査に対する甘い姿勢が透けて見えます。
トドメでは無いですが、中村氏は福三郎について
「台本を見れば、すぐに筋を覚え、セリフ回しを教えても、飲み込みが早かった。」(159P)
と鴈治郎のリップサービスを真に受けて福三郎を称賛していますが実際に指導した箱登羅によればこの後広島でだんまりに彼を出そうと思ったが、所作が硬くお話にならずボツとなり、廓文章で端役にも出る案があったそうですがこちらも台詞廻しがお話にならない程拙く、福三郎自ら降板を申し出た程であったと書いており、広島公演での彼の配役を見てもホンの一言二言セリフがあるかないかの端役や取って付けた役、後はこの時体調不良で幾つか役を降りた長三郎の代役などしか演じておらず役者として決して出来の良い部類でなかったのは当時の一級資料を見ても明白です。
④書かれていない襲名後から昭和初期にかけての三升の活動について
最後に第5章で僅か3Pで終わらせてしまった三升襲名から歌舞伎十八番復活を最初に手掛けた昭和8年までの三升の行動について私が把握している範囲内で簡単に触れたいと思います。何故かと言えばこの年数にして16年間の行動を見れば彼が何故歌舞伎十八番復活へと活動をシフトしたかについての重要な背景が分かるからです。
そんな訳で襲名した翌年、大正7年の彼ですが年間の出演スケジュールは以下の通りとなっています。
大正7年
1月:明治座
2月:明治座
4月:浪花座
6月:新富座
8月:歌舞伎座
9月:横浜座
11月:歌舞伎座
左團次一座に入った事もあり歌舞伎座に出れるのは真夏の8月と顔見世の11月のみで残りは東京の劇場では明治座と新富座のみの出演となっています。
特筆すべきは襲名披露も兼ねた4月の浪花座で世話になった鴈治郎と大正3年以来4年ぶりとなる共演を果たした位であり、11月の歌舞伎座で忠臣蔵に出た時は大序の足利直義と六段目の千崎弥五郎を演じましたが劇評には
「三升の千崎、六段目だけゆゑ何うにか切り抜け、案じたよりは物になってゐる方。」
と既に演技力を危惧されて端役であった御陰で悪目立ちせずに済んだと書かれる程危い評価となっていました。
大正8年
1月:明治座
2月:横浜座
3月:新富座
4月:明治座
6月:横浜座
7月:新富座
8月:歌舞伎座
9月:明治座
11月:明治座
この年の出演数は9ヶ月とかなり多めですが歌舞伎座の出演は8月の1回のみで後は前年と同じく明治座と新富座のみの出演となっています。
因みにブログでも紹介した通り4月の明治座では山崎紫紅に書下ろして貰った新作の実朝公で主役を務めましたが評価は
「この幕では飛んだ鳩がよし」
と小道具の鳩以下という屈辱的とも言える評価を下されており、演技力に難がある彼に対する厳しい評価が分かります。
三升の実朝
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20220106/18/germans-badman/75/c9/j/o0803108015057437444.jpg?caw=800)
大正9年
1月:明治座
2月:歌舞伎座
3月:新富座
4月:明治座
5月:新富座
6月:新富座
7月:歌舞伎座
8月:地方巡業
11月:新富座
12月:横浜劇場
この年も歌舞伎座に出れたのは年2回で配役も多賀大領や徳川慶篤と言った品格を求められる殿様役ばかりであり相変らず冴えない脇役に甘んじていますが12月だけは例外で左團次一座が帝国劇場の出張公演に出ている中、彼だけはお呼びではなく言わば戦力外通告された様な状態で市川小太夫や中村芝鶴、市村亀蔵、澤村源之助に混じり横浜劇場に出演していますがここでは彼も一幕出し物を出せるポジションであったのか国姓爺合戦を出して和藤内を演じています。
三升の和藤内
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20240622/23/germans-badman/9d/b3/j/o0698108015454766800.jpg?caw=800)
大正10年
1月:明治座
2月:横浜座
3月:新富座
4月:新富座
5月:明治座
8月:歌舞伎座
10月:明治座
12月:横浜劇場
大正10年も前年と然程変わりませんが、前年12月の横浜劇場出演からも分かりますがこの年から大正7年以降ずっと行動を共にしてきた左團次一座から徐々にではありますが別行動を取る様になり、この頃の彼は上記の実朝や和藤内など義父の九代目に習ってか古典新作を問わず演じてみたりといつまでも左團次の庇護下にいる事を望まず独自色を出そうと彼なりに模索していたのではないかと思われる節が見受けられます。
大正11年
1月:明治座
2月:横浜座
4月:新富座
5月:明治座
6月:新富座
7月:新富座
9月:帝国劇場
12月:帝国劇場
大正11年で特筆すべき事は九代目の十五年祭追善以来5年ぶりとなった9月の帝国劇場出演でした。
ここで彼は歌舞伎十八番の1つ、ういろう(外郎売)を初めて披露しましたがこれは本来であれば第6章での歌舞伎十八番上演の端緒として大々的に書いておくべき事柄ですが中村氏は錣引の景清についてのみ触れこの外郎売の復活はたった2行で済ましてしまっています。
しかもこの外郎売上演はもっと書くべき事があり、実はこの公演は当初九代目市川團十郎の没後二十年に当たる事からこの公演で義弟の五代目市川新之助が市川海老蔵を襲名する予定でした。
演芸画報3月号に記載されている海老蔵襲名の記事
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20240621/23/germans-badman/07/af/j/o0765108015454357239.jpg?caw=800)
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言わずもがなこの襲名はボツとなるも既に出演が決まっていたが故にせめてもの意地で九代目の二十年祭追善の意を籠めて外郎売の復活上演が実現したと言う事情がありました。
そんな彼の強い意志もあったのか1ヶ月前から平山晋吉を自宅に呼び出して脚本を練る様子が新演芸にも報じられる程の意気込みを掛けた物でしたがそんな努力も虚しく外郎売は上演されると
「雑然としてまだ十分まとまってゐない。」
「一向に面白くもない芝居であった、之は古劇を復興するに当たっての用意を欠き中途半端な演出をしてゐるからである」
と復活に際しての考察や準備が足りず中途半端な物に仕上がっている事を指摘する劇評が殆どでした。
この様に左團次一座を離れて行動したは良いものの、役者としての実力がない三升一人の力では海老蔵襲名はおろか九代目の追善すらもままならなかったのが当時の現状でした。
また、これはあくまで想像ですが昭和に入ってからの復活上演を年1回とかなりゆったりしたスケジュールで行っていた背景にはこの時の準備不足の指摘を受けて反省し時間を掛けて取り組んでいたのではないかと思われる節があります。
大正12年
1月:本郷座
5月:明治座
8月:地方巡業(東北)
9月:地方巡業
11月:帝国ホテル演芸場、地方巡業
12月:地方巡業
大正12年ですが見ての通り上半期の出演数が前年に比べて激減しているのが分かります。この理由は不明ですが同時期の雑誌、新聞等を見る限り三升は左團次一座から正式に独立して自身の一門の出演を中心とする劇場である團十郎座を旗揚げしようと模索していた事が分かっています。何でも秋には早くも旗揚げ公演を計画しているという事まで書かれていてその準備の為の休演だったのかも知れませんが上半期は僅か2ヶ月のみの出演となり8月には義弟新之助を連れて東北地方に巡業へ出かけましたが日程も終盤にほど近い8月28日の秋田ではこの年の3月に県内で起こった偽片岡我童事件(秋田市の土橋に新しく開場した東座の杮落し公演に片岡我童の偽物が現れたので見に来た見物が怒って暴徒化し警察が出張る事態となった)の影響からか「秋田に本物の市川宗家など来る訳ない」と頭から偽物だと決め付けられてしまった結果、記録的な不入りとなり3000円の赤字が出てしまい本物にも関わらず偽物扱いまでされてしまうという不名誉な目に遭っていましたが、本当の災難は東京に帰京した直後の9月1日に関東大震災に見舞われた事でした。ます未亡人始め家族の命は無事であったもののます未亡人の能天気な義侠心で逃げてきた避難者の受け入れに忙殺されて避難が遅れた結果、初代團十郎以来受け継いできた市川家の家宝、書き抜き、小道具の殆どが焼失してしまうという取り返しのつかない事態に見舞われました。
そして家族も遅れてやって来て既に満員だった為に悪気は無かったとは言え赤坂の市川中車の家から門前払いを受け四谷の團之助宅まで避難を余儀なくされる憂き目に遭い、当座の凌ぎで自宅跡で食堂を始めるといった避難生活を余儀なくされました。
そんな中でも三升は10月に上記の團十郎座を当初の予定から軌道修正して自宅跡に舞踊の道場兼芝居小屋として設立すると発表し一方で家族を食べさせる為に自宅にます未亡人と妻の翠扇を残し新之助や紅梅を連れて9月と11月に再び巡業に出かけるなど厄年とも言える大正12年を旅先で終える事になりました。
大正13年
1月:大国座
2月:大国座
3月:大国座
4月:地方巡業(東海)
5月:千歳座
6月:本郷座
10月:本郷座
12月:本郷座
震災の傷跡もまだ癒えない大正13年は只でさえ劇場が不足している為に左團次は麻布明治座、歌右衛門も浅草松竹座に出る等大幹部すら元小芝居の劇場に出る状態の中で三升に出演出来る様な劇場は小芝居の劇場しかなく1月22日に再建された四谷の大国座に出演しました。しかし、それも長くは続かず4月には勘彌と宗之助を迎えると言う事で敢え無く出演できなくなり仕方なく新之助や僅かな門弟を率いて東海地方へ地方巡業に出ざるを得ませんでした。
そして6月以降は再建した本郷座に左團次一座の一員として出戻り糊口を凌ぐ形となりました。因みに10月には彼及びます未亡人ら家族を不憫に思ったのか大正11年から上演を取りやめていた歌舞伎十八番の勧進帳を出しており、自身の意志を捻じ曲げて劇界の厚意に甘んじる形となりました。
大正14年
1月:歌舞伎座、浅草松竹座
2月:本郷座
3月:歌舞伎座
4月:浅草松竹座
5月:本郷座
7月:浅草松竹座
11月:浅草松竹座
大正15年/昭和元年
1月:本郷座
2月:本郷座、浅草松竹座
3月:地方巡業
4月:浅草松竹座
5月:浅草松竹座
9月:浅草松竹座
10月:邦楽座
大正14年は1月と3月こそ再建された歌舞伎座に顔を見せましたが残る月は本郷座と明治座の代替劇場扱いとして左團次一座が根城にしていた浅草松竹座に出演する日々が続き良くも悪くも大正11年頃の境遇に近い形に戻り翌大正15年も同様でした。
因みに大正12年に発表した團十郎座の計画はどうやらこの頃には既にご破算となったそうですが、三升はこの計画をさらに軌道修正し劇場建設は諦めつつも自身の一座を旗揚げする野望だけは諦めてはいませんでした。
昭和2年
1月:本郷座
2月:浅草松竹座
3月:中座
10月:歌舞伎座
この年は九代目の二十五年祭の年に当たりますが、特に追善公演を計画した様子はなく三升もこの年の出演は4ヶ月と少ない年となりました。
昭和3年
1月:歌舞伎座
2月:歌舞伎座
3月:歌舞伎座
4月:明治座
5月:歌舞伎座、新橋演舞場
6月:歌舞伎座
11月:本郷座
出演数が少なった前年に対し昭和3年は一転して出演数が倍近くなり再建から3年経ても3回しか出演が無かった歌舞伎座にも年5回出演するなど活躍が目立った年になりました。因みに小島二朔によるとこの頃に吉右衛門と三升が松竹巡業部の巡業に一緒に同行した際に彼は出し物として得意の矢の根を出したそうですが、この時松竹からは一切給金を貰っていなかったそうです。しかし、その様な事を妻や義母に知られては拙いと思ったのか彼の実家から給金相当分の金額を貰った様に偽装していたらしくそれでも彼はきちんと九代目の演じたそのままに矢の根を演じていたらしく当時の彼の惨めな境遇とそれにもめげずに舞台に励む彼の真面目な性格が浮かばれます。
昭和4年
1月:本郷座
2月:明治座
3月:新橋演舞場
4月:明治座
5月:明治座
6月:歌舞伎座
10月:新橋演舞場
昭和4年も3年と変わらずの7ヶ月出演を果たしていますがこの年の特筆すべき事は出演よりも歌舞伎十八番の上演の連発であり前年の11月に南座の助六上演を巡って幸四郎と衝突してあれだけ大騒ぎになったにも関わらずこの年の3月の歌舞伎座ではその助六を、6月にはあれほど拗れた幸四郎が勧進帳を演じるのを許可しており、更には11月には三升に先んじて左團次が歌舞伎座で関羽を復活させるのも許可しています。
「三升は、「歌舞伎十八番」を通じ、「團十郎」の権威を示そうとしたのだ。」と書くのは大いに結構ですがその割に昭和4年のこれら一連の行動に関して何も触れないのは些か不親切なのではないかと思われます。
昭和5年
1月:歌舞伎座、新歌舞伎座(新宿)
2月:中座、浪花座
3月:地方巡業(九州)
4月:歌舞伎座
8月:地方巡業(東北)
9月:東京劇場
10月:地方巡業
11月:新橋演舞場、地方巡業
そして市村座に続き帝国劇場も買収され東京の劇場が松竹で統一されたと同時に世界恐慌の波が日本にも訪れ、劇場も一気に不入りが続くようになった昭和5年ですが松竹は経費削減の為、200円以上の給金を貰う役者や大道具の給金を2割カットする方針を打ち出した事を受けて真っ先に不況の煽りを受けて生活苦から廃業する者が多く出た名題下の役者が共和会、中堅俳優らが優志会と松竹に対しての交渉力を得る為にそれぞれ結成され、三升は同じ左團次一座で顔を合わせる機会の多かった猿之助に共感する所があったのか優志会の方に関与していました。しかし、優志会が長十郎、翫右衛門などの左翼主義者の主張によって徐々に反松竹、劇界体制批判の色を強めて行ったのと松竹側からの弾圧もあり三升は会から早くに手を引いて11月には積年の悲願だった三升座を結成し妻翠扇等と新橋演舞場で慈善公演ながらも旗揚げ公演を行いました。
こちらは慈善公演と言う性質もあってか客入りも良くこのまま松竹の中で独自色を出して行く…と思いきや優志会の面々が松竹と対立を深めて先鋭化し松竹から脱退、独立して第二次春秋座として市村座で旗揚げすると三升は今こそ好機と思ったのか理外の行動に出る事になります。
昭和6年
2月:地方巡業(名古屋新守座)
3月:市村座
昭和6年2月、三升は新之助や新派の俳優ら三升座を率いて何と松竹を脱退してしまいました。
そして2月に名古屋の新守座で8日間、3月の市村座でそれぞれ独立記念の公演を開きました。しかし、2月の新守座は飛行機でビラ撒きをするなど派手な宣伝を行ったのと短期公演だったのもあって上手くいったものの、3月の市村座は三升と新之助だけでは集客が見込めないという欠点もあり密かに上方歌舞伎で不遇を託っていた三代目阪東壽三郎と二代目中村霞仙の引き抜きを画策していた事が松竹にバレて失敗してしまうなど計画の杜撰さも露見し市村座の公演は上手くいかず不入りに終わりました。そして市村座側も共演した新派俳優のみで公演を続ける決断を行い三升を切り捨ててしまいました。
更に悪い事は続き独立失敗から2ヶ月後の5月8日には義母である堀越ます未亡人が死去してしまうなど身内の不幸にも見舞われ、弓を引いても売れっ子であったが故に左團次と羽左衛門の仲裁で7月にあっさり松竹へと復帰した猿之助一派とは違って実力のない彼は松竹への復帰の話も出なかった事から三升は暫くの間何処にも出演せず役者を実質的に廃業してしまいました。
昭和7年
2月:中座
3月:地方巡業
7月:歌舞伎座
8月:地方巡業
11月:歌舞伎座
廃業中は専ら趣味の世界に没頭する一方でたまに都新聞にインタビューを受けたり九代目の回顧談を執筆したり演芸画報や映画と演劇といった雑誌のインタビュー等も受けてたりと気儘に過ごした彼でしたが昭和7年に入って左團次を介して松竹に侘びを入れて復帰し五代目市川染五郎の襲名披露を兼ねた2月の中座で約1年ぶりに舞台へと復帰しました。とは言っても役者の実力としては論外で独立にも失敗、市川宗家代々の家宝も震災で失うとまさに踏んだり蹴ったり状態の三升はそう簡単に使っては貰えず7月には演目が武田家に因む事から初代團十郎の先祖が甲府出身というこじつけに近い理由だけで端役で歌舞伎座に出演するなど涙ぐましい努力を続けていましたが、捨てる神あれば拾う神ありでこの頃の慢性的な不入りに苦しむ松竹が客寄せを兼ねて企画したのが11月の九代目團十郎三十年祭追遠公演でした。ここで市川宗家当主としての肩書が活きる事になり三升は口上の外に出し物として歌舞伎十八番の復活として解脱を上演しました。そしてこの追遠公演が起死回生の大入りとなり、気を良くした松竹の追善ビジネスもあってこれまで散々な目に遭ってきた三升もここに来てようやく劇界での立場を確保できる目算が付く事になりました。
昭和8年
1月:歌舞伎座
3月:大阪歌舞伎座
10月:歌舞伎座
11月:歌舞伎座
12月:南座
團十郎追遠公演の思わぬ大入りに気を良くした松竹は1月にも追遠延長公演として再び歌舞伎座で行い、3月には大阪歌舞伎座に場所を移して行われ三升はどちらとも出演して1月は不破、3月は再び解脱を演じました。
そして半年間に渡る追善を終えた三升はここに来て活動の中心を解脱、不破に続く歌舞伎十八番の復活へとシフトしました。
これには市川家代々の顕彰や創作歌舞伎の一端を担いたいという気持ちも勿論あったかと思いますが裏を返せば独立に失敗し役者としての実力は相変らず無い彼が九代目の偶像化を松竹が推し進める中で市川宗家当主の立場として自分が出来る事は何かという事を考えた時に初演以来先人が演じた事が無い故に比較される心配もなく、且つ上演するに当たっての当時の資料がない故に自分の自由に補弼が可能である歌舞伎十八番の復活上演であれば自分にも出来ると判断があったからでした。
この様に大正7年から昭和8年までの三升の活動を簡単に説明しましたが順風満帆どころか常に冷遇と不運が続く有様であり、彼自身も決して真面目一筋であり続けた訳ではなく松竹からの独立と失敗と言う苦い経験を経ており、こういった経緯を経て彼は市川宗家としてのアイデンティティを保つ為に歌舞伎十八番の復活を敢えて選択したのが分かります。
そしてその傍らで市川家の発祥の地である甲府を訪れて研究に勤しみ昭和10年には堀越系図を発見するという功績もきちんと残しています。
正直言って中村氏が歴代の團十郎の事績やら九代目の人生やらを68Pも使ってだらだら書く一方で團十郎座及び三升座を含む三升の活動を一切無視してこの本を書いているのは本末転倒も著しく理解に苦しむ所業であり、評伝としての体を成していないのは明らかです。
今回は自分が領分とする戦前部分に当たる第2〜5章を中心に述べましたがこの本を読んだ所で市川三升という役者の特異性が分かる訳でもなく、時間を消費して得られるのは中途半端且つ間違いを多分に含んだ知識みたいな代物に過ぎません。
もし三升の事を知りたいのであれば彼自身の著作、あるいは当時の資料である演芸画報や新演芸、第一次歌舞伎辺りを読むのが一番手っ取り早い方法となります。もし上記の事を理解した上でそれでも読みたいのであれば図書館等で借りて無料で読むのであればまだ金銭的損失はありませんので断然そちらをお勧めします。