栢莚の徒然なるままに

栢莚の徒然なるままに

戦前の歌舞伎の筋書収集家。
所有する戦前の歌舞伎の筋書を週に1回のペースで紹介しています。
他にも歌舞伎関連の本の紹介及び自分の同人サークル立華屋の宣伝も書きます。
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使用する場合はコメント欄やtwitterにご一報ください。

皆様、明けましておめでとうございます。2026年も宜しくお願いいたします。

さて、今回は正月に因んでこちらを紹介したいと思います。


二代目實川延若筆 達磨図


戦前の上方を代表する役者である二代目實川延若が描いた達磨の絵と狂歌になります。


達磨は迷いなく一筆で荒々しくも雄大に描いていて豪快と言われた彼の芸風と同じく非常に男気溢れる絵となっています。


拡大図


こちらは左側に「昭和丙子初春」とあり今から90年前の昭和11年1月に書かれたのが分かります。

昭和丙子初春の署名

そして狂歌は

砕窓を 九年入らんと 達磨より 我も舞台を 数年入らんや

と書かれています。

狂歌

これは達磨が悟りを得る為に洞窟の壁面に9年間も座禅して修行をした面壁九年と呼ばれる故事に因んでいて達磨の境地の様に唯舞台にだけ没頭したいという彼の決意が達筆な達磨の絵と共に書かれています。
何故この狂歌を書いたかは推し量るしかありませんが、1つ考えられるのが前々年の10月16日に十一代目片岡仁左衛門が、前年の昭和10年2月1日に初代中村鴈治郎がそれぞれ死去した事で上方歌舞伎も世代交代が進んだ事でした。明治時代の道頓堀で覇を競った鴈仁の死去により次世代の延若、魁車、梅玉の3人が名実共に上方歌舞伎を背負う立場となった事がこの決意をより強くしたのかも知れません。
この時延若は61歳。今の歌舞伎界なら丁度働き盛り世代になるであろう年齢ですが10年前に脳梗塞を患い奇跡的な回復を見せたものの、かつての豪快な演技に翳りが見え始めていた時期でもあり、そんな最中に描かれたこちらの絵と狂歌は上方歌舞伎を背負う立場になった延若の心境と決意をありのままに写した物であったと言えます。

昨年に七代目市川團十郎の神事獅子舞図を初めて投稿しましたが今年からは所有する絵画もこの様に折に触れて投稿したいと思いますので皆様、御贔屓、お引き立ての程を偏にお願い申し上げます。

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設営完了しました。

チ-05aになります。
今回も買ってくださった方に粗品あります。

コミケにお越しのお客様は是非どうぞ。

お待ちしております。

今回は14回目となる高砂屋文書、そしてその中でも初めての紹介となる江戸時代の書状を紹介したいと思います。

 

天保8年12月29日付 四代目中村歌右衛門宛 中村玉助書状(転載防止用加工済)  

 

今回は高砂屋文書の中では唯一となる中村玉助(三代目中村歌右衛門)の書いた書状になります。

うちのブログを見ている皆様でも知らない方もいるかと思うので簡単に説明すると初代中村歌右衛門の実子に当たり、寛政3年に父親の名跡である歌右衛門を襲名すると立役として一躍大坂で人気役者となり、その勢いを維持したまま江戸へと下り江戸生え抜きの役者である三代目坂東三津五郎と江戸の人気を二分する花形役者となりました。

その後大阪へと戻り天保7年1月に歌右衛門の名跡を弟子である二代目中村芝翫に譲って隠居名の中村玉助を襲名しました。

しかし歌右衛門の名を明け渡した事で緊張の糸が切れたのかこの頃から急激に出演する頻度が落ち始め玉助襲名から僅か2年後の天保9年7月に死去しました。

 

三代目中村歌右衛門の熊谷次郎直実 

(出典:寿好堂よし画 国東京富士美術館蔵「東京富士美術館収蔵品データベース」収録)

(https://www.fujibi.or.jp/collection/artwork/08600/)

 

天保7年の襲名直後の四代目中村歌右衛門(栢莚所蔵)

 

今回の書状の署名も玉助とある事から書かれたのは天保7年~9年の間であり、更に書状の最後に「酉年極月廿九日」と記載がある事から酉年=1837年(天保8年)、極月廿九日=12月29日である事から最晩年に書かれた書状だと比定する事が出来ます。

 

口上
何事もふ申候但々むねいつ
ばいに相成候て心さしの
金子は百金よりも嬉敷
心ていの所は子よりもまさる所
こんの承ぞゟは当歳の
酉のとし廿九日三つゟか
うつらうつらと
書付をして封じおさらん
段々忝候先は文書奉らん
早々 以上
酉ノ年極月廿九日
玉助
歌右衛門殿

 

内容としては至ってシンプルで四代目歌右衛門が玉助に対して幾ばくかの現金を送った事に対する礼状となっています。

この書状が書かれた天保8年の玉助は出演したのが1月、4月、9月、10月の4ヶ月のみであり、前年と同じくいつもなら出演する11月公演を休演しており翌9年は4月のみの出演と著しく出演数が減少しており既にこの頃から体調を崩し気味であったのが推察できます。となると当然給金も少なくなり生活も決して余裕があったとは言えそうにないのが窺えそれだけに歌右衛門からの資金援助を「心ていの所は子よりも嬉敷(心の奥底では実の子よりも嬉しい)」と大変喜んでいるのも納得がいきます。

江戸時代の役者は演技や型といった表立った部分は資料等にも多く残りますがプライベートの部分となると今以上に謎に包まれた部分が多くそれだけにこの書状は大名跡たる三代目中村歌右衛門の厳しい状態にあった最晩年の私生活が垣間見える非常に貴重な資料だと言えます。

 

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皆さま、いつもブログをご覧頂きありがとうございます。

皆様にお知らせがございます。

私、栢莚は12月31日に東京ビッグサイトで行われるコミックマーケット107に「立華屋」としてサークル参加いたします。

サークルブースは東チ-05aになります。  

 

配置図


頒布するものとしては以下の3点になります。

 

七代目松本幸四郎の勧進帳の真実 千六百回上演という幻想(新刊) 1,000円

 

明治から昭和にかけて活躍した名優、七代目松本幸四郎の代表的事績として知られる「勧進帳1600回以上上演」という有名な逸話について5年間掛けて当時の資料や日本各地に残る記録を当たり書いた検証本となります。

 

サンプル①

 

サンプル②

 

現在定説(俗説?)となっている1600回以上上演説の典拠の探索から始まり、何故戦後にこの節が主流になったのか、逆に戦前の人々や幸四郎本人は勧進帳上演回数に対してどう捉えていたのかの証言、更には「本当の上演回数」を探るべく40年間にも及ぶ幸四郎の勧進帳の上演記録を日本各地を5年間掛けて分かる限り詳細に記録した物となっています。

 

舞台のおもかげ 三代目澤村田之助 極 (既刊) 1,200円

 

幕末から明治時代初期にかけて活躍した名太夫である三代目澤村田之助についてまとめた本となります。

 

サンプル①

 

サンプル②

 

サンプル③

 

こちらは前回出した本の3版ですが、再版に当たり新たに

 

・おかる

 

・おりえ

 

・宮城野

 

・小糸

 

・小菊

 

・浦里

 

の6役7枚程追加した他、何と非常に貴重な

 

素顔

 

の写真も2枚収録しました。

また、既出の写真についても調査の結果、田之助で無いと判明した写真の削除や一部高画質の生写真に差し替えましたので前回、前々回の本を購入した方も楽しめる内容となっています。

 

サンプル④(既出写真の差し替え差分)

 

既刊

 

差し替え分

 

既刊

 

差し替え分

 

サンプル⑤(追加ページ分)

 

 

素顔のページ(ネタバレ防止の為画像を一部加工)

 

今回新規に収録した写真の内、おりえは二代目澤村藤十郎氏が所有する物と同じ従来の写真とは異なる珍しい写真の他、おかる、小糸、浦里、素顔の写真は博物館等には所蔵されていない初公開の写真となります。

是非お買い求めの上、ご覧下さい。

 

海を渡った役者達 朝鮮編 (新刊) 900円

 

大正時代から昭和10年代まで朝鮮(現在の朝鮮民主主義人民共和国と大韓民国)で行われた歌舞伎の巡業について書いた本になります。

 

サンプル①

 

サンプル②

 

サンプル③

 
北朝鮮の問題や韓国との歴史問題などがあり、近代史にありながら中々陽の目を浴びる事が無く、知られていない朝鮮での歌舞伎公演の様子を現地新聞等から調査し纏めた物で知られざる当時の様子が楽しめる一冊となっています。 
 
また購入された方には恒例の粗品を差し上げる予定です。是非お越しください、お待ちしております。

今回は再び演芸画報を紹介したいと思います。
    
演芸画報 大正11年11月号


前回紹介した8月号    

 

ここ何度か連続で特集して来た若手紹介企画も9月号を以てようやく終了し10月号は父段四郎を亡くし劇界の後ろ盾を亡くした猿之助が有楽座に出演する事になったのを受けて猿之助特集を組んだ演芸画報でしたが今回は平和祈念東京博覧会バブルが終わった劇界が客集めも兼ねて組んだ近松門左衛門二百年遠忌に関する特集号となりました。    
    
余談ですが昨年近松の三百年遠忌が営まれた事からも分かりますが1725年に亡くなった近松の二百年遠忌は正確には1924年=大正13年に行うのが正しいのですが、実際の所は第一次世界大戦の終結に伴う戦後恐慌がこの大正11年に入って徐々に歌舞伎界にも影響を及ぼし始めており、平和祈念東京博覧会バブルが終わった下半期の客入れの為の口実として前倒しして行ったのが実態でした。結果から言ってしまうと本来の二百年遠忌に相当する大正13年は御存知の通り関東大震災からの復興の最中であり近松の追遠どころではなかった為、2年も前倒しで近松の追遠をやった事は吉と出ました。
それはさておき、近松遠忌と言う事で東京の新富座と帝国劇場はそれぞれ
    
新富座    太字が近松物
    
真田三代記
平家女護島
連獅子
実録先代萩
三島話定助権八
    
帝国劇場    太字が近松物
    
真如
嫗山姥
長町女腹切
奴道成寺
    
と近松物を含む演目を上演しました。

 

吉右衛門の俊寛と福助の千鳥

 

幸四郎の甚五郎と梅幸の半七叔母

 

宗十郎の八重桐

 

またこの流れは近松物の馴染みが深い京阪でも同様に実施され、近松物においてはこの時代に右に出る者がいなかった第一人者である鴈治郎は「近松門左衛門翁二百年記念興行」と銘打った中座に出演し

 

二つの櫓
傾城反魂香
心中天網島
嫗山姥

 

太字が近松物

 

とほぼほぼ演目を近松物で固めるというベッタベタな追遠企画として演出しました。

 

鴈治郎の紙屋治兵衛と雀右衛門の小春

  

鴈治郎の浮世又平と福助のお徳

 

そして鴈治郎によく似ていたが為に彼の得意芸をよく掛けていた次男の中村扇雀もまた自身の青年歌舞伎一座において帝国劇場と同じ長町女腹切を京都明治座で上演しました。

 

秀郎の半七の叔母と扇雀の半七

  

一方で東京中が近松一色だったかというとそうではなく、前に紹介した市村座と有楽座は全く無関係の演目を上演した他、京阪に関しても同様に浪花座には我童と魁車という珍しい組み合わせで

 

指鬘縁起

板額
新舞踊露
地震
椀屋久兵衛
 

とほぼほぼ新作で固めるという中座の真逆を行く路線を貫いて新作好きや近松以外の演目を観たい客をフォローしており、客寄せ企画の一面もあった為か全ての劇場が近松追遠一色ではなく、あくまで主要劇場のみが上演する形となりました。

 

近松物を一切演らず独自路線を歩んだ市村座はこちらをご覧ください 

 

有楽座の猿之助の王子の人形、八百蔵の首振り人形、小太夫の猫

 
そして京都の南座と神戸中央劇場では近松とは全く縁が無い左團次一座が久しぶりに出演し近松追善の気配は微塵も見せず

勢平家物語
心中浪華春雨
尾上伊太八
末広
 
を上演して相変わらずの独自路線を突き進んでいました。
 

左團次の尾上伊太八と松蔦のおさよ

 

浪花座の魁車のマニパッタヲと我童のマヤ夫人

 

 グラビアページ紹介はここまでとして文字ページ紹介に移ると矢張りここでも近松追遠はウェイトを占めていて新富座と帝国劇場の劇評の他に双方の役者の近松物に対する芸談が掲載されています。

 

宗十郎の芸談

 
これまで帝国劇場で何回か近松物を演じた事はありましたがそこまで造詣が深いといった程ではない宗十郎ですがのっけから「萩野屋八重桐」の呼称を巡り帝国劇場側が「おぎの」であるのをうっかり「ぎの」とルビを振ってしまったが為に批判の矢面に立ってしまった事の弁解から始まっています。
その上で彼はこの演目を初代花柳壽輔から習って3回ほど上演した事があり、その上で若き日に舞台で見た九代目市川團十郎の演技を参考に一部を変えて演じていると述べています。特に九代目については台詞回しや工夫について学んだとして一例を挙げ
 
堀越さんが誰方かに櫛を貰ったのです。それをどこかで使ひたいと思ってゐると、八重桐をする事になったので、あの塀外で歌を待たしておいて、櫛で髪を撫で、唇で懐紙を一枚取って、その櫛を拭いたなぞ、あの荒事をする人が、なんといふ旨い趣向をしたものではありませんか。(中略)廉廉が傾城になってゐて、その背後附なぞ、此れ又なんとも云へない色気のある風姿なのでした。
 
と九代目の創意工夫の巧みさを称賛しています。
このコメントを見る限り團十郎が宗十郎をどう思っていたのかはいざ知らず、宗十郎は素直に團十郎の事を評価しているのが分かり、互いに関係が良好であった父高助や吾妻座出演を巡り険悪な関係になった義兄訥子に対していまひとつ関係性が不明であった宗十郎と團十郎の関係がどの様な物であったのかが分かる一級資料と言えます。
それはさておき、それ以外の独自工夫として
 
幸ひ座に松尾太夫がゐるものですから、常磐津を使ったら、それこそいぢらないで今迄と変った気分が出ようで、やりにくいのを特に頼んでやって貰ってゐるなぞは聊か贅沢かも知れません。
 
いつもは二丁上りは抜いてやらないのを、二上りまで使って床との遣り取りにしました。
 
と普段なら義太夫の所を常磐津を用いて演じているとしています。
これが良いのかどうかは分かり兼ねる所がありますが、後述の梅幸や吉右衛門が苦心の末に成るべく院本尊重で演じる中、謡曲という要素もあってか自由にアレンジしている部分が何とも宗十郎らしいと言えます。
 
梅幸の芸談

 

次に長町女腹切を演じた梅幸の芸談となっていますが宗十郎に比べると近松物は演じた回数が多い分、余裕があるかと思いきや、この演目は歌舞伎では明治40年8月に三崎座の女歌舞伎で1回、明治44年3月に四代目澤村源之助が1回演じたのみで誰も分からない演目となっており、梅幸の知り合いである三味線方の六代目鶴澤友次郎に連絡を取り文楽関係についても調べましたが、文楽でも演った事がないという事が分かり、梅幸は安易に引き受けた事を後悔しているとまで記しています。

その為、当初は岡本綺堂に頼んで輔弼してもらい演りやすい様にする事も検討したそうですが、帝国劇場が近松二百年遠忌を謳ってしまった為に輔弼しては近松物にはならないと近松三百年遠忌を打っておきながら自分の家族の名前を外題に書き加えるという事をした役者に見習って欲しい謙虚な姿勢でそれも断念したとあります。

その為、演目については

 

何しろ義太夫が三幕続きますから如何と思ひ、一つ文楽式に人形芝居のやうな気分にして見たいと、皆さんと相談して、人形のやうに動けないが、義太夫劇だから普通の世話物より間を細かく行かないやうそこを漠然とした気がするやう力めて演じる事にしてゐるのです。

 

型がないので正本に據って、自己の経験から割出して演じてゐるのです。

 

半七の身にも代へて自分が死ねば、三代まで祟るといふ、その祟りが消えると思ひ、可愛い一人の甥、夫を助けて、一人で禍を背負うといふ處を努めてお見せしてゐるのです。

 

と梅幸なりに模索しながら演じたのが分かります。

この様に常磐津を入れたりとかなり自由な工夫を加えていた宗十郎に対して模範にするべき物が無い故に肚での工夫に終始した梅幸と対照的な役作りの差があったのが窺えます。

 

吉右衛門の芸談

 
一方の新富座の方は中村吉右衛門がインタビューに答えました。今でこそ平家女護島は播磨屋の御家芸の1つとして認識されて久しいですが実はこの時が初役でした。
 
その上、経験豊富な父歌六からも聞いた事が無かったらしく、真面目な吉右衛門は近松二百年遠忌の名に恥じない為に院本読みから始める等、かなり苦心して役作りに挑んだ事が書かれています。
その上で俊寛の役について
 
先づ幕が開いて、花道から出て述懐してゐると、両花道から出てくる成経、康頼を居住ひでなく、立ち出でて『早く此方へ』と招く事にしてゐるのは三宅さんの注意でした。
 
何しろこの場の俊寛の心行きが複雑に書いてあるのですからむづかしく、たとへば都に帰る事を断念するについても、妹尾から妻が清盛に首打ち落され、母も自害、一子も行方知れずと聞いただけで妹尾を切るといふのでは、只自暴腹で心が厭らしくならうと思って千鳥に深く同情を寄せる事にしたらといふ、そこらも先生方に伺って演じてゐるのです。
 
と三宅三郎や複数の識者に話を聞きつつ、俊寛に自身の肚芸も加味して肉付けしつつ演じていると述べています。
 
そしてクライマックスである千鳥らを載せた船を岩壁から見守る場面の肚についても
 
赦免の船は磯を離れて出て行く、それを見送り見送りすると舞台は廻って真ん中へ大岩が出て、船の走り行く沖を見込みつつ、背後態に岩に縋って登り、松に掴まって枝がポキリと折れるも、向ふを見込んだ儘岩の上に立ち、両手を出して船を追ふ気力のあるのでもなく、只ぼうっとして自己にも帰らず、自己に帰らないから悲しむのでもなく、謂はば人間の抜殻、前にのめり、殆ど喪心の体で幕を引かせますが、普通で行けば、松の枝が折れる木の頭を、そこを今度はさうではなく、先に枝を折ってしまひ、愈々喪心を示すところで幽かに幽かに木を刻ましてゐますが、素で引いた日もありました。
 
と崖の上の俊寛は人間の抜け殻になったかの様に演じる様に努めて表していると述べています。
 
さて近松特集はここまでにして他のページに目を向けるとここ何回か続いた花形役者特集が終わった反動なのか珍しく大物役者の特集と言う事で七代目松本幸四郎の特集が組まれていました。
 
松本幸四郎特集
 
これまでの花形役者特集の様にプライベートの紹介などはなく、幸四郎について劇評家、研究者、役者問わず彼の印象について好き放題語るという趣旨になっています。トップバッターは辛口の劇評家でこれまで幾度となく幸四郎を酷評してきた岡鬼太郎で、彼の芸と同じくいつもの厳しい評価が並ぶと思いきや
 
先輩の偉物盡く逝いて、今では此優の芸などが、ギラリと大きく立派に光るからである。
 
幸四郎は柄が好い、声が好い、踊の心得がある。名優の中で揉まれて来てゐる。何時も云ふ事であるが、役者としては実に立派な資格を持ってゐる。(中略)幸四郎と云ふ人は、実に善い人である。役が一つ気に入らないと云っても、変な皮肉や露骨な憎まれ口やを直ぐ並べる、当代芸術家諸先生の中に在って、これはまた好い加減な人である。偶に何か謀計を用ゐるやうな事があっても、それは狸のお化である、邪気も他愛もないものである。
 
と彼の持つ優れた肉体的要素と類稀なる人の良さについても高評価しています。
 
続いて邦枝完二と二代目市川左團次の2人が寄稿しており、それぞれ
 
「(渡邊)「綱」をやり、「和藤内」をやり、「勧進帳」の弁慶をやってこそ、天下一品の役者であることを肯定させるが、新劇をやり世話物をやっては、全然あのセリフ廻しで感じを破壊して仕舞ふ高麗屋が…(中略)舞台監督の必要を最初に説いたのだから面白い。
 
私はせめて、高麗屋に、新劇と世話物を演ずることだけは、断念して貰ひ度いと思ってゐる。(中略)彼には、天下無二として自他共にゆるしてゐる、得意の型物の幾つかがあるのだから、たとひ範囲が狭いと云はれても、その持藝だけに、莨入の筒以上の磨きをかけて行ったなら、それこそ生きた国宝になることも出来ようと信ずる。」(是枝)
 
と是枝は岡が敢えて言及しなかった演技面についても触れ幾つかの時代物、舞踊に関しては右に出る者がいないと褒めつつも新作と世話物における壊滅的な台詞廻しには厳しい評価を下し、得意役に専念する様に助言しています。
この指摘に関しては後年勧進帳や大森彦七、紅葉狩といった歌舞伎十八番や新歌舞伎十八番物は絶賛されまた仮名手本忠臣蔵等でも高い評価を受けた一方で世話物は切られ与三郎の蝙蝠安等の当たり役はあったものの、河内山などは繰り返し演じてもあまり評価が高くなかった事からもかなり鋭く的をついた助言だったのではないかと感じれます。
 
一方左團次は明治44年の明治座脱退からの帝国劇場移籍について触れて
 
藤間さんは今の帝劇へ入る前は、私どもといっしょに明治座にゐたんでした。さう、かれこれニ三年は一座したでせう。(中略)その明治座を離れて、帝劇へ入ってしまはれたものだから、さあ世間は名誉欲に駆られたのなんのって、そりゃ一時はずゐ分非難もせられたやうです。しかし無論、世評と事実は丸きりあべこべでした。彼の人が、さういふ人柄ではないことは尠くとも私には分かります。私は藤間さんの人格を信じてゐたんですから。かうした出来事はそのものが、藤間さんの人格を疑わせるにすぎません。ぶちまけて云ふと、実際は彼の人をひどく贔屓にしてゐたさる方々が、大変に憤慨された所からおこったゆきちがひだったんですものね。」(左團次)
 
と脱退された側の左團次から見ても幸四郎の行動には彼を明治座へ推薦した矢澤某との契約トラブルが背景にあり同情する部分があったと記しています。余談ですが謹厳居士で知られた左團次は筋さえ通せば猿之助や壽美蔵の様に例え一座を抜けたとしても復帰に関して寛容な人でしたがその一方で不義を働いた人、一例を挙げると三代目尾上多賀之丞(多賀之丞襲名に当り高島屋門下から抜ける事について主筋の二代目右團次の所に挨拶には行ったものの、鬼丸襲名に際して世話になった左團次に何も告げずに襲名した為)は生涯共演NGにされた他、前進座移籍に当り無断で一座から脱退した弟子の市川左升には激怒して再三に渡る面会すら拒絶して復帰を半年以上拒み続けたという逸話がある等、かなり極端な性格をしており、そんな彼が一座からの移籍について微塵も怒りを見せず逆に同情さえしているのを見ると文中の発言もリップサービスではない事が分かります。
 
この様に芸にこそ厳しい指摘が見受けられますが、忖度という二文字から最も縁が遠い岡鬼太郎と市川左團次の両名をして人格面では称賛されている事からも後世に伝わる彼の聖人君子ぶりはこの頃から定評があったのが分かります。
 
そして幸四郎特集の後には青田刈りを求める読者の声に応える為なのか今度は若手を通り越して「子役特集」が組まれています。
 
子役特集
 
今回特集で紹介されたのは
 
・三代目中村米吉
 
・二代目中村又五郎
 
・尾上泰次郎
 
・四代目尾上丑之助
 
・久保田久雄
 
の計5人になります。
 
尾上泰次郎と四代目尾上丑之助
 
この内、映画俳優となった久保田と夭折した泰次郎を除けば3人は後に戦後歌舞伎を支えた十七代目中村勘三郎、七代目尾上梅幸、二代目中村又五郎であり、彼等に関する大正時代の貴重な人物評となっています。
それぞれ見て見ると
 
君は幸ひ親切な吉右衛門の手に育まれる事になった。「新樹」の清一以来君の天分は認められた。先代の魂が宿ってゐるとまで云はれている。」(又五郎)
 
君は此分で進んで行ったら必ず相当の人気俳優となるだろう。」(又五郎)
 
彼の舞台は子役ながら、「可愛気」がない。「こまッちゃくれて居る」そして「横暴」であるーかういふ声を屡々聞く。」(泰次郎)
 
彼の元気溌剌たる技芸と、天性の俊敏気鋭は、多くの因循委縮した変態的子役の間に在って、一頭地を抜いて居ると云ってよからう。」(泰次郎)
 
この四代目丑之助はなかなか愛嬌者だなとおもッたーのは、ここぞとばかりに父君や叔父貴が額に汗して、丑之助のため芝居以上の芝居をやッてゐる口上のまッ最中に、…ともすれば、低げた頭がもちあがって、列座の顔容を横眼にちらと眺めたり、退屈さうに手足をもぢもぢ動かすなど、頗る以て余念ないのだ。」(丑之助)
 
と謎の子役育成論しか書かれていない米吉以外の3人の評を見ると既に8歳にして売れっ子子役の地位を確立し将来を渇望されている又五郎、当時13歳と反抗期真っ盛りの泰次郎、7歳で初舞台を踏んだばかりの時の披露口上で退屈の余り、遊び出してしまい父親の六代目が気付いてドギマギしながら頭を下げさせる様子を見てこの子は大物になりそうだと期待される丑之助と十人十色状態であり、彼等のその後の活躍を知っている我々からすれば又五郎は概ねイメージ通りですが、紳士然している姿が印象的な七代目梅幸がこんなヤンチャだったのかと驚かされる物がある等、あまり知られていない彼らの幼少期を知る事が出来、戦後の商業出版物を見ている程度では得られない知見を得られる醍醐味が味わえます。
 
そして最後にもう1人だけ紹介したい子役がこの月の新富座の真田三代記で初舞台を踏んだ三代目中村児太郎になります。

 

中車の真田昌幸に抱えられているのが児太郎

 

この子は戦後の歌舞伎を知る人なら知らない人がいないであろう六代目中村歌右衛門であり、まだあどけない幼顔からは後年の芸格は想像もつきませんがこうして戦後の歌舞伎界を牽引する戦後第一世代は二代目松本純蔵(初代松本白鸚)を除いて大正11年に概ね出揃い我々が良く知る現代の歌舞伎と地続きになってくるようになります。

 

上記で触れた通り丁度この1年後は関東大震災により、東京は壊滅状態となり芝居どころの騒ぎではなくなり歌舞伎界も再編を余儀なくされますが、1年前のこの時は前倒しした近松追善が行われ次世代の息吹も感じられる等、至って平穏な日々となっていました。愈々これから混沌の大正12年へと入って行きますが、演芸画報に関してはまだ12月号がありますのでそちらを追々紹介したいと思います。

今回は久しぶりに市村座の筋書を紹介したいと思います。

 

大正11年10月 市村座

 

演目:

一、伊賀越道中双六

二、時平公七笑

三、紅葉狩

四、名工柿右衛門

五、五條橋

 

前回紹介した2月公演の筋書

 

8月の引越公演を紹介した雑誌帝劇の記事

 

これまで7年間に渡って続いて来た帝国劇場への引越公演も記録的な不入りなり、いよいよ衰勢を隠しきれなくなった市村座ですが翌9月公演は帝国劇場から2月に続いて宗之助を借り

 

踏絵
地震
鞍馬獅子
清水次郎長

 

と新作3本と攻めの姿勢を崩さない内容で幕を開けました。この内文恵と清水次郎長については酷評されているものの、中村吉蔵が書いた地震については
 

宗之助と友右衛門とを兄弟の役に廻して中に挟まった菊五郎の弟利平の真黒になってせっせと働く其動作に現れた細心の注意や、此人独特の工風とが見えて、六代目演出の従来の新劇中では、是が一番傑出せるものとの評判を取った。

 

と空地裏でも見せた繊細な心理描写がいよいよ新作でも発揮される等高く評価され入りの方も「大に息を吹き返した」と書かれる程の好調な入りとなり、何とか盛り返す事が出来ました。

そして迎えたのが今回の10月公演ですが、9月は曾我廼家に貸していた新富座も公演を開くとあって田村壽二郎と専務の岡本柿紅は一計を案じ、2つの仕掛けを行いました。

1つは吉右衛門脱退以降は友右衛門が時代物で孤軍奮闘するも吉右衛門程の成功には至っていない点をカバーする為、松竹と交渉し義太夫物や新作物に秀でていた片岡仁左衛門親子を借りる事でした。これにより友右衛門の負担を軽くすると共に新富座では歌右衛門や羽左衛門に押されて中々出し物を出せない仁左衛門の当たり役を出す事で集客の面でも安定を図ろうとする狙いがありました。

余談ですが前年の歌舞伎座消失に伴う引越公演の際にも帝国劇場に借りられて出演して居なかった仁左衛門が市村座の舞台に上がるのは二長町になってからこれが初であり、遡ると彼が大阪から上京して間もない明治15年1月公演以来、実に40年ぶりの出演となりました。

 

そしてもう1つが大正7年12月公演を最後に市村座を去りその後浅草を拠点にして暴れていた菊五郎の実弟である六代目坂東彦三郎を呼び戻す事でした。彼は市村座脱退後は直ぐには浅草に行かず最初は赤坂の演技座に拠点として活動していましたが初代中村又五郎を失った公園劇場が後釜に迎え入れる形で浅草入りして浅草を本拠地としつつ必要に応じて帝国劇場や有楽座にも時折出演するという体制を取っていました。

 

浅草時代の様子が紹介された演芸画報

 

帝国劇場にゲスト出演した時の筋書

 

そんな悠々自適な浅草ライフを送って来た彦三郎でしたが浅草入りから2年が経過して段々と大物感と新鮮味が薄くなってきた事や兄の影に隠れて主役が貰えない事への不満が小芝居である程度解消された事、そして兄率いる古巣の市村座が困窮に陥っている事などから戻れば吉右衛門と三津五郎のいなくなった穴埋めでそれなりに良い役を貰えるという打算から兄と和解して3年ぶりに復帰する運びとなりました。

 

主な配役一覧

 
余談ですが仁左衛門と彦三郎の両名が加入した事による仕込み費が上がったにも関わらず観劇料を他の月と殆ど変えなかったの反動なのかは定かではありませんが、これまであっても数ページしかなかった広告ページが本文と変わらぬヴォリュームになってしまっているのも今回の筋書の特徴と言えます。
 
向かって右側が筋書部分、左側が広告ページ
 

 

伊賀越道中双六

 
一番目の伊賀越道中双六は市村座でも以前に上演した事がある時代物の演目です。
今回は中々上演されない物語の前半部分に当たる饅頭娘と奉書試合のみの上演となっています。
 
吉右衛門が饅頭娘と奉書試合を演じた時の筋書
こちらは唐木政右衛門を友右衛門、お谷を鬼丸、宇佐美五右衛門を新十郎、渡邊志津馬を竹三郎、誉田大内記を千代之助、櫻田林左衛門を菊五郎がそれぞれ務めています。
6年前に吉右衛門に付き合った時は大内記を演じた菊五郎が今回はあまり二ンがあるとは言えない櫻田林左衛門に廻って、本来なら志津馬辺りが本役である千代之助に大内記を振っていますがこれは仁左衛門の親バカ故の配慮だったらしく、それを呑まざるを得ない市村座の立場が透けて見えます。
そんな背景を見透かしてなのか、劇評は主役の唐木政右衛門を演じた友右衛門のみを取り上げ
 
大友の政右衛門としての柄は調子は立派で、腹も十分に出し得てゐるが、何となく芝居に淋しい處がある。
 
と資質は十分にあると評価しながらも吉右衛門の持つ華に欠ける所があると指摘しました。
 
友右衛門の唐木政右衛門と千代之助の誉田大内記
 
菊五郎の櫻田林左衛門
 

吉右衛門の脱退から1年半以上が経過し、それまでの老け役から一転、市村座の時代物役者として慣れない吉右衛門の当たり役を懸命に努め及第点以上の成績は収めながらも事あるごとに吉右衛門と比較されてしまう友右衛門の苦衷がありありと感じられる演目となってしまいました。

 

時平公七笑

 
続いて中幕上として上演された時平公七笑はこの前歌舞伎座で久しぶりに掛かった事で記憶に新しい新歌舞伎十八番の演目です。
元々は並木五瓶らが安永6年4月の大坂角の芝居で書いた天満宮菜種御供の二幕目を福地桜痴が手を入れて活歴風にして独立させて明治30年11月に歌舞伎座で

九代目市川團十郎が今回の外題で上演した物となります。

今回は九代目市川團十郎の寵愛を一身に受けた菊五郎が鏡獅子に倣って出した出し物であり藤原時平を菊五郎、大納言菅楓を菊三郎、中納言定国を菊十郎、頭中将倉持を翫助、弾正大弼高列を伊三郎、判官代輝国を男女蔵、唐使天蘭慶を蟹十郎、菅原道真公を仁左衛門がそれぞれ務めています。
今公演における菊五郎と仁左衛門の最初の顔合わせ演目となりましたが、幾ら新作で菅原道真公を演じて好評だった経験があるとは言え、七笑の道真公は初めての挑戦であり出来が危ぶまれたそうですが
 
仁左の道真は品位に乏しいが、此の優の細かい技巧を見せずに哀れげな態度が嵌まった。
 
といつも得意とする改悪細かな工夫が活歴では邪魔だと感じたのか敢えて行わず普通に演じた事が却って良い結果になったと評価されました。
 
仁左衛門の菅原道真公
 
一方で市村座連の歌舞伎座引越公演の際にも絡みが無く、きちんとした共演は以前紹介した大正2年6月の歌舞伎座で上演された大石義雄で共演して以来、9年ぶりとなった菊五郎ですが今まで共演してきた吉右衛門とは大きくタイプの異なる仁左衛門相手にしかも2人芝居状態となりましたがこちらの出来はどうだったと言うと
 
道真が入ると決まったのに同情して若い時平が優しい言葉と涙と浴せ続け、別れを惜しんで置いた後で「道真はうつけぢゃ」と獨りで腹を抱へて笑ふまでを菊五郎は努めて上品なうちに横着な奸悪な人物として見せてゐた。
 
と最後の笑いで魅せる難しい芝居にも関わらず師匠團十郎を彷彿させる狡猾な悪人ぶりを見事に演じきり、8月の空地裏、9月の地震に続き今回も新作物で高い評価を受けました。
 
菊五郎の時平公
 

そしてここでは一番目では言及されなかった脇の役者についても言及され

 

鯉三郎の春藤玄番と男女蔵の判官照国との随官衣が、従来の「菅原」の芝居のが連想されて人目を惹いた

 

と鯉三郎と男女蔵の姿が菅原伝授手習鑑を彷彿させるものがあると評価しています。

この様に一見地雷臭が漂う演目でしたが、蓋を開けてみればほぼ好評であり、合わなそうでしかない菊五郎と仁左衛門の相性も問題になる事はありませんでした。

 

紅葉狩

 
そして中幕の下として上演された紅葉狩はこちらも以前に何度か紹介した事のある新歌舞伎十八番の1つである舞踊演目になります。
 
今回は市村座に復帰した彦三郎と菊五郎の3年ぶりの顔合わせ狂言として組まれ更科姫実は鬼女を菊五郎、維茂を彦三郎、従者を伊三郎、竹三郎、鬼丸、福之丞、照蔵、菊次、山神を千代之助がそれぞれ務めています。
演芸画報でも紹介した通り、市村座を抜けていた3年間で音羽屋の嫡流としての誇りを胸に実父の得意役などを満遍なく務めて演技座と公園劇場の座頭として気焔を吐いていた彼が満を持して戻って来た訳ですが彼の惟持について劇評は
 
彦三郎の惟持は柄に於て渡辺の綱で活気があった。
 
と惟持の筈が勢い余ってお家芸である戻橋の渡邊綱に見えてしまう位に血気盛んな所を見せていたとされており、脱退前の敵役などで燻って吉右衛門を苛めていた人間とは同一人物には見えない程に役者が大きくなった点は評価されています。
しかし、そんな勢ある彦三郎とは対照的に兄の菊五郎はと言うと
 
菊五郎の更科姫は舞の中の鬼女の心を見せる處や、二度目の鬼形になってからが殊によかった、が前半は何時も程の意気がなかった。
 
と更科姫として出てくる前半部分が低調で鬼女となる後半部分で何とか持ち直した事が分かります。
 
菊五郎の更科姫実は鬼女と彦三郎の維茂
 

見ての通り、この公演も菊五郎は全演目に出演するという大車輪ぶりであり、その辺りの疲労が舞台にも影響を及ぼしていたのかも知れませんがその辺りも含めて彦三郎の大車輪ぶりで何とかカバーしていた様です。 

 

名工柿右衛門

 
そして二番目の名工柿右衛門は以前に帝国劇場で上演した際には劇評から大絶賛された仁左衛門の十八番である榎本虎彦が書いた新歌舞伎の演目となります。
 
今回は時平公七笑に客演した返礼を兼ねてか菊五郎が付き合って出演し柿右衛門を仁左衛門、栗作を菊五郎、有田屋五兵衛を友右衛門、松蔵を千代之助、おつうを男女蔵、中里兵太夫を彦三郎がそれぞれ務めています。
 
新歌舞伎と菊五郎と言うと市村座に入ってから演じたのを除くと仁左衛門と9年前に共演していた時に出した榎本の書いた鼓の里が高評価されるなど、意外にも相性は良いタイプであり、今回の栗作についても
 
菊五郎の栗作もかうした役に特殊な味が出るのが不思議
 
と初役にも関わらずしっくりきている所を評価されているのが分かります。
この後菊五郎はこの演目とは長い間疎遠になっていましたが何を思ったのか倒れる直前の昭和24年2月の東京劇場と3月の大阪歌舞伎座でこの演目を続けて出し柿右衛門を演じて仁左衛門にも劣らぬ賛辞を得ました。しかもこの演目で記録映画まで撮影する計画がありました。直後の5月に倒れた為に幻に終わりましたが3月の大阪歌舞伎座の同時に演じていた越後獅子は映像で撮られて残っているのでもしかしたら柿右衛門も撮影されていた可能性も0ではないのでもし現存しているのだとすれば見てみたい物がります。
 
そんな菊五郎の好演に対して主役の仁左衛門はどうだったかと言うと
 
「名工柿右衛門」の仁左は幾度見ても、矢張り面白い處がある、細工場から出て書きの色を賞しながら、他の事は上の空の名工気質の中に娘の遺書を読んでからの恩愛の深い科しなど繊細巧緻煩い癖が少しも臭からぬ處に旨さがある。
 
と帝国劇場の上演時にも絶賛された陶器職人としての生きる男の矜持と自害したおつうを悲しむ人間味を臭くさせずに演じれる円熟した芸力を惜しみなく称賛しています。
 
仁左衛門の柿右衛門と菊五郎の栗作
 
そして劇評は脇の役者についても取り上げ市村座組では友右衛門と翫助を挙げ
 
友右衛門の有田屋と翫助の番頭が役柄に嵌ってよい
 
とそれぞれ評価していますが、この2人以上によく出来たと評価したのが千代之助で
 
千代之助の松蔵が名門の子にして珍しくかかる役に成功を示して来た
 
とこれまで父親の名演や同年代の福助の成功に反比例するかのように酷評され続けて来た彼がここに来て上手く演じれていたと手放しで称賛されています。
この様に仁左衛門と菊五郎の2人が劇評を唸らせる演技を見せた他、榎本の新歌舞伎物はあまり上演経験が無い市村組も遜色ない芸達者さを見せた事もあって今公演の中では元より、東京の主要劇場の他の演目と比べても新富座の平家女護島と共に白眉の出来と絶賛される程の当たり演目となりました。

 

五條橋

 
大切の五條橋は以前に歌舞伎座の筋書でも紹介した事がある舞踊演目になります。
 
段四郎と福助で演じた歌舞伎座の筋書

 

一見すると彦三郎の出し物に見えますが実はこちらは今回初めて市村座に出演となった彦三郎の実子である三代目坂東亀三郎のお披露目演目となっていました。彼は父親が公園劇場で活躍していた時期である大正10年10月、父彦三郎が客演していた帝国劇場での名月八幡祭の鶴吉役で初舞台を踏みました。これには帝劇の座頭であった伯父梅幸の計らいがあったと言え、父親が当時小芝居で活躍していた事を考慮すれば破格の待遇と言ってもいい扱いでありました。その後は父親と一緒に公園劇場に出演していましたが父親の復帰に伴い彼も市村座入りを果たす事になりました。その為、配役も主役である牛若丸を亀三郎、吉岡鬼治郎を菊五郎、吉岡鬼三太を友右衛門、武蔵坊弁慶を彦三郎と市村座幹部総勢でそれぞれ務めています。

しかし、劇評は亀三郎のお披露目演目である事を分かってか

 

切は彦三郎父子の「五條橋」があるが見残した

 

と完全に無視しており、亀三郎がどの様な演技をしていたのかは不明となっています。

彼はこの後も何度も紹介する事になりますので今回はこの辺で留めておこうと思います。

この様に今回の市村座は復帰した彦三郎とゲスト出演した仁左衛門の働きによる所が大きかったものの、時平公七笑と名工柿右衛門の2つの当り演目にも恵まれた事もあり、入りとしては程々となりました。

しかし、借りた仁左衛門の給金も高い為、収支的に見ると決して良くはなくそのせいか菊五郎の狩猟休暇の為に休演となった11月公演は兎も角、続く12月公演も休演となりその代わり11月26〜28日に榮三郎と男女蔵の勉強会である踏影会を行う事となりました。

 
差し込まれていた踏影会の告知紙
 

次の市村座の筋書は大正12年の物になりまた暫く間が空きますがお待ちいただけたらと思います。

今回は久しぶりに新演芸を紹介したいと思います。

 

新演芸 大正11年9月号

 

前回紹介した新演芸はこちら

 

演芸画報でこれまで9月号は以前紹介しましたが、何れも東京の劇場は夏芝居で手薄になり幹部俳優は巡業に精を出すか休暇を取ってそれぞれの別荘に避暑に出かけるのが専らでした。

 

演芸画報の9月号

 

今回もそのご多分に漏れず、東京の劇場は帝国劇場と新富座が舞台を開け、新富座は2月の段四郎の死去後は明治座や本郷座などを盥廻しにされていた猿之助一門と左團次一門+中車で、帝国劇場は市村座の引越公演と言う事で菊五郎&友右衛門一座と宗十郎一門の共演となりました。

 

帝国劇場の様子についてはこちらをご覧ください

 

新富座は

 

敵討龜山話
薩摩櫛
恋の魔術

 

と夏芝居らしい新旧織り交ぜた狂言立てでしたが、

 

さすがに入りは悪い。一つは不景気のせいもあるのだらうと思ふ。煽風器ばかりからからと鳴って、場内の半分ぐらゐは禿げてゐる。

 

と劇評が観劇した日は入りが半分程度と中々に厳しい入りであったのが分かります。

そして内容についても

 

二つ(敵討龜山話と薩摩櫛)とも夏向きの淡泊な芝居でさう力瘤を入れて見るやうなところもない代りに、行って得したかと思ふほどの興味もなかった。

 

とかなり辛口評価で、敵討龜山話では新作でありながら古典風味の敵役を演じる中車が面白かったのと薩摩櫛は内容そのものは佳作でよく纏まって居て左團次が悪くないと評価するのみでした。

 

猿之助の無手助と中車の赤堀水右衛門

 

左團次の竹田出雲、莚升の竹田小出雲、市蔵の竹田近江、壽三郎の三好松洛

 

余談ですがいつもなら大阪の劇場や京都の南座の様子も紹介していますがこの月は京阪ではどの劇場も歌舞伎が掛からないというかなり珍しい事が起きた為、新演芸も全く紹介していません。

 

さて、東京の様子はここまでにしてタイトル通り役者達の夏休みの過ごし方についてとなりますが、まず大正11年8月の巡業について述べるとこの月巡業をしていたのは

 

吉右衛門、三津五郎、秀調組

 

鴈治郎、雀右衛門一座

 

延若、右團次

 

の3組でした。

それ以外は皆休みであり、歌右衛門親子はいつもの伊香保、羽左衛門親子は沼津、仁左衛門親子は大磯、梅幸親子は金沢八景、宗之助親子は姉ヶ崎でそれぞれ避暑に入り休みを満喫していました。

 

親の湯治に飽きて焼き物を焼く慶ちゃん福助

 

木村錦花と一緒にトランプで遊ぶ梅幸一家

 

スイカに齧り付く仁左衛門親子

 

砂浜で遊ぶ宗之助一家

 

また、巡業組に関しても吉右衛門組は公演先の小田原でのオフの様子を、延若と雀右衛門は巡業中のオフや巡業帰りの様子を、鴈治郎一座の高砂屋福助は逆に出発前の様子がそれぞれ写真に収められています。

 

芝居前に砂浜を散策する吉右衛門、時蔵、もしほの三兄弟と三津五郎、千代子夫人

 

 

子供と遊ぶ雀右衛門

 

 

鉛筆を耳に挟みビリヤードに興じる延若

 

北海道巡業中アイヌ人と記念撮影した延若、右團次、巌笑

 

 

草木に水をやる高砂屋福助

 
そうかと思えば市川三升と松本幸四郎は休む事無く翌月の帝国劇場に出すういろうの稽古に真面目な様子で勤しむ姿も収められています。
 
築地の九代目邸の庭で写真に収まる市川三升と松本幸四郎
 
この様に皆十人十色で大正11年の夏を過ごしていましたが現代に生きる我々から見ると幸せそうに写っている澤村宗之助はこの僅か2年後に、尾上泰次郎と中村雀右衛門も5年後にそれぞれ世を去る運命にあり、写真では無邪気に笑っているまだ幼い宗之助や雀右衛門の息子に待ち受ける厳しい人生を考えると少々複雑な気持ちになります。
 
本来ならこれ以外にも文字ページの部分を紹介したいのですが私が持っている雑誌は表紙のボロボロ具合からも何となく想像出来るかと思いますが後ろの1/3が欠落している状態の物であり、文字ページがあまり残っておらず紹介出来ないのが残念です。
 
新演芸に関しては後1冊ほど所持していてそちらは保存状態が良好ですのでタイミングが来たらまた紹介したいと思います。

 

今回は最近入手した貴重な小芝居の筋書を紹介したいと思います。

 

※注:今回の筋書に出て来る役者名は当時名乗っていた名跡で記しますのでご注意ください。

 

大正8年3月 吾妻座

 

演目:

 

一、白虎隊

二、菅原伝授手習鑑

三、梅の由兵衛

四、明烏六花曙

 

大正7年から大正9年までの2年3ヶ月間という短い期間ながらも浅草に存在した劇場である吾妻座の筋書になります。

余談ですが浅草にはもう1つ吾妻座を名乗った劇場があり、そちらは吾妻座→浅草座と名前を変えた後、明治30年代に再度名前を変え浅草の小芝居の中心的存在となった宮戸座となりました。

 

劇場が出来た経緯についてはこちらをご覧ください

 

この劇場は元々相撲興行用の会場として第二国技館として建設されたものの、経営が上手く行かず抵当額の4割の安値で日活に売却され第二遊楽館と改称されていました。しかし、日活としても資金繰りに苦しみ銀行の融資を受ける条件に不良債権物件を買い取ったというのが実情で元相撲場のこの建物を持て余しておりを松竹が目を付けて借受けて改築した物であり、場所は現在の浅草2丁目13番地付近にありました。

 

地図の赤◯の辺り

 

今でこそこの場所は浅草の中心界隈の中に位置しますが大正時代は南側こそ浅草六区に面しているものの、西側は40以上寺院が密集する寺町ですぐ南東に瓢箪池という池が存在しすぐ北は奥浅草観音裏の私娼街であり、当時はお世辞にも人気の多い場所とは言えず治安もあまり良くない場所に位置していました。

 

吾妻座の写真(写真中央、右が浅草十二階こと凌雲閣、Wikipediaより引用)

 

それ故に松竹も比較的安価で借りられる事が出来、客筋を考慮して七代目澤村訥子を座頭に二代目中村福圓、吾妻市之丞とアグレッシブ寄りな役者で一座を組み途中入れ替わりはあれど概ねこの面子で1年間に渡り公演を続けていました。

 

劇場内部の構造と飲食の価格

 

今回の筋書は開場から1年が経過した大正8年3月の公演であり、上記3人から市之丞が抜け立女形を中村歌門、脇に尾上菊右衛門、老け役に二代目中村翫右衛門を加えた一座で公演を行いました。

 

主な配役一覧

 

白虎隊

 
一番目の白虎隊は岡本綺堂が「維新前夜」として書き上げた演目の後半に当たる新歌舞伎の演目となります。
 

左團次が歌舞伎座で演じた時の演芸画報

 

内容としては外題の通り有名な白虎隊の悲劇を史実さながらに描いた物で、その上で戦争に巻き込まれ亡くなる作兵衛の悲劇や白川千太郎とお鶴の悲恋などを絡めて戦争の齎した悲惨さを強調した物に仕上がっています。

余談ですが白虎隊の悲劇で誤解されがちな「会津若松城の方面から上がる煙を見て城が落ちたと誤認して切腹した」という俗説は昭和3年に入ってから作られた物であり、本作でも「お城を向いて切腹しよう」という描写はあるものの、切腹の理由については刀折れ矢尽きる状態となり、最早これまで追い詰められて敵に捕らえられて生き恥を晒す位なら切腹するという意外にも史実に即した描写となっています。

それはさておき、左團次系統の演目である事や立廻りがある為、訥子の出し物かと思いきやこちらは菊右衛門の出し物であり、滝澤七之丞とお鶴を菊右衛門、滝澤七之丞を其答、大寺鐵之丞を歌門、朝日嶽鶴之助と前川彦次郎を宗五郎、作兵衛を源十郎、森田八郎を莚登満女、佐藤源之助とお道を琴右衛門がそれぞれ務めています。

 

主役として名前が出たので菊右衛門について説明すると彼は六代目尾上菊五郎の弟子に当たる人物です。元々は六代目の実父である五代目菊五郎に弟子入りし尾上真雄と名乗って初舞台を踏み、明治31年に二尾上楽之助と改名ました。師匠の死後、六代目の弟子にスライドしてそのまま市村座に所属し大正4年4月に市村座での糠谷助右衛門役で四代目尾上菊右衛門を襲名しました。

 

襲名した時の筋書

 

詳しくは調べていないので何とも言えませんがその後大正6年2月までは市村座に出演した記録があり、4月公演から名前が無い事からここで市村座を脱退して小芝居に移った様です。

小芝居では同じ音羽屋一門の紋三郎と同じく六代目の模倣を得意とし、「め組の喧嘩」などは師匠ソックリであったと評価される一方で

 

菊右衛門はとき折舞台で気をぬいて、ひどく低調な芝居をすることがある。(中略)気の抜けたビールで、権三郎の間のび以上に困った。」(小芝居の思い出より引用)

 

と師匠さながらに舞台を投げる悪癖があったのが欠点であったと指摘しています。

 

尾上菊右衛門

 

その一方で長所として音羽屋以外の上方系統の世話物なども十一代目仁左衛門の型で演じられたらしく、ただの六代目のモノマネだけに留まらない腕があったとしています。

そういう意味では師匠が得意とする世話物とも全く異なる左團次の新歌舞伎物は全くの畑違いの演目になりますが文中では

 

新人扱いされて綺堂ものの新作などもやった」(同)

 

と演じていた事が触れられており、彼としては珍しい役の1つではあったそうですが演じた事はあったようです。

そんな彼ですが紋三郎よりも長命で昭和21年まで長生きした事もあり、昭和初期には師である菊五郎の元に帰参し大歌舞伎の芝居で脇を務めていた時期もあるなど一筋縄ではいかない役者人生を送りました。彼については神田劇場や大正末期から昭和初期にかけて四谷の大国座に出演していた時期の筋書を何冊か所有していますのでまた後程紹介したいと思います。

 

話がだいぶ脱線しましたが元に戻すとそんな菊右衛門はというと

 

菊右衛門の娘お鶴は病気の為いか兎角昂がらず

 

と病気だったらしく不調に終わったそうです。

そして劇評は他に源十郎についてのみ言及し

 

可なり深刻な所を見せ

 

と不調だった菊右衛門とは対照的に死が迫りながらも鐘を鳴らそうとする老爺の執念が上手く演じれていると評価しました。 

全体の評価は書かれていないので断定は出来ませんが主役の菊右衛門の不調であった事を見るに余り良い出来では無かったのが何となく窺えます。

 

菅原伝授手習鑑

 

中幕の菅原伝授手習鑑はお馴染み寺子屋の見取り上演となります。

意外にもこちらは訥子の出し物であり、松王丸を訥子、武部源蔵を福圓、千代を歌門、春藤玄蕃を宗五郎、よだれくりを莚登満女、御室園生を其答、戸浪を源十郎がそれぞれ務めています。

 

こちらは猛優の二つ名を持つ訥子が大暴れしそうな気がしますが意外にも

 

訥子の松王丸が堂々と威張り

 

大歌舞伎然とした大きな芝居をしたそうですが源蔵を演じた福圓の方が

 

福圓の源蔵は相変わらずの珍型を見せ

 

とこちらが大暴れして舞台をブチ壊してしてしまったらしく冷たい評価を下されています。

生憎他の役者については言及が無いので詳細は分かりませんが福圓の演技が全体の足を引っ張ってしまったのは間違いなさそうです。

 

梅の由兵衛

 
二番目の梅の由兵衛は以前に伊奈波明治座や市村座の筋書でも紹介した事がある世話物の演目です。
 

吉右衛門が演じた市村座の筋書

 

伊奈波明治座の番付の時に説明した通り、この演目は初代澤村宗十郎所縁の演目である事から訥子の出し物であり、今回は梅の由兵衛を訥子、金谷金五郎を菊右衛門、源兵衛を宗五郎、どぶ六実は十平次を琴右衛門、久庵を源十郎、小梅を歌門がそれぞれ務めています。

 

さて、寺子屋は福圓による思わぬ邪魔が入りましたがお家芸のこちらはどうだったかと言うと

 

訥子の由兵衛が立派な男達

 

とこちらでもいつもの立廻りに頼らない演技で芝居を魅せたらしく高く評価されました。

そして、源兵衛を演じた宗五郎と久庵を演じた源十郎についても

 

源十郎の久庵は大儲け

 

宗五郎の源兵衛も手強くて好かった

 

と何れも評価されており、福圓が出ていない事もあって良かった‥と思いきや琴右衛門という役者の演技が酷かったらしく

 

琴右衛門の非人はここでも嫌であった

 

とどうやら小芝居臭い演技で折角の好演に水を掛ける様な演技だったらしく、画竜点睛を欠く形となったそうです。

 

明烏六花曙

 
大切の明烏六花曙も以前に市村座の筋書で紹介した時代物の演目になります。
 

菊五郎が演じた市村座の筋書

 

今回は山名屋浦里を歌門、春日時次郎を福圓、山名屋勘兵衛を翫右衛門、おかやを琴右衛門がそれぞれ務めています。

さて、寺子屋で足を引っ張った福圓に梅の由兵衛で同じく足を引っ張った琴右衛門が揃う地雷臭漂う事になったこの演目ですが先ず福圓に関しては

 

福圓が時次郎と髪結お辰と手代彦六の三役替りで鮮かな所を示してゐるが、殊に彦六が面白く

 

と何故か主役の役ではない彦六での評価となっていますがケレンたっぷりの早替りもあり、源蔵よりは評価される形となりました。

しかし、琴右衛門の方はというと

 

琴右衛門のおかやは邪道に入って大いに悪くこれはこの人の為めに甚だ惜む

 

と又もや臭い演技に終始して足を引っ張っる形となり厳しい評価となりました。

更に主役たる浦里を演じた歌門についても

 

肉感的で憐が薄く

 

とこちらも低評価となっていて、折角福圓が比較的まともに演じたにも関わらず周囲の低評価もあって散々たる評価に終わりました。

 

この様に蓋を明けてみれば満点評価は訥子のみで福圓と琴右衛門が全体的に足を引っ張る形となりました。

入りの方も他の浅草劇場が源之助が妲己のお百を出した御國座や又五郎の籠鶴瓶を出した公園劇場、訥子の甥の傳次郎が四の切を出した宮戸座が大入り御礼や日延広告を次々出す中、吾妻座はついぞ一度も大入り広告が載らなかった事から見ても入りは余り良くなかった模様です。

 

この後一座は3月14日から二の替りとして仮名手本忠臣蔵の通しで巻き返しを図りましたが御國座が前に紹介した通り源之助の仮名屋小梅という耳目を惹きつける演目を出し、公園劇場も源氏店を出した結果、インパクトが半端ない御國座の一人勝ちになったらしくここでも巻き返しは失敗に終わったそうです。


残念ながら吾妻座の筋書はこれのみですが他の浅草の劇場の筋書は大正13年度の分を幾つか所持していますので後程紹介したいと思います。

 

 

今回は久しぶりにオマケのコラムとして以前に紹介した早稲田大学文化資源データベースにある舞台写真データベースについて紹介したいと思います。

 

舞台写真データベース

https://archive.waseda.jp/archive/subDB-top.html?arg={%22item_per_page%22:20,%22sortby%22:[%221222a%22,%22ASC%22],%22view%22:%22display-simple%22,%22subDB_id%22:%2253%22}&lang=jp

 

 

1.所蔵資料について

 

先ず概要について説明するとこちらのライブラリーでは演劇博物館が所蔵する284,539枚の鶏卵写真、絵葉書書、ブロマイドの一部を無料公開、大部分を館内公開しています。

 

何故「一部」かと言うとライブラリーのトップには

 

明治期までの写真についてはウェブ上で演目、役者、上演年などから検索し、画像を閲覧することができる。

 

とあります。これを一見するとシステム立ち上げ当時著作権や肖像権が切れていない可能性があった大正時代以降の写真は館内のPCのみの閲覧で、権利が消滅している明治時代の写真は全てフリーで公開されている様に見て取れますが、先ずこの文章からして「看板に偽りあり」状態で明治時代の写真もその殆どが公開されていません。

 

 

一例を挙げると著作権絡みがとっくに消滅している明治時代に歿した團菊左や当時の一流どころの役者を簡易検索で検索して見ると一目瞭然ですが

 

九代目市川團十郎:所蔵数409枚 内公開している写真:32枚

 

五代目尾上菊五郎:所蔵数190 内公開している写真:7枚

 

初代市川左團次:所蔵数72枚 内公開している写真:0枚

 

四代目中村芝翫:所蔵数19枚 内公開している写真:0枚

 

五代目坂東彦三郎:所蔵数45枚 内公開している写真:0枚

 

七代目市川團蔵:所蔵数132枚 内公開している写真:47枚

 

八代目岩井半四郎:所蔵数40枚 内公開している写真:0枚

 

という有様になっています。

 

この様に殆ど全ての資料が閲覧可能となっていた近世芝居番付データベースや一部の劇場ながらもそれなりの纏まった数が無料で閲覧できた演劇上演記録データベースとは真逆に所蔵する写真の99%近くが演劇博物館内のPCを通してでしか閲覧できない状態となっています。

その為、公開されていない99%の中から見たいor調べたい写真を見つける為には早稲田大学内にある演劇博物館に赴かなければならず、関東の1都3県以外にお住いの方にとっては閲覧のハードルが非常に高くなってしまっています。

が、ここを知っている方にとっては待ち受ける数々の困難の序章に過ぎない事に気付かれてると思います。

 

2.検索方法について

 

詳細検索の画面

 

検索方法は優れたシステムが備わっていた前回と同じく簡易険検索と複数の項目別に分かれた詳細検索の2つの機能があります。

主な相違点と言うと写真の関係上、配役という項目があり、役者名もしくは役名|[代数]役者名 を記入するでの検索が可能となっています。

一例を挙げると七代目松本幸四郎の弁慶の写真を検索したい場合、

 

弁慶|[7]松本 幸四郎

 

と入力すればタグ付けされている写真を絞り込む事が出来ます。

これにより28万件超ある写真の中からでもお目当ての写真を見つけやすい…と誰もが思いますが、実はこの配役欄こそがこのデータベースの抱える最大の欠点且つ初見殺しとなっています。

詳しく内容については次の項で述べたいと思います。

 

3.データベースの抱える致命的欠点について

 

①配役タグについて

 

さていよいよこのデータベースが如何に難易度上級者向けなのかな先程述べた通り、配役欄のタグこそが難易度を滅茶苦茶上げているのですがこの詳細について私自身が経験した事も踏まえて書いていきたいと思います。

 

先程の説明通り検索するのに役名|[代数]役者名 と検索すると任意の写真を調べ易いと書きましたが、実はこれには但し書きがあり、これはあくまで大正時代以降の写真についてはこの手段でほぼ正確に調べられるものの、明治時代の写真には通用しない可能性が高いからです。

何故かというと大正時代以降に出された絵葉書あるいはブロマイドの類にはきちんと役名と役者名が明記されている(絵葉書)あるいは演劇画報を始めとする雑誌媒体に掲載されている等、豊富な他資料等により特定出来る割合が高い(ブロマイド)のに対して明治時代、正確に言えば明治30年代位までに発行された鶏卵紙写真には公式の説明書が一切書かれていないからです。

その為、勧進帳の弁慶の様な誰が見ても認識出来る実に分かり易い役なら兎も角、殆どの写真がどの役などかは著名な古典物の役を除いて判別し辛く、役の項目が不明のまま登録されているのが多いからです。そして次に問題なのが写真ではなくタグの登録方法そのものであり、実は登録方法が統一されておらずタグ付けがグチャグチャになってしまっているのです。

 

一例を挙げると九代目市川團十郎の写真を探す場合、上記の様に 役名|[9]市川 団十郎 とだけ検索しても全ての写真は検索に出て来ない仕様になっていて全ての写真を探すには他に

 

・[9]市川 団十郎

・[]市川 団十郎

・市川 団十郎

・市川団十郎

・[9]市川 團十郎

・市川 團十郎

・市川團十郎

・[]市川團十郎

 

と合計8つの検索方法で検索する必要があります。何でこんなややこしい設定になっているのかについてかつて話を聞いた所によるとデータベースの立ち上げ時に写真を登録する基準を統一せずに職員の方が各々のやり方で登録してしまったのが原因らしく[]市川 団十郎や[]市川團十郎のタグで登録されている十一代目や十二代目の写真の中にも九代目の写真が混じってしまっているといった事象が起きています。更には[]が無かったり姓名の間に半角の空白を空けないで登録してしまっている写真も見受けられこれも別々のタグとしてカウントされてしまい、検索には出て来ないというトラップがあります。

また、絵葉書やブロマイドになると顕著になりますが、複数の人物が写っているとそれぞれ別のタグにせず

蝙蝠安|[6]尾上 菊五郎、向疵の与三|[15]市村 羽左衛門、お富|[12]片岡 仁左衛門

 

とみたいにゴッチャにして登録されてしまっており、これに上記の表記ブレ(与三郎が向疵の与三になっている等)が加わる為、便利な様に見えてその実探し難い仕様となっています。

これを最大でも9時間しかない演劇博物館の開館時間内で、しかも2つしかないPCで1枚1枚検索するのにはかなりの時間の消耗を余儀なくされてしまいます。

これだけでもかなり厄介なのですが実はこれで終わりではなく役者の代数を間違えて登録する、そもそも正しい役者名のタグで登録されていない可能性があるというとんでもハップンな地雷が仕掛けられていたりします。

上記の團菊左+團蔵クラスの写真ではこの様なミスは流石にありませんが所蔵枚数が少ない役者では多々見かけており、一例を出すと私が同人誌を出すに当たって調べた三代目澤村田之助では

 

・F70-00465(登録タグ:|坂東 家橘、|[4]沢村 田之助 )の写真は実は三代目の浦里の写真

 

因みにこれです(一応書きますがこちらはライブラリの物ではななく個人所有している写真です)

 

・F70-08344(登録タグ:|助高屋 高助、|中村 かほる)とF70-06037(登録タグ:|沢村 田之助、|助高屋 高助)の写真は全く同じ写真であるにも関わらず中村かほると沢村 田之助と別々の役者名で登録されてしまっている。顔やスタジオの背景から見るに中村かほるの方が正しい可能性が非常に高い

 

・F70-06033(登録タグ:[]沢村 田之助)の写真は初代市川女寅の写真

 

私が所有している別撮りの写真

これが田之助として登録されています(見ての通り切断されて無い筈の右足が写っており田之助で無い事が分かります)

 

・F70-06036(登録タグ:高尾|[]沢村 田之助)の写真は四代目澤村田之助の写真

 

・F70-06038(登録タグ:お軽|[3]沢村 田之助)の写真は五代目中村歌右衛門のお軽の写真

 

と言った具合に何とか苦労の末探し出したとしてもそもそもその写真が本当に登録されたタグ通りの役者で合っているのか?という点から疑わなくてはならないという難関が待ち受けています。(他にも坂東を阪東と間違えて登録していたり、初代市川右團次は右団次、右團治、右団治、斎入、齊入、斉入でそれぞれ登録されていたり、成駒屋と高砂屋の中村福助は襲名後を除くと基本ゴチャ混ぜで登録されてたりと役者によっては更なる初見殺しが待ち受けています)タグの表記ブレは兎も角、何でこんな致命的な間違えが起きて居るのかと言うと冒頭で述べた鶏卵紙写真の性質に起因して居ます。鶏卵紙写真に公式側から何の説明書きも無い以上、登録の為にスタッフが典拠とされたと見られるのが「裏書き」です。これは以前にも画像で出しましたが当時の人が墨などで写真の裏側の台紙に役名や役者名を記している物になります。(鉛筆や万年筆での筆記されている物は殆どが後世の人が書き足した物になります)

裏書きの実物

 

これの御陰で多くの写真の特定に繋がる一方でなんでも鑑定団で出てくる茶器の箱書き宜しくそもそも裏書きが必ずしも合っているのか?という信憑性の問題が必ず付随してきます。

裏書きのミスには


・当時書いた人がガチで間違えた

・後世の人が知識のないまま後から裏書きした


という2種類の可能性があり、コレクターとしての肌感覚としては後者の方が間違いの割合が高くなる傾向があります。

田之助の場合、四代目の高尾の写真はいざ知らず何故お軽の様な全くの別人の写真が三代目澤村田之助と自信満々に書かれたかについて確定情報ではないものの、傍証としてあるのが2022年に亡くなった六代目田之助が「歌舞伎は友達 三代目澤村田之助」のインタビューにおいて

 

八代目の三津五郎の伯父さんが、かなりの量の当時の写真を持っていまして、演劇博物館に寄贈すると言っていましたので見せていただいたんです。「これ、三代目田之助だよ」と見せてくれた写真は、やはり四代目のものでした。」(1996年)

と述べた証言です。これによると八代目坂東三津五郎が所蔵する鶏卵紙写真を演劇博物館に寄贈する前に見せてくれた三代目の写真がどれも四代目田之助の写真であったそうでどうやらこれらの寄贈した写真の中に上記の高尾やお軽の写真なども紛れこんでいた可能性が考えられます。

博識で知られる八代目三津五郎ですら見抜けなかった様にスタッフもまた裏書きの信憑性を確認しないままそのまま登録してしまった事によってこの様なあり得ないミスが起きてしまったと見られています。

百歩譲って裏書きの信憑性を確かめずにそのまま掲載するのであればせめて備考等に裏書きである旨を記して欲しいですし、歌右衛門のお軽に至っては戦前から知られている写真だけにきちんと訂正出来るにも関わらず放置しており、演劇博物館の権威もあり予備知識無しでは田之助の写真と疑いようなく誤解してしまいます。

 

②写真の非公開について

 

冒頭にも述べた様に表向き公開を謳っていながら実は殆ど公開していないという問題ですがこれは①の問題によりそもそも写真と役者がきちんと紐付けされていない為に明治時代の写真だと認識されていないという部分も勿論ありますが、明らかに明治時代の撮影にも関わらず公開されていないのは不明です。一説にはライブラリ関連に予算が付かない為に訂正や新規公開、公開後に寄贈された写真の整理がままならないという話も聞いた事がありますが公開されている写真と非公開の基準は全く以て不明であり、九代目市川團十郎の様に閲覧可能な写真の殆どが弁慶だけなど公開されている写真の偏りも多くいっその事全ての写真を非公開にした方がまだ良い位であり、良心的であった近世芝居番付データベースとは正反対に使い辛いデータベースとなってしまっています。

 

4.データベースを使わずに写真を調べる裏技について

 

最後にここまで使い辛いデータベースで苦労した私の体験から踏まえて限定的ではありますが対応策について述べたいと思います。

 

①松竹大谷図書館所蔵・演劇写真検索閲覧システム

 

一昨年立ち上がった松竹大谷図書館のライブラリですがこちらは次のオマケの記事で詳しく紹介しますのでここでは割愛します。

 

②国会図書館デジタルライブラリ

 

次に紹介するのが国会図書館デジタルライブラリです。文字通り国会図書館の資料をPC上で閲覧出来るシステムで一度国会図書館に行ってカード作成と簡単な登録を済ますかオンライン上での手続き、郵送で登録者限定資料も閲覧する事が可能です。

こちらでは利用者登録を済ませると前にも1度紹介した

 

「舞台之團十郎」

 

「五世尾上菊五郎」

 

が閲覧可能です。こちらの2冊は戦前に市川宗家、尾上宗家監修の元で出された公式写真集であり、一部の写真の背景が修正で消されてしまっている欠点さえ目を瞑れば「舞台之團十郎」は460枚、「五世尾上菊五郎」は992枚と上記のライブラリの収蔵枚数を遥かに上回っている且つその写真が何年の何の劇場の何の演目の何の役なのかがしっかりと掲載されており、九代目市川團十郎と五代目尾上菊五郎の写真を調べたいのであればこちらで概ね事が足りてしまいます。

 

また、最近の新規資料公開により新たに「魁玉歌右衛門」も登録者限定資料として閲覧可能になり、

 

・四代目中村芝翫

・五代目中村歌右衛門

・成駒家五代目中村福助

 

>の3人の写真に関してもこちらで閲覧する方が圧倒的に便利且つ正確な情報で知る事が出来ます。

 

魁玉歌右衛門

 

また、これ以外にも以前に軽く紹介した事がある大正時代の役者の写真集である「舞台のおもかげ」と「六代目菊五郎」も閲覧可能です。

 

「舞台のおもかげ」六代目尾上菊五郎

 

「六代目菊五郎」

 

木村伊兵衛の写真集がつとに有名な菊五郎ですが、この2冊は伊兵衛撮影以前の明治、大正期を撮影していて舞台のおもかげは明治後期から大正時代中期、六世菊五郎は大正後期から昭和まで収録しており、合わせて見れば子役時代以外の六代目尾上菊五郎の写真はある程度網羅する事が可能です。

 

初代中村吉右衛門

 

十五代目市村羽左衛門 

 

中村鴈治郎


尾上梅幸


また、舞台のおもかげは他にも吉右衛門と羽左衛門、鴈治郎、梅幸は閲覧可能(鴈治郎と梅幸は登録が必要ですが)であり、何れも明治後期から大正時代中期迄が収録範囲になっていますが一部明治前期辺りの写真も収録されていますのでこちらのライブラリで探すよりかは手間が省けるのは事実です。中でも羽左衛門の場合は戦後に出された「十五世市村羽左衛門 写真集」とこちらを合わせれば彼の当たり役の写真は概ね閲覧する事が出来ます。

 

③国会図書館デジタルライブラリ(館内閲覧)

同じ国会図書館デジタルライブラリですがこちらのデータベースと同じく館内のPCでのみ閲覧可能の資料もありますのでこちらも紹介したいと思います。こちらでは雑誌の演劇界が2000年代までは閲覧出来ますので安倍豊の演劇写真博物館やここでは触れていない戦後の舞台写真についてもこちらを見れば演劇博物館に行かずともある程度はカバーする事が出来ます。こちらが見れるのは東京の本館か京都府の関西館の2ヶ所のみですが、東京一択しかない演劇博物館に比べると西日本在住の方やより西方にお住まいの方にしてみると関西館のアクセスが余り良くないのを目を瞑っても「わざわざ東京に行かなくても写真が見れる」というメリットはかなり大きいです。
④文化デジタルライブラリー最後に独立文化法人 日本芸術文化振興会が運営するライブラリーについてです。こちらは今再建に揺れる国立劇場を管轄する法人として歌舞伎好きには余り良くない印象で知られてますが一方で国立劇場の公演を始め各種伝統芸能の貴重な資料を持つ博物館としての顔もあります。この中で舞台写真については戦前の分に関してのみ公式サイトの中で無料公開しています。こちらの特徴としてはブロマイドに重点を置いている関係上、明治時代の写真は僅かしかない反面、明治末期から昭和時代の写真が豊富に収録されており、次に紹介する松竹大谷図書館所蔵・演劇写真検索閲覧システムと併用すれば大正〜昭和時代は主だった写真は閲覧する事が出来ます。また、こちらのライブラリーの利点はもう一つあり、それは検索機能が使い易いという点です。役者名と演目名でのタグ検索は無論の事、役名検索も別途可能な上に演目名も所謂通称名(寺子屋、すし屋、山科閑居)でも検索出来るという便利な機能が付いています。その為、正式な演目名を知らなくても調べる事が出来る為に非常に取っ付き易いライブラリーとなっています。尚、こちらのライブラリの写真は無断転載厳禁ですので誰かさんみたいに承認欲求を満たす目的で濫りにSNSに無断で掲載するのは止した方が良いです。
4.おわりに
ざっとした説明になりましたが、ライブラリーと謳いながらもその実は館内閲覧専用にほぼ近い仕様な上に館内閲覧においてもそもそもタグ付けのブレや資料によって精度に差がある等、上で紹介した他のライブラリーに比べると周回遅れ状態で劣っているのが現実となっています。それでも強いて良い所を述べるとするなら大正時代以降の絵葉書やブロマイドは調べ難い制約はあるものの、ある程度は信憑性が担保されている事と何と言っても数の暴力膨大なまでの所蔵数がある事であり、調べたい対象を絞って根気強くお目当ての写真を見つけるまで演劇博物館に通い詰められる辛抱強さと財力、それとそもそも写真がタグ付け通り合っているか分かる鑑識眼をお持ちの方であればこのライブラリーも上手く活用出来るかと思います。最後に個人的な意見を述べると公開/非公開の問題は置いとくとして、鶏卵紙写真以外の絵葉書、ブロマイドの検索においても使い辛くしている諸悪の根源であるタグ付けの基準の統一をしなければならないのは必至です。特に役名/役者名、あるいは複数名の役者名を1つのタグにするというタグ付けの複雑さは本当に厄介であり、シンプルに役者名のタグ付けにするだけでも使い易さは格段に進歩すると思います。また、写真が合っているか否かの問題も同様で村山氏辺りでも招聘して直すべきだと言えます。次のオマケコラムは説明を割愛した松竹大谷図書館所蔵・演劇写真検索閲覧システムについて書く予定です。

今回は予告通り再び雑誌帝劇を紹介したいと思います。

 

雑誌 帝劇 第9号 増刊号

 

アンナ・パブロワ特集号はこちら

 

リンク先でも触れましたが今回紹介するはアンナ・パブロワ特集号となった9月号には収録しきれなかった9月の女優劇公演とアンナ・パブロワ来日公演の様子だけを纏めた増刊号となります。

前回紹介出来なかったのでこちらで9月公演について紹介するとこの月は松竹から市川三升、壽美蔵を借り、小芝居からは市川新之助が出演し対する帝国劇場は女優と幸四郎が出演し

 

雪の夕

太平記忠臣講釈

ういろう

 

を上演しました。

以前に未熟な知識で三升の評伝を書いた本を批評した際にも触れましたがこの公演は丁度明治36年に九代目市川團十郎が没してから20年目の節目に当り、当初は二十年祭追善として新之助が「市川海老蔵」の名跡を襲名する予定でしたが諸事情で御破算となり、二十年祭追善という銘打つ事も御蔵入りとなり、三升が意地でも追善の意思を押し通した結果、歌舞伎十八番に数えられながらも長らく上演が絶えていた外郎売を「ういろう」として上演する形で落ち着きました。

 

その経緯もあってか、三升は前に新演芸を紹介した時にも触れましたが他の役者が夏休みを謳歌する中、幸四郎と今回のういろうを輔弼した平山晋吉と共に1ヶ月間稽古と本読みを重ねて本人なりに万全を尽くした上で上演に臨みました。

しかし、そんなういろうに対する評価を見てみると

 

男女優一同面白さうに賑はしい。

 

三升の外郎売は吉例の拵へで出た姿が画面を見るように美しい」 

 

と女優勢も舞台に上げて踊る舞台姿は大切物として出したのは適していると言った演目の立ち位置に関する肯定側の評価や三升の舞台姿は研究しただけに様になっていると評価されてますが肝心の演技の方はと言うと

 

言ひ立ての白で評判となった「外郎売り」の骨を常磐津の方に譲って、身振り踊りで行かうとしたのは、口の重い、辯舌爽やかならぬ三升としては是非もないことであらう。幸四郎の工夫なる大勢の身振りにはスバ抜けて面白いところもあるが雑然としてまだ十分まとまってゐない。

 

一向に面白くもない芝居であった、之は古劇を復興するに当たっての用意を欠き中途半端な演出をしてゐるからである

 

ういらうの売立口上はチト科白が苦しさうにございます。(中略)未だ充分に統一されて居りません。

 

と科白廻しにおいて幸四郎以上に酷評の的に挙げられる三升の為に科白の殆どを常磐津に投げて舞踊物テイストに仕上げた平山晋吉の脚色と幸四郎の振付のお陰で大分マイナス面を補った部分はあれど少ない台詞は矢張り厳しく評価された他、そもそも舞踊物に改変した事への非難や舞踊物に仕立て上げたにしては洗練が足りないと言った評価が多く、総体的には不評が優勢を占める形となりました。

 

女優劇公演の劇評

 
折角九代目の二十年祭という節目に名跡の襲名も儘ならず、意地もあって出した歌舞伎十八番は不評と踏んだり蹴ったりの状態となりましたが、前に紹介した本の記事に書いた通り三升は辛酸を嘗めつつこの10年後に解脱を復活させ、以後歌舞伎十八番の復活に精力を注ぐ事になります。
 
一方、前の号を丸々特集号にして宣伝を組んだアンナ・パブロワ来日公演の劇評も収録されており、こちらは
 
されば、特等、一等、二等席=三、四等を除く=は現代名流の紳士淑女を以て満たされて居た
 
と初日は三、四等席は空席が見受けられたものの、特等から二等席はほぼ売り切りになるなど、バレエに対して当時の日本では一番認知度が高かった東京だけに入りは7~8割程であったと記されています。
 
その上で演目については
 
初日の夜、『アマリラ』と『ショピニアナ』と『瀕死の白鳥』と『バッキャナル』とを見た。得意なものだけあって矢張『白鳥』が一番面白い。
 
『アマリラ』にあらはれたヂプシーの娘は劇的技巧を弄して、眼にも、鼻にも、口にも、さうして足の爪先から手の指の先まで、身体全体に細かな感情を刻み込んでゐた。
 
『白鳥』の死に瀕する形の見事さと、哀れに美しく溶け行く気分とは抒情的舞踊の逸品である。
 
と瀕死の白鳥が一番出来としては素晴らしく、次いでアマリラとバッキャナルが良かったというのが概ねの見解でした。
 
パブロワ来日公演の劇評

 

そして各界の人間パブロワを観劇しに来ており、その内唯一10年前に1度彼女を観た事がある小山内薫は

 

慄えが来てゐる!

 

と興奮しながらも彼女の巧さについては

 

練習による技術である、巧緻である

 

とあくまで弛まぬ努力を称賛し、夜の女優劇公演の前にプライベートで観劇した七代目松本幸四郎も

 

イヤ日本の踊に比べることは出来ません、日本の踊は振りと所作ですが、露西亜のは唯からだの鍛錬ですねたしかに世界一ですよ稽古も毎日見ましたが物すごいやうです

 

と同じ踊りの実演家から観た評価として彼女の本番前の稽古の凄さについて語っています。

一方で指揮者の山田耕筰は

 

アマリラのやうな劇的なものはパ夫人には向きませんね、どうしても叙情の人です、写実に堕ちずその気分がよく表現されてゐるではありませんか

 

と音楽家としての目線で彼女を評価しました。

 

この様に否定的意見が多かった女優劇公演とは正反対にパブロワ来日公演は概ね好評であり、帝国劇場での公演の入りに関しても初日以降も満員にこそならないものの好調な入りが続き成功の内に終わりました。

 

この後前に触れた通り日本各地を巡業した彼女ですがこの内、一部地域の記録を見ると

 

京都「極めて繊細な曲線美を現した露西亜気分を極めて濃厚に表現した印象的なもの

 

名古屋「素晴らしい人気で定刻前から入場者の列が長く続いた程で、忽ち満員の盛況

 

と各地で評価も入りも好調であった事が分かります。

まだ欧米にすらバレエが普及していない時代に日本ではそれこそバレエが未知の存在に近かった時代にハイリスクな巡業を行いバレエの普及に努めた彼女でしたがこの来日から9年後の昭和6年1月23日、巡業先のオランダのハーグで風邪を拗らせ胸膜炎となり49歳の若さで急逝しました。

再来日こそ叶わなかった彼女でしたが、バレエが興行として成立する物だと証明した事や帝国劇場の顧客層であるいわゆるインテリ層にバレエの存在を認知させバレエの公演が定期的に行われる様にさせ、後年偶然にも名前が同じエリアナ・パヴロワがバレエ教室を開設し日本人バレリーナを養成した事を含めて彼女が日本に残した功績は決して小さい物ではありませんでした。

 

今でも帝国劇場は商業演劇やミュージカル作品を数多く上演しミュージカルの殿堂と呼ばれるなど、一部の演劇ファンから支持されていますが、戦前は今以上に演劇やそれ以外の物も含めて世界の興行物の流行の先端を担っていたのが分かります。

この雑誌 帝劇でも歌舞伎以外の紹介号がまだありますのでまた紹介したいと思います。