栢莚の徒然なるままに

栢莚の徒然なるままに

戦前の歌舞伎の筋書収集家。
所有する戦前の歌舞伎の筋書を週に1回のペースで紹介しています。
他にも歌舞伎関連の本の紹介及び自分の同人サークル立華屋の宣伝も書きます。
※ブログ内の画像は無断転載禁止です。
使用する場合はコメント欄やtwitterにご一報ください。

今回は久し振りに観劇の記事になります。


猿若祭二月大歌舞伎 夜の部(一幕見)


本来は2月4日に観劇予定でしたが病気で倒れてしまい、スケジュールを再調整した結果、一幕見ながら一谷嫩軍記の陣門・組討のみ観劇しました。



余談ですがこの前に座っていた外国人女性がけたたましく携帯を2度も鳴らした挙句、本人は謝る素振りも見せないどころか1回目の後電源も切らずバイブ設定もしないで大きな鼾までかいて寝てる(結局2回目の時のスマホは隣の夫が切る)、観劇気分を著しく邪魔されたのが非常に残念でした。あの女性は二度と来ないでいただきたいものです。


一谷嫩軍記


気を取り直して今回観たのはタイトルにも書いた通り一谷嫩軍記になります。

と言ってもいつもの熊谷陣屋ではなく、その前に当たる陣門・組討になります。


配役


熊谷次郎直実…中村勘九郎

熊谷小次郎直家、無官太夫敦盛…中村勘太郎

遠見の熊谷…中村種太郎

遠見の敦盛…中村秀乃介

平山武者所季重…中村吉之丞

玉織姫…坂東新吾


一谷嫩軍記の二段目に当たり熊谷陣屋では既に討たれた姿で出て来る熊谷直家が無官太夫敦盛の身代わりとなって討たれる場面を描いた物ですが今では歌舞伎座での上演頻度は熊谷陣屋と比較すると圧倒的に低くそもそも前回の上演が吉右衛門が演じた2015年と10年振りであり、それ以前も


1898年…九代目團十郎

1919年…初代吉右衛門

1927年…七代目幸四郎

1934年…初代吉右衛門

1936年…七代目幸四郎

1942年…七代目幸四郎

1951年…初代白鸚

1957年…二代目松緑

1962年…二代目松緑

1967年…初代白鸚

1973年…初代白鸚

1982年…十七代目羽左衛門

1990年…二代目吉右衛門

1993年…先代團十郎

1995年…先代團十郎

1996年…二代目白鸚

2001年…二代目吉右衛門

2003年…二代目白鸚

2006年…二代目白鸚

2008年…十二代目團十郎


と戦前と戦後は概ね6〜7年毎に1回ペースで上演しており1990年代以降、戦前によく上演していた七代目松本幸四郎の孫に当たる十二代目市川團十郎、二代目松本白鸚、二代目中村吉右衛門が得意役として各々2〜5年ペースで上演していた時期もありましたがこの3人が死去及び一線を退いた事もあって上演される事が激減していた演目でした。


七代目松本幸四郎の熊谷と初代澤村宗之助の敦盛


今回は初役となる中村勘九郎と勘太郎親子で挑んだ形となりますが先ずは勘太郎の無官太夫敦盛は正直言うと余り期待しないで観ましたが史実の敦盛と同じ年齢、一応は中村家の御曹司という立場も重なってか変に芝居っ気を出さずに実直に演じていたのが良く、声変わりが抜けきらないのか所々台詞廻しが苦しい箇所が散見されるのを目を瞑れば期待以上の品の良い敦盛でした。

これまで勘太郎は出て来ても意識の端には残らない役者でしたが今回の敦盛は子役の枠からは抜け出ていてどういう役者に育って行くか楽しみになりました。

次に出す時は弟の長三郎が演じるのか彼が再び演じるのか定かでは無いですが個人的には彼に再び演じて貰いたいと思います。


対して勘九郎の熊谷はと言うとこちらも初役とあってか至極丁寧に演じている印象でしたが良い点を挙げれば出の甲冑姿の勇ましさや敦盛を捕らえての名乗り、父親としての愛情故か見逃そうとするも味方のいる手前や息子の発破もあり、揺れ動く心情を見せながら手を掛ける所までは初役なのを考慮すれば非常に緊張した空気を出す事が出来ていました。

しかし、悪い点を挙げるとその後玉織姫とのやり取りや2人の遺体を戸板に乗せる、甲冑を馬に載せ首をしまい、馬を手繰り寄せての涙の場面と兎角1人でやる事が多い故に型と段取りに追われていて息子を身代わりにした父親としての慟哭に暮れつつ武士として義経の密命を守る為に敦盛を討ったと虚勢を張らざるを得ない部分の苦衷が少し薄いきらいはありました。

これに関しては回数を重ねるより他ない部分はありますが前月の実盛が回数を重ねて充実した出来栄えだった故に初役の彼には少々荷が重過ぎたのかも知れません。


それ以外の役者を挙げると遠見の播磨屋兄弟は可もなく不可もなく、玉織姫の新吾は出番が短い美味しい役ですが卒なく演じていて儲け物でした。


今回は新橋で演ってしまったばかりの為か陣屋無しの陣門・組討のみでしたが勘九郎に関しては少なくてもあっちよりかは遥かに素質はあり、芸風も播磨屋に近いので父が手掛けなかった熊谷陣屋の方も挑戦して欲しい役者ですので過去義経で1回しか出ていない彼がいきなり陣屋を出して失敗するリスクを考えたら前の今回の陣門・組討を演じてこの経験を次に繋げるという判断であれば非常に良かったと思います。


今月も残す事後数回ですがまだ観ていない方は滅多に出なくなったこの陣門・組討を見逃したら勿体無いので是非観ておくのをお勧めします。

今回は再び雑誌帝劇を紹介したいと思います。

 

帝劇 第12号

 

前月号はこちら

 

創刊以来初めての年末を迎えた帝劇は他の演劇雑誌に習って今回1年の総括と言う事で帝国劇場と有楽座の2つの1年間の歩みを振り返る年末号らしい誌面になりました。

 

帝国劇場の大正11年の総括ページ

 
帝国劇場の方は劇場としては初となる台覧、そしてこれまで新富座が主に担っていた外国の貴賓を招いての観劇というこれ以上ない栄誉に恵まれた4月の台覧劇を主として1月毎に公演を振り返る形となっています。
中身は定期公演の事は無論の事、3月、8月の市村座の引越公演や12月の歌舞伎座の引越公演、画像にもある様に月末月初に開催される短期公演についてもきちんと網羅しており、このブログでも紹介したエフレム・ジンバリストやアンナ・パブロワの公演について
 
大正十一年は多忙又意義のある年であった
 
パブロワを招いた云ふ一事でも、帝国劇場は今後の劇壇に何物か貢献し得たといふ自信を持つ
 
自画自賛海外の流行や最新の芸術を一早く日本に輸入する文化の橋頭堡を自認する帝国劇場として台覧劇にも劣らぬ名誉且つ冒険であったと記しています。
特にパブロワ公演は20日間と言う長丁場に加えて大人数での来日費用も相まって入場料がかなり高額となり客足を心配したそうですが9月号の増刊号でも触れた通り初日は7~8割程度の入りで同時に行っていた女優劇公演が終わり夜公演ではなくなった21日以降は客足も上向き傾向となり26日から29日の千秋楽までは満員に近い入りを記録した事を誇らしげに書いています。

 

有楽座の大正11年の総括

 
一方大正11年から帝国劇場の傘下に入った有楽座についても別個のページで振り返りを行っています。
有楽座はこれまであまり紹介していませんでしたが帝国劇場の傘下に入る前から所謂「貸し小屋」として新旧の演劇を問わず利用されてきたという歴史があり、大正11年も
 
・松旭斎天勝一座
・奈良丸(浪花節)一座
・舞台協会公演
・喜劇活動写真
・東都名人会(落語、義太夫、舞踊)
・琵琶大会&外国人素人演劇
・活動写真
・新舞踊発表会
・猿之助一座公演
・オペラ公演
・活動写真
・朝鮮古典舞踊公演
・新劇座
・曾我廼家蝶五郎一座
・東西名人会
・猿之助一座公演
・カトリック婦人会慈善公演
・活動写真
・曾我廼家五九郎一座
・舞台協会公演
・活動写真
・井上正夫一座
・舞台協会公演
・春秋座公演
・曾我廼家蝶五郎一座
・東西名人会
・中央電話局慰安公演
・児童劇公演
・歌舞伎公演(猿之助、勘彌)
 
と古今東西の区別のない演劇29公演が行われ多種多様の演劇を上演する劇場として機能していた事を誇らしげに記されています。
そして11月に出した所思わぬ好評を得ていた児童劇が今度は帝国劇場に場所を移して行われる旨も続けて記していて新作を坪内逍遥が書き下ろすという今の子供歌舞伎鑑賞教室や劇団四季の団体観劇とは比較にならない程本腰を入れて取り組んでいた事が伺えます。
 
12月26日から始まる児童劇公演に関するページ
 
1年の振り返りはここまでにして最後に12月の帝国劇場公演に目を移すと毎度お馴染み左團次一座の引越公演となっていて
 
・室町御所
・秋の別れ
・名大島功誉強弓
・本朝廿四孝
 
が上演されました。
 
12月公演の概要
 
演目を見ると普段左團次一座では掛けない名大島功誉強弓や本朝廿四孝があるのが目に付きますが、それもその筈で今回左團次一座にゲストとして中車、雀右衛門、宗之助が加わっている為に実現しました。

 

左團次の池田丹後、壽美蔵の足利義教

 

一番目の室町御所は大正2年3月に本郷座で初演され歌舞伎座でも上演した事がある岡本綺堂の書いた演目で足利家六代目将軍である足利義輝が暗殺された永禄の乱を題材に取った演目です。

 

詳細はこちらをご覧下さい

 

 

 

 

さて今回も池田丹後を演じた左團次ですが

 

左團次の丹後、その主義的な性格も見られたし、非人小屋の場で乞食頭を相手の物語りから最後に多門の名を呼びつづけながら死ぬまでの強い執着が最もよく現はされて居た。

 

と勝手知った演目だけに劇評でも絶品だったと評価しています。

 

中車の鎮西八郎為朝、市蔵の鬼夜叉

 

続いて一つ飛ばして3番目に上演された名大島功誉強弓はこちらも前に歌右衛門が出した時に紹介した事がある活歴物の演目になります。

 

歌右衛門が出した新富座の筋書はこちら

 

 

 

 

手足の不自由な歌右衛門が弓を射る豪傑を演じるミスマッチ感故に不評であった新富座に対して今回は團十郎の弟子の中でも活歴物の経験が豊富であった中車が演じた事や脇もいつも巡業でコンビを組んでいる秀調と市蔵で固めた事もあってか

 

中車の為朝巌とした中にも子供に対する愛情も見られすべてに於て立派、秀調の側女簓江、片市の鬼夜叉もそれぞれに充分

 

と息も合い、絵本太功記の光秀が当たり役でもある中車の雄々しい姿が為朝にも似合ったらしく、新富座の時とは異なり出来栄えは良かったと評価されています。

 

そして切に上演されたのが何気に帝国劇場には初出演となった雀右衛門の出し物である本朝廿四孝でした。

 

南座で上演した時の筋書はこちら

 

八重垣姫を演じさせたら右に出る者はいないと言われた歌右衛門に唯一拮抗しうる存在であった雀右衛門の八重垣姫に対して劇評も

 

今度の狂言での見ものはこの八重垣姫である。一体に他の優に求められない特殊なエロティックなにほりを持った優だけに口説きの場でも濃艶な色気のあるとが非常にいいと思ふ。

 

とこの公演の目玉はこれであるとした上で官能的な色気がある様を高評価しています。

対して帝国劇場側から残留して参加した宗之助が演じた勝頼に対しても

 

宗之助の勝頼もただに白く塗ったばかりでなく凛とした所が有るのがいゝ。

 

と中々演じない役柄にも関わらずキチンと弁えて演じているとこちらも評価していて総体的に見ても左團次の室町御所と中車の名大島功誉強弓を上回る出来栄えとなった様です。

 

こうして大正11年最後の歌舞伎公演も無事幕を下ろし、上記の通り26日から30日に行われた児童劇公演を以て大正11年は終わり、愈々大正12年へと入っていく事となります。

雑誌帝劇も発刊されていた8月号まで所有していますので引き続き紹介していく予定です。

 

 

 

今回は演芸画報を紹介したいと思います。

 

演芸画報 大正11年12月号

 

前月号はこちら

 

先ずいつものグラビア紹介ですが帝国劇場については雑誌 帝劇で紹介しますので割愛して新富座、明治座が歌舞伎を上演しました。新富座は大正10年4月以来1年半ぶりとなる鴈治郎一座の上京公演が行われ

 

・二の櫓

・敵討襤褸錦

・心中天網島

・お七

 

が上演されました。こちらの目玉演目は何と言っても大正6年の歌舞伎座以来5年ぶりとなる心中天網島で前月に近松追善をやったばかりで近松物が注目されていたというタイミングに普段なら河庄一幕で済ますのを近松追善に因んで炬燵の時雨に大和屋の場まで出す大出血サービスでぶつけて来た事も相俟って

 

新富の十一月は恐ろしい程の盛況を呈してゐた。

 

と言わしめる程の大入りとなりました。

 

鴈治郎の紙屋治兵衛と雀右衛門の小春

 

そして前回小春を務めた福助がいるにも関わらず今回は雀右衛門が小春を務めており、この配役について劇評では

 

大近松と鴈治郎の二つの溶け合った、完全な芸術品であった。

 

派手な芸の雀右衛門が小春をしっとりと見せたのも、福助のおさんが俐い女の貞淑な美しさと緩い感情の流れを、絵のやうに出し得た(中略)卯三郎の孫右衛門が期待以上に、情合の深い兄となったのが、総体の舞台効果を挙げた。

 

と配役がニンとピタリと合っていた故の成功だったと評価しており、雀右衛門の小春は福助以上の当り役だったとしています。

雀右衛門はこの他に自分の出し物として八百屋お七も出しており、珍しく雀右衛門が主役を張った公演となりました。

 

雀右衛門のお七

 

 一方の福助は新作の二つの櫓で主演を務めましたが

 

脚本としては読んで面白さうだが「藤十郎の恋」と同巧異曲の結末を見せた新作で、思ったよりは或る物に乏しかった

 

と前評判とは裏腹に中身が無いと批判されており、雀右衛門とは明暗を分ける形となりました。

 

さて、続いては鴈治郎が新富座に出た都合上、幹部組一座は明治座へと引っ越しして公演を開き

 

・玆江戸劇顔見世

・夜叉丸

・修善寺物語

・黒手組曲輪達引

・山姥

 

を上演しました。

 

羽左衛門の花川戸助六と左團次の鳥居新左衛門

 

 

歌右衛門の揚巻

 

 

 

左團次の夜叉王と芝鶴のかえで

 

新富座が心中天網島で近松物をタップリ見せる中、こちらは江戸歌舞伎だと言わんばかりに玆江戸劇顔見世という演目をわざわざ拵えた他、黒手組の助六に修禅寺物語と新旧の作品を織り交ぜた構成で幕を開けました。黒手組の助六は当代切っての助六役者として知られた羽左衛門とかつて福助時代に務めた時の美しさが話題を呼んだ歌右衛門がこちらでも揚巻を務めるのが売出しポイントでしたがこれが功を奏したらしく、

 

羽左の助六と左團次の鳥居、是程の嵌まった取合はい處へ、歌の揚巻、福助の白玉、彦三郎の紀文など錦上の華

 

久し振りで初日から満員である

 

と高評価と新富座に劣らぬ好調な入りを記録したと書かれています。

 

一方、鴈治郎が東上した関係で無人となった大阪には中車と左團次の女房役者である松蔦が派遣されそこに延若、魁車、我童、壽三郎が加わり

 

・聚樂の栄華

・すしや

・人非人

・極附幡隨長兵衞

 

が上演されました。

 

中車の幡随長兵衛と延若の水野十郎左衛門

 

 

延若のいがみの権太

 
また、この時浪花座にも市川猿之助一座が来阪し
 
・妖霊星
・蟲
・小栗栖長兵衛
・踊供養
 
と古典物を一切排除して新作のみで固めるという強気の姿勢で公演を開きました。
 
猿之助の北条高時
 
前月の有楽座出演もそうですが、この頃の猿之助は父段四郎の死後、新富座には一度も出演しないなど明らかに主流から遠ざけられているのが分かります。猿之助も猿之助でどうせハブられているのならいっその事と現代劇に新作舞踊とやりたい放題演じているのが分かり翌年の大正12年になるとこの両者の乖離の流れは更に加速し浅草の御國座に出演させられる事となります。
 
グラビアパートはここまでにして本文に入りますと今回のタイトルにも書いた歌舞伎劇衰退論特集が組まれていました。ここで言う歌舞伎劇とは古典物を指しています。売上面での歌舞伎の衰退が著しい昨今ならいざ知らず、戦前からこういう議論があった事に驚かされますがトップバッターの伊原青々園に言わせると
 
劇壇の二大明星であった菊五郎と團十郎とが、明治三十六年の春と秋に物故したので、狭い意味でいへば、我が国の歌舞伎劇は滅亡したのである。
 
と明治36年の團菊の相次ぐ死から筆を起こし、後継者として歌右衛門と仁左衛門が頭角を現したものの、
 
本来が歌舞伎劇で育った人ではあるが、舊い物よりは然うした新作ものの方が、此の人(歌右衛門)の水に合ふらしい。
 
義太夫物の「紙子」や「梅忠」を出し物にしたといふものの、此の人(仁左衛門)もやっぱり新作畑の役者である。
 
と2人ともニンは新作向きの人であるとしてその証左に明治30年代後半から40年代にかけて歌舞伎座で榎本寅彦による翻案物の新作がよく掛けられたのはこの2人の影響もあると指摘しています。
そして古典物である歌舞伎劇は中幕物の見取り演目として一定の命脈を保つ事となり、代わりにこの年の9月に明治座で上演された謎帯一寸徳兵衛の様な古典物を今の劇作家がリメイクするのが流行るだろうとして最後に改作への姿勢の一例として森鷗外が敷皮の曽我を改作した曾我兄弟の様な演目が出続ければまだ歌舞伎劇が延命するだろうとして結んでいます。
 

歌舞伎劇衰退論

 
これについては少々決めつけが過ぎる箇所が散見され次の岡本綺堂もチラッと述べてますが團菊自体が若い頃は活歴や散切り物にかなり熱を入れて数々の新作を出す傍らで古典物は菊五郎は偶に出していましたが團十郎は殆ど出さない時期もあり、お世辞にもこの2人が晩年はいざ知らず、あたかも古典劇の最後の守り手であったかの様な書き方には少々違和感を覚えます。
ただ、後半のリメイクに関する話は昨今早送り歌舞伎を演っては越に入っている某一座にも通じる耳の痛い話であり、これはこれで一見の価値はあるかと思います。
 
次に左團次に数々の新歌舞伎の演目を提供していた岡本綺堂も登場し、伊原青々園とは真逆に
 
成るほど、新史劇、現代劇、新作舞踊のやうなものが続出して、歌舞伎劇の範囲が酷く押縮められたやうにも見えますが、いつの代でも歌舞伎劇は然う無暗に上演されてゐるものではありません。
 
その当時の所謂新狂言に代わって新史劇、現代劇、新作舞踊のたぐひが近年出現したといふだけのことで、歌舞伎劇其物の上には今も昔も著るしい相違はないようですが、どうでせう。
 
と歌舞伎劇が衰退しているという見方はおかしいのでは?と疑問を呈しています。
 

 
その上で興行時間により江戸時代の様な長時間の上演が難しくなる中で歌舞伎劇をどう演じていけば良いかについても意見を述べていて
 
私に何の纏まった腹案もないのは前にも云った通りです‥一年に三回でも四回でも、歌舞伎劇ばかりの興行を試みることです。今日のやうに、古いものと新しいものとをごたまぜに上演するのは、どうにも面白くありません。俳優も困りませうし、観客の方でも色々頭を使はなければならないことになって、甚だしく気分を傷けられる場合があります。就いては、歌舞伎劇上演の場合には、なまじひの新作を交へずに、歌舞伎劇のより善きものゝみを選んで三幕でも四幕でも列べると云ふことにすれば、俳優にも相当の勉強が出来、観客もまた別種の興味を以て見物することが出来ると思ひます。
 
と新旧並べての上演ではなく、新作の月、古典の月と月毎に特色をハッキリ分けて公演を色分けしたらどうだと提案しています。
これは正に昨年の歌舞伎座がやっていた様な上演形態にも当て嵌まる物であり、綺堂の提案は鋭い線を突いているのではないかと言えます。
2026年の歌舞伎座のスケジュールも徐々に発表されていますがこの流れが今後主流になって行くのかは見守って行きたいと思います。

 

そしてもう一つ紹介したいのが大正11年の演芸画報の主力ページだった花形役者紹介シリーズの亜流となる名題役者のお宅訪問特集です。今回は上方の雄たる初代中村鴈治郎と二代目實川延若、そして三代目尾上多見蔵の計3人の紹介となっています。

 

表構へから見た大阪俳優

 

先ずトップバッターの延若の方からの紹介となっていて大阪西横堀(現在の大阪市西区南堀江1丁目)にある大の松という席貸(貸し会場)を買い取って増改築された自宅を訪れています。

 

大体この辺

 

プライバシーの喧しい今の世の中で芸能関係の人は極力自宅の秘匿に努めるのが常ですが延若はそんな事など気にも止めなかったのか

 

かつて表札を誰かに持って行かれた、それは『實川延若』と書いてあったから物好きな奴が盗んだのであらう。

 

と本名の天星ではなく、堂々と役者名の實川延若の名で表札を書いていた為に盗まれた事まで書かれる等、彼の自宅は近所の人にも知られた存在だった様です。(因みに筆者が尋ねた際には表札は天星になっていたとか)

そして自宅内もかなり変わっていて

 

・「昨日在宿、今日不在」という額が玄関にある

 

・その下に何故か自分と父親である先代延若の銅像が飾ってある

 

・銅像の前に「裏切」と書かれた看板が衝立代わりに置かれている

 

と派手な舞台が好みの彼に掛けて「延若調」と筆者が命名するくらいケバケバしい作りだったと記しています。

何故にこんな変わった家に住んでいるのか本人が不在であった為に聞けていないものの、「そもそも月に数日しかいないから気にしていないのでは?」ではないかと自宅の概念を考えさせられる様な考えを記者は推測しています。

余談ですがこの後暫くして延若はこの家を引っ越したらしく最晩年は四天王寺の北辺りに自宅を構えていたのが延若芸話等に書かれており、晩年に撮影された写真を見てもこの頃のケバケバしさは鳴りを潜めた普通の日本家屋となっています。

 

最晩年に自宅で佇む延若

 

次に紹介されているのが三代目尾上多見蔵の自宅となります。

 

当時の彼は天王寺石蓋(現在の天王寺区金塚、あべのキューズモール付近)に自宅を構えており、訪れた記者の見立てでは

 

邸宅といふよりかは寧ろ別荘といふ方が適当

 

邸前は植込みである。妙に曲りくねって這入って行く(中略)高塀の工合、入口のやや小ぢんまりとした工合、竹の植ゑてある體裁といひ、一切多見蔵式である。

 

という何処かの隠居宅みたいな渋い家であるとしています。

 

大体この辺(の辺り)

 

今では信じられませんが阿倍野辺りは大正時代は大阪市郊外、もっと言えば完全に田舎であり、前に住んでいた人も余りに辺鄙過ぎて引っ越した家を手に入れたそうですがこの自宅を多見蔵本人はいたく気に入っていたそうです。

 

前に紹介した中村紫香も萩之茶屋に住んでいましたが当時の大阪は道頓堀近辺、所謂ミナミに住む役者が多く、南堀江に住んでいた(?)延若共々ミナミ以外に住む彼らは少数派と言えました。

そんな役者らしからぬ自宅を見た記者は

 

多見蔵の性格、さうして舞台、その平常、一切の事がすぐあたまに浮かんでくるやうに出来てゐる邸宅

 

と芸風が良く言えば堅実、悪く言えば地味な彼らしい家だとややディスり気味に評しています。

 

最後に出てきたのが初代中村鴈治郎で彼は大阪南区玉屋町(東心斎橋2丁目)にありました。

 

大体この辺(の辺り)

 

現在プレジデント明光7号館隣と左隣の細長いビルがある場所に位置しており、細長い長屋形式の自宅となっていました。しかし、当時の鴈治郎宅は現在のプレジデント明光7号館の右半分相当の入り口部分と左隣の細長いビルの入り口部分に貸家を建てて他所の人間に貸しており、鴈治郎宅の入り口は僅か1間(約1.8m)しかない凸型の玄関となっていたそうです。

最初の延若邸にも劣らぬ謎仕様となっていたこの玄関部分について記者は

 

恐らくは賢夫人のお扇の方の差図で出来上がったのであらう

 

とお扇夫人の采配であるとしています。そしてこの夫人は夫が殆ど家にいない事が多いのを良い事に正月等になると貸家も含めて自宅前を平気でイ菱の幕で覆ってしまっていたらしく、借りていた側もそれを黙認する等かなり自由気儘に振舞っていたそうです。

また、鴈治郎が家にいる初日と千秋楽の日には

 

魁車の俥、新升の俥、成太郎の俥などが並ぶ。そして奥からは謡の声が洩れる。

 

と貸家の思惑など無視して家の前に門弟の俥が横付され夜遅くまで宴会が開かれる等、鴈治郎が居ても居なくても自由気儘ぶりは変わらないと指摘しています。

今から見れば傍迷惑な話に見えますが、前2人が余りに役者らしくない自宅だった事もあってか

 

玉屋町に鴈治郎の家がなかったら玉屋町はもっと心地が淋しくなるであろう。

 

と大正に入っても古風な役者らしい生活を送る鴈治郎のお陰で江戸時代から役者町であった玉屋町の雰囲気が明るくなっていると記者は述べています。

現在鴈治郎邸の跡に立つプレジデント明光7号館は廃墟であり、今では間取り以外に往時の彼の家を偲ぶ物は石碑一つ残っておらず、栄枯盛衰の激しさと寂しい物があります。 

 

次の号である大正12年1月号でまでは所有していますので引き続き紹介したいと思います。

 

今回は雑誌帝劇を紹介したいと思います。

 

雑誌 帝劇 第11号

 

前月号はこちら


近松追善公演一色であった10月公演を終えた帝国劇場は11月公演として羽左衛門に並び集客力に定評のある仁左衛門を借りての公演となりました。

 

前回紹介した仁左衛門が客演した時の筋書

 

前回紹介した時は名工柿右衛門と桜鍔恨鮫鞘で紹介していない大正10年の客演時は壷坂霊験記とさくら時雨と何れも古典と新作の組み合わせでしたが今回は

 

伊賀越道中双六

富士太鼓

彼岸の夕

廊文章

 

と仁左衛門の出し物は伊賀越道中双六に廊文章と彼の本領たる古典物で本役の老け役と真逆の二枚目役を務める事となりました。

 

仁左衛門の平作

 

仁左衛門の伊右衛門

 

今回はお抱えの劇評家でもある濱村米蔵が観劇前のポイントとして仁左衛門の出演する2演目についてのテーマで書いており、相反する役柄を演じる彼について

 

平作

「沼津」のclimaxは千本松原にあるので、仁左衛門の平作もここが矢張り一番優れてゐると思ふ

 

 

伊右衛門

「廓文章」の伊左衛門は更に立派な型物として、氏の演出は永く保存せらるべきだと思ふ。

 

と何れの役もベタ褒めしているのが分かります。

 

 

仁左衛門についての記事

 

因みに実際の舞台はどうだったかと言うと新聞の劇評には

 

平作

最初の荷担ぎ千鳥足、次のお米と重兵衛に対する情合、詰の腹切まで気丈で弱々しい嵌った出来栄え

 

伊右衛門

仁左の伊左衛門、新富の鴈治郎の紙治に対して皮肉である、此前よりさらりとして来たが、面明を使った花道の「今日の寒さ」など矢張此優の面白い處がある

 

と何れも大絶賛していて、廓文章の伊右衛門に至っては新富座に第一人者である鴈治郎が居ながらにして「お手本と見るべきものであらう」とまで言わしめる程の完成度だったとしています。

辛口の劇評をしてここまで言わせる仁左衛門の演技に加えて専属俳優達も新作2つに歌舞伎十八番の1つ暫を幸四郎の鎌倉権五郎景政で出しており、新作は富士太鼓は今一つだったそうですが、彼岸の夕はボーダーラインはギリギリ越えているとの評価で、暫はコテコテの洋風建築である帝国劇場の舞台とは調和していないと嫌味を言われつつも初役の幸四郎は「立派な事は無類と云へよう」と仁左衛門にも劣らぬ出来栄えだと評価されました。

 

幸四郎の鎌倉権五郎景政

 
暫についての伊坂梅雪の解説
 
余談ですがこの暫を巡ってこの帝劇や商業出版物等では一切触れられていない大騒動が勃発していました。
それは金亡者傲慢満壽刀自堀越ます未亡人がそれまで一律3,000円だった歌舞伎十八番の版権料を何の事前通告も無しに
 
・暫は8,000円(約1,300万円)
・勧進帳と助六は1万円(約1,600万円)
 
を予告無しに2倍以上も値上げした事でした。
これについて新聞のインタビューを受けた五代目市川三升は
 
従来歌舞伎十八番が上演される都度話は順調に済んでゐるが自分の考へとしては上演の押売りをしないそれが故人の芸術を浮薄なものにせぬ自分の責任だと感じて寧ろ出し惜しみの態度を執ってゐたのが或は此の問題を惹起する一因になったのかも知れぬ」 (都新聞大正11年11月22日付)
 
従来「暫」の上演は余りせぬ単に「暫」に限らず十八番ものに一定の承諾料は定められていないのだから」(都新聞大正11年11月22日付)

 

と値上げの理由を説明していますが、どう考えても理由にはなっておらず当初500円に過ぎなかった版権料が18年間で20倍にまで膨れ上がった事に対して松竹、帝国劇場、市村座は激怒してしまい、三社協議の上で歌舞伎十八番は当分の間上演しない事を決めてしまいました。

対する市川宗家側もここまでの事態に発展するとは思わないだろうと見くびっていたのか、この事態に対して沈静化を図る為なのか同じ時期に新国劇の沢田正二郎に対して

 
内容の一部と題名を変更してくだされば外ならぬ研究の事だからやってくださいと答へた、先日もあゝした問題もあり一部には宗家は金のみ欲しがるやうに解されてゐますが決してさういふ考へでゐるのではない」(都新聞大正11年12月17日付)

 

と版権料無しでの勧進帳上演を認める等して金儲けでないアピールをしていましたが、歌舞伎側には1万円と吹っ掛けておきながら新国劇にはタダで認めるというダブルスタンダードの姿勢に対して共感は得られず、この冷戦状態は大正12年を通じて尾を引く事となり市川宗家に対する信用の低下を招く事になりました。

 

とこの様に場外では色々あったものの、ライバルの鴈治郎が来ると急に対抗心を剥き出しにする仁左衛門の優れた演技振りが客を呼んだらしく大入りに沸く新富座や明治座を相手に大入り広告を連発している事から引けを取らない相応の入りとなりました。

 

こうした大正11年の帝国劇場の通常公演は終わり12月は左團次一座の引越公演となりました。

この公演についても次の雑誌帝劇で詳しく紹介したいと思います。

今回は再び雑誌帝劇を紹介したいと思います。

帝劇第10号 近松門左衛門二百年遠忌特集号



前回の号はこちら


タイトルや前に紹介した演芸画報でも書いた通り、この10月は近松二百年追善公演が東京、大阪で大々的組まれた事もあって帝国劇場でも嫗山姥と長町女腹切が上演されました。その為、今回の帝劇は近松特集号として出される形となりました。

河竹繁俊による近松の紹介文

 


河竹の近松紹介は特に目ぼしい情報はありませんが、澤村米蔵による長町女腹切の解説文の方については演芸画報に寄稿した梅幸の文章から今回の長町女腹切は歌舞伎では明治座で1回しか上演が無く文楽でも上演記録が無い為に上演に当りかなり苦労した旨が記されていましたが、帝国劇場側も上演に当り専門家の元を尋ねて調査を行ったらしくその結果、それまで元禄12~13年頃の初演とされてきたこの演目が12年後の正徳2年の初演が正しいという結果が出たと記しています。
今でこそ演劇博物館などのデーターベースで過去の演目検索も簡単に出来るご時世になりましたが100年前のこの時には文字通り資料を読み漁る他に手段はなく、帝国劇場としても公演の良い悪いに関係ない事柄でありながらも真摯に調べている姿には感服する物があります。

長町女腹切の解説文



そして肝心の演目の解説へと入り、元ネタである男女の心中と老女の切腹の2つの事件を1つに合わせて作られた経緯や呪いの刀を巡り翻弄される人々と甥に降りかかろうとしてるその呪いを自分の身を以て終わらせようとする叔母の愛情の機微がこの演目の特徴であるとした上で近松の代表作の前に書かれた故に後の演目に比べるとシンプル過ぎるきらいはあるものの、後の曽根が先心中や心中天網島にも繋がる過渡期の演目だと解説しています。
 

と滔々と7ページに渡り近松について力説しているのですが当の公演の評価はどうだったかと言うと何故か掲載されていません。

別段ページ数の都合上と言う訳でもないので理由は不明ですが参考までに演芸画報に寄稿された劇評を代わりに紹介したいと思います。

 

嫗山姥

 

嫗山姥は金平浄瑠璃を和らげたもので、煙草売だとか、仲人嬶(結婚仲介人)だとかいふ、当時に新しい流行物を点綴して目先を変へはしたものの、大体は義太夫に盛行した金平浄瑠璃なので、此の種の作は新旧の浄瑠璃の間に渡した橋梁のやうでもある。(中略)饒舌なおんながたは八重桐だけであったのが、モウ一人増えて、本来のよりも更に幾倍増した饒舌な腰元お歌も飛び出して来る、さうして雄渾豪宕であった金平物は、全く壮麗煥美なものになっても、内容は乏しいゆゑに、只だ綺麗事に落着する

 

長町女腹切

 

いつでも脚本は相当に議論されるが、衣装や鬘は殆ど黙過されて居る、今度も刀屋の場でお花も叔父さんも、原作と違った帽子で出てくる。何故に原作の通りにしなかったのか、原作に拠らないで利益があるのなら宜しい、さうではあるまい、原作の方が至当である

 

この様になまじよく演じられる嫗山姥は近松の書いた当時の意義を忘れてただ内容の無いしゃべりに終始していると酷評されている一方で長町女腹切も脚本は梅幸が述べていた通り原作尊重で改変は無かった一方で衣装に関しては明らかに事情が無いにも関わらず演目の雰囲気を損なう改変があった事を指摘した上でお花が着ている衣装が公娼のそれであり、物語の文意から言ってここは素人風の衣装にしなければ役が崩れてしまうとして折角役者の出来は良いのに時代考証が疎かになっている点を批判しています。

 

この様な芳しくない評価が多かったからとは思えませんが事実としてこの後関東大震災の発生により中断される大正12年8月号まで新聞の劇評が掲載される事は無くなっており理由は謎に包まれています。

 

この様に紙面を近松追善一色にした為か、いつもよりシンプルな紹介となってしまいましたが、12月号も直ぐ様投稿する予定ですのでお待ちください。

今回も先週に引き続き高砂屋文書…ではありませんがこんな面白い資料を手に入れたので紹介したいと思います。

 

明治8年1月2日付 十二代目守田勘彌借用書

 

日本弁護士連合会会長も務めた事がある弁護士の山崎佐が旧蔵していた十二代目守田勘彌の借用書になります。

 

山崎佐の所蔵品を指し示すシール

 

借り主である小西彦左衛門の詳細は不明ですが少なからぬ額の金額を貸している事や江戸銀座の関係者に同名の人物がいる事から有力な金主であった可能性は十分考えられます。

 

訳文

一、金千円也 中借二割五本御用拾改金七百五拾円也

一、金五百五拾円也 新借壱割引用捨改金四百九拾五円也

元高合金千五百五拾円也

改高合金千二百五拾円也内金五拾円也 本日当重ニ御請取

差引金千弐百円也 今般新富御座加人金拾弐御座候

右は私儀従来御懇命を以て書面之金高借用罷在処追々

借財高相嵩身体切迫之場合既ニ閉場も可立到必至難渋

折柄御金主様方御一月御集合目被成ハ取續之主法御取繕ニ取図も

御領之御衆議御決其上本文譯書之通新古負漬高之内特別之

御勘弁御用捨被成ハ御蔭を以而私家名相續営業相成候段

難有仕合奉存候為後証一札差上申候敷仍而如件

明治八年一月二日当人守田勘弥

小西彦左衛門殿

 

この借用書を書いた明治8年1月は勘彌が守田座の名称を新富座に変えた年に当たり、抱えていた役者も五代目坂東彦三郎と五代目尾上菊五郎、四代目中村芝翫の人気役者を3人も独占し脇に大阪から来た三代目中村翫雀、子飼いの初代市川左團次を従え座としては他の二座を圧倒していましたが、明治5年の移転に伴う借金や多数の人気役者を抱えるが故に高額の給金(明治5年の頃の給金で彦三郎は580円、菊五郎450円、芝翫400円、左團次200円、翫雀180円、何れも1興行当たりの給金)に苦しみ

 

守田座は転座以来負債嵩み丗萬円(30万円、明治8年の1円の価値を5,500円だと仮定して現在の貨幣価値で約16億円)に達し如何んともなし難く債主協議の上株式組織となし座名を新富座と改む」(続々歌舞伎年代記 乾 明治八年より抜粋)

 

と極度の債務超過状態に追い込まれていました。

 

この頃に撮影されたと見られる五代目坂東彦三郎と五代目尾上菊五郎、四代目中村芝翫の写真

 

借用書もよく読んでみると


借財高相嵩身体切迫之場合既ニ閉場も可立到必至」(借金で進退窮まったら閉場の事態に立ち至るのは必至)


と巨額の債務でどうにもならなくなったら閉場も選択肢に入れていると書いていたり、借用の部分も見ると小西から前に借りてた1000円(現在価格で約550万円)の内、25%の債務放棄の上、新たに550円(同約300万円)も借りるという内容で巨額の債権整理と座の運営の為に中継ぎ融資を行っているのが分かります。

この事から見てもこの借用書は劇場の株式会社化に当り守田座時代の借金整理を行っていた事を示す資料と見て相違ないと思われます。

 

同じ時期に5万8000円(同約3億2000万円)の負債を返済できず引退に追い込まれた十三代目中村勘三郎と比較しても既にこの時点で一代では到底返済しきれない程の借金を背負っていた勘彌ですが、株式会社化して株を金主が持った事により座主の権利を失ったにも関わらず金主が興行に疎い事を良い事に事実上座主を続けるという手練手管でこの後も経営を続け明治9年に彦三郎と芝翫に相次いで退座されてしまうものの、九代目市川團十郎を代わりに入座させ大阪から中村宗十郎を呼び寄せたりして共演させるなどして急場を凌ぎ、劇場も改築するなど近代化を推し進めました。

その背景にはこの様な天文学的借金を抱えながらも金主さえ煙に巻きしぶとく逞しく経営を続ける勘彌が如何に興行を盛り上げて収益を上げ自転車操業で綱渡りを成功させるのを繰り返すという生き馬の目を抜く興行師としての生き様の一端がこの資料からも窺い知ることが出来ます。

 

またこの様な面白い資料を入手したら紹介したいと思いますので楽しみにお待ちください。

今回は15回目となる高砂屋文書、前回に引き続き江戸時代の書状を紹介したいと思います。

 

慶応3年1月付 二代目中村福助 借金証文(転載防止用加工済)  

 

今回は高砂屋文書の中では2通しかない借金証文になります。

 

歌舞伎役者住込給金先借事
一、金三百五十両也
右は此度急申付前書之金高

慥ニ請行之取申処実正也然ル上実其許及

興行芝居何方ニ而も無ハ異義

許出勤仕候万一右約定相背給金

先借金高一時ニ御取立被成出付其節

一無之申分無御座候為後日之給金

先借証文依而如件

慶応三卯年正月

借り主中村福助

借人高砂屋力蔵

三河屋安五郎殿
 

内容としては至ってシンプルな借金証文で二代目中村福助が高砂屋力蔵なる人物から350両を給金の前借りの形で借りるという証文になっています。

二代目中村福助と聞いて脳裏に浮かばない人も多いかと思われますので紹介すると初代中村福助こと四代目中村芝翫の実弟に当たる人物で兄が万延元年7月に芝翫を襲名したのに伴い翌年の文久元年8月に守田座で兄の前名である福助を襲名しました。

しかし、福助時代から人気役者で芝翫襲名後は更に大成した兄に比べて彼は端役を務める事が専らで兄が出ている舞台でも忠臣蔵なら桃井若狭之助、四谷怪談なら佐藤与茂七辺りが限界で亡くなる前年の若手の夏芝居で漸く伊勢音頭の福岡貢を演じたのが彼の置かれたポジションでした。そんな福助は貢を演じた慶応2年7月の公演後に江戸から姿を消し亡くなる慶応3年に来阪してこの証文が書かれた1月は筑後の芝居に出演し3月も引き続き筑後の芝居に出演した後に病に倒れたのですが最後に出演する予定であった夏芝居の劇場は御霊芝居という劇場でした。

この劇場は厳密に言えば「劇場」ですらなく、現大阪市中央区にある御霊神社の境内に設けられた「宮芝居」に当たります。所謂仮設小屋に該当し、座格は官許の道頓堀の五座とは比較にならない程に低い劇場でした。幾ら夏芝居とはいえその様な格の低い劇場にも出る福助は今回の証文にある通り給金の前借りをしなければならない程に生活が逼迫していたのが分かります。それなのに気前よく350両(現在価格で約140万〜350万円)も貸した高砂屋力蔵の真意や何故二代目梅玉がこの証文を大切に所持していた理由は不明ですが仮説を立てるとすると通説では二代目福助の急死に伴い座元の要請で福助を襲名したと言われていますが実は襲名の背景にはこの貸した350両の返済という経済的な問題が背景にあったのではないかと推察されます。

と言うのもこの借金証文は後年に中村歌右衛門の名跡を襲名しようと目論んでいた初代中村鴈治郎が襲名する根拠に実父三代目中村翫雀の借財を清算した事を成駒屋の祭祀を継承したと主張していた様に二代目中村梅玉の福助襲名の根拠であった可能性があります。

つまりこの二代目の借金証文をカタに福助の名跡を譲る様に三河屋安五郎が働きかけて二代目の次兄である野沢吾一の了承の元に当時三枡他人を名乗っていた笹木徳数に福助を襲名させたという仮説が立てられるのです。

歌右衛門襲名騒動時にも「歌右衛門は上方の名跡」と言及する人物がいた様に初代から三代目まで上方の出身であり、江戸生まれながらも晩年は上方で過ごした四代目歌右衛門の様に江戸時代の成駒屋=上方という認識が強くありました。しかし四代目歌右衛門没後に本来なら後継者たる養子の芝翫が江戸に留まり、対して上方に残っていた成駒屋は養子の二代目中村翫雀が急逝してしまった事もあり、四代目の弟子筋で力のあった初代中村雀右衛門は健在でしたが彼もまた主たる拠点は浜芝居であり、道頓堀に出れる成駒屋の役者は当時はまだ襲名から2年しか経っていない位牌養子の三代目中村翫雀ただ1人と上方における成駒屋の衰勢は明らかでした。

そうした中で偶然とは言え、成駒屋の役者が大坂で亡くなった事を受けてこの借金をカタに成駒屋関係の名跡を上方の役者に名乗らせようとする動きがあったとしても何ら不思議ではありません。

梅玉が他の資料と合わせてこの証文を大切に保管していたのも他ならぬ自身の福助襲名に関する正統性の担保だったからではないかという可能性は否定出来ない物があります。

この資料は一見すると只の借金証文の様に見えますが実は今や歴史に埋もれている二代目中村福助の数少ない資料と言うだけでなく同時に高砂屋三代目中村福助襲名の経緯に迫れる可能性を秘めた非常に重要な資料だと言えます。

 

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皆様、明けましておめでとうございます。2026年も宜しくお願いいたします。

さて、今回は正月に因んでこちらを紹介したいと思います。


二代目實川延若筆 達磨図


戦前の上方を代表する役者である二代目實川延若が描いた達磨の絵と狂歌になります。


達磨は迷いなく一筆で荒々しくも雄大に描いていて豪快と言われた彼の芸風と同じく非常に男気溢れる絵となっています。


拡大図


こちらは左側に「昭和丙子初春」とあり今から90年前の昭和11年1月に書かれたのが分かります。

昭和丙子初春の署名

そして狂歌は

砕窓を 九年入らんと 達磨より 我も舞台を 数年入らんや

と書かれています。

狂歌

これは達磨が悟りを得る為に洞窟の壁面に9年間も座禅して修行をした面壁九年と呼ばれる故事に因んでいて達磨の境地の様に唯舞台にだけ没頭したいという彼の決意が達筆な達磨の絵と共に書かれています。
何故この狂歌を書いたかは推し量るしかありませんが、1つ考えられるのが前々年の10月16日に十一代目片岡仁左衛門が、前年の昭和10年2月1日に初代中村鴈治郎がそれぞれ死去した事で上方歌舞伎も世代交代が進んだ事でした。明治時代の道頓堀で覇を競った鴈仁の死去により次世代の延若、魁車、梅玉の3人が名実共に上方歌舞伎を背負う立場となった事がこの決意をより強くしたのかも知れません。
この時延若は61歳。今の歌舞伎界なら丁度働き盛り世代になるであろう年齢ですが10年前に脳梗塞を患い奇跡的な回復を見せたものの、かつての豪快な演技に翳りが見え始めていた時期でもあり、そんな最中に描かれたこちらの絵と狂歌は上方歌舞伎を背負う立場になった延若の心境と決意をありのままに写した物であったと言えます。

昨年に七代目市川團十郎の神事獅子舞図を初めて投稿しましたが今年からは所有する絵画もこの様に折に触れて投稿したいと思いますので皆様、御贔屓、お引き立ての程を偏にお願い申し上げます。

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設営完了しました。

チ-05aになります。
今回も買ってくださった方に粗品あります。

コミケにお越しのお客様は是非どうぞ。

お待ちしております。

今回は14回目となる高砂屋文書、そしてその中でも初めての紹介となる江戸時代の書状を紹介したいと思います。

 

天保8年12月29日付 四代目中村歌右衛門宛 中村玉助書状(転載防止用加工済)  

 

今回は高砂屋文書の中では唯一となる中村玉助(三代目中村歌右衛門)の書いた書状になります。

うちのブログを見ている皆様でも知らない方もいるかと思うので簡単に説明すると初代中村歌右衛門の実子に当たり、寛政3年に父親の名跡である歌右衛門を襲名すると立役として一躍大坂で人気役者となり、その勢いを維持したまま江戸へと下り江戸生え抜きの役者である三代目坂東三津五郎と江戸の人気を二分する花形役者となりました。

その後大阪へと戻り天保7年1月に歌右衛門の名跡を弟子である二代目中村芝翫に譲って隠居名の中村玉助を襲名しました。

しかし歌右衛門の名を明け渡した事で緊張の糸が切れたのかこの頃から急激に出演する頻度が落ち始め玉助襲名から僅か2年後の天保9年7月に死去しました。

 

三代目中村歌右衛門の熊谷次郎直実 

(出典:寿好堂よし画 国東京富士美術館蔵「東京富士美術館収蔵品データベース」収録)

(https://www.fujibi.or.jp/collection/artwork/08600/)

 

天保7年の襲名直後の四代目中村歌右衛門(栢莚所蔵)

 

今回の書状の署名も玉助とある事から書かれたのは天保7年~9年の間であり、更に書状の最後に「酉年極月廿九日」と記載がある事から酉年=1837年(天保8年)、極月廿九日=12月29日である事から最晩年に書かれた書状だと比定する事が出来ます。

 

口上
何事もふ申候但々むねいつ
ばいに相成候て心さしの
金子は百金よりも嬉敷
心ていの所は子よりもまさる所
こんの承ぞゟは当歳の
酉のとし廿九日三つゟか
うつらうつらと
書付をして封じおさらん
段々忝候先は文書奉らん
早々 以上
酉ノ年極月廿九日
玉助
歌右衛門殿

 

内容としては至ってシンプルで四代目歌右衛門が玉助に対して幾ばくかの現金を送った事に対する礼状となっています。

この書状が書かれた天保8年の玉助は出演したのが1月、4月、9月、10月の4ヶ月のみであり、前年と同じくいつもなら出演する11月公演を休演しており翌9年は4月のみの出演と著しく出演数が減少しており既にこの頃から体調を崩し気味であったのが推察できます。となると当然給金も少なくなり生活も決して余裕があったとは言えそうにないのが窺えそれだけに歌右衛門からの資金援助を「心ていの所は子よりも嬉敷(心の奥底では実の子よりも嬉しい)」と大変喜んでいるのも納得がいきます。

江戸時代の役者は演技や型といった表立った部分は資料等にも多く残りますがプライベートの部分となると今以上に謎に包まれた部分が多くそれだけにこの書状は大名跡たる三代目中村歌右衛門の厳しい状態にあった最晩年の私生活が垣間見える非常に貴重な資料だと言えます。

 

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