栢莚の徒然なるままに

栢莚の徒然なるままに

戦前の歌舞伎の筋書収集家。
所有する戦前の歌舞伎の筋書を週に1回のペースで紹介しています。
他にも歌舞伎関連の本の紹介及び自分の同人サークル立華屋の宣伝も書きます。
※ブログ内の画像は無断転載禁止です。
使用する場合はコメント欄やtwitterにご一報ください。

今回は7月に因んで久しぶりとなる地方巡業の筋書を紹介したいと思います。

大正9年7月 岡山劇場

 

演目:
一、源平布引滝
二、茨木
三、御存鈴ヶ森
四、与話情浮名横櫛
五、鷺娘
六、土佐絵
七、多摩川

前にXでポストした通り岡山県に大正3年に建てられた岡山劇場の筋書です。本編に入る前に今回の巡業のあらましについて説明すると帝国劇場での尾上榮三郎襲名披露公演を終えた一行は女優劇公演に出演する松助、宗之助、勘彌及び一家で巡業に出た宗十郎と別れて襲名したばかりの榮三郎と珍しく巡業に出る羽左衛門を加えての大一座での巡業となりました。


前月の帝国劇場の筋書


一行は以下の通り7月1日からの神戸聚楽館を皮切りに中国・九州地方を巡るスケジュールで巡業を開始しました。

7月1日~8日:神戸聚楽館
7月10日~13日:岡山劇場
7月15日~22日:博多九州劇場

7月24日~27日:熊本大和座
7月29日〜8月1日:長崎八幡座

この月の様子を収録した演芸画報


日程からも分かる様に今回の巡業は1つの場所に4日間〜1週間と一定期間滞在する中長期タイプの巡業であり、この筋書は所謂二の替り用の演目であり、御目見得狂言用の演目としては

だんまり
鬼一方眼三略巻
土蜘
十六夜清心
吹取妻

が上演されていました。(熊本では大切の舞踊三種は預りになったようです)

何れの演目も3人の大顔合わせ用の演目(だんまりと与話情浮名横櫛)の他、梅幸と羽左衛門(十六夜清心)、梅幸と幸四郎(土蜘と茨木)、幸四郎と羽左衛門(源平布引滝、御存知鈴ヶ森、鬼一方眼三略巻)の組み合わせとなる演目が用意されており、見どころ満載な狂言立となっています。

しかし今回紹介する岡山劇場では何故か御目見狂言は上演されず代わりにこちらの演目が全日程で上演されました。

 

主な配役一覧

 
座組としては羽左衛門と梅幸一門を核としてそこに幸四郎と猿蔵がゲストで加わった形を取っています。
因みに幹部3人の中で幸四郎だけは大正5年2月に訪れており4年ぶりの来岡でしたが、梅幸、羽左衛門、幸四郎の3人で岡山を訪れるのは明治42年9月以来実に11年ぶりの事であり、それだけに岡山劇場側も今回の公演の価値に見合うべく観劇料をそれまでの最高記録であった杮落しの鴈治郎一座を超える特等席20円(現在に換算して約3万円)ととんでもないプレミア価格にしたにも関わらず飛ぶ様に特等席から売り切れたそうです。

余談ですが観劇料に関しては記載がある神戸、博多もほぼ同額のプレミア価格でしたが博多公演に関しては二等席以上の購入で且つ特定の地域からの来場者に関しては鉄道運賃分の還元や割引を行ったり、神戸公演は新聞社からのチケット購入は割引価格にするなど若干の値引きをしており、それに比べて割引サービス等の掲載が無い事からサービス一切無しで売ったと見られる岡山公演が如何に強気だったかが分かります。


源平布引滝

 
一番目の源平布引滝は以前歌舞伎座の筋書でも紹介した事がある時代物の演目です。

歌舞伎座で演じた時の筋書

 

今回はお馴染み三段目の九郎助住居の場に加えて平家の命運を探るべく難波六郎に布引の滝へ飛び込ませるも行方が分からなくなり重盛が平家の衰運を悟る初段の滝壺の場が加えられており、斎藤実盛を羽左衛門、小松重盛と葵御前を榮三郎、難波六郎を猿蔵、鎌田次郎を村右衛門、太郎吉を三津児、高橋判官を羽太蔵、小よしを富三郎、九郎助を幸蔵、瀬尾兼氏を幸四郎がそれぞれ務めています。

さて本来なら珍しい滝壺の場がどんな感じであったか気になる所ですが、この場が実質的に襲名した猿蔵の出し物代わりの為に拵えた場であるのを分かっていたのか

 

滝壺の場は御免蒙り

 

と九郎助住居の場から観たと書いていてどんな出来であったかは不明となっています。

その上でお目当てだという羽左衛門の実盛については

 

羽左の実盛、本人としては蛸のついてる演物だけに梅幸よりは一歩の長もあらんかと睨む、揚幕の出から例に依ての順序もよく本舞台二重に廻って物語にかかる迄の挙動も極めて楽々たるは大きく瀬尾を廻して品を崩さず物語に移ってからの洗練された技巧にはいつも乍らこの実盛、入魂の技と煽てておきたい。

 

とこの頃既に巡業をやりたがらなかった羽左衛門でも稽古しなくても出来る持ちネタの1つであった実盛だけに文句の付けようが無かったらしくかなりの長文且つ手放しで絶賛しています。

 

羽左衛門の斎藤実盛(以下写真は全て神戸公演時の物)

 
その一方で劇評は全く期待していなかったのに良かったとして瀬尾を演じた幸四郎を挙げ
 

幸四郎の瀬尾十郎、松助といふ嵌りだろうが存外役の性根を活し巾を見せたは矢ッ張この優、左程期待してなかった反幸四郎党の人には思はぬ瀬尾を見せられて意外の感も湧だろう

 

と予想外の出来を素直に評価しました。

晩年は息子達を主役に老役に回る事もままあった幸四郎ですがまだこの頃に高い評価を受けたのは役者として脂の載った50代故の賜物だったのでは無いかと言えます。

この様に出来が保証されている羽左衛門に加えて幸四郎の瀬尾という予想外の好評もあり出だしから良いスタートとなりました。


茨木

 
続いて中幕で上演されたのが梅幸の出し物であり新古演劇十種に数えられている茨木となります。
 

歌舞伎座で演じた時の筋書

 

今回は茨木を梅幸、渡邊綱を幸四郎、宇源太を榮三郎、運藤を猿蔵、音若を竹松がそれぞれ務めています。

こちらも巡業で幾度となく掛けている持ちネタだけに右に出る者を許さない梅幸の茨木とあって

 

尾上家の家筋だけにこの茨木も梅幸になくてはならぬ狂言だらう。

 

と余計な御託を並べ立てる必要すらない出来栄えだったと評価しています。

そして梅幸の相手役として必ず渡邊綱を付き合ってきた幸四郎に関しても

 

幸四郎の綱もこの道では当代の誉のあるだけ生な駄目は入るの余地なくこの一幕前後を通じて最も渋い逸品であった

 

とこちらも予想外の好評だった瀬尾や次の出し物である長兵衛と比べても良かったとまで言わしめる程の高評価を受けました。

 

梅幸の茨木と幸四郎の渡邊綱

 
この様に巡業でもお馴染みの演目だけに梅幸、幸四郎揃って評価が高くこちらも当たり演目になった様です。


御存鈴ヶ森

 
中幕の御存鈴ヶ森は幸四郎の出し物である時代物の演目です。
今回は幡随院長兵衛を幸四郎、白井権八を羽左衛門、軍事兵衛を村右衛門、雲助を幸蔵がそれぞれ務めています。
さて、師匠團十郎の長兵衛を好く学んだとされる幸四郎の長兵衛ですが劇評は前ニ幕の高評価に反してこちらはどうも好みでは無かったらしく
 

先づ当代の長兵衛役者と自他ともに赦さるる幸四郎が大いに納まらうとの了見ならんが趣向も過ぎては何とやら押出しこそ文句なかれ矢ッ張これが中車ならばと、あの口跡の間拍子にも自づと駄目が出やうといふもの…

 

と出し物にもにも関わらず彼の悪癖である独特の台詞廻しが耳障りと感じたらしく棒読みとボロクソ言われている中車の方が良かったと無い物ねだりされてしまう程の低評価となっています。

一方で白井権八を演じた羽左衛門については

 

それに引きかへ羽左衛門の白井権八、鴈治郎より、宗十郎より、三津五郎より、何としてもこの権八に札が落るは仕方あるまい

 

とこちらは好んで権八を演じてた鴈治郎以下それまで見てきた権八役者の誰よりも適役なのを認めざるを得ないと何故か上から目線で評価しています。

劇評が理想という中車の長兵衛と羽左衛門の権八での鈴ヶ森が上演された新富座の筋書

 

この様にかなり劇評の好みが如実に出ている評価ではありますが幸四郎の評にもある様に一定の出来であった事は認めており、茨木には劣るもののそこまで酷い出来という程では無かったそうです。
ただこの鈴ヶ森辺りまで各演目をたっぷり見せた事が仇となって次以降の演目に影響を与えてしまう事になりました。


与話情浮名横櫛

 
二番目の与話情浮名横櫛は説明不要の羽左衛門、梅幸コンビの十八番である世話物の演目です。
 

歌舞伎座で演じた時の筋書

 

彼等に松助を加えて「三絶」と言われて人気を博したのは何度も紹介しましたが、今回は松助が帝国劇場に残留の為におらず、代わりに蝙蝠安を幸四郎が務めるという予想外過ぎる配役の他、井筒屋多左衛門を幸蔵、藤八を村右衛門、雲助を羽太蔵と猿蔵がそれぞれ務めています。

更に今回は源氏店の場に加えて戦前にしては珍しく見初めの場が付く豪華版でしたが、それまで上演していた3演目の上演時間が後ろに押し続けた結果、ここに来てその帳尻合わせをしなくてはならない事態に陥り

 

見初めを食たのは初日とあって時間が廻らず、塀外を直ぐと返して店を出した

 

と何と丸々カットされてしまった上に塀外の場も短縮して直ぐに源氏店に入るという何ともバタバタした遽しい幕開けになってしまったそうです。

 

そして羽左衛門曰く「寺島(梅幸)となら稽古しなくても出来る」とさえ言わしめた十六夜清心同様に何度となく演じた羽左衛門の与三郎ですがその余裕さが仇となったのか

 

羽左衛門の与三郎、手に入り過ぎて露骨にいへば捲りの長台詞の浮ずってゆく臭ひもあったが遉は数十篇となく繰返してきた狂言だけに当人には蛸のつく物

 

と源氏店での決め台詞辺りが受けると思ったのか変に上擦っていると彼らしくない手厳しい指摘をされてしまいました。

 

羽左衛門の与三郎

 

一方で時間の都合上で見初めの場を出せずじまいとなり見せ場が1つ減ってしまう事になった梅幸のお富はというと

 

梅幸のお富その頃なみの色っぽさは依然として更に廃らずこれも当代無比のお富として挙げたい

 

とこちらは余裕をかます事無く謙虚に演じたのが功を奏したのか見せ場が減った事も事も然程マイナスには響かず美しさも11年前と全く変わらないと芸の成熟による色っぽさを絶賛されました。


梅幸のお富

 

そして一見すると源平布引滝の瀬尾以上に地雷珍役ではないかと思われた蝙蝠安を演じた幸四郎はどうだったかと言うと

 

当時は(蝙蝠)安が松助だったが今度は幸四郎がこれを勤める、思ったよりも挙動は速く蝙蝠安として助かる。

 

と11年前の松助と見た経験を踏まえても瀬尾同様に思った以上に違和感なく下卑た蝙蝠安が出来ているとこれもまた予想外の高評価となり長兵衛での不評を取り返す事が出来ました。

流石にこの時の写真が無いので彼の蝙蝠安がどんな姿であったのかは想像するしかない…と思いきや遥か後の昭和15年2月の新橋演舞場で幸四郎が左團次一座に客演した際に16日に左團次が倒れてしまい彼の出し物である修善寺物語が続行不能となってしまい、羽左衛門もいた事から急遽与話情浮名横櫛を代わりに出した際に実に20年ぶりに蝙蝠安を演じる事となり、その時の写真は残されています。

 

こちらがその時の幸四郎の蝙蝠安、この時実に幸四郎71歳…

 

この写真を見る限りでは貫禄十分過ぎるな蝙蝠安に見えますが、この時も一夜漬けで40ページの書き抜きを急遽覚えた上に左團次をネタにしたアドリブまで言って拍手喝采を受けたそうなので人は見た目に依らないという良い例なのかも知れません。


鷺娘
土佐絵
多摩川

 
大切の鷺娘、土佐絵、多摩川の舞踊三種は前月に襲名を果たしたばかりの榮三郎の出し物として選ばれた舞踊演目となります。
 
今回は鷺娘を榮三郎、烏奴を梅次、名古屋山三を猿蔵、不破伴左衛門を羽太蔵、賤女を富三郎と羽三郎がそれぞれ務めています。
前月の襲名披露の時に演じた雪姫に続き父梅幸が榮三郎襲名時に出した鷺娘という縁ある役だけに結果が気になる所ですが残念ながらこの演目に関しては劇評には演った事しか書かれておらず具体的な内容は載っておらず詳細不明となっています。
しかも劇評の演目一覧には何故か「鷺娘」としか掲載されておらず他の2つは掲載すらされていません。前幕で既に大幅な時間オーバーになっていた事から鑑みるに観劇した初日はどうやら鷺娘だけで時間切れとなってしまい打ち切りになっていた可能性があります。
初日にトラブルは付き物とは言え、榮三郎が若干可哀想な気がしなくもありません。
 
この様に時間配分を誤まった結果、後に行くに連れて時間が無くなってしまい段々出来が良くなくなっていった感は否めませんが冒頭でも紹介した通り11年ぶりの3人の来岡というプレミア感もあって初日のグダグダもぶり然程集客に影響は無かったらしく、4日間の公演の入りは何れも大入りだった様です。
 
この後長崎公演まで巡業をこなした羽左衛門と梅幸は帰京後それぞれ沼津と金沢の別荘にて静養し8月を満喫しましたが、幸四郎は帰京して2週間ほどは大人しくしていましたが8月15日には東北を巡業中の左團次一座に合流し8月後半から9月いっぱいかけて北海道・東北を仲良く巡業して彼もまた夏を満喫(?)しました。
 
最後にその後の3人と岡山の関係について少し触れると3人の内、幸四郎はこの後大正13年6月と昭和6年5月、昭和12年7月に3回ほど来岡しているのに対して羽左衛門と梅幸は関東大震災で互いの所属劇場が焼失していた大正13年9月に再び松助を連れて来岡したきりで昭和に入ってからは訪れる事はありませんでした。
これは出無精な羽左衛門は無論、梅幸も昭和2年に脳出血で倒れた影響もありますが、歳を重ねるに連れて巡業回数が増えていった幸四郎さえも数が少ないのは不思議に思われますがこれは岡山県の立地もあるかと思われます。
日本全国津々浦々まで廻った幸四郎ですが彼が確固たる人気の地盤を築いた地域は主に北海道、東海、九州でした。その為、巡業を組む時も東海⇔九州と中国地方を完全無視するスケジュールが度々組まれました。
しかし、中国地方の中でも
 
山口県…地理的要因で北九州での公演の一環で下関公演が度々設定される
 
兵庫県…帝国劇場と提携していた神戸聚楽館や松竹直営の神戸松竹劇場で名古屋とのセットで半月公演が組まれる
 
広島県…九州巡業のスケジュール次第で最後にたまに寄る
 
等など、県によって微妙な温度差がありました。
そうなると一番割りを食う形となったのが山陰の鳥取、島根と真ん中に位置する岡山県となり、この回数の少なさに繋がる事になりました。
こんな話は幸四郎に限った話では無く、
 
・幸四郎と被るも東海地方は弱く、逆に中国地方は強い左團次
 
・九州北部、中国地方、近畿北陸では無敵の強さを誇った鴈治郎
 
・北海道と青森県では絶大な人気を誇るもその他の地域はからっきし弱かった中車
 
・九州では比較的強い人気があった吉右衛門
 
・これと行って強いエリアは無いがかと言って苦手なエリアもなく満遍なく行く延若、我童、宗十郎
 
といった感じで役者毎で強い弱いがあるのが分かるのも筋書収集の醍醐味でもあります。
そんな訳で縁薄い岡山ですが、偶然にも幸四郎の大正13年の巡業の筋書は持っていますのでまた紹介したいと思います。

今回はうっかり順番が前後しましたが久しぶりに新演芸を紹介したいと思います。

 

新演芸 大正10年5月号

 

前回の新演芸はこちら 

 

 さて、まずは恒例の各座の様子についてですが歌舞伎座は大一番の4月公演に対して専属一座に我童を加えた座組で仮名手本忠臣蔵の通しを目玉に

 

仮名手本忠臣蔵

明治第一年

鴉舞鷺娘

 

を上演しました。

 

前回の仮名手本忠臣蔵の通し公演はこちら

 

 

前回と大きな違いとしては前回は塩冶判官とおかるを演じた歌右衛門が今回はおかるのみとなり塩冶判官を羽左衛門が演じ、羽左衛門が演じてた桃井若狭之助を我童が演じるなどして配役を一部変更した他、大序をカットして進物場から始まるという変則的な上演で臨みました。

 

我童の桃井若狭之助
 
仁左衛門の高師直と羽左衛門の塩冶判官
 
左團次の斧定九郎と羽左衛門の勘平
 
仁左衛門の大星由良助と傳九郎の斧九郎兵衛
 
結論から言うと歌右衛門のおかると羽左衛門の勘平の道行が評価された他、仁左衛門がいつもの反骨ぶりを久々に発揮して九代目の作り上げた型を一切無視して在来の型で演じながらもその巧みさで劇評を押し黙らせるなど芸達者な一面を見せるなどして残る明治第一年と鴉舞鷺娘の不評を差し引いてもおつりが来る位の出来栄えだったらしく入りとしては大入りとなったそうです。
次に歌舞伎座との掛け持ち出演となった左團次は一座に雀右衛門、壽三郎、多見蔵ら上方勢と成駒屋、高砂屋の両福助を加えた座組で明治座に立て籠り
 
桐一葉
順番
阿蘭陀船
嫗山姥
其姿団七縞
三件茶屋
 
を上演しました。
桐一葉に福助と聞くとてっきり淀殿役を福助が演じたとばかり思われすがそんな親への忖度は働かずそもそも今回は帝国劇場で上演されて以来毎回カットされる様になった蜻蛉と銀之丞の件のみを演じる変則的な上演となり彼は蜻蛉を、銀之丞を猿之助がそれぞれ務めました。
 
福助の蜻蛉
 
いくら歌右衛門と仁左衛門には敵わないとはいえ、大胆にも淀君と且元の出番を全カットするというかなり思い切った上演となりましたがどうやらこれは初めて親と離れて単独で出演した福助のたっての希望で実現したものらしく銀之丞を演じた猿之助と共に綿密に役の肚を豊臣家の滅亡と言う壮大なテーマから叶わぬ少年少女の悲恋の方に軸を置いた事もあり、心配の余り自分の持ち役の稽古を差し置いて彼の稽古場の様子を見に来た親バカ歌右衛門の心配をよそに予想以上の好演を見せたらしく、福助も掛け持ちで出ている歌舞伎座の入りには無関心なのに明治座の入りが良い話になると珍しく饒舌になり喜んだそうです。
 
そして残る演目の内、唯一の古典演目である嫗山姥と岡鬼太郎が左團次の為に夏祭浪花鑑を実録風に書き替えた其姿団七縞の出来が良かったらしく左團次贔屓の支持に支えられてこちらも入りの方は満員大入りの日も出る等そこそこ良かったそうです。
 
雀右衛門の八重桐
 
一方、新富座は3月から上京している中村鴈治郎一座が珍しく2ヶ月続けて公演を開き一座に中車、雀右衛門、右團次を新たに加えて
 
根元草摺曳
近江源氏先陣館
安宅関
土屋主税
藤十郎の恋
初音の旅路
 
を上演しました。
前月の3月公演が東京初上演となる藤十郎の恋の前評判もあって大入り満員になった事もあり、今回も引き続き上演された他、唯一中車の出し物として安宅関が上演されました。
 
中車の弁慶
 
そして鴈治郎は2ヶ月連続公演とあってか上述の藤十郎の恋に加えて東京では明治42年10月の歌舞伎座公演以来12年ぶりとなる盛綱陣屋を出すなど万全の体制で臨んだ事もあり歌舞伎座にも劣らぬ大入りとなり、終始上機嫌で公演を終えて帰阪しました。
 
鴈治郎の盛綱
 
梅玉の微妙、雀右衛門の篝火、銀之助の小四郎
 
余談ですが二代目中村梅玉はこの年の6月に急逝してしまい今回の新富座公演が彼にとって最後の東京出演となりました。 
さて、この様に三座共に独自色を打ち出して好評だった松竹勢に対して帝国劇場は勧進帳を目玉に堀部妙海尼などを並べて健闘したのは前回紹介した通りです。
 
 
一方、前月に一座の二枚看板の1人である吉右衛門に脱退されてしまった市村座は吉右衛門に後釜を補填する時間もなく止む無く友右衛門を吉右衛門の後釜に据えて菊五郎、三津五郎との二枚看板で公演を開き
 
高松城水攻
棒しばり
敵討護持院ヶ原
勢獅子
 
を上演しました。
演目をよく見ると棒しばりと勢獅子は舞踊、敵討護持院ヶ原は福地桜痴の書いた活歴物、高松城水攻は新作で菊五郎が柄にもなく時代物系統の新作に出るなど吉右衛門の抜けた穴を何とかして埋めようとしているのが如実に分かります。
 
菊五郎の清水宗治と三津五郎の月清入道
 
これに対して熱狂的な市村座贔屓は衰運の市村座を守り立てようと熱心に足を運んで応援したそうですが、劇評には
 
これは宗治の無駄骨を書いたものか、秀吉の奇計を書いたものか、恵瓊法師の骨折りを書いたものか、一寸主題が分からぬ所もあるやうに思はれます。
 
と書かれる様に新作物を幾つもこなしてすっかり慣れている左團次、勘彌、猿之助達に比べて演目の詰めの甘さや新作慣れしていない市村座連中の不慣れもあって本水を使った豪華な舞台装置も栄えず、二番目の活歴物のつまらなさも相まって吉右衛門在籍時の勢いを取り戻すまでには至らず現実をまじまじと見せつけられる結果となりました。ここから松竹に買収されるまでの足掛け7年に渡る菊五郎の苦境時代が幕を開ける事となります。
 
一方大阪では、鴈治郎が上京中と言う事もあって延若を座頭に卯三郎と巌笑、それに片岡一門の残り連中という無人の一座で久しぶりに浪花座で舞台を開けて
 
三日月

御所桜堀川夜討
新版歌祭文
 
を上演しました。
 
延若の三日月治良吉
 
無人の一座となると大暴れするのが延若とあって全演目出ずっぱりで立役、女形、三枚目と兼ねるぶりを遺憾なく発揮したらしくその活躍ぶりがグラビアページにもかなり割かれています。
グラビアページの紹介はここまでにして本文の紹介に入りますとタイトルにも書いた通りこの号は新劇と写真の2つが特集の目玉となっています。
 

小山内薫の序文

 
新劇と言うと先程挙げた左團次、勘彌、猿之助等既に一定の成績を収めた人ばかり頭に浮かびますが今回は彼等3人に加えて
 
・中村吉右衛門
 
・尾上菊五郎
 
・松本幸四郎
 
・澤村宗之助
 
・片岡我童
 
の5人を足した計8人について触れています。
この8人の内、先ず完全に頭2つくらい飛び抜けて新劇物においてパイオニア的存在であった左團次について永井荷風が担当していて彼については既に確固たる実績もある為か
 
「(森鴎外の)「仮面」風の社会劇より古典的叙事詩風の新戯曲に成功し易い人かと考へて居ります
 
と定義した上で
 
高橋君は既に天下一般の知る通り現代の役者とは全く累を異にした人であります品性学識は勿論の事文学美術園(演)芸骨董等の鑑識も立派に具備してゐる人であります。(中略)吾々高島屋崇拝家の希望する處は劇場興行者が誠実に日本演劇の前途を思ふならば高島屋を極点まで尊敬し優遇して貰ひたい事であります。
 
と永井荷風をしてこの当時左團次の人気を当てにして事あるごとに歌舞伎座と明治座を掛け持ちさせたり地方巡業に行かせるのを止めさせて新作演目に割く時間を与えて優遇しろとまで書かれる程の称賛を受けています。
 
左團次のページ

 
しかし、次に市村座を脱退したばかりの吉右衛門については親交がある小宮豊隆が担当しこの当時彼が望んでいたとする「新作を演りたい」という彼の希望について
 
吉右衛門が約束しでもしたものの様に考へるのは少々忖度に過ぎた解釈ではないかと思います。
 
と安易に期待するのは止した方が良いとした上で彼が吉右衛門自身と会話した内容について語り
 
彼は御能から偏倚して発達して来た歌舞伎芝居でなく御能を自然に必然に現実化し民衆化した様な芝居が演って見たいといふ様な意味の事を私に話した事があります。(中略)含蓄の多い簡素な言葉を或特殊な節奏と或特殊な旋律との中に鋳込んだ様な芝居が演って見たいといふ様な意味の事も、云ってゐました。(中略)唯困る事は、彼の其欲求に応じて適当な脚本を彼に提供する事の出来る作者が一人もゐない事です。
 
と彼の新作に関する願望とそれに応えられるだけの原作者がいないという欠点を指摘しています。
因みにこの吉右衛門の「御能を自然に必然に現実化し民衆化した様な芝居」についての願望は決して嘘ではなく晩年に能の舟弁慶に観劇してその演技に感激し従来の歌舞伎化された物ではない能に忠実な上演を熱望していた事が千谷道雄が記しており晩年の古典一筋のイメージから若手などに「新作嫌い」とさえ言われていた彼の新作への価値観が窺えます。
そんな吉右衛門ですがこの小宮の不安を他所に翌月新富座で久しぶりとなる新作である新樹を上演する事になります。
 
吉右衛門のページ

 
そんな吉右衛門に対してライバルである菊五郎については数少ない彼が演じた時代物系統の新作である伊達安藝盡忠録や浜松城の家康について触れ
 
先づ菊五郎の新作は緻密である。繊細である。すべて前後に照応がある。そして多くの場合技巧的である。而もそれがくすんでゐる。いぶしがかかってゐる。(中略)写実に根ざしながら、その効果は写実が与へる以上の感銘と余韻を生む手法を用ゐる。具体的に云ふと、一つの閃きを濃く鮮やかに印象させて、他の閃きの多くを暗示する手段である。半面だけを示して他の半面を偲ばせる手段である。
 
と彼の緩急に富んだ心理描写の演技の長所を褒めつつも
 
あれだけ器用な菊五郎が、新作になると殆どその器用を発揮してゐない点である。(中略)作風が全く相違した今月の「高松城水攻」の如き脚本では新しい手法であらう。が、既に演じた新作では、私など僭越な批評ではあるが、多く前述の如き手法を用ゐてゐるだけではないかと思ふ。
 
と丁度この時上演されていた高松城水攻ではその長所が充分に発揮されていない点を指摘しています。
しかし、最後にはその発揮されていない実力が発揮されれば素晴らしい傑作を生み出せる可能性があるとも指摘されており、吉右衛門に脱退された事で人生でも初と言っていい苦境に陥り始めていた彼にとって古典に逃げるという選択肢はなくこの後も果敢に新作物に挑み続けやがて坂崎出羽守と一本刀土俵入いう現代でも時折上演される優れた2つの傑作を生みだす事となります。
そういう意味ではこの指摘は中々に正鵠を得ている指摘と言えます。
 
そして新作物では女優を起用する事も出来る為にどうしても影が薄くなるがちな女形についても宗之助と我童について取り上げています。
まず宗之助についてですが彼は古典でこそ女形が本役ですが意外にも新作では
 
イプセンのジョン、ガブリエル、ボルクマンでグンヒルドをやり、シェイクスピアでシャイロック
 
と専ら立役に回ることが多く、その特異点について
 
ちゃんと自分の本当の領分があって、この領分を守って、他の領分へ攻め込んで行った様に思はれます。
 
と分析して固定観念的に古典も女形だから新作も女形…と安直に考えておらず、キチンと作品のニンに合った役を演じる点を評価しています。
無論、この配役には左團次一座の立女形であった松蔦の存在や他の女優がいた事も無関係ではありませんがこの新作での立役経験が古典での二枚目役においても活かされているとして左團次、勘彌、猿之助に次ぐ若手のホープと高く評価しています。
彼はこの3年後に急逝してしまいますが、もし長命していれば勘彌亡き後の猿之助の孤軍奮闘状態になった新作物畑で良いライバルとなっていたのは容易に想像つくだけに彼の死が歌舞伎における新作物のおいて手痛い損失であった事が分かります。
 
宗之助のページ

 
対して上方の我童に関しては新朝顔日記など自身の得意役のリメイクなどでは定評を得ていたものの、完全な新作に関しては新作大好きな鴈治郎の元で相手役を務めていた高砂屋福助の方が適任では?という疑問に対して
 
福助は近年滅切り腕を上げた
 
と技芸については評価していますが続けて
 
けれども福助は新機運の機軸となるべく余に引込み思案である「もう役者は止めさして貰ひます」以前は頻りに止めさして貰ふべく苦心した。今でもそんな考へを持ってはゐないかと思はれるほど覇気に欠けてゐる。
 
と彼自身のヤル気から来る物で無く、鴈治郎一座で否応なくやっている経験値からくる物だと看破して話にならないと却下した理由を説明しています。
また、福助のライバルと目され一時期左團次一座に身を寄せて新作物にも果敢に挑戦していた魁車についても
 
嘗ては事実上「謀反者」(善い意味に於ける)であったのだ(中略)嘗て時々鴈梅から離れた時分には彼の演出には随分潑剌たるものがあった。卯三郎等と一座で新派畑を荒らしたりした際にも、脚本はつまらぬ物でも彼の演出は或は今猿之助や勘彌が煽てられてゐる以上に人間味の横溢した物であった
 
と一時期は確かに上方における新作物のホープであった事やその技量や熱意を買っていたと評価していますがこちらも
 
鴈梅一座で落着き出してから彼の演ることは追々生気を欠いて来た。演ることまで妥協的になった
 
と鴈治郎一座で彼が女形のNo.2のポジションを確保した途端にその意欲が目に見えて衰えたとして彼の意欲は所詮自分の立ち位置確保の為の手段に過ぎなかったとこれまた厳しく糾弾しています。
 
この様に本来ならば東京の猿之助、勘彌に位置すべき2名がヤル気が無いとした上で曲がりなりにも前年に自主公演の「邦劇座」を開いて新作を演じた我童を
 
黴臭い道頓堀の真中で兎も角も「邦劇座」の新運動を起した「わが危なっかしい」我童は最も豪いといはなければならぬ。勘彌や猿之助の真似だと一口にいって仕舞ふべきものではない。
 
と技量面では遥かに劣るものの評価せざるを得ないと我童個人というより保守的な上方歌舞伎全体を総括しての評価をしています。
 
我童のページ

 
この様にかなり辛口評価が並ぶ結果になりましたが、当時隆盛になりつつあった新劇界隈と歌舞伎役者の距離感が分かると同時に、宗之助、勘彌の相次ぐ急逝により次世代が育たず戦後に猿之助のみが1人残り、戦後の新作歌舞伎との断絶が分かる他、一見多くの新作物を演じていると思いがちの上方歌舞伎が実質的には既にこの時期から硬直状態であったという指摘は中々に鋭い考察であると言えます。
 
鹿島清兵衛の寄稿文

 
さてもう1つの特集が写真特集でこの鹿島清兵衛の寄稿文は村島氏が著書「演劇写真と役者・写真師」で触れた鹿島清兵衛の出自に関する部分で取り上げられている文章となります。
 
村島氏の著書についてはこちら

 

この著書では鹿島が何時頃から團十郎の写真を撮影し始めたのか?という部分で使用されていましたがそこでもかなり曖昧な記憶力で答えていましたが全文を通しで見ると彼が写真販売に関わる様になった内田九一の話に関しても

 

猿若町一丁目で五人男を演って居た時で。役割は覚えていませぬが、何れも故人となった、阪(坂)東彦三郎、中村芝翫、市川左團次、尾上菊五郎、岩井半四郎、此の五人を別々に写して売り出しました。

 

と述べていますが、内田の存命中に猿若町一丁目(中村座)で白浪五人男が上演された事は無く、この事に該当しそうなのは明治7年11月に新富座での白浪五人男ですがこの時5人の中に半四郎は入っておらず正しくは中村翫雀が入っており、彼の記憶力には全般的にかなり怪しい物があるのが見受けられます。

そんな記憶があやふやな鹿島清兵衛のグダグダな文書に対して対照的なのが自身も写真撮影が趣味だという左團次の寄稿文です。

こちらは自身の写真に対する考え方、役者として被写体の立場も踏まえて語っており

 

日本のは、なんと云って好いか、どうも平べったいのです。

 

日本の俳優が常時撮影するのは、幕間の実にニ分か三分の間に大急ぎ三昧で撮るのですから、写す人がかうして貰ひたいと俳優に云ひ出さず、云ひ出さうと思っても俳優の方が差当って何かの事情の為には思ふやうに写せない場合もあらうと思ひます。

 

どうしても旨い人は巧い人だけ、写すのが長いと云ふのは、云ふまでもなく、年を入れる訳で、佳作の写真を拵へるのには、どうしても時間がなければ行けない事に違ひないと思ひます。

 

帝劇は大抵初日前日の舞台浚ひで写すことが出来る訳でせうが、然しこれとて今迄のの習慣もあって、西洋の如くには行かないだろうと思ひます。

 

左團次の寄稿文

 
この様に今では事前撮影が当たり前である写真撮影も大正時代時代当時は幕間の僅かな間に撮影していた事やこれも今では常識である長時間かけての撮影が当時は行われていなかった事、更には帝国劇場はその気になれば事前撮影が可能な環境である事など当時の撮影方法を述べていて演劇研究の造詣が深い彼ですが写真においても確かな見識を持っていて日本の役者の写真撮影方法に疑問を持っていたのが窺える大変貴重な資料と言えます。
 
この様に新演芸は役者の時事情報を果たす役目としての機能は元より当時の演劇界隈の学術面における探求というもう1つの側面を有しており、次に紹介する予定ですが他ならぬ本家演芸画報もこの路線に引きずられて一時期紙面を新演芸寄りにシフトしていた事からもこの姿勢は当時かなり影響があったと言えます。
新演芸についてはまだ少し持っていますのでその内また紹介したいと思います。

今回は2回続けてとなりますが最近出たばかりのこの本について色々述べたいと思います。

 

中村雅之 空白の團十郎─十代目とその家族

 

舞台プロデューサーで横浜能楽堂館長の肩書を持つ中村雅之氏が2024年6月に出した五代目市川三升の評伝となります。

彼の著作を見る限り能に関する著書はそれなりにあるものの、歌舞伎に関しては1冊もなく、この時点で既に嫌なフラグが立ってはいました。ただ、先入観で見るのは禁物と言う事で買って見たのですが…

 

案の定、お話にならないくらい駄目でした。

 

一応紹介を見ると

 

銀行員から市川團十郎になった男の初の評伝。九代目の婿養子で、30歳を前に役者となり市川三升を襲名、死後十代目を追贈された知られざる團十郎の実像に迫る。

 

と書かれていますが、最後まで読んだ所で彼の数奇な役者人生に迫れたかと言うと無論そんな事は無く何とも言えない徒労感が残るだけでした。

今回は長くなりますが何が良くて、何がダメだったか、本書では語られていない三升の行動についても交えて解説したいと思います。

 

三升についてはまずこちらをお読みください

 

 

①良かった点について

冒頭からキツイ言葉を並べましたがまず良かった点について先に挙げて置こうと思います。

まず、この本を書くに当たってベースとしては演芸画報、演劇界、第一次歌舞伎を用いて三升の著書「九世團十郎を語る」や姪の翠扇の「九代目團十郎と私」といった自伝本、伊原敏郎の「明治演劇史」や岡本綺堂「ランプの下にて」などの戦前の著名な二次資料、近世歌舞伎年表といった近年の研究者たちの資料、著書、論文を万遍なく参考資料に挙げていてどっかのホラ介の様なそもそも好い加減な資料や小説を典拠に用いる、酷いデタラメや妄想に耽る、典拠の丸写しをするといった論外な行為は一切見られませんでした。

そして分からない事は分からないときちんと言及していてホラ介がよく用いるイタコ行為の様な有識者仕草も無い点は仮初にも市の外郭団体が運営する公演場の館長として職責を全うしているだけあってか評価出来ます。

 

が、裏を返すとそれだけなのです。

 

この本の致命的欠陥とも言えますが、この人は典拠である演芸画報や各種代表的な二次資料こそきちんと見ていますがそこに載っている事しか見ておらずその先、一例を挙げると昭和3年に起こった幸四郎の助六の上演を巡る騒動などについて参考資料に挙げている近代歌舞伎年表や各種典拠を全く調べておらずあくまで演芸画報に書かれた事のみを一方的に記述しているに過ぎないなど、評伝を欠く上で必要不可欠な複数資料による中立な考証がなされていないのが挙げられます。

次に何がダメだったのかを具体的に触れて行きたいと思います

 

②章立てがメチャクチャ

悪い点で真っ先に指摘したいのがこの点です。

この本の章立ては以下の様になっています。

 

第一章 理想の婿

1 裕福な商家の次男

2 慶應ボーイ

3 持ち上がった縁談

4 教養人であり、良き家庭人

 

第二章 江戸の守り神

1 江戸歌舞伎

2 團十郎代々

3 遊郭と魚河岸

 

第三章 「文化人」への道

1 若太夫

2 権之助

3 「市川宗家」へ復帰

4 演劇改良

5 晩年

6 銅像・「劇聖」・胸像

7 「文化人切手」

 

第四章 女役者から女優へ

1 女優へのこだわり

2 女優になった妻

3 女優、その後

 

第五章 役者・三升

1 宗家継承

2 突然の役者志望

3 「堀越福三郎」を名乗る

4 「三升」襲名

 

第六章 「歌舞伎十八番」の復活

1 権威の象徴

2 競い合う門弟

3 三升と「十八番」

 

第七章 受け継がれる名跡

1 白羽の矢

2 「海老蔵」襲名

3 「花の海老さま」

4 「團十郎」復活

 

おわりに

市川團十郎家系図

参考文献

「十代目市川團十郎」関連年表

 

(紹介より抜粋)

 

これだけだと分かりにくいので各章の内容を補足すると

 

第一章…三升の生い立ち

 

第二章…歴代の市川團十郎の紹介(初代から八代目まで)

 

第三章…九代目市川團十郎の紹介

 

第四章…妻翠扇の紹介と市川少女歌舞伎

 

第五章…初舞台から三升襲名までの彼の動静

 

第六章…三升が昭和に入り手掛けた上演が途絶えていた歌舞伎十八番の復活について

 

第七章…晩年の三升について

 

と分類出来ます。

一見そこまでメチャクチャには感じられない様に思えますが第二〜五章において大きな問題があります。

先ず第二章についてですがこれは完全な蛇足となっています。てっきり第六章に書かれてる歌舞伎十八番の解説でも兼ねた物かと思いきや、本当に初代から八代目の事績についてWikipediaを見れば済む様な知識をただ箇条書きに書いているだけなのです。

これが市川宗家について書かれている本であればまだ分かるのですが三升について語る評伝で24Pも割いて書く内容ではありません。更に言うと最後の遊郭と魚河岸に至っては一体何が書きたかったのすらも分からず評伝と全く無関係な内容となっています。中村氏はこの本を読む歌舞伎初心者に気遣ったもかも知れませんが市川三升の評伝なんて一部の歌舞伎マニアしか読まない様な内容だけに市川宗家の代々など基礎知識として履修済みと考えるのが妥当であり、わざわざ独立した章を作ってまでページを割く意味がありません。もし三升に関わる範疇で書きたいのであれば初代から七代目までは系図を1枚張って彼が市川宗家の養子に入る事になった要因、七代目の子沢山と九代目の後継者に恵まれなかった点を重点に置いて第三章に書けば良い話だと言えます。

 

次に第三章についてですが三升の義父である九代目市川團十郎の生涯を書いているのも正直蛇足の感が否めません。

しかも、この九代目の事績自体、明治演劇史の九代目のページから抜粋した物に「守田勘彌 近世劇壇変遷史」や「九世團十郎を語る」などの著書の記述を付け足した物になっています。ホラ介みたいに言い回しを少し変えただけの丸写し程酷くはなく抜粋の範疇に留まる程度である事や不足している部分を他の著書からの記述で補っている為にその点は目を瞑るとしても三升とおよそ関係の無い九代目の事績、特に銅像や切手などと没後の事を触れた6や7など含めてを44Pも割いて書く意味は第二章同様に感じられません。

この章は第一章から話を繋げる意味でも後継者と目されていた五代目市川新蔵に先立たれ、後継者不在となった明治30年代の九代目から筆を書き始めて三升が婿に入った時点での市川宗家の様子を書いて第四章に繋げるべきだったと言えます。

結論から言うとこの第二章と第三章は2つに分けずに1つの章にすべきだったと言えます。

 

そして第四章ですがこれもかなりメチャクチャな章と言えます。この章では三升の妻である二代目市川翠扇と妹の市川旭梅が明治座などで女優として活動していた時期の話と三升が戦後になって創設した市川少女歌舞伎の話を一緒くたにして書いているのが問題点であります。

中村氏は市川少女歌舞伎の設立を妻たちが途中で挫折した女役者としての活動の延長戦上に考えていたのではないかと推察していますがこれはあくまで演劇評論家の高谷伸が雑誌幕間に書いた所感にしか過ぎず、三升がその様な考えを公式に出した物ではない以上、この事を一緒くたに考えるのはかなり乱暴な話であり別問題として書く事案と言えます。

その為、この市川少女歌舞伎は本来なら第7章に書くのが相応しい事であり、ここに書いた事で観た人は時系列が急に戦後になるなど混乱を来しやすく且つ翠扇と旭梅らの活動と関係性があるのかと誤解を生む可能性が高いです。

三升が地方の地歌舞伎の延長線上にある市川少女歌舞伎を保護して一門とした事は九代目が市川九米八を弟子と認めたのと同様に男女の性差を問題とせず歌舞伎の発展になればと思った可能性は確かにありますが、この問題を書くのであれば当時の歌舞伎評論家たちが市川少女歌舞伎を単なる地歌舞伎が東京にやってきた程度の過小評価をした事や武智鉄二が全否定レベルで彼女たちを拒絶していた事などの彼女たちを取り巻く当時の状況や三升が姪に当たる市川紅梅(三代目市川翠扇)を自身の開いた三升座等で活用していた事も本来ならもっと書いて然るべきですが中村氏はこの事については全く触れようともしないのも手落ちと言えます。

 

そして最後の第五章ですがこちらに関しては主として三升が大阪の中村鴈治郎を頼り初舞台を踏み三升を襲名し、歌舞伎十八番の復活上演を手掛けるまでを時系列順に書いてはいますが後述する通り初舞台に関する深刻な認識不足と調査不足が見受けられます。

更に問題なのはその内容の偏り方であり

 

團門の紹介…10P

 

初舞台から三升襲名前までの7年間…22P

 

三升襲名…2P

 

三升襲名後から昭和8年頃までの16年間…3P

 

なのです。

冒頭の團門の紹介についても内容が浅い上に直弟子ではない左團次や小團次までも紹介している点が理解しかねますがページ配分を見てもお分かりいただけると思いますが九代目の死後から7年後の明治43年に林長平と名乗り初舞台を踏みその後堀越福三郎と名乗って大阪にいた時分については20P以上割いて書いているのにその後の三升襲名までの3年間については僅か5P、而もその後の16年間をたった3Pで終わらせるという明らかに評伝として偏り過ぎた構成になっています。

 

これは次の章で指摘しますが彼が典拠と頼みにする演芸画報や各種資料が三升について述べた割合が多い初舞台前後のみ書き、記述が無くなるその後については殆ど何も書かないという歪な書き方をしているからに他ありません。

正直何冊も著作を出している人の書いた物とは到底思えない章立てとしか言えず、評伝としての体をなしていないとしか言えません。

 

③知識不足、調査不足、典拠不足

次に挙げるのがタイトルにある3つの不足です。

 

最初に細かなミスから申し上げると

 

「初代市川猿之助の母は、吉原の妓楼・澤瀉楼の娘。」(56P)

→母ではなく妻

 

「八代目だった実の兄が、嘉永七(一八五四)年に自殺すると、数多い兄弟の中でも、役者の道を歩んでいたのは権十郎一人」(64P)

→八代目市川團十郎の自殺した時点で現役の役者であった九代目の兄弟は三男新之助(後の七代目市川海老蔵)、四男初代市川猿蔵、七男壽(後の八代目市川海老蔵)と少なくとも3人いる。

 

「(九代目市川團十郎十五年祭追善公演を)帝国劇場は、座付きの六代目尾上梅幸、八代目市川高麗蔵、七代目澤村宗十郎らが出演した。」(92P)

→大正6年の時点では七代目松本幸四郎になっている。

 

「(高麗蔵の名跡が)途絶えるのを惜しんだ」(145P)

→高麗蔵の名跡は1856年に既に空き名跡となり、先代の高麗蔵(上記の三男新之助)も明治7年に死去していて既に名跡は途絶えていた。襲名は当時存命していた先代の娘お麗から「高麗蔵の名跡を継いでくれ」という依頼があって実現した。

 

「大正二(一九一三)年十一月号の「演芸画報」には、「福三郎の廃業」という見出しの記事が出ている。この記事は「九代目」の追善興行で、福三郎が東京での初舞台を踏み、やがて十代目團十郎を継ぐだろう、としている一方で、親友が素人に戻るよう諫め、本人も追善興行を最後に廃業する決意をしたようだ、としている。追善興行とは大正六(一九一七)年に予定されていた「九代目」の十五年祭のことだ。」(169p)

→中村氏は追善興行の事を十五年祭追善と推定しているが記事の中の追善興行は正しくは明治45年9月に予定されていたが7月の明治天皇の崩御により延期になっていた十年祭追善を指しており、後にこちらは中止となった。

 

と1回読んだだけでざっとこれだけあります。

この辺は歌舞伎に関しては初心者に近い著者などでまぁこれ位のミスは致し方ないと言え少し多い気がします。

しかし、次の調査不足に関しては流石に言い訳の余地がない物があります。

 

一番目に余るのが冒頭にも書いた昭和3年12月の南座で七代目松本幸四郎が助六所縁江戸桜を演じる予定であったのを市川宗家からクレームが入りすったもんだの末に上演を強行した件です。

この一件に関してこの本ではどう書かれているかと言うと

 

昭和三(一九ニ八)年十二月、京都・南座の「顔見世」興行では、七代目松本幸四郎が、「助六」を演じようとしたが、三升は、季節外れであることを理由に許さなかった。結局は了承したものの幸四郎の長男・初代松本金太郎(後の十一代目團十郎)が「外郎売」を演じることは許さなかった。金太郎は、予定していた京都行きを取り止めた。この問題は波紋を呼び、世間の注目を集めることになった。

松竹創業者の白井松次郎、大谷竹次郎兄弟も乗り出して、三升、幸四郎ら関係者の間で話し合いが持たれた。

その結論は「故團十郎(九代目)が洗練した芝居を尊重し、上演に際してはすべて本格に則り、完全な演出を心がけよう」と申し合わせ、「市川宗家」側も矛を収めた。三升は、「歌舞伎十八番」を通じ、「團十郎」の権威を示そうとしたのだ。」(193〜194P)

 

とまるで一方的に三升側に非がない様な書き方をしていますが、これについて当時の新聞に掲載された幸四郎へのインタビューを見ると

 

師匠團十郎が没して間もなく私達門下の者が全部集合して堀越宗家のお台所を考へて版権(上演料)を定めたのです。その時は百円二百円三百円などの説が出ましたが結局五百円を上演の度に差し出すことに話が全部で決定したのです。それが時勢にもよりますが三十倍五十倍の金額になってゐるそうです。(中略)今度の話の発端は師匠團十郎の没後初めて「勧進帳」を追善興行として上演する時中車、壽美蔵、段四郎と私が一日交代でも弁慶を勤めることになったのでしたけれど中車と壽美蔵は故あってこれを辞退しました。(中略)当然二人が一日交代で演る筈の處を壽美蔵(段四郎の間違い)さんから「貴方はまだ若い、今後何時でも弁慶を演る機会はあるけれど、私は老先長くないこの身体で今度をはづして又勧進帳の板にかかる時に出会ふかどうかわからない、だから今度は是非共私一人に勤めさせてもらひたい」との話、まだ若い聞いて見れば宗家もその意向だったのです、そこで宗家と「此の次には何んな都合があっても私に上演させる」といふ約束で(中略)その時の約束通り次の上演の時に私に宗家から一言でも挨拶をして呉れたらよかったが、悪くいへばひどく踏み付けられた様な事をされた、その時も私は父母に合せる顔もなく黙って居ました。最初の動機がこんなありさまでしたから私は其後度々勧進帳が出る度に誠にいやな苦い思ひをして舞台を勤めて来たのです。

(京都日出新聞 昭和3年12月1日「助六」上演に就いて 上より引用)

 

 

何事も問題が起るので今度の「助六」以後は断じて十八番ものに手をつけないと決心した様な次第です。松本家を名乗ってゐて松本家に伝はってゐる「暫」や「助六」を演らないで宗家のものを上演してゐる宗家へ忘恩せずといふ意志からであるのですが、その苦しい心底をも汲んでもらえないのでしたら是亦致し方のない次第だと思ってあきらめてゐます。」(京都日出新聞 昭和3年12月2日「助六」上演に就いて 下
より引用)

 

と九代目の没後25年間に渡る版権料の不当な値上げや九代目の三年祭追善公演での掘越ます未亡人の不公平極まりない決定から端に発した市川宗家側に対する不信感が外郎売の上演拒否で限界を超えた為であったと見て取れます。

この歌舞伎十八番の上演に関する版権料の話は何も幸四郎側の一方的な主張ではなくこれまで何度と無く話題になっており一例を挙げると大正11年11月に帝国劇場で暫が上演された時には版権料がそれまでの3,000円から2倍以上の7,000円にまで一気に値上げを行った事について釈明を求められ新聞のインタビューに応じた三升は

 

従来歌舞伎十八番が上演される都度話は順調に済んでゐるが自分の考へとしては上演の押売りをしないそれが故人の芸術を浮薄なものにせぬ自分の責任だと感じて寧ろ出し惜しみの態度を執ってゐたのが或は此の問題を惹起する一因になったのかも知れぬ」 

(都新聞大正11年11月22日付)

 

従来「暫」の上演は余りせぬ単に「暫」に限らず十八番ものに一定の承諾料は定められていないのだから」(都新聞大正11年11月22日付)

 

と答えていて三升側の方で歌舞伎十八番の上演許可を出し渋っていた事や版権料は定まっていないと苦しい言い訳で大幅値上げした事を認めており、認めない理由を「故人の芸術を浮薄なものにせぬ自分の責任」と釈明しているとは言え、市川宗家側が松竹や帝国劇場に対して不当な値上げを行っていたのが分かります。(余談ですがこの時勧進帳と助六だけは1万円に値上がりした為、松竹、帝国劇場、市村座は対応を協議し今後一切歌舞伎十八番は上演しないと決めてしまい、事実東京では大正13年10月まで1年11ヶ月もの間歌舞伎十八番の演目は一切上演されませんでした)

更に言うとこの南座での助六騒動について中村氏は九代目の演出を尊重する事で矛を収めたとしか記していませんがそんな綺麗事で収まる理由がなく結論から言うと幸四郎側の言い分にも一理あったのか松竹、帝劇側と協議の結果、

 

今後京阪で行われる歌舞伎十八番の版権料に関しては市川宗家に収めずに慈善事業に寄付する(京都日出新聞11月29日付)

 

と決まり、三升の余計な介入が却って市川宗家の貴重な収入源を減少させる結果となってしまいました。

もし三升が「「歌舞伎十八番」を通じ、「團十郎」の権威を示そうとした」という事実を書きたいのであれば本人へのインタビューもある大正11年の事を触れれば良いのであって「季節外れだから」が表向きの原因であり九代目の権威云々とは無関係の昭和3年の一件を取り上げる一方で歌舞伎十八番の版権料問題に一切触れない辺り彼の知識不足と調査不足なのは明らかであります。

 

次に酷いのが福三郎の初舞台に関する話で上述の通り資料が豊富な事もあって中村氏は福三郎の初舞台について以下の通りに私見を述べています。

 

「演芸画報」の記事には「小倉の興行の二日目」に、福三郎と新井が、鴈治郎の一座に泊まっていた「梅屋」という旅館に来て、名前の相談をしたとある。当時の興行を記録した「近代博多興行史」を見ると、鴈治郎一座は、明治四十三(一九一0)年六月二十八日から七月五日まで、国鉄小倉駅近くの船頭町にある常盤座で興行している。「二日目」ならば明治四十三年六月二十九日ということになる。」(158~159P)

 

いよいよ「林長平」として舞台へ上がることとなった。この時の演目は、鴈治郎と福三郎とが、それぞれ「演芸画報」の記事の中で語っていることに食い違いがある。鴈治郎は「良弁杉由来」「盛綱陣屋(近江源氏先陣館)」、福三郎は「銭屋五兵衛」「良弁杉由来」の順だったとしている。調べてみても、どちらが正しいのかは解らなかった。」(159P)

 

この部分、一見するときちんと典拠と考察を元に正しく書いているかの様に思えますが中村氏は資料や典拠の選定を甘く見たのか中々に悲惨な間違いをいくつも犯しています。

 

・初舞台の演目について

 

中村氏は福三郎の初舞台について上述の通り6月29日以降に小倉常盤座での良弁杉で初舞台を踏んだとしていますがこれは間違いであります。何故ならこの時の福三郎の行動について鴈治郎一門にいた市川箱登羅が自身の日記である「箱登羅日記」の中で以下の様に詳細に記しているからです。それによると福三郎は

 

堀越氏東京より来ル 福三郎氏ニシテハ大記念日也

(市川箱登羅日記 明治43年6月28日付より引用)

 

とあり、6月28日に東京から小倉常盤座にいる鴈治郎を訪ねた事が記されています。

「大記念日」と記述がある事からこの日を以て正式に鴈治郎の門下に入った事が伺えます。

そして翌日の29日に関係者一同に挨拶して役者になる事を周囲にも正式に表明し30日になって化粧や簡単な稽古を箱登羅相手に行った上で小倉に到着してから3日後の7月1日に

 

堀越氏芸名林長平ト改 舞台へ登ル 但寿役加賀乃御金御用達也

 

此日はセリふハなし

(市川箱登羅日記 明治43年7月1日付より引用)

 

とある様に「銭屋五兵衛」の加賀お金御用達の役で舞台を踏んだのが彼の正しい初舞台となります。

因みに7月1日の演目は

 

銭屋五兵衛

紙治(心中天網島)

蘭平物狂

 

であった事が当時の新聞である福岡日日新聞に記載されており、決して福三郎の記憶違いではない事が証明されています。

中村氏は「調べてみても、どちらが正しいのかは解らなかった。」とか書いていますが素人である私が僅か1日でこれだけ調べられた事を踏まえても如何に彼が何も調べていないかが如実に浮き彫りになります。

 

そして翌2日になり演目が変更となり

 

・妹背山婦女庭訓

・良弁杉由来

・揚巻助六

 

が上演され長平は良弁杉の供侍士役を振られて演じ

 

良弁僧正の供侍士長平出勤 セリふ三言有ル 中々うまし大成功

(市川箱登羅日記 明治43年7月2日付より引用)

 

と褒められており、福三郎の供述通り「銭屋五兵衛」「良弁杉由来」の順が正しいのが分かります。

ここにもある通り鴈治郎の記憶が良弁杉と盛綱陣屋と記憶していたのは銭屋五兵衛での彼の役が台詞無しのただの端役だったに対して良弁杉由来の供侍士役は台詞もあった事で文中にもある様にハラハラしながら様子を見守った事から記憶に強く残った様で同様に東京の記者にも台詞がなく急遽追加された銭屋五兵衛ではなく良弁杉由来が間違って初舞台と伝わってしまったのが分かります。

 

・何故間違えたのか

 

中村氏がここまで酷い間違いを犯したのかについて述べると

 

・典拠となる資料への過信

 

・歌舞伎の習慣についての基礎知識不足

 

が挙げられます。

彼がこの部分で典拠に用いたのは演芸画報のみであります。確かに演芸画報は戦前の歌舞伎研究において基幹資料の1つであり、研究するのに不可欠な資料であります。

しかし、演芸画報は今まで紹介してきた通り、時代の変遷によって編集部の方針も様変わりする雑誌であり、ましてや東京ではなく遥か離れた小倉に関する記述に関しては東京や大阪の公演と同一の信憑性があるとは限らない事を加味して使う必要があります。中村氏は三升及び鴈治郎のインタビューと該当月の地方の短信のみに全幅の信頼を置いて書いたのが明白ですが、鴈治郎に関係する資料であれば私が用いた市川箱登羅日記という超一級の資料が存在し大正初期の記述分までは翻刻され簡単に手に入れる事が出来ます。更に言えばもし知識不足で市川箱登羅日記に辿り着かなかったにしても続々歌舞伎年代記 坤にもこの巡業の詳細はある程度載っておりこの事に気付けた可能性は十分あります。
また、地方巡業であれば当時の地方新聞にも詳細が載っている為、これら資料を複合的に駆使しないと上述の様な視野狭窄となり、結果として間違った結果に行きつく事になります。

また、当時の歌舞伎の地方巡業は今と違って数日単位で演目が入れ替わる仕組みであり、この時の鴈治郎一座は五の替りまで用意しており、公演場所によって四の替りで終わらせたりあるいは五の替りまで出したりするなどしていました。(鴈治郎が言及した盛綱陣屋は最初に出す御目見得狂言で出していた演目になり彼は次の公演地の広島での盛綱陣屋を次の役だと誤認していたのが分かります)

この小倉では四の替りまで出していてしかもこの小倉でのみそれまで三の替りで出していた演目を急遽二の替りに変更して出している等、かなりイレギュラーな動きをしており、こればかりは演芸画報だけでは信憑性を確認するのは不可能であり現地新聞での裏付けは必須と言えます。

 

彼は能に関する仕事が本業であり、こういった戦前の歌舞伎の基礎知識がまるでなかった故にこの様なミスを犯したと言えますがいみじくも22Pに渡って長々と書いた挙句に自信満々に調べたけど分からなかったと書いてしまったのは評伝としてあまりにお粗末であり、彼の日頃の資料精査に対する甘い姿勢が透けて見えます。

トドメでは無いですが、中村氏は福三郎について

 

台本を見れば、すぐに筋を覚え、セリフ回しを教えても、飲み込みが早かった。」(159P)

 

と鴈治郎のリップサービスを真に受けて福三郎を称賛していますが実際に指導した箱登羅によればこの後広島でだんまりに彼を出そうと思ったが、所作が硬くお話にならずボツとなり、廓文章で端役にも出る案があったそうですがこちらも台詞廻しがお話にならない程拙く、福三郎自ら降板を申し出た程であったと書いており、広島公演での彼の配役を見てもホンの一言二言セリフがあるかないかの端役や取って付けた役、後はこの時体調不良で幾つか役を降りた長三郎の代役などしか演じておらず役者として決して出来の良い部類でなかったのは当時の一級資料を見ても明白です。

 

④書かれていない襲名後から昭和初期にかけての三升の活動について

最後に第5章で僅か3Pで終わらせてしまった三升襲名から歌舞伎十八番復活を最初に手掛けた昭和8年までの三升の行動について私が把握している範囲内で簡単に触れたいと思います。何故かと言えばこの年数にして16年間の行動を見れば彼が何故歌舞伎十八番復活へと活動をシフトしたかについての重要な背景が分かるからです。

そんな訳で襲名した翌年、大正7年の彼ですが年間の出演スケジュールは以下の通りとなっています。

 

大正7年

 

1月:明治座

2月:明治座

4月:浪花座

6月:新富座

8月:歌舞伎座

9月:横浜座

11月:歌舞伎座        
 

左團次一座に入った事もあり歌舞伎座に出れるのは真夏の8月と顔見世の11月のみで残りは東京の劇場では明治座と新富座のみの出演となっています。

特筆すべきは襲名披露も兼ねた4月の浪花座で世話になった鴈治郎と大正3年以来4年ぶりとなる共演を果たした位であり、11月の歌舞伎座で忠臣蔵に出た時は大序の足利直義と六段目の千崎弥五郎を演じましたが劇評には

 

三升の千崎、六段目だけゆゑ何うにか切り抜け、案じたよりは物になってゐる方。

 

と既に演技力を危惧されて端役であった御陰で悪目立ちせずに済んだと書かれる程危い評価となっていました。

 

大正8年

 

1月:明治座

2月:横浜座

3月:新富座

4月:明治座

6月:横浜座

7月:新富座

8月:歌舞伎座

9月:明治座

11月:明治座

 

この年の出演数は9ヶ月とかなり多めですが歌舞伎座の出演は8月の1回のみで後は前年と同じく明治座と新富座のみの出演となっています。

因みにブログでも紹介した通り4月の明治座では山崎紫紅に書下ろして貰った新作の実朝公で主役を務めましたが評価は

 

この幕では飛んだ鳩がよし

 

と小道具の鳩以下という屈辱的とも言える評価を下されており、演技力に難がある彼に対する厳しい評価が分かります。

 

三升の実朝

 

大正9年

 

1月:明治座

2月:歌舞伎座

3月:新富座

4月:明治座

5月:新富座

6月:新富座

7月:歌舞伎座

8月:地方巡業

11月:新富座

12月:横浜劇場

 

この年も歌舞伎座に出れたのは年2回で配役も多賀大領や徳川慶篤と言った品格を求められる殿様役ばかりであり相変らず冴えない脇役に甘んじていますが12月だけは例外で左團次一座が帝国劇場の出張公演に出ている中、彼だけはお呼びではなく言わば戦力外通告された様な状態で市川小太夫や中村芝鶴、市村亀蔵、澤村源之助に混じり横浜劇場に出演していますがここでは彼も一幕出し物を出せるポジションであったのか国姓爺合戦を出して和藤内を演じています。

 

三升の和藤内

 

大正10年

 

1月:明治座

2月:横浜座

3月:新富座

4月:新富座

5月:明治座

8月:歌舞伎座

10月:明治座

12月:横浜劇場


大正10年も前年と然程変わりませんが、前年12月の横浜劇場出演からも分かりますがこの年から大正7年以降ずっと行動を共にしてきた左團次一座から徐々にではありますが別行動を取る様になり、この頃の彼は上記の実朝や和藤内など義父の九代目に習ってか古典新作を問わず演じてみたりといつまでも左團次の庇護下にいる事を望まず独自色を出そうと彼なりに模索していたのではないかと思われる節が見受けられます。

 

大正11年

 

1月:明治座

2月:横浜座

4月:新富座

5月:明治座

6月:新富座

7月:新富座

9月:帝国劇場

12月:帝国劇場

 

大正11年で特筆すべき事は九代目の十五年祭追善以来5年ぶりとなった9月の帝国劇場出演でした。

ここで彼は歌舞伎十八番の1つ、ういろう(外郎売)を初めて披露しましたがこれは本来であれば第6章での歌舞伎十八番上演の端緒として大々的に書いておくべき事柄ですが中村氏は錣引の景清についてのみ触れこの外郎売の復活はたった2行で済ましてしまっています。

しかもこの外郎売上演はもっと書くべき事があり、実はこの公演は当初九代目市川團十郎の没後二十年に当たる事からこの公演で義弟の五代目市川新之助が市川海老蔵を襲名する予定でした。

 

演芸画報3月号に記載されている海老蔵襲名の記事

 
 

 

言わずもがなこの襲名はボツとなるも既に出演が決まっていたが故にせめてもの意地で九代目の二十年祭追善の意を籠めて外郎売の復活上演が実現したと言う事情がありました。

そんな彼の強い意志もあったのか1ヶ月前から平山晋吉を自宅に呼び出して脚本を練る様子が新演芸にも報じられる程の意気込みを掛けた物でしたがそんな努力も虚しく外郎売は上演されると

 

雑然としてまだ十分まとまってゐない。

 

一向に面白くもない芝居であった、之は古劇を復興するに当たっての用意を欠き中途半端な演出をしてゐるからである

 

と復活に際しての考察や準備が足りず中途半端な物に仕上がっている事を指摘する劇評が殆どでした。

この様に左團次一座を離れて行動したは良いものの、役者としての実力がない三升一人の力では海老蔵襲名はおろか九代目の追善すらもままならなかったのが当時の現状でした。

また、これはあくまで想像ですが昭和に入ってからの復活上演を年1回とかなりゆったりしたスケジュールで行っていた背景にはこの時の準備不足の指摘を受けて反省し時間を掛けて取り組んでいたのではないかと思われる節があります。

 

大正12年

 

1月:本郷座

5月:明治座

8月:地方巡業(東北)

9月:地方巡業 

11月:帝国ホテル演芸場、地方巡業

12月:地方巡業

 
大正12年ですが見ての通り上半期の出演数が前年に比べて激減しているのが分かります。この理由は不明ですが同時期の雑誌、新聞等を見る限り三升は左團次一座から正式に独立して自身の一門の出演を中心とする劇場である團十郎座を旗揚げしようと模索していた事が分かっています。何でも秋には早くも旗揚げ公演を計画しているという事まで書かれていてその準備の為の休演だったのかも知れませんが上半期は僅か2ヶ月のみの出演となり8月には義弟新之助を連れて東北地方に巡業へ出かけましたが日程も終盤にほど近い8月28日の秋田ではこの年の3月に県内で起こった偽片岡我童事件(秋田市の土橋に新しく開場した東座の杮落し公演に片岡我童の偽物が現れたので見に来た見物が怒って暴徒化し警察が出張る事態となった)の影響からか「秋田に本物の市川宗家など来る訳ない」と頭から偽物だと決め付けられてしまった結果、記録的な不入りとなり3000円の赤字が出てしまい本物にも関わらず偽物扱いまでされてしまうという不名誉な目に遭っていましたが、本当の災難は東京に帰京した直後の9月1日に関東大震災に見舞われた事でした。ます未亡人始め家族の命は無事であったもののます未亡人の能天気な義侠心で逃げてきた避難者の受け入れに忙殺されて避難が遅れた結果、初代團十郎以来受け継いできた市川家の家宝、書き抜き、小道具の殆どが焼失してしまうという取り返しのつかない事態に見舞われました。
そして家族も遅れてやって来て既に満員だった為に悪気は無かったとは言え赤坂の市川中車の家から門前払いを受け四谷の團之助宅まで避難を余儀なくされる憂き目に遭い、当座の凌ぎで自宅跡で食堂を始めるといった避難生活を余儀なくされました。
そんな中でも三升は10月に上記の團十郎座を当初の予定から軌道修正して自宅跡に舞踊の道場兼芝居小屋として設立すると発表し一方で家族を食べさせる為に自宅にます未亡人と妻の翠扇を残し新之助や紅梅を連れて9月と11月に再び巡業に出かけるなど厄年とも言える大正12年を旅先で終える事になりました。
 

大正13年

 

1月:大国座

2月:大国座

3月:大国座

4月:地方巡業(東海)

5月:千歳座

6月:本郷座

10月:本郷座

12月:本郷座

 

震災の傷跡もまだ癒えない大正13年は只でさえ劇場が不足している為に左團次は麻布明治座、歌右衛門も浅草松竹座に出る等大幹部すら元小芝居の劇場に出る状態の中で三升に出演出来る様な劇場は小芝居の劇場しかなく1月22日に再建された四谷の大国座に出演しました。しかし、それも長くは続かず4月には勘彌と宗之助を迎えると言う事で敢え無く出演できなくなり仕方なく新之助や僅かな門弟を率いて東海地方へ地方巡業に出ざるを得ませんでした。

そして6月以降は再建した本郷座に左團次一座の一員として出戻り糊口を凌ぐ形となりました。因みに10月には彼及びます未亡人ら家族を不憫に思ったのか大正11年から上演を取りやめていた歌舞伎十八番の勧進帳を出しており、自身の意志を捻じ曲げて劇界の厚意に甘んじる形となりました。

 

大正14年

 

1月:歌舞伎座、浅草松竹座

2月:本郷座

3月:歌舞伎座

4月:浅草松竹座

5月:本郷座

7月:浅草松竹座

11月:浅草松竹座

 

大正15年/昭和元年

 

1月:本郷座

2月:本郷座、浅草松竹座

3月:地方巡業

4月:浅草松竹座

5月:浅草松竹座

9月:浅草松竹座

10月:邦楽座

 

大正14年は1月と3月こそ再建された歌舞伎座に顔を見せましたが残る月は本郷座と明治座の代替劇場扱いとして左團次一座が根城にしていた浅草松竹座に出演する日々が続き良くも悪くも大正11年頃の境遇に近い形に戻り翌大正15年も同様でした。

因みに大正12年に発表した團十郎座の計画はどうやらこの頃には既にご破算となったそうですが、三升はこの計画をさらに軌道修正し劇場建設は諦めつつも自身の一座を旗揚げする野望だけは諦めてはいませんでした。

 

昭和2年

 

1月:本郷座

2月:浅草松竹座

3月:中座

10月:歌舞伎座

 

この年は九代目の二十五年祭の年に当たりますが、特に追善公演を計画した様子はなく三升もこの年の出演は4ヶ月と少ない年となりました。

 

昭和3年

 

1月:歌舞伎座

2月:歌舞伎座

3月:歌舞伎座

4月:明治座

5月:歌舞伎座、新橋演舞場

6月:歌舞伎座

11月:本郷座

 

出演数が少なった前年に対し昭和3年は一転して出演数が倍近くなり再建から3年経ても3回しか出演が無かった歌舞伎座にも年5回出演するなど活躍が目立った年になりました。因みに小島二朔によるとこの頃に吉右衛門と三升が松竹巡業部の巡業に一緒に同行した際に彼は出し物として得意の矢の根を出したそうですが、この時松竹からは一切給金を貰っていなかったそうです。しかし、その様な事を妻や義母に知られては拙いと思ったのか彼の実家から給金相当分の金額を貰った様に偽装していたらしくそれでも彼はきちんと九代目の演じたそのままに矢の根を演じていたらしく当時の彼の惨めな境遇とそれにもめげずに舞台に励む彼の真面目な性格が浮かばれます。

 

昭和4年

 

1月:本郷座

2月:明治

3月:新橋演舞場

4月:明治座

5月:明治座

6月:歌舞伎座

10月:新橋演舞場

 

昭和4年も3年と変わらずの7ヶ月出演を果たしていますがこの年の特筆すべき事は出演よりも歌舞伎十八番の上演の連発であり前年の11月に南座の助六上演を巡って幸四郎と衝突してあれだけ大騒ぎになったにも関わらずこの年の3月の歌舞伎座ではその助六を、6月にはあれほど拗れた幸四郎が勧進帳を演じるのを許可しており、更には11月には三升に先んじて左團次が歌舞伎座で関羽を復活させるのも許可しています。

「三升は、「歌舞伎十八番」を通じ、「團十郎」の権威を示そうとしたのだ。」と書くのは大いに結構ですがその割に昭和4年のこれら一連の行動に関して何も触れないのは些か不親切なのではないかと思われます。

 

昭和5年

 

1月:歌舞伎座、新歌舞伎座(新宿)

2月:中座、浪花座

3月:地方巡業(九州)

4月:歌舞伎座

8月:地方巡業(東北)

9月:東京劇場

10月:地方巡業

11月:新橋演舞場、地方巡業

 

そして市村座に続き帝国劇場も買収され東京の劇場が松竹で統一されたと同時に世界恐慌の波が日本にも訪れ、劇場も一気に不入りが続くようになった昭和5年ですが松竹は経費削減の為、200円以上の給金を貰う役者や大道具の給金を2割カットする方針を打ち出した事を受けて真っ先に不況の煽りを受けて生活苦から廃業する者が多く出た名題下の役者が共和会、中堅俳優らが優志会と松竹に対しての交渉力を得る為にそれぞれ結成され、三升は同じ左團次一座で顔を合わせる機会の多かった猿之助に共感する所があったのか優志会の方に関与していました。しかし、優志会が長十郎、翫右衛門などの左翼主義者の主張によって徐々に反松竹、劇界体制批判の色を強めて行ったのと松竹側からの弾圧もあり三升は会から早くに手を引いて11月には積年の悲願だった三升座を結成し妻翠扇等と新橋演舞場で慈善公演ながらも旗揚げ公演を行いました。

こちらは慈善公演と言う性質もあってか客入りも良くこのまま松竹の中で独自色を出して行く…と思いきや優志会の面々が松竹と対立を深めて先鋭化し松竹から脱退、独立して第二次春秋座として市村座で旗揚げすると三升は今こそ好機と思ったのか理外の行動に出る事になります。

 

昭和6年

 

2月:地方巡業(名古屋新守座)

3月:市村座

 

昭和6年2月、三升は新之助や新派の俳優ら三升座を率いて何と松竹を脱退してしまいました。

そして2月に名古屋の新守座で8日間、3月の市村座でそれぞれ独立記念の公演を開きました。しかし、2月の新守座は飛行機でビラ撒きをするなど派手な宣伝を行ったのと短期公演だったのもあって上手くいったものの、3月の市村座は三升と新之助だけでは集客が見込めないという欠点もあり密かに上方歌舞伎で不遇を託っていた三代目阪東壽三郎と二代目中村霞仙の引き抜きを画策していた事が松竹にバレて失敗してしまうなど計画の杜撰さも露見し市村座の公演は上手くいかず不入りに終わりました。そして市村座側も共演した新派俳優のみで公演を続ける決断を行い三升を切り捨ててしまいました。

更に悪い事は続き独立失敗から2ヶ月後の5月8日には義母である堀越ます未亡人が死去してしまうなど身内の不幸にも見舞われ、弓を引いても売れっ子であったが故に左團次と羽左衛門の仲裁で7月にあっさり松竹へと復帰した猿之助一派とは違って実力のない彼は松竹への復帰の話も出なかった事から三升は暫くの間何処にも出演せず役者を実質的に廃業してしまいました。

 

昭和7年

 

2月:中座

3月:地方巡業

7月:歌舞伎座

8月:地方巡業

11月:歌舞伎座

 

廃業中は専ら趣味の世界に没頭する一方でたまに都新聞にインタビューを受けたり九代目の回顧談を執筆したり演芸画報や映画と演劇といった雑誌のインタビュー等も受けてたりと気儘に過ごした彼でしたが昭和7年に入って左團次を介して松竹に侘びを入れて復帰し五代目市川染五郎の襲名披露を兼ねた2月の中座で約1年ぶりに舞台へと復帰しました。とは言っても役者の実力としては論外で独立にも失敗、市川宗家代々の家宝も震災で失うとまさに踏んだり蹴ったり状態の三升はそう簡単に使っては貰えず7月には演目が武田家に因む事から初代團十郎の先祖が甲府出身というこじつけに近い理由だけで端役で歌舞伎座に出演するなど涙ぐましい努力を続けていましたが、捨てる神あれば拾う神ありでこの頃の慢性的な不入りに苦しむ松竹が客寄せを兼ねて企画したのが11月の九代目團十郎三十年祭追遠公演でした。ここで市川宗家当主としての肩書が活きる事になり三升は口上の外に出し物として歌舞伎十八番の復活として解脱を上演しました。そしてこの追遠公演が起死回生の大入りとなり、気を良くした松竹の追善ビジネスもあってこれまで散々な目に遭ってきた三升もここに来てようやく劇界での立場を確保できる目算が付く事になりました。

 

昭和8年

 

1月:歌舞伎座

3月:大阪歌舞伎座

10月:歌舞伎座

11月:歌舞伎座

12月:南座

 

團十郎追遠公演の思わぬ大入りに気を良くした松竹は1月にも追遠延長公演として再び歌舞伎座で行い、3月には大阪歌舞伎座に場所を移して行われ三升はどちらとも出演して1月は不破、3月は再び解脱を演じました。

そして半年間に渡る追善を終えた三升はここに来て活動の中心を解脱、不破に続く歌舞伎十八番の復活へとシフトしました。

これには市川家代々の顕彰や創作歌舞伎の一端を担いたいという気持ちも勿論あったかと思いますが裏を返せば独立に失敗し役者としての実力は相変らず無い彼が九代目の偶像化を松竹が推し進める中で市川宗家当主の立場として自分が出来る事は何かという事を考えた時に初演以来先人が演じた事が無い故に比較される心配もなく、且つ上演するに当たっての当時の資料がない故に自分の自由に補弼が可能である歌舞伎十八番の復活上演であれば自分にも出来ると判断があったからでした。

 

この様に大正7年から昭和8年までの三升の活動を簡単に説明しましたが順風満帆どころか常に冷遇と不運が続く有様であり、彼自身も決して真面目一筋であり続けた訳ではなく松竹からの独立と失敗と言う苦い経験を経ており、こういった経緯を経て彼は市川宗家としてのアイデンティティを保つ為に歌舞伎十八番の復活を敢えて選択したのが分かります。

そしてその傍らで市川家の発祥の地である甲府を訪れて研究に勤しみ昭和10年には堀越系図を発見するという功績もきちんと残しています。

 

正直言って中村氏が歴代の團十郎の事績やら九代目の人生やらを68Pも使ってだらだら書く一方で團十郎座及び三升座を含む三升の活動を一切無視してこの本を書いているのは本末転倒も著しく理解に苦しむ所業であり、評伝としての体を成していないのは明らかです。

今回は自分が領分とする戦前部分に当たる第2〜5章を中心に述べましたがこの本を読んだ所で市川三升という役者の特異性が分かる訳でもなく、時間を消費して得られるのは中途半端且つ間違いを多分に含んだ知識みたいな代物に過ぎません。

もし三升の事を知りたいのであれば彼自身の著作、あるいは当時の資料である演芸画報や新演芸、第一次歌舞伎辺りを読むのが一番手っ取り早い方法となります。もし上記の事を理解した上でそれでも読みたいのであれば図書館等で借りて無料で読むのであればまだ金銭的損失はありませんので断然そちらをお勧めします。

今回は前回紹介した市村座の筋書に因んで久しぶりに本の紹介をしたいと思います。

 

梅と菊

 

 

大正時代から平成時代初期まで活躍した名女形である七代目尾上梅幸の自伝となります。

七代目尾上梅幸の本といえば1989年に刊行された「拍手は幕が降りてから」がありますがこちらはその20年前の1979年に日本経済新聞に連載された私の履歴書を1冊に纏めて出した物であり、芸談中心の拍手は幕が降りてからに対してこちらは連載の主旨もあって自伝的要素が強めの内容となっています。

 

表装は斧琴菊をあしらったお洒落な物

 

本人の写真

 

今でこそ公になっていますが梅幸が鍋倉直の子供で菊五郎夫妻の養子になった事を公表したのがこの時であり、彼が思春期真っ只中の15歳の古くからいる弟子達から噂話として聞いた際に苦悩した事やそれを終生語らなかった両親との関係も赤裸々に書いており、後に本人が兵役の関係で戸籍を取り寄せた時に養子だと知った後の考え方の変化や義弟に当たる尾上九朗右衛門や2人の義妹との関係なども包み隠さず率直に書いていてその点でも自身の出生(俗説を除いても養子である事)について一切語らなかった六代目中村歌右衛門とは対照的と言えます。

それはさておき、内容としては上記の出自の件から始まり両親や音羽屋についての紹介があり、私の履歴書らしく幼少期から現在まで時系列的に書かれいる第一部と得意役などについて触れた第二部、最後に単行本化に際して加筆された諸先輩の俳優について触れた第三部から成っています。

まず第一部についてですが彼の記憶の関係から初舞台から市村座買収の頃までの記述は少なく、僅かに初舞台の様子や子役時代の稽古事などかなり断片的となっていますが、そんな中でも亀三郎(十七代目市村羽左衛門)と楽屋で関東大震災の被災した話に関してはあわや梁の下敷きになる所を弟子である音平がすんでの所で救出し迫りくる火災流の中から何とか難を逃れた話はかなり生々しく歌舞伎云々の話を抜きにしても震災の記録として一読の価値があると言えます。

そしてメインの記述は昭和に入った辺りから戦後が中心となっています。

菊五郎の後継者という立場からか大切な御曹子として蝶と花よと育てられたイメージがありますが、確かに他の弟子達、例えば配役の不満から父親の元を飛び出した七曜座の役者達とかに比べれば世界恐慌の吹き荒れる中、役が付かなく明日の飯の心配が…の様な話はなく菊五郎が様々な趣味に明け暮れ奢侈を尽くして高価な物を次々買っていた為に当時の金額で百万単位の借金があったという実家の赤裸々な台所事情も書いたりもしていますし、同世代の松緑、又五郎、雀右衛門らが経験した兵役についても病気の為に免除されていて従軍による人生観の変化も無いなど比較的恵まれた生活を送っていたのは事実です。

しかし、そんな幸せな環境下で戦前を過ごした梅幸も芸の面では菊五郎のスパルタ教育もあり、他の御曹子の様に腑抜ける事はなく過ごし、終戦後になると頑強に思えた父菊五郎の衰えを間近に見た事で稼ぎ頭が休む事で生計が立たなくなる一座の生活を考えて父親抜きでの公演を開いたり松竹に給金値上げの交渉を始めて菊五郎との衝突した事や六代目梅幸未亡人の願いもあり七代目尾上梅幸を襲名するなどして音羽屋の後継者としての自覚と行動が芽生え始め、後ろ盾であった菊五郎の死を受けて生まれて初めて直面した逆風を受けて一癖も二癖のある役者が多い菊五郎劇団を纏める座頭としての映画出演や巡業を行って仕事を見つけてくる苦労などを経て一座の客演となった九代目市川海老蔵の人気によって経営が安定するまでの日々を綴り最後は息子の四代目菊之助が1973年菊五郎を襲名した所で終わっています。

七代目梅幸と言えばリアルタイムで見ている方は勿論ご存知ですが温厚篤実の紳士な人柄で知れ渡っていますが、その背景を知る上では実にコンパクトに分かり易くまとまっており、知っている方も若い方でも「安心して」読む事が出来る内容となっています。

 

そして、この本を刊行するに当たって新たに書き下ろした第二部の芸談のページに入ると梅幸が印象に残る役々について50P以上に渡って触れています。彼が選んだ役を列挙してみると

 

・摂州合邦辻の玉手御前

 

・熊谷陣屋の相模

 

・仮名手本忠臣蔵のおかると塩谷判官

 

・妹背山婦女庭訓のお三輪

 

・新版歌祭文のお光

 

・与話情浮世横櫛のお富

 

・新皿屋舗月雨暈のお浜

 

・花街模様薊色縫の十六夜

 

・雪降夜入谷畔道の三千歳

 

・勧進帳の義経

 

・青砥稿花紅彩画の弁天小僧菊之助

 

・京鹿子娘道成寺の白拍子花子

 

・春興鏡獅子の小姓弥生と獅子

 

と時代物、世話物、舞踊に立役、女形と多種多様な16役を取り上げています。

この内お家芸である世話物や舞踊が8役、その他が7役と綺麗に分かれており、この内塩谷判官とお光を除くと何れもがライバルと目された六代目歌右衛門も得意とした役であり、彼の役作りや衣装との違い(玉手御前の俊徳丸への恋心や道成寺の道行など)もあれば梅幸が成駒屋の型(勧進帳の判官御手の中啓について)の方が良いと賛同したり、かと思えばお三輪の役の大切な所の着眼点が異なる(恋心を持つ娘役の性根の大切さを説く歌右衛門に対して梅幸は脇が務めるいじめの官女の大切さを説く)など2人の役に対する見方の比較が楽しめます。

また、どちらかと言えば立役が豊富に入る菊五郎劇団では支える側に回る事が多かった彼だけに本の中でも

 

六段目のおかるは勘平を立てて控え目に演じるので自然、内攻するから、七段目のおかるより皮肉な役でむずかしい。」(本文より抜粋)

 

と一歩下がる女形の心得の大切さを話す一方で熊谷陣屋については性根の難しさと説く傍ら端場をカットする事で相模の出が印象的になる=栄えると女形としては引き立つのは理解できるなど女形ならではユニークな視点での解説があるのが特徴でもあります。

一方でお家芸である弁天小僧や宗五郎女房お浜、お富などについては性根についても触れつつも緻密な構成を考えた五代目菊五郎、その芸にさらに写実味を加える変更を施した六代目菊五郎、あるいは相方の身長に合わせて適宜小道具の工夫で女らしく見えるようにした六代目梅幸の性根ばかりではない細かな技巧の役作りの例を触れつつ、自身の工夫も解説するなど音羽屋らしい芝居の奥深さが堪能できます。

 

そして第三部は梅幸自身が知っている戦前の名優についての思い出話となっています。

正直この本の中でも一番面白いのがこの第三部で第一部でも菊五郎は無論の事、十五代目市村羽左衛門の無邪気なエピソードを書いていますが、ここでは伯父六代目梅幸、叔父六代目彦三郎を筆頭に音羽屋一門は元より父親のライバルである初代吉右衛門や七代目三津五郎、七代目幸四郎、七代目中車といった大幹部に加えて十一代目仁左衛門や二代目延若、三代目梅玉といった上方の大御所、更には本人が一度も共演した事がない二代目左團次や子役時代に会った市村座の三階役者の人までも紹介していて加筆とは思えない位のボリューミーな内容になっています。

折角なので幾つか紹介するとまず一番面白いのが梅幸の叔父である六代目彦三郎です。彼は「大時計」とあだ名された位の大の時計好きでその時計にまつわる話もありますが実は兄菊五郎に引けを取らない悪戯好き且つ天然の一面があり、

 

・家に遊びに来ていた四代目澤村源之助をからかおうと弟子に命じてマイクロフォンを使ってラジオ放送のフリをして「源之助の自宅から火が出て火事になっている」という嘘をニュース風に伝えて源之助を青ざめさせて慌てて帰らせる

 

・刎頚之友とさえ言われた松竹の創業者である白井松次郎でさえ、容易に入る事を憚れた初代中村鴈治郎の楽屋に「成駒屋のおじさん、いるかい」と言って顔だけ拵えたふんどし一丁の姿で平然と入っていき置いてあるお菓子をそのまま口に入れて食べながら帰る

 

・その初代中村鴈治郎と南座の顔見世で共演した時(昭和4年12月)に礼儀正しく衣服を整えきちんと膝をついて正座して挨拶した兄梅幸の横で「おじさん、よろしく」と立ったまま一言だけ挨拶しそのまま帰る

(何れも出来事も初代鴈治郎はあまりの図々しさに怒る事も出来なかったとの事)

 

と一歩間違えれば半殺しか干されかねない傍若無人を絵に描いたような振舞をしながらもその愛嬌さで怒れないので許されるという叔父の一面を記しています。

また七代目幸四郎は写実に真面目一途な性格故に力を一切抜かずに演じる為、仮名手本忠臣蔵で共演した際に小突かれただけなのにあまりの怪力で油断して突き飛ばされてしまった話や二代目延若が若手にアドリブで下ネタを振って来て対応に困ったという他愛のない話もあれば共演こそないものの直に舞台を見た二代目左團次の音羽屋にはないそのカリスマ性だけで成立させる骨太な芸の偉大さや菊五郎と息の合った踊りを見せた七代目三津五郎が体格差を埋める為に秘かに行っていた工夫など立派な芸談になりそうな話まで多種多様に溢れており歌舞伎好きな人にとっては必見の内容と言えます。

 

拍手は幕が下りてからも確かに名著ではありますが、こちらの本も合わせて読む事で七代目梅幸の芸や見識の深さでより知る事が出来る本ですので古本屋なので見つけたら音羽屋贔屓でなくともお買い求めされる事をお勧めいたします。

 

また近々音羽屋に関する著書を紹介する予定なので楽しみにお待ちください。

今回は久しぶりに市村座の筋書を紹介したいと思います。

 

大正10年5月 市村座

 

演目:

一、長恨歌
二、嫩草足柄育
三、一つ家

四、文ひろげ

五、奇蹟

六、粟田口鑑定折紙

 

前回紹介した市村座の筋書

 

前回の筋書にも書いた通り二枚看板である吉右衛門の脱退が起きた事により市村座は以前からは想像もつかない程の苦境に陥っていました。

 

吉右衛門が脱退した時の帝国劇場の筋書

 

また菊次郎と国太郎亡き後一座の立女形の地位に就いた二代目市川米升もこの頃体調を崩して休演するなど弱り目に祟り目と言わんばかりに不幸が重なった中で4月公演を迎えました。

流石に当時の世論は脇役の息子というポジションから立役として長年に渡り育ててもらった恩顧が有りながら脱退の決断を下した吉右衛門への非難が集中しその反動で残された菊五郎を始めとする市村座への同情が集まった事もあり、4月公演はそれなりに入りはあったようですがかつての様な全日満員大入りといった状態からは程遠く、歌舞伎座や帝国劇場に大きく水を開けられる結果となり、ここに来て大正3年から始まった三座体制は大きく変化し始めていました。

そんな中で市村座が迎えたのが今回の公演で集客面で何とか挽回しようと打ち出したのが6歳になる菊五郎の養子である寺嶋誠三の初舞台でした。

 

6歳の四代目尾上丑之助と幟が立ち上る市村座

 

彼は養子とある様に鹿児島出身の実業家で橫濱正金銀行(現在の三菱UFJ銀行とPHYLLITEの前身)の副支配人も務めた鍋倉直と東京で赤坂の料亭「金林」を営む寺田きんとの間に生まれた私生児でした。

彼は実業家としても優秀である事に加えて浮世絵や狩野探幽、川合玉堂の絵も所有するなど文化人としての側面もありました。

そんな彼の子であった事や母が営む金林を菊五郎が贔屓していたという縁もあり、まだ子供のいなかった菊五郎夫妻に生まれて直ぐ養子として引き取られる事となりました。

しかし、菊五郎の大切な後継者でありながら初御目見えもなく6歳になるまで1度も舞台に出た事が無い事を訝しがる人もいるかと思いますが本人に言わせると鹿児島人の血を引くとは思えない程幼少期は病弱だったらしく、生後半年で中耳炎と肺炎を併発してしまい菊五郎が大金を払ってわざわざ大阪から酸素吸入器を取り寄せる程の重体となり、菊五郎は同時期に腎盂炎を患い寝込んでいた妻家寿子に息子の逆縁を告げなければならないと覚悟して妻に内緒で葬式の段取りまで組んだ程だったそうです。

幸いにも酸素吸入器のお陰で回復し、菊五郎は大切な後継者として可愛がり5歳になるまでは芸事を覚えさせず健康第一に育てたそうですが彼も健康に育った事で役者としての資質があると見込んだのかそこから猛スピードで舞踊や三味線、鼓などをスパルタで仕込まれて僅か1年で初舞台を迎える事になりました。

大切な音羽屋宗家の後継者の初舞台とあって市村座も盛大にプロデュースを計画したらしく、わざわざ初舞台の月を5月公演にしたのも帝国劇場が女優劇公演となり幹部役者が自由になる為、義兄である梅幸一門を出演させて花を添える為だったそうです。

 

主な配役一覧

 

因みにタイトルに書きましたがもう1つのサプライズとして大正7年12月公演を最後に脱退した守田勘彌が帝国劇場側のゲストとして2年半ぶりに出演したのも注目を浴びました。

 

脱退の経緯についてはこちらをご覧ください

 

表面上は円満脱退とはなっていますが実質的ば後ろ足で砂を蹴って去っていたのも同然である勘彌が古巣に出演する事についてはかなり物議を醸しだしそうな物ですが幸いにも当時の市村座の見物のヘイトは専ら松竹の劇場である新富座に出演する事が発表されていた吉右衛門に向いていた事もあり、勘彌の出演はそこまで否定的な物にはならず受け止められた様です。

しかし、裏を返せば梅幸を出演させる為とはいえ、一度は一座に後ろ足で砂を蹴って去っていた人物を頭を下げて迎え入れなければならないという市村座の苦しい経済事情が窺える物があります。

 

長恨歌

 
一番目の長恨歌は岡本綺堂が明治45年に演芸倶楽部で発表した作品を歌舞伎化した新歌舞伎の演目となります。
内容としては白楽天の漢詩を元とし中国の唐王朝中期の皇帝玄宗の皇妃である楊貴妃を主人公に傲慢極まる彼女の絶頂期から始まり安禄山の乱により都を追われ零落し絞殺されるまでの最期を導師である李子明や猛将長春、百姓劉英とその妻蓮子といった人物たちを絡めて唐王朝の没落と戦乱による市井の民に起こる悲劇を描いています。
今回は楊貴妃を菊五郎、皇帝玄宗を三津五郎、李子明を勘彌、劉英を男女蔵、蓮子を榮三郎、長春を友右衛門がそれぞれ務めています。
劉永夫妻に起こる話などは後年に書いた戦の後にも少し似た部分がありますが中国史に立脚した描写と市井の人の活躍もある綺堂らしさがある演目でもあります。それは兎も角、それまで専ら黙阿弥物や古典演目ばかり上演してきた市村座がいきなり180度違う綺堂物をやったのはかなりの変化ですがどうもこれは左團次を私淑する勘彌の熱烈な希望によって決まった物だそうです。
勘彌からすれば市村座在籍時代からこういった新作演目の上演に熱意を燃やしていた事もあり、古巣での上演は正に本願成就だったに違いありません。
さて、そんな異色な演目の出来はどうだったかと言うと劇評はまず大道具について評して
 
序幕の長生殿は絢爛目を奪ふ大道具だが、次の馬嵬駅の背景は南方支那の風物とは思へない。
 
と山場となる馬嵬駅の場の背景や劉永夫妻の家が在来の芝居の大道具からは脱却出来ておらず、こうした大道具にも予算が付く帝国劇場とは異なる欠点を指摘されています。
そして感じの作品の内容についてはというと
 
何といふ下らない作だ
 
そこには余りといへば余りに「内容」がない
 
とかなり痛烈過ぎる酷評を喰らっています。
 
しかし、役者についてはまず1人ヤル気満々の勘彌は
 
勘彌の導士李子明が一番すぐれてゐた。
 
勘彌の李子明は、サロメのヨナカンといったやうな役で、唐の末路を予言して、(楊)貴妃の怒りに遭ひ、生燈台となる幕切や、蜀に落る貴妃に相対した感慨無量の科など、この優一流の味がある
 
と占い師という古典歌舞伎には中々ない役柄も西洋劇に鍛えられた勘彌にとってはお手の物で楽々と演じながらも評価されています。
ただ劇評では続けて
 
何も必ずしも、あの勘彌氏を煩らはす必要はあるまい
 
と新作物においては百戦錬磨の勘彌にしてみれば少々役不足の感は否めない部分があったそうです。
そして勘彌以外にとっては未知の演目となる綺堂物を演じた役者については
 
菊五郎の楊貴妃は柳腰楚々(柳の様な細い腰付きで可憐な美しさ)たる原詩の俤はないが、理智の勝た勝ち気の女が、蜀を指して落行く處は哀れであった。
 
菊五郎の楊貴妃。これは思ったよりよかった。豊かな肉体と、あの丸ほちゃな顔とが、自分の趣味とは、従って、自分の想像に描くそれとは全く異なったものではあるが、ともかく或る点まで楊貴妃その人らしく見えた
 
三津五郎の玄宗と友右衛門の長春は、位置の上から役處で色取した男女蔵の劉永が苦役に捕はれて榮三郎のその妻蓮子と別れる處も、さらりとした中に情があった
 
と菊五郎はその体型から傾国の美女と謳われた美しさは皆無だったものの、持ち前の写実で国を追われ零落する様は流石に上手いと評価され、三津五郎、友右衛門の他に男女蔵までもが綺堂物初体験とは思えない適性を見出して好評でした。
 
三津五郎の玄宗と菊五郎の楊貴妃、友右衛門の長張

 
吉右衛門が抜けた事で一番目の時代物の演目がどうしても弱体化してしまうのは否めない事実でしたがそこで敢えて無理して古典物を手掛けず大胆に綺堂物にした事が功を奏して見物にも新鮮に感じれたのかかなり好評だったそうです。
 

嫩草足柄育

 
続いて中幕…ではなく「丑之助御目見得狂言」と銘打たれて行われたのが嫩草足柄育となります。
今回は山賤実は三田の仕を菊五郎、足柄の山姥を梅幸、源頼光を三津五郎、平井保昌を友右衛門、ト部季重を男女蔵、臼井貞武を菊三郎、五条兼行を新十郎、由良家重を翫助、大野義俊を伊三郎、岩田兵馬を鯉三郎、山藤右門を菊十郎、渡邉小金丸を榮三郎、猪熊玄潤を幸蔵、怪童丸後に坂田金時を丑之助がそれぞれ務めています。
さて、内容としては初舞台とあって当代丑之助が前年の5月に歌舞伎座で披露した時とは異なり源頼光が夢のお告げに従って足柄山に赴きそこで怪童丸を見つけ敵方である猪熊玄潤を怪力で押し倒す立廻りの後に金太郎が上洛の命を受けて熊に乗っかり兎と猿を従えて花道を悠々と歩いて引込む10分程度の寸劇だったそうです。
 
凛々しい丑之助の金太郎

 
その割には錚々たる面子に囲まれての初舞台となりましたが、この演目について当の丑之助本人の記憶によれば
 
私の金太郎の隈は團十郎直門の名ワキ役市川新十郎が描いてくれ、祝いの引幕きは後援会の音羽会、魚河岸、大根河岸から十枚近く贈られ、さらに後援会の音羽会から畳一畳くらいのおもちゃの自動車を贈られ、大喜びしたものである。」(梅と菊より抜粋)
 
と贔屓から贈られたおもちゃが一番印象に残っていたと如何にも無邪気な子供らしい記憶ですが顔を新十郎が担当した他に演目の後には口上もついたらしく梅幸と菊五郎が述べる等、流石は音羽屋の御曹司の初舞台とあってかなり恵まれた初舞台となりました。
 
口上での梅幸と丑之助

 
 
一つ家

文ひろげ

 
続いて正式な中幕である一つ家と文ひろげは梅幸の出し物であり新古演劇十種の1つでもある舞踊演目となります。因みに続けて上演された文ひろげは大正4年10月に帝国劇場でこの演目が上演された際に右田寅彦が新たに書き加えた演目で今回もセットでの上演となりました。
今一つピンと来ない方も多いかと思いますがそれもその筈で、この演目は下記の画像にもある様に瘦せこけた老婆の志女茨が片肌を脱いでの所作がある為に痩身だった六代目梅幸の存命時は時々上演されましたが梅幸の死後は肥満体の六代目菊五郎には志女茨が到底演じられない為か演じられる機会が皆無となり戦後間もない1946年に三代目中村時蔵が演じたのを最後に75年以上も上演された事ない幻の演目となっています。
内容としてはシンプルな物で武蔵国浅茅原(台東区橋場付近、少し前に奥浅草という呼称が物議を醸した観音裏の更に北の辺り)に住んでいた母娘が寝る所に困った旅人を泊めるフリをして襲って殺し金品を奪っていた所に観世音が美しい美少年に姿を変えて現れその美貌に一目ぼれしたショタコンの娘の浅茅が殺すのは忍びないと逃がした所、母の志女茨が娘に怒り襲い掛かる所で観世音が正体を現しその崇高な姿を見て己が所業を悔い改め姥ヶ池に身を投げるという物になっています。
そして文ひろげはというと文売りの与作が茶筅売幸阿弥と一悶着の末に五条橋の上から川に投げられてしまいそこに現れた狂女千代と川から上がってきた与作が勘違いが原因で繰り広げるドタバタを描いた面白い所作事となります。
言うまでもなくこの文ひろげは後味があまり良くない一つ家の口直しを兼ねて書かれている物であり、陰惨な人殺しである志女茨と真反対のコミカルな狂女千代を梅幸が一人二役で演じる所に妙味があります。
今回は志女茨と狂女千代を梅幸、浅茅を榮三郎、野育の馬蔵を新十郎、原中の平六を翫助、文売与作を勘彌、旅の子実は観世音を三津五郎、茶筅売幸阿弥を菊五郎がそれぞれ務めています。
こちらの出来はどうだったかと言うとまず一つ家の方から見ると
 
片肌脱ぎで月光を浴び大鉈を研ぐ處が、凄味があった
 
と流石はお家芸とあって梅幸の志女茨の怖さが引き立っていた評価されています。
対して浅茅を演じた榮三郎についても
 
榮三郎の娘浅茅が三津五郎の観世音に恋する處は、初心な科がよく適してゐた
 
と若女形として売り出していた彼だけに初心な娘役が正にハマり役だとこちらも評価されています。
歴史にIFは禁物ですがもし榮三郎が長命していれば新古演劇十種の戻り橋や今回の一つ家、少し前に紹介した岡崎の化猫などこれら音羽屋の妖怪物を受け継げた可能性はあるだけに芸の継承の難しさをつくづく感じます。
 
梅幸の志女茨と榮三郎の浅茅

 
そして打って変わって喜劇テイストの文ひろげの方についても
 
梅幸の狂女が一寸妖艶な味を見せたが、舞台装置にもう少し光線の工夫が欲しかった
 
と梅幸の演技には問題なかったものの、一番目の長恨歌と同じく舞台装置の方には幾分改善の余地があると指摘されています。
 
梅幸の千代と勘彌の与作

 
 

奇蹟

 
そしてもう1つの中幕の奇跡は菊五郎の出し物でこれまた市村座とは無縁の存在であった作家の菊池寛が大正5年に書下ろした新作の演目となります。いくら一番目の演目が勘彌のリクエストだったとは言え、この中幕も新作とこれまでの市村座が歩んできた古典漬けの13年間からすると考えられない位の変化ですがこの背景には吉右衛門に去られた事による市村座の立て直しが関係していたそうです。
というのも田村壽二郎は市村座の改革の一環として父親が推し進めた晩年の團菊を見ていた見物相手に若手の菊吉で再現するという手法で支持層を確立したのに対して壽二郎は初期の市村座では関白秀次などで先んじて手掛けていたにも関わらず結局、帝国劇場や左團次一派に美味しい所を持っていかれてしまった古典と新作の両立、つまり新進気鋭の作家による新作上演による新たな若手層へのアプローチを模索してしたらしく、1月公演での菊吉の出し物パートの変更や2月公演での小磯ヶ原の上演など既に片鱗は見せていましたが吉右衛門の脱退により危機感を覚えて改革を急ピッチで推し進めたらしく少し先のネタバレも含みますが
 
・4月「高松城水攻」(長田秀雄作)
 
・6月「飢渇」(長田秀雄作)
 
・8月「髑髏舞」(吉井勇作)
 
・9月「坂崎出羽守」(山本有三作)
 
とこれまで堰き止めていた流れを開放するかの様に毎月新作を手掛ける様になっていました。
この内現代にまで残った演目は坂崎出羽守だけですが、菊五郎自身も吉右衛門脱退とその理由に挙げていた演目の硬直化について考え対策を練っていたのが分かります。
さて、話を戻すと内容は一幕物だけに至ってシンプルで仏を全く信じず破戒に耽る3人の若僧と1人の少女に起こる閻魔様のちょっと怖い(?)出来事を受けてそれまでの悪行を悔い改めて仏への信仰を取り戻すというほんわかコメディな物になっています。
今回は秀寛を菊五、おべんを男女蔵、甲の僧を勘彌、乙の僧を友右衛門、丁の僧を伊三郎、丙の僧を三津五郎がそれぞれ務めています。
下記の画像でも分かる様に舞台上には大きな閻魔像1体があるのみという非常にシンプルな舞台設定でどちらかというと人間側の台詞廻しだけで舞台が構成されているといっても過言ではない演目だけに演者の技量が問われる芝居でもありますが劇評ではこのシンプル極まりない舞台装置について
 
大道具も光線も先づ成功した中に、閻魔の像は殊に大出来である
 
と先程の文ひろげとは正反対に光線量も適量で且つちょっと狭い市村座の舞台上に安置された閻魔像も相まってお寺の堂宇らしさが出ていると出来栄えを高く評価されました。
そして役者についても享和政談延命袋の日当以来の破戒僧役となった菊五郎ですが
 
菊五郎の秀寛と男女蔵の町の娘おべんとここで忍び逢ひ、閻魔の像を散々愚弄したが、娘は気味悪がって逃げ出し、自分も段々怖気附いて来る處が一番味があった
 
とコメディタッチであるが故に普段の複雑巧緻な演技でこそないですが、棒しばりや太刀盗人で鍛えたコミカルな演技の経験も役立ったのか無難にこなしたらしく
 
菊五郎が軈て新しい劇に進まうとする、道程と見えて興味を擦った
 
と新たに新作物を手掛ける決意をした菊五郎に対して好意的なエールを送っています。
しかし、別の劇評では全く正反対の評価となっており
 
菊五郎はどうしてあんなに下手なのであらう。あの黙阿弥などの世話物をあれ程情深く演出し得る彼が、一度こういふ「新しいもの」になると、どうしてあんなに下手になるのであらう。それは実際見てゐても不思議な位だ。
 
と彼の本役と言える世話物での演技と比べると出来は雲泥の差であったと厳しく批判されています。
これに関してはやはり経験の差による物が大きく影響しているのは否めず、新作物へのアプローチを始めて2ヶ月ばかりの彼に対して言うのは少々酷な気がしてなりません。
 
菊五郎の秀寛と男女蔵のおべん

 
対して脇を務める役者も三津五郎、友右衛門、勘彌と市村座メンバー勢揃いとあってか
 
堂内で堕落した勘彌や友右衛門、三津五郎などの若僧が盗み出した仏像の置處が変わったのに恐怖して一人一人逃げ出す處がヤマであり、成功でもあった。
 
と信仰心を忘れて仏像を盗み出す悪行三昧をしておきながらおべんのした何気ない事を勘違いして勝手に恐れふためく姿が喜劇味を出していたと高く評価しています。
この様に優れた技芸を持つ役者が演じさえすれば新作でも問題ないというのが改めて証明されましたが、残念ながらこれまでの市村座においては岡村柿紅により幾つかの舞踊演目では新作も掛けられましたが舞踊以外において新作物を出せる機会が無かったのが欠点でした。
これは田村成義が歌舞伎座で團菊がやった新作での数々の失敗の眼の前で見てきた故の反面教師の部分もあり、確実に人気と儲けが見込めるという点で古典物を重視せざるを得ないのは興行師としては当たり前のリスクヘッジであったのは理解出来ます。
ただ、その反動で新作物も平気で上演する歌舞伎座や帝国劇場と比べて演目の選択幅が少ないと役者の不満が蓄積して行く事となり大正中期の市村座は彼のカリスマ性頼りの劇場運営になってしまった部分があるのは否めず、その結果として彼の死により崩壊が起きてしまったのも紛れもない事実でもあります。もし彼の存命中にこうした新作物を定期的に出せる下地が出来て役者の不満を解消する場を設けていれば、或いは歌舞伎座における明治座や本郷座、帝国劇場における有楽座といった別演目をやれる二部制の劇場があれば勘彌や吉右衛門も脱退を思い止まる等して崩壊をもう少し先延ばしに出来た可能性もあるだけに経験豊富であるが故に新作を軽視し過ぎた田村成義の興行師としての欠点が浮き彫りになります。
 

粟田口鑑定折紙

 
二番目の粟田口鑑定折紙は以前に市村座で上演した時にも紹介した初代三遊亭圓朝の落語を原作とした世話物の演目となります。
 

7年前に吉右衛門が大野惣兵衛を演じた時の筋書

 

今回は稲垣小者丈助を菊五郎、荷足の仙太と甥の泰太を三津五郎、大野惣兵衛とかしのを友右衛門、手代十三郎を男女蔵、巡礼十助を菊三郎、刀屋宗七を新十郎、おゆきを榮三郎、おみよを粂三郎、喜代松を幸蔵、稲垣小三郎を勘彌、小栗新之丞を梅幸がそれぞれ務めています。

さて、7年ぶりの再演となるこの演目ですが7年前にいた彦三郎と吉右衛門が座を去り菊次郎も亡くなった為、配役も変化し彦三郎の受け持っていた荷足の仙太を三津五郎が掛け持ちし、菊次郎の持ち役だったおみよを粂三郎が、そして吉右衛門が車輪に演じて好評だった大野惣兵衛を友右衛門が受け継いで本役であるかしのとの掛け持ちで演じているのが大きなポイントでもあります。

ここで紹介していない4月公演でも高松城水攻めや敵討護持院ヶ原で立役を務めた友右衛門ですがここにきて吉右衛門の持ち役を継承する事で菊五郎に次ぐ市村座のNo.2のポジションにまで昇格したのを示していて以降昭和2年の市村座を脱退する迄菊五郎を支えていく事になります。

 

 
菊五郎の稲垣小者丈助と友右衛門のかしの

 
それはさておき、二番目にも関わらず五幕十一場の通しで上演したこの演目ですが既に丑之助の初舞台に新作2つ、梅幸の一つ家と話題てんこ盛りだった為なのか折角の長丁場の舞台に対しても素っ気なく
 
菊五郎の丈助が例の小悪党で得意な技巧を見せ、梅幸の新之丞、友右衛門の大野惣兵衛など活躍
 
と僅か1行で片付けられてしまっており、菊五郎以外の役者が具体的にどんな活躍をしていたのかが今一つ分からない状態でした。
 
この様に一番目から二番目まで大車輪の働きで夜11時までノンストップの市村座でしたが、前月は厳しかった入りも丑之助の初舞台と言う御祝儀に加えて勘彌の2年ぶりの出演と話題には事欠かず、内容もこれまでの市村座にはない斬新な演目選定も功を奏したのと歌舞伎座では羽左衛門が途中病気休演などをした事で入りが伸び悩み、帝国劇場はいつもの女優劇とライバルの劇場も4月も過ぎて入りが悪い閑散月(当時)の5月ではそこまで入りが好くなかった事も幸いし久しぶりに市村座が頭一つ抜ける程の入りとなりました。
この先また暫く筋書を持っていいないので軽くネタバレすると折角の5月の好調も長続きはせず6月公演は再び厳しい状態を余儀なくされて一座は久しぶりに7月公演を休んで巡業に出かけ8月は恒例の帝国劇場への引越公演を行いました。そして3ヶ月ぶりに開いた9月公演では新作の坂崎出羽守が大当たりし起死回生の一発となり、折しも歌舞伎座が新派公演だった事も助けとなり再び大入りとなり吉右衛門が去ったショックにもめげず立て直しが一見順調に進んでいる様に思えました
しかし、次なる悲劇は既に目前にまで迫っていました。次回の市村座の筋書はそんな公演となった10月公演を紹介する予定です。

今回は3ヶ月ぶりに観劇をしたので久々にこの記事を書きました。

 

博多座六月大歌舞伎 夜の部

 
今回は歌舞伎座での六代目中村時蔵襲名披露公演を見るか悩みましたが右近が三代目菊五郎に倣って三役を兼ねるという心意気と今回を見逃したら東京では後5年は確実に見れないだろうと感じて思い切ってこちらを選択しました。

 

 

筋書

 

 

 

座席は花外

 

 

 
東海道四谷怪談

 

主な配役一覧
 
お岩/小仏小平/佐藤与茂七…右近
直助権兵衛…彌十郎
奥田庄三郎…虎之介
お袖…新悟
お梅…莟玉
按摩宅悦…橘太郎
乳母おまき…梅乃
伊藤喜兵衛…市蔵
四谷左門/舞台番…亀蔵
後家お弓…鴈乃助
民谷伊右衛門…松也
 
今回上演した東海道四谷怪談は上記リンク先でも紹介した通り、四代目鶴屋南北が文政8年に書いた生世話物の演目です。
 
明治5年7月、中村座での五代目尾上菊五郎のお岩
 
昭和8年7月、歌舞伎座での六代目尾上菊五郎のお岩

 

今回と前回の歌舞伎座の大きな違いは「通し公演」であり二段目と三段目しか上演しなかった歌舞伎座と異なり今回は

 
・序幕…浅草観音額堂按摩宅悦内浅草観音裏地蔵前浅草観音裏田圃
・二段目…伊右衛門浪宅伊藤喜兵衛内伊右衛門浪宅
・三段目…砂村隠亡堀
・四段目…深川三角屋敷、小汐田又之丞隠れ家
・大切…蛍狩、蛇山庵室鎌倉高師直館夜討
 
赤字が今回上演する場
 
と四段目こそ上演されませんが前半部分は全て上演するという本格的な通しとなっており、南北の複雑な人間関係や隠遁堀で終わってしまう見取りでは味わえない仮名手本忠臣蔵の外伝という演目の骨子と因果応報と怪談物の真骨頂を味わえるという点でも非常に楽しめる仕上がりとなっています。
 
因みに四段目が上映されない理由は至ってシンプルで
 
演ると終電に間に合わなくなるから
 
だそうで代わりに陰亡堀の場が終わると亀蔵扮する舞台番というのが登場し四段目のあらましを説明するという斬新な形で繋いでいます。
 
まず序幕の浅草観音額堂、按摩宅悦内、浅草観音裏地蔵前、浅草観音裏田圃の三場は伊右衛門の岳父左門殺しと直助の与茂七殺し(実際は奥田庄三郎)、そしてお梅の伊右衛門への横恋慕と次幕への伏線張りがメインの場となっており、彌十郎の直助が少々年を取り過ぎというか貫禄があり過ぎる感はありますが、本人も意識して若く演じている事もあってそこまで違和感は感じなくなっています。
ただ、歌舞伎座の時に松緑が顔見せ程度に演じた時よりかは見せ場がある為に彌十郎の演技もグッと引き立つものの、上記の通り肝心の最期の場面である三角屋敷の場が上演されないが故に隠亡堀の場が終わると急に居なくなってしまう形となり、少々消化不良の感は否めない物があります。
また、新悟演じるお袖も妻でありながら貧困に喘ぐ父の為に身体を売る薄幸な女を演じて悪くありませんがこちらも直助同様にその後直助と妻になった事で夫与茂七への不義に悩み自害するという最期が無い分、尻切れトンボになってしまうきらいがあり緻密な人間関係が織りなす話である南北物をカットする難しさがひしひし感じますが新悟の演技自体は悪くは無かったです。
そして虎之介の奥田庄三郎と亀蔵の四谷左門は顔を出した程度で亀蔵は上記の舞台番が後半にありますが、虎之介の出番はこれっきりである事から少々勿体無い使い方だなと感じました。
 
そして次にお馴染み伊右衛門浪宅の場と陰亡堀の場になりますがこちらは先ず、音羽屋の血を受け継ぐ者としての意識なのかお岩に加えて小仏小平、佐藤与茂七の三役を兼ねて演じた右近が素晴らしくメインとなるお岩は序幕の浅草観音裏田圃ではただ出てきただけというだけで続く伊右衛門浪宅でも毒を飲むまでは至って普通の出来でしたが、毒を飲んでからのた打ち回る辺りから俄然良くなり夫に子供の物まで身ぐるみ剥がされる哀れさ、伊藤喜兵衛の邪な欲望により毒を盛られて顔が崩れ死を意識した絶望感や夫の仕打ちに耐えに耐えた上での裏切りに対しての憎しみが爆発し血を流す凄惨さを義太夫に乗らないで写実風に演技していた玉三郎とは対照的にしっかり床に合わせて演じており、戸板返しの早替りも無駄が無くしっかりケレンになっていた事を加味すると個人的には玉三郎より良かったと言えます。
 
次に佐藤与茂七についてですがこちらは序幕でのお梅とのコミカルなやり取りからも分かりますが陰なお岩とは正反対に物語の後半を担う陽のキャラクターであり、陰亡堀でお岩→小平→与茂七の順に早替りでの登場も三役を兼ねる事によって早替りの鮮やかさと与茂七の登場による場面転換の妙が一層くっきりとしました。
この役は見取り上演や役を分けてしまうとこの演目での立ち位置が急に矮小化してしまう難しい役であり初演の三代目尾上菊五郎がずっと三役を兼ね続けた意味を考慮すると矢張りお岩と兼ねる事が肝だと感じました。
 
最後に小仏小平ですがこちらは彼が薬を盗んだ理由でありオチとなる小汐田又之丞隠れ家の場が出ない為かいきなり出てきて死ぬという出落ちに近い役柄になってしまい辛うじて与茂七同様に戸板返しでの早替りする事で活きてくる役であり、演技として特筆する程の物はありませんでした。
 
次に松也の伊右衛門ですがこちらは仁左衛門の伊右衛門を多分に意識した伊右衛門となっています。
善人を装っている時の様子は流石に仁左衛門には劣りますが金と女に目が眩みいざ色悪の本性を曝け出している時の様子は仁左衛門をよく写しての台詞廻しと極まり極まりの良さも合わせて若手の域を脱した素晴らしい出来栄えでした。
1月の浅草公会堂での魚屋宗五郎と蝙蝠安の良さから世話物との相性の良さは感じていましたが南北物もこなせる実力を魅せてくれた事は大変に嬉しく、音羽屋を担う次世代として宗家がめっきり演らなくなって久しい牡丹燈籠や獨道中五十三驛など音羽屋の怪談物を受け継ぎ手掛けて欲しいと願います。
 
続いて残りの役者ですが個人的には按摩宅悦の橘太郎と伊藤喜兵衛の市蔵が印象に残りました。
歌舞伎座の時は松之助が演じた役でしたが、彼特有の体から滲み出るユーモアさが役にも出てしまい、凄惨なお岩の死の場面が幾分印象が弱くなった感があったので今回の橘太郎くらいの善人でもないけど悪人でもない中途半端者としての演じ方の方が四代目松助が芸談でも語った「いはば欲張つた、図々しい不正直な男男」としてぴったりで大変心地良く感じられました。
また、伊藤喜兵衛に関しては前回が亀蔵で今回が兄の市蔵でしたがどちらも孫娘可愛さにお岩を死に追い込むもその報いで一家全滅になる元凶として良く演じれていましたが序幕でのやり取りがあった分、今回の方がより死ぬ場での因果応報の感が強く見応えがありました。
 

そして大詰の蛇山庵室の場はほぼほぼ松也と右近の二人芝居状態であり、右近のお岩は伊右衛門浪宅の場で演じた悲惨な最期がある分、因果応報のカタルシスが味わえるのと彼の痩身が幽霊姿と相まって提灯抜けや仏壇返しもインパクト抜群で直ぐ様与茂七に早替りして仇である伊右衛門を討つという最後も忠臣蔵の外伝というのを思い出させてくれる物があります。

 
対して松也の伊右衛門はここではひたすらに悪行の報いを受ける場になりますがあれだけ悪ぶっていた伊右衛門がざまーみろと溜飲が下がる気持ちにさせてくれる位に惨めに這い回る松也の演技は心地良い物でした。
欲を言えば蛍狩の場も付けてより描いて欲しかった所はありましたが、時間の制約を考えると無くても楽しめました。
 

南北は奇抜で頽廃的な設定や濡れ場の演出に目が行きがちですが霊験亀山鉾や絵本合法衢、桜姫東文章を通しでみると分かる通りきちんと最後は勧善懲悪で〆る形を取って清涼感ある終わり方にしており、四谷怪談ではお岩の復讐という他とは異なった演出こそありますが基本は他の南北物と変わらず矢張りここがあるのと無いのとでは大きな違いがあります。

 

この様に今回の四谷怪談は高い金を払って東京からやって来ても元が取れる位に楽しめましたので九州お住いの方は元よりそれ以外の地域にお住いの方も萬屋贔屓ではない限りは楽しめるかと思います。

今回は再び帝国劇場の筋書を紹介したいと思います。
 
大正10年4月 帝国劇場

 
演目:
ニ、勧進帳
四、乗合船
 
前月に劇界を揺るがした吉右衛門の市村座脱退事件が起きた東京の劇界は吉右衛門が歌舞伎座か帝国劇場かどちらかに所属をするのか明言しないまま雲隠れしその余韻を引きずったまま4月公演を迎えました。
(吉右衛門が6月の新富座出演を発表したのは4月中旬)
そして吉右衛門を失った事で判官贔屓的に同情と注目を集めた市村座、再び仮名手本忠臣蔵の通しと新作2つの折衷路線の採用した歌舞伎座に対して帝国劇場は歌舞伎座とは正反対に新作1つ、古典演目3つと攻めの姿勢で知られる帝国劇場らしくない守りの姿勢に入った演目選定となりました。
 
余談ですが筋書の持ち主は11日に観劇したようです。
 
そしてタイトルにも書きましたが今回の公演では一番目の堀部妙海尼での梶浦兵馬の子供役で澤村宗之助の長男である伊藤恵之助が本名そのままの澤村恵之助を名乗り初舞台を踏みました。
舞台口上等のイベントこそ無かったものの紀伊国屋にとっては宗十郎の息子達に続く慶事となり、彼が出てくると見物達も微笑ましい顔で見ていたそうです。
しかし、この初舞台から僅か3年後に父宗之助の急逝により彼を取り巻く環境は一変しました。最初は幼くして父を失った同情もあり父の名跡を継いで二代目澤村宗之助を襲名しましたが僅か6歳とあってまだ子役の域を出ず、弟2人も相次いで役者になりましたが大正15年には頼みの綱であった祖父の七代目澤村訥子も亡くなり文字通り劇界の孤児となってしまいました。
(一応肉親である叔父の澤村長十郎と澤村傳次郎は健在でしたが2人共に小芝居を活動拠点にしていた関係もあったのか三兄弟が叔父達を頼る事はありませんでした)
更に悪い事は重なり何とか子役として活動していた昭和4年には所属先である帝国劇場が松竹に買収されてしまい大所帯である松竹には子役もわんさかいる事から彼ら3人は修行の場となる出る舞台さえも失う羽目となりました。
そんな薄幸な彼ら三兄弟についてはまた紹介しますがそんな過酷な運命が待ち構えているとはこの時は思いもしない幸せな初舞台でした。
 
堀部妙海尼
 
一番目の堀部妙海尼は右田寅彦が梅幸の為に書き下ろした新歌舞伎の演目です。
新歌舞伎と言っても中身は忠臣蔵の外伝的位置付けの作品で赤穂浪士の1人である堀部安兵衛の妻お幸を主人公として仮名手本忠臣蔵に登場する悪臣、斧九太夫のモデルとなった大野九郎兵衛の娘と孫が吉良邸討ち入り後に周囲から不忠者の汚名を着て家を離縁して流浪する身になったのを恩讐を超えて助け娘の富江の死を以て家名回復に動く様子を描いています。
今回はお幸後に堀部妙海尼を梅幸、富江を宗十郎、浜路を泰次郎、堀部弥兵衛を松助、堀部安兵衛と長治を勘彌、寺坂吉右衛門を幸蔵、大高源吾を高助、美作屋善兵衛実は神崎与五郎を長十郎、お艶の方を榮三郎、武林唯七を宗之助、大石内蔵助と梶浦兵馬を幸四郎がそれぞれ務めています。
平家蟹と同じく珍しく梅幸の為に書き下ろされた演目であり、しかも梅幸自身もかなり気に入って本公演でも大正元年11月に演じた他に地方巡業でも度々掛けていただけに大分自信があったらしく、その自信は舞台上でも遺憾なく発揮され
 
梅幸の妙海尼が泉岳寺墓地と備前侯邸とで勝ち気な中にも、女性の優しい處を自在に現したのは最も勝れてゐた。
 
と父と夫を失うも義士の遺族としての誇りを全うする力強さとそれ故に敵前逃亡した憎き大野九郎兵衛の家族である富江親子の苦境に見て同じ女として助けてやろうとする慈悲深さという相反する性根を腹に収めたからこその活殺自在な演技ぶりを絶賛されました。
 
梅幸の堀部妙海尼、松助の堀部弥兵衛、幸蔵の寺坂吉右衛門
 
 
梅幸の堀部妙海尼、宗十郎の富江、泰次郎の浜路
 
そして彼にしては珍しく大野九郎兵衛の娘というだけで周囲から白い目で見られ、止む無く夫と離縁して最終的には自害してしまう薄幸な女性である富江を演じた宗十郎も
 
二幕目の幸四郎の兵馬と宗十郎の妻富江との別れは、子役二人を絡ませて、見物に半巾(ハンカチ)を絞らせたが、ここへ出る勘彌の棟梁長治が、又よくこれを助けて泣かせた。
 
と一家離散の悲劇を描いた二幕目の梶浦住居の場での情愛深い演技が涙を誘ったと妻子を愛してはいるものの武士の対面上泣く泣く離縁を申し渡す夫の梶浦兵馬を演じた幸四郎やその様子を見て泣く子供を見て離縁を取りやめるべきだと意見する人間味溢れる大工の棟梁長治を演じた勘彌と共に評価されています。
この様に梅幸を筆頭とする幹部役者の好調な演技に支えられた事もあり、再演となった今回も好評でした。
 
勧進帳
 
中幕の勧進帳は説明不要の歌舞伎十八番を代表する松羽目物の演目です。
 
大正3年の三座競演の時の帝国劇場の筋書 

  

大正6年の再演時の筋書 

 

今回は過去3回との大きな違いとしてそれまで富樫が持ち役であった梅幸が出し物である堀部妙海尼と次幕の碁太平記白石噺の兼ね合いから抜けて代わりに義経を持ち役としていた宗十郎が2度目となる富樫を演じ、空いた義経役を勘彌が務めているのが挙げられます。

さて、勘彌が加わった事で実現したこの配役変更ですが先ず過去4回で唯一変更がない幸四郎はというと

 

幸四郎の弁慶が、重みと意気と洗練とが愈加はって、今日では殆どこの優の右に出づるものがない程になったからで、この役に対するこの優の態度は、実に敬虔に値するものである

 

と大正3年の時は仇になって初役の羽左衛門に足元を掬われる原因にもなった場数を踏んだ経験もこの時で300回を突破した事で大正6年の再演時に比べて更に磨きがかかり、

 

問答の意気、祈りや物語りの形、延年の舞の型、引込の六法その他内容外観一糸乱れぬ至芸にある

 

と演技にも自信も付いた弁慶ぶりをかなり高評価されました。

因みにそれまでライバルでもあった段四郎は加齢による衰えにより大正7年を最後に演じ納め、羽左衛門も以前紹介した大正8年の再演が不評だった事でやらなくなった事でこの時期は弁慶は幸四郎だけの持ち役となっていました。

彼以外に戦前に弁慶を手掛けた役者は他に六代目尾上菊五郎、初代中村吉右衛門、二代目市川猿之助等がいましたが菊五郎が再び弁慶を手掛けるのは大正13年、吉右衛門と猿之助が初役で演じるのは昭和初期と何れも少し後の話であり、この僅かな期間の役を独占した事や翌年に帝国劇場で行われたエドワード皇太子と裕仁摂政の台覧でも演じる栄誉を得た事でいよいよ幸四郎=弁慶というイメージが歌舞伎好きの中で強固な物へとなって行く事となります。

 
幸四郎の弁慶
 
そして過去2回の義経役では揃いも揃って「安珍みたい」と酷い評価を受けていた宗十郎は大正6年1月公演以来4年ぶり2回目となる富樫役となりましたが出来の方はと言うと
 
宗十郎の富樫は、小粒ではあるが顔も錦絵のやうに立派で、問答の意気も「九字の真言」を除いては皆よく、「疑へばこそ」に腹も瞭(はっき)りと見せて結構であった
 
と問答の台詞の一部に問題が散見された以外は思いの外、富樫に適性があったらしく過去2回の義経の時の酷評とは比べ物にならない程評価されています。
この様に思わぬ高評を得た富樫の宗十郎ですが、帝国劇場における彼の立ち位置や帝劇買収後の松竹に移籍後は富樫役に於て彼よりも遥かに適正がある羽左衛門や左團次がいた事もあり、彼に廻って来る勧進帳の配役は専ら義経役のみであり、彼が再び幸四郎の弁慶で富樫を演じるのは大正11年4月17日に行われたエドワード皇太子台覧劇を例外とすれば僅かに昭和9年と同18年の地方巡業のみとなりました。偶然にも2回ともその時の筋書を所有していますのでまたその時になりましたら紹介したいと思います。
 
宗十郎の富樫
 
この様に幸四郎の弁慶は無論の事、宗十郎の富樫も概ね好評でしたが唯一今回初役で義経を務めた勘彌だけは
 
唯惜しいのは勘彌の義経で、利智の勝ったあの眼と調子とには、品と丸味とおっとりした處を出し得なかったのが、少なからぬ損失であった。
 
とかつて三座競演の際に義経を演じたは良いものの、歌右衛門と宗十郎に完敗してしまった異母兄三津五郎との違いはある程度打ち出せたものの、勘彌の持つアグレッシブさやエネルギッシュさが完全に裏目に出てしまい落ち着いて気品ある義経に似合わぬとかなり厳しめな評価となりました。
因みに勘彌は今回の不評が響いたのか6年後の昭和2年に配役を宗十郎と逆にして富樫は演じましたが再び義経を演じる事はありませんでした。
 
勘彌の義経
 
この様に三役の中では義経こそミソが付く形になりましたが、劇評は何も義経だけが悪いだけではいとして番卒と四天王の面々についても
 
四天王では長十郎、番卒では小治郎と幸蔵の外、他の若手に意気の乏しいのが難である
 
と幸蔵、小治郎、長十郎以外の猿蔵、高助、田之助、榮三郎等については役を理解してないと厳しい批判をしています。
よくよく見ると批判を喰らったのは猿蔵を除けば皆幹部の子息ばかりであり、昨今の歌舞伎における御曹司の体たらくに厳しい意見が寄せられているのは有名ですがそれは100年前においても変わらない辺りに因果を感じるものがあります。
 
とはいえ、無敵状態の幸四郎に加えて宗十郎の富樫が思わぬ良さを発揮した事から劇評も
 
「勧進帳」は又かと思ふものの見れば矢張り面白い
 
とその良さを認めざるを得ないと書く程充実した出来になったそうです。
 
碁太平記白石噺
 
二番目の碁太平記白石噺は安永9年に紀上太郎等によって書き下ろされ外記座で初演された時代世話物の演目となります。
初演された場所からお分かりいただけると思いますが元々は文楽の演目であったのを歌舞伎に移植した物で姉宮城野と妹信夫が殺された父の仇討の為に廓を抜ける決心をするも大黒屋惣六に短慮を戒められ、廓を抜けるのに必要な宮城野の年季証文と切手(道中の費え)を与えて逃がしてやるという七段目の新吉原揚屋が見取演目としてよく上演されます。こちらは再び梅幸の出し物となり、宮城野を梅幸、信夫を宗之助、お政を柳蔵、大黒屋惣六を幸四郎がそれぞれ務めています。
富樫役を降りてまでして挑んだ梅幸の宮城野役でしたが評価はどうだったかと言うと
 
梅幸の宮城野と宗之助の信夫の、あの情の細かな技巧の優れた、名乗り合ひは隙間もなく、見物を惹着ける力があった
 
と宗之助共々女形を本役とする2人だけにする事成す事に批判を付け入る隙間もない程の完璧な演技だったらしく、高評価となりました。
 
梅幸の宮城野、宗之助の信夫
 
対して姉妹の仇討の覚悟を聴いて短慮を諫めつつも仇討の助力をする廓の主人である大黒屋惣六を演じた幸四郎は
 
幸四郎の惣六も貫目のある立派な男で、大道具の立派さと伴った
 
と曽我の対面の工藤祐経を本歌取りした役であるこの役を骨太に大きく演じて豪華絢爛な帝国劇場の大道具と比較しても遜色ない出来栄えだとこちらも無事評価されています。
この演目は分かりやすい筋だけに割りかし出しやすい演目だけに見飽きて食傷気味になっていたという劇評も上記3人の優れた演技もあってか総評として
 
うんざりする出し物だが、流石に大きな俳優達とて、これも予想以上の見物であった
 
と大歌舞伎の演目として今回のは見応えがあったと評価しました。
 
乗合船
 
大切の乗合船は以前に新富座の筋書でも紹介した常磐津の舞踊演目となります。
 
鴈治郎と歌右衛門の共演が実現した新富座の筋書

 

 

今回は萬歳鶴太夫を梅幸、才蔵亀松を宗十郎、お賎を榮三郎、紅勘仙太夫を長十郎、角兵衛獅子を竹三郎と一鶴、三角を宗之助、梅次を勘彌、喜太を幸四郎がそれぞれ務めています。

追い出し舞踊としては珍しく若手だけではなく松助を除く幹部役者も勢揃いしての演目となり、何時もだと「見ずに帰った」の一言で終わらせてしまう劇評もきちんと観劇したらしく
 
幸四郎の田舎侍に長十郎の紅勘の出るのも珍しく、梅幸と宗十郎の萬歳が車輪であった
 
と1行足らずですが出し物を終えて一刻も早く借りたいにも関わらず労を惜しまずに出演した幹部役者の活躍ぶりを評価しています。
 
榮三郎のお賎、勘彌の梅次、長十郎の紅勘仙太夫、一鶴と竹三郎の角兵衛獅子、宗之助の三角、梅幸の萬歳鶴太夫、宗十郎の才蔵亀松、幸四郎の喜太

 
この様にいつもらしくない守りに入った様な演目を並べた帝国劇場でしたが、蓋を開ければ
 
狂言の取合わせがよい故か、予想以上の面白味があった
 
と個々の演目の配役や演技が上手く嵌まって大変充実した内容の公演となり、その結果入りの方にも貢献したらしく仮名手本忠臣蔵の通しで連日大入りとなった歌舞伎座に比べると流石に負けた様ですが新聞にも初日を筆頭に大入り広告も出た事から少なくとも菊五郎への同情票が入ったものの吉右衛門の抜けた事による観客動員の穴を埋めきれず苦戦していた市村座よりかは十分に健闘しこれまで拮抗状態が続いて来た三座の争いもここに来て市村座の独り負けの様相を呈してきました。
この後の5月公演の筋書も持っていますので歌舞伎座の5月公演の後にまた紹介したいと思います。

今回は大正の歌舞伎の歴史に残る一大事となった吉右衛門の市村座脱退が起こった時の帝国劇場の筋書を紹介したいと思います。

 

大正10年3月 帝国劇場

 

演目:

一、源平布引滝

二、茶壷

三、名人矩随

 

吉右衛門の脱退については最後に触れるとして先に公演内容について紹介したいと思います。

言うまでもなく脱退を実行に移す為に吉右衛門は帝国劇場への出演を取り止めていて残る面子での公演となり、一番目を担っていた吉右衛門がいない事もあって

 

・一番目を三津五郎と菊五郎のW主演(メインは菊五郎)

 

・舞踊は三津五郎

 

・二番目を菊五郎(友右衛門が吉右衛門の枠に昇格)

 

と互いに出し物を半々に分担する形になりました。

この形は吉右衛門脱退から三津五郎脱退までの半年間の市村座の状態そのままであり、あくまで菊五郎が上位で三津五郎がそれに続き、友右衛門が3番手に昇格となっています。

これを見ても三津五郎はあくまで舞踊枠という立場は基本的に変わっておらず温厚な彼が脱退という極端な選択肢を選ばざるを得なかったのもこうした改善に消極的な市村座首脳部の姿勢に見切りを付けてしまったと言えます。

 

余談ですが筋書の持ち主は脱退が公になった直後の3月11日に観劇した様です

 

 

源平布引滝

 
一番目の源平布引滝は以前に歌舞伎座の筋書でも紹介した時代物の演目です。
 
羽左衛門が実盛を演じた歌舞伎座の筋書 

 

小團次が実盛を演じた明治座の筋書

 

魁車が実盛を演じた新富座の筋書

 

 

 

今回は斎藤実盛を菊五郎、木曽義賢を三津五郎、奴織平実は多田蔵人と瀬尾兼氏を友右衛門、仁忽太を新十郎、長田太郎を吉之丞、九郎助を翫助、太郎吉を又五郎、待宵姫を男女蔵、葵御前を時蔵、小万を粂三郎がそれぞれ務めています。

 

今回はお馴染みの実盛物語に加えて序幕に義賢最期が付いているのが特徴となっています。

義賢最期と言えば当代片岡仁左衛門が得意役として何度も演じた事もあって今では割合馴染み深い幕ですが、元々こちらは仁左衛門にとって従叔父である十二代目片岡仁左衛門が富士興行の創業者である松尾國三の妻で女歌舞伎の役者でもあった市松延見子から教わって昭和に入って復活させた物であり、有名な戸板倒しや仏倒れも元はドサ回りの小芝居ならではの派手な演出であったりします。

そんな義賢最期ですが明治時代にも東京での上演記録は僅かに明治36年5月の三崎座ではあるものの、無名の小芝居役者での上演であり大歌舞伎で上演されたのは大阪で明治26年4月の浪花座での通し上演が1回あるのみでした。

そんな幻の復活演目に取り組んだのも帝国劇場という他所行き故のチョイスかと思われますが内容についてはと言うと

 

子供の頃に見た印象が深い為か、今度のは興味索然たるものであった

 

と三崎座か浪花座の時を見たのかは定かではありませんが、劇評は子供時代に見た事があるとした上で

 

三津五郎の義賢は始めが松王式、後が大紋の落入(衣装のこと)といふのが目先が変ってゐるが、二度目の出にもっと凄味が欲しかった。

 

と久しぶりに見る義賢の衣装には言及があるものの、肝心の演技については源家再興の為に迫る追手から身を犠牲にしてまで守ろうとする気魄が足りないと批判されてしまいました。

 

三津五郎の義賢と粂三郎の小万

 

これに関してフォローすれば如何に役者と言えど口伝も教える人もおらずしかも初役でもある義賢を演じるには少々荷が重い状態であったと言えます。恐らくこの役は当初吉右衛門を想定して考えられていたのは想像に難くなく、吉右衛門の脱退を事前に知っていた三津五郎にすればニンにないこの役が自分に廻って来るのも承知の上だったとはいえ、少々損な役回りになってしまいました。

対していつもお馴染み実盛物語の方はと言うと五代目菊五郎が得意とした斎藤実盛を演じた菊五郎は

 

「実盛物語り」は菊五郎が亡父の型で、何時もの一番目に出るのとは見違へる程の気の入れ方である、最初の腕を見ての思ひ入れ、物語りの「浮いた沈んづ」から斬落としの終りまで流石に派手な技巧と腹を見せる事に努力してゐた
 
と自身の出し物とあって普段の一番目での客演とは見違える様な力の入れようだと軽く嫌味を言われつつも流石の演技力で評価されています。
 
菊五郎の実盛
 
オマケで五代目尾上菊五郎の実盛

 
そして今回良かったのは菊五郎だけではなく、脇を務めた役者達も同様で劇評では
 
粂三郎の小万も前幕から役柄に嵌まってゐたが、友右衛門の妹尾(瀬尾)が優れてゐる、この優の当り役の中に数へる事の出来るものである
 
と粂三郎と友右衛門が嵌まり役だとした上で友右衛門の出来栄えを特に評価しています。
菊吉や三津五郎の陰に隠れて中々触れられない彼ですが大名跡である友右衛門襲名後のこの頃はグングン腕を上げていたのが劇評に取り上げられる回数の増加からも見て取れてこの後菊五郎との二枚看板になったのも決して繰り上げだけでない実力が伴っての抜擢だったのが分かります。
 
新十郎の仁忽太と友右衛門の瀬尾兼氏

 
そしてこの時期米吉に代って子役枠を担当していた又五郎についても
 
又五郎の太郎吉は可憐といふよりも達者になって来た。
 
と只の可愛い子役の枠に当てはまらない達者な腕を見せ1月、2月に続いて異例の評価を受けています。
余談ですが後述する様に4月は吉右衛門の影響もあり市村座に出れなかった関係で彼は実父又五郎が死ぬまで活躍した公園劇場にゲスト出演して父親の一周忌追善公演の主役を務める等、売れっ子子役として6歳とは思えないハードスケジュールをこなしていました。
 

茶壷

 
中幕の茶壺は岡本柿紅が書き下ろした新作舞踊となります。書き下ろしたといっても市村座の為ではなく、懇意の新橋芸者の東葉の為に書いていて内容はと言うと柿紅が書いた太刀盗人そのままに役名を替えただけの言わばセルフリメイク作品となっています。
 
太刀盗人を上演した帝国劇場の筋書はこちら 

 

今回は熊鷹太郎を三津五郎、田舎者麻佐六を時蔵、目代十字左衛門を男女蔵がそれぞれ務めています。

さて、作品概要を説明した時点で既に内容のキナ臭さが匂いますが案に相違して劇評の評価も

 

三津五郎の熊鷹が中心になって時蔵の田舎者と男女蔵の目代の三人がよく踊って見せるが、太刀盗人同様とでは、見物に興味を与える事が尠い。

 

とただの太刀盗人の焼き直しにしか見えないと至極当然の評価となり振わない結果に終わりました。

 
三津五郎の熊鷹太郎と時蔵の田舎者麻佐六

 
何故素直に元の太刀盗人をやらずにこちらを選択したのか謎ですがこの選択は結果的に裏目に出てしまい、折角の三津五郎の出し物にも関わず不評に終わりました。
 

名人矩随

 
二番目の名人矩随は落語の浜野矩随を歌舞伎化した世話物の演目となります。落語好きの人ならご存知かと思いますが実在する腰元彫りの浜野矩随を主人公に名人であった父に比べて腕が劣りこのままでは野垂れ事ぬ寸前という状況にありながら腕が上達しなかったが、得意先から「下手な作品を作るくらいなら死んだ方がイイ。」という最後通牒を突きつけられて奮起して思わず父親の作品と見間違えるような作品を作り上げようやく一人前の職人となるという噺になっています。
因みに今回は落語ではサゲとなる先が描かれていて後援者である玉屋新三郎と道具屋金兵衛の推薦で不昧公と呼ばれる文化人でもあった出雲藩主の松平治郷のお眼鏡に適いお買い上げになるというオリジナルエピソードで幕になります。
今回は浜野矩随を菊五郎、玉屋新三郎を友右衛門、太田定随を男女蔵、番頭徳兵衛を伊三郎、中間幸太を鯉三郎、女房お近を粂三郎、娘お蓮を時蔵、磯崎金彌を新之助、早見源太を菊三郎、松平出羽守を三津五郎、道具屋金次郎とおさがを松助がそれぞれ務めています。
 
六代目の父である五代目菊五郎は三遊亭圓朝の手掛けた牡丹燈籠や塩原多助、文七元結など数多くの落語作品を歌舞伎化して後世に残した実績がありますが対して六代目のこの作はどうだったかと言うと六代目がやった物となるとこれ妙がしに有難る現在の歌舞伎界でも上演されていない事から何となく察しがつきますが
 
一体に淋しく地味な狂言である
 
と厳しい評価となっています。
ただ、役者については松助含め音羽屋一門が揃っただけに決して悪い出来では無かった様で
 
友右衛門の玉新、伊三郎の番頭、菊三郎の国侍など序幕ではよく整ってゐたが、うちの場の松助の母が矢張り情合が出て老巧な物であった
 
菊五郎の矩随はじっと動きを殺して渋く地味に、腹だけで見物の同情を惹くやうに劇を進めていく技量は矢張り巧いものだ
 
と確かな技量に裏打ちされた肚芸は評価されています。
 
菊五郎の浜野矩随

 

しかし、冒頭にも書かれている様に落語では人情噺で成立するものものの、いざ歌舞伎にすると

 

狂言としては一向に栄えないので一般には損である

 

とヤマがないこの噺は歌舞伎にするのは難があった様です。そう考えると上記の3つの演目も明らかなお涙頂戴である馬との別れがある塩原多助や怪談物である牡丹燈籠、文七のキャラクター性が喜劇性を帯びオチが秀逸といえる文七元結は何だかんだで歌舞伎にし易い演目であるのが改めて実感できます。

この様に演技自体は極めて高く評価されていながらも演目そのものの選定の甘さもあって一番目で珍しく秀逸な出来だった対照的に己が領域といえる世話物では今一つという締まらない結果に終わりました。

 

最後にオマケで挟まっていた食事場所と従業員募集について書かれたメモ

 
そしてここからがいよいよ本題となる吉右衛門脱退の話に移りたいと思います。
上述の通り吉右衛門は今回の帝国劇場への引越公演を病気療養を理由に休演しました。吉右衛門の休演は以前の市村座の筋書でも触れた通り病弱な彼としては別段珍しい事でも無く怪しまれる事はありませんでした。しかし彼は公演開始から1週間後の3月9日に田村壽二郎の自宅に赴き突如辞表を提出しその足で新聞各社に挨拶に赴きました。
何故初日ではなく1週間開けた9日にしたのかは不明ですが、憶測を交えるのであれば初日に脱退してしまうと脱退の報道が大きく取り上げられて開演中の帝国劇場の客足に影響が出る事を考慮したのかも知れません。
じゃあ千秋楽の25日に出せば良いじゃんと思う方もいるかも知れませんがインターネットもない戦前の歌舞伎界では大体月の中頃には新聞などで翌月の演目が速報で出るのが常であり逆算すると遅くともその月の10日頃には翌月の演目選定が概ね終わっていなければならないので、吉右衛門は帝劇への影響を避けつつ翌月の演目が決まるギリギリ直前を狙って辞表を提出した可能性は十分に考えられます。
 
吉右衛門脱退を報じる新聞記事

 
田村壽二郎と岡村柿紅はこの突然の事態に慌てふためき吉右衛門に翻意を促したものの、拒絶されてしまいなす術も無く彼を見送るしかありませんでした。
菊五郎はこの事態を午後5時の開演前、遅くとも午後3時頃に帝国劇場の楽屋に入って知り合いの新聞記者に質問されて初めて知ったらしく、動きようにもその日の舞台があって身動きが取れず、終演後の日付を跨いでから吉右衛門の自宅を訪れて対面しました。
その時の様子について菊五郎も手記の中で詳細を記していて
 
菊五郎「波野君、私はけふは寺島幸三で来たので市村座から頼まれた訳でもなく、尾上菊五郎で来た訳でもない。併し君は何う云ふんだ
 
吉右衛門「病気だから
 
菊五郎「併し波野君の病気は芝居の開いてる時にもあるんだから
 
吉右衛門「芝居を開けるたんびに病気をして、君にも、お客にも迷惑を掛けるのが心苦しいから休んで静養する
 
菊五郎「休むのか、暇を取ったかのか
 
吉右衛門「暇を取った
 
菊五郎「どう云ふ訳で
 
吉右衛門「芝居の事を聞きたくないから暇を取った
 
菊五郎「病気なら養生しなければ行けない事だが、それでは君が来るまで私が後の人で演って、君の直るまで待ってゐよう、君が直り次第に出ると云ふなら口上を私が云っても好い。吉右衛門と菊五郎と一緒に出てゐてさへ喧嘩をしてゐるとか仲が悪いとか云はれてゐる。況して君がゐなければ、菊五郎が追ひ出したとかなんとか、世間で思ふに違ひなしし、お互の贔屓贔屓で、どっちが好いの悪いのと云ふ問題も起る、それが私は心苦しい。頭取に聞いても分かる。平常波野君を見て遣ってくれと云ってゐる。併し舞台の上では喧嘩、楽屋へ這入れば一緒に飯も食べ、毎日左様ならと別れて帰る。その不断を世間の人に見せて上げたい位ぢゃないか、君が休むとなれば弟子が気の毒、従前通り市村座へ出てゐたら好いぢゃないか、時蔵君もゐる事だから、時蔵君に弟子を預けても、私が預かっても心苦しくはない。一昨年の暮、君の一座で菊三郎も東海道へ行った位なんだから、私が君の静養中預っても差支えない。私は君が大谷君だとか山本君だとかの方に出るの出ないのといふ問題ではない、どこまでも病気のやうに思ふ。併し病気なんだから早く養生する事が専一と思ふ。直ったら矢張市村座へ来て美しく遣って貰ふのが私の望み世間側では田村先生が死んで、君が暇を取るのを、早いとか早くないとか問題にしてゐるが、病気なら據ないぢゃないか
 
吉右衛門「私も君と喧嘩するもしないのも世間で知っている
 
菊五郎「お大事になさい
 
(吉右衛門君を訪た話より抜粋)
 
と寺島幸三として思いの丈をぶちまけて話しましたが吉右衛門はあくまで健康上の理由と一歩も譲らず両者の話し合いは平行線のまま菊五郎は帰宅する事になりました。
こうして菊五郎の説得も失敗に終わり、吉右衛門は世間へ向けての説明が必要と感じたのか演芸画報に寄せた3月11日付の手記で
 
近来健康にすぐれないのは事実でもあり発端で、別段六代目との間に於いてなんのかのと俗にいふ仲の悪いなどの事は塵埃ほどもなく、又田村専務は勿論座員に対し不満などは聊もないのです。(中略)今度は決心する處あって突然辞表を提出した訳で、お暇を戴いた後に自分の希望の事を考へる積りです。尤もそれは一ヶ月立って其望みが遂げられるか、半年立って出来るか、それは分からないのです。」(市村座引退に就いてより抜粋)
 
と菊五郎との不仲は否定し、健康面の回復が主な理由として衝動的に脱退したと述べていますが、これは今まで書いて来た通り客観的な情報から見ても虚偽の部分が混じっていて言わば世間の思わぬ反響に対して沈静化を目論んでの発表であったのが窺えます。
しかし田村成義の死から僅か半年余りの行動に忘恩の輩と罵る市村座贔屓の余りの激しいパッシングに曝される羽目となり蒟蒻メンタルの吉右衛門は一度は決意が揺らいで市村座復帰を洩らす一面もありましたが、このままだと移籍話が色々ご破算に成りかねないと心配した周囲の勧めもあって沼津市の静浦にある保養館(後の静浦ホテル)に静養を兼ねて避難(?)しました。
 
静浦保養館の大凡の場所(赤いマークの場所)
 
アニメ好きにはピンとくる人もいるであろう某アイドルアニメの聖地から10㎞程しか離れていない沼津市郊外の長閑な場所に3月一杯身を置いた吉右衛門はこの公演が終了後の4月に1度だけ帰京して松竹の柏木多七と共に記者会見を行いその席で
 
・6月に新富座と幹部役者数名を松竹から借りて吉右衛門一座として公演を打つ事
 
・新富座では年4~5回の公演を計画している事
 
・新作を演じてみたい事
 
と事実上松竹に所属となる事を発表しました。
こうして、吉右衛門は世間の反感を買いつつも脱退を決行し、市村座は明治41年以来続いて来た二長町体制が遂に崩壊して運営面において大きな打撃を負う事となりました。
生憎市村座の4月公演の筋書は所有していない為、吉右衛門脱退直後の市村座の様子は紹介できませんが5月公演の筋書は持っているので混乱を迎えた市村座の様子はまた後程紹介させていただきます。