舞台の面影 演劇写真と役者・写真師 | 栢莚の徒然なるままに

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今回は久々に歌舞伎関連の新書で購入したこの本を紹介したいと思います。

 

舞台の面影 演劇写真と役者・写真師

 

青山大学非常勤講師と明治大学兼任講師を勤める村島彩加氏が2022年に出版した写真と歌舞伎役者の関係に関する論文を元に書いた新書となります。

 

著者も本の中で語っていますが、歌舞伎の歴史の中における写真の存在はそれまでメディア物において主流を席巻していた浮世絵からその地位を奪い爾来150年近くに渡りその座を映像と共に保持し続けている存在でありながら浮世絵と比べて研究面でそこまで深く語られていないのが事実です。著者はそんな歌舞伎と写真の関係性を黎明期から追い、如何にして写真が歌舞伎界に受容され発展していったかを幕末から戦前までを中心に語っているのが本書となります。

そしてこの本には内容が写真だけに著者の解説と主張を裏付けるべく松竹大谷図書館の主有する未公開の役者の鶏卵写真や高知県民族資料館の所有する貴重な新富座の写真などが数多く掲載されているのも大きなポイントの1つであり本来ならそういった写真も見せた上で内容について書きたいのですが流石に出たばかりの新書の為に本の内容を画像であげるのはマズイ為、本に掲載されている折角の貴重な写真を数々を紹介出来ないのが残念ですが、その代わりにそこら辺は私個人が所有している鶏卵写真を用いて代用したいと思います。

 

さて、本書では以下の13章に渡って構成されていて時代が下がると共にそれぞれ異なったテーマの論説が書かれています。

 

第一章 演劇写真の始まり──演劇写真の先駆者・内田九一とその周辺
第二章 役者絵と演劇写真──『魁写真鏡俳優画』と内田九一
第三章 散切物と写真──『勧善懲悪孝子誉』に見る北庭筑波像
第四章 写真版権と演劇写真──塙芳野と九代目市川團十郎
第五章 上演と写真──森山写真館と五代目尾上菊五郎
第六章 演劇写真と絵画──影絵・石版画・油絵
第七章 鹿島清兵衛と『歌舞伎新報』
第八章 絵葉書と素人写真師
第九章 『演芸画報』誕生──印刷技術の発達とグラフィック雑誌
第一〇章 回顧とアーカイヴ──「劇に関する展覧会」と演劇図書館の試み
第一一章 七代目松本幸四郎の「変相」と写真
第一二章 五代目中村歌右衛門の「狂気」の演技と写真
第一三章 死絵と写真集──安部豊の仕事

 

本書ではまず日本で初めて役者の写真を撮影した写真師である内田九一についての紹介から始まります。内田は有名な菊五郎の仁木や田之助の政岡を撮影した事で知られていますが、その内田が江戸に移りどの様な人間関係から歌舞伎界に立ち入り、役者の写真を撮影する事になった契機や写真館を開設し役者写真を売る様になるまでのプロセスなどを医師松本良順との関係を元に解説しています。

 

九一が撮影に関与した三代目澤村田之助


そして本では松本と九一の関係性が彼の代表作として知られる明治5年に撮影した明治天皇の御真影撮影にも繋がり同時に松本と役者の幅広い交友関係によりまだ20代の彼が保守的で既得権益の侵害を殊の外排除したがる劇場関係者のさしたる妨害も受けずに写真をすんなり歌舞伎の世界へ導入できたのではないかと指摘しています。また天皇を撮影したという一代の栄誉を手に入れた内田に撮影されるというのが役者にとっても1つのステータスにも繋がり写真の普及に影響したのではないかという可能性も示唆しています。

この事については非常に興味深くヘボンの手術ばかりが喧伝される田之助の病が松本と役者たちを結び付け同時に九一との繋がりを持ったという説には驚きを禁じ得ませんでした。

 

そして第2章と第3章では内田九一と九一の同じく写真師として知られる北庭筑波がそれぞれ登場人物として出て来る魁写真鏡俳優画なと勧善懲悪孝子誉について触れ劇界及び2つの演目を書いた黙阿弥が写真や写真師に対してどの様な感覚を持っていたのかについての論考となります。

 

因みに北庭筑波について軽く解説すると新派の三巨頭の1人である伊井蓉峰の実父で第4章で登場する塙芳野の師匠に当たり、役者との親交も深かった人物ですが、仕事として役者の写真を撮影する事はなく、僅かに團十郎の個人的依頼により与話情浮名横櫛に扮した團十郎等を撮影したのみに留まりました。

 

その時に撮影された團十郎の切られ与三郎と仲蔵の蝙蝠安

 
そんな筑波ですが勧善懲悪孝子誉では父の万引きの罪を被り入牢した善吉への詫びに自死を決意し最後の形見作りの為に孫の卯之助と筑波の所に写真を撮影に訪れる所で登場しその真意を見抜いて諭し卯之助に祖父の写真を持たせてやるというかなり美味しい役として登場します。
この章では既に芝居の登場人物として登場する程までに劇界では認知を受けていたのとそれに反して2つの演目を書き上げた黙阿弥は作品を通じてややドライな視点で写真について捉えている事を資料を踏まえて考察していて当時團十郎の影響を受けて書いていた活歴物との関連性を示しているのは非常に面白い考察でした。
 
そして第4章では四代目澤村源之助の義姉に当たり、内田の死後に多くの役者の写真を撮影した塙芳埜がどうして写真師になったかの経緯や氾濫する転写などの不法対策に対して当時出来た法律に呼応して版権登録するなどした権利対策について述べています。
 
塙芳埜が撮影した團十郎の宮内局の鶏卵写真
 
 
裏面
 
明治11年3月、團十郎の兵糧方五郎蔵の写真
 
裏面
1枚目と比べて印刷がなく判子が押されているのが分かります。
 

塙芳埜を保護した五代目坂東彦三郎

 

塙芳埜が彦三郎や團十郎の庇護を受け写真師になるまでの経緯は本を読んでいただければと思いますが個人的にはそれまでの浮世絵では権利が出版元にのみ集中し対象となる役者は無論の事、作り手である浮世絵師までもが殆ど保護されていなかったのに対して政府の写真条例制定による法整備と言う手助けがあったとはいえ、小川半助という番付版元の商売への妨害対策もあり黎明期から既に権利問題についてきちんと対策が確立されていった事は写真が導入されて僅か数年後の明治10年代には既に版権争いやコピー物が出回る等、浮世絵に変わり劇界における主要な商品として見られていたのが分かります。

 
私が所有している複写された実録先代萩の写真
 
また、塙は格別に贔屓したものの、写真については「好きでも嫌いでもない」というスタンスの團十郎が写真についてどういうスタンスや見方をしていたかについても述べられていて写真においても「写実」を好む團十郎の傾向を知る事が出来ます。
 
そして小川平助に半ば騙される形で歌舞伎役者の写真の世界に参入し平助の撤退後に菊五郎の庇護を受け、栄えた森山写真館について第5章で取り上げています。
 
森山写真館で撮影された菊五郎の実盛の鶏卵写真
 

ここでは塙を贔屓した團十郎、彦三郎に対して菊五郎が何故(当初)評判が悪かった森山写真館に与したかや菊五郎一門の売上だけで黒字になったというほど経営の大黒柱であった菊五郎に対する森山のアプローチ、更には團十郎と異なる菊五郎の写真に対する考え方について述べられています。そして、この菊五郎の写真に対する考え方が歌右衛門、幸四郎といった次世代の役者たちに引き継がれていく事で役者にとって写真が単なる関連商品に留まらない重要な役割を担って行ったという考え方は目から鱗でした。

そして6章を割愛して7章と8章では團十郎が再び写真販売を許可させた鹿島清兵衛について取り上げ写真技術の革新による絵葉書の登場や鹿島が関与していた歌舞伎新報や川尻清譚が関わっていた第一次歌舞伎といった専門雑誌と写真の関連について触れていて演芸画報へと繋がる重大な橋渡しを果たした彼の役割について述べています。

 

鹿島が撮影した團十郎の助六の写真

 

塙の廃業後は森山写真館などに写真販売を許可しなかった團十郎ですが、鹿島の祖父が九代目の父である七代目團十郎と懇意であった事から、團十郎も気を許し後半生の写真の撮影・販売を彼に任せる事になり、活歴を諦め古典へと回帰した明治30年代の團十郎を彼の金を惜しまない独自の撮影技法により貴重な写真を残す事になった事や、技術革新により写真師という技術を積む事なく手軽に撮影出来る時代が到来した事がたまたま鹿島が歌舞伎新報に携わっていた事で今では演劇界等で当たり前となっていた雑誌に写真を掲載するという手法がこの時期に確立し、それが川尻清譚などによって後継誌である第一次歌舞伎や演芸画報に引き継がれたという指摘は私自身この雑誌の変遷関係に疎い事もあり非常に目から鱗でした。

また、この時期に鶏卵写真に変わり写真絵葉書が発売される様になるとそれまで役者との個人関係により売り上げを上げていた写真館の売上が急速に落ち込み、第5章で紹介した森山写真館の苦境を聞いて六代目菊五郎が一時写真絵葉書の撮影を差し控える等この時期に写真における主導権が個々の写真館から雑誌などに移ったという示唆も興味深かったです。

 

そして第9、11、12章では写真撮影そのものがもはや歌舞伎公演において欠かす事が出来ない代物になった事、それまで論述や劇評が主であった演劇雑誌に舞台写真などを大胆にフォーカスする事により玄人向けの専門性と一般向けの娯楽性の両立に成功した演芸画報における写真の役割、及び森山時代から自身の写真の扱いにおけるこだわりがあった歌右衛門や幸四郎が単なる商品としてではなく自身の芸の参考や継承といった側面で写真に向き合い撮影していたかについて述べています。

 

玄鹿館で撮影された歌右衛門の揚巻の写真

 
幸四郎が顔づくりに拘り自伝にも載せた秀次の扮装写真
 
演芸画報については私もブログで何度も紹介していますが写真が舞台の記録を残すのと宣伝という点で抜群の効果があるのは言わずもがなですが、13章にも少し内容が被りますが歌右衛門が生前に團菊に次いで自身の個人写真集を出版している事、演芸画報に自身の姿をコマ送りレベルで撮影して芸の細部をあまなく残すという菊五郎が写真に求めていた「芸の記録」の側面をより具体的且つ実証的に推し進めたのは物事に先進的であった歌右衛門らしいと言えます。
 
そして最後の13章では屈指の写真コレクターでもあった安倍豊について触れ彼が大正末期から昭和にかけて発行した2冊の写真集、「舞台の団十郎」「五世尾上菊五郎」について触れています。
この2冊は国会図書館に所蔵され、舞台の團十郎はフリーで、五世尾上菊五郎は個人登録をすませばデジタルアーカイブで閲覧できますのでこちらにリンクを貼っておきます。
 
舞台の團十郎
五世尾上菊五郎

安倍豊について軽く説明すると元々小学校の教員という歌舞伎と無関係な職業に就いていましたが演芸画報社の中田辰三郎に誘われて演芸画報の記者として関わったという異色の経歴の持ち主でした。

そして演芸画報で磨いた編集能力の腕を買われ大正5年からはライバル誌の新演芸に編集主任として招かれその腕を揮いました。

そんな彼が新演芸を辞めて再び演芸画報社に入社するまでの間に自費出版という形で当時の主要な役者の写真を集めた「舞台のおもかげ」を出版するなどその写真蒐集の趣味を活かした著書を出した事で歌舞伎の写真に関わる仕事が中心となっていきます。

 

私が所有する舞台のおもかげ 中村歌右衛門

 

同じく舞台のおもかげ 市川左團次

 

このシリーズは左團次、羽左衛門、菊五郎、吉右衛門、歌右衛門、鴈治郎、梅幸、延若と8巻まで刊行され続いて宗十郎、幸四郎と続く予定でしたが関東大震災による所有する写真の焼失などもあり未完の形で終わりましたがそれとほぼ同時並行して手掛けたのが舞台の團十郎でした。

市川宗家から依頼を受けて團十郎の膨大な写真を1つの書にまとめ上げた事は大正時代にも既に偶像化されつつあった團十郎の存在をより一層強めるきっかけになった事や制作を大正8年から始めて大正12年に発売した事により関東大震災による火災被害で写真が失われる前に保存に成功した事は資料性と面でも大きな功績を残す事になりました。

そしてこの舞台の團十郎の出来栄えの良さを評価された事で震災により多くの五代目菊五郎の写真を失った六代目菊五郎からの依頼で作成したのが五世尾上菊五郎となります。

村島氏はこの2冊について舞台のおもかげとは内容の濃さがケタ違いである事や対象が故人の2人になっている事、それまで歌舞伎の世界で流行した死絵(役者が死んだ時に追悼で発行される浮世絵)との関連を指摘し、写真が導入されてから70年が経過し、それまでの公演における商品としての価値、古くは菊五郎を始祖とし幸四郎や歌右衛門が行った芸を残す記録としての価値に加えて第6章の展覧会などにも代表される故人の偉業を偲ぶ過去の記憶としての価値が生まれ始めた事を示唆しています。

これに関しては少し言いたい事がありますが、安倍豊の仕事に関してや後年の役者たちの写真集の嚆矢となった点では概ね同意できるかと思います。

 

とここまで話を進めてきましたが残念ながらこの本にも全く瑕疵が無い訳ではなく、学説、論考には大きな影響はないものの気にはなった点が幾つかあるので最後に指摘したいと思います。

まずは表紙の團菊が揃って撮影した明治32年の勧進帳の写真の解説についてです。解説なので村島氏が書いたかどうかまでは不明ですが解説には以下の様にあります。

 

「團菊が共にレンズの前に立ったのは、この時が最初で最後といわれる。」

 

これ、何が間違っているかと言うと”最初で最後”という点で、合成とかを除いて実は團十郎と菊五郎が同じ写真に収まった写真は勧進帳の前にも実は存在します。

それが下の一枚になります。

 

明治14年3月9日、新富座で上演された胡蝶の舞での團十郎、半四郎、菊五郎

 

これは演芸画報や演劇界にも掲載された事がある写真ですので探すのは然程苦労しない1枚だけに村島氏ほどの方が御存知ないというのは意外でした。

次に第四章の塙芳野の項目で彼の義弟である四代目澤村源之助について彼女は以下の様に解説しています。

 

「源之助が初舞台を踏むのは慶応二年(一八六六)五月守田座といわれており、その時芳野は大阪でひとり娼妓屋の女将をしていた。」(105P)

 

これの何処が誤りかと言うと源之助の初舞台の年です。これについては当の源之助自身が初舞台に着いて述べたインタビューがあるので引用したいと思います。

 

「何んでも市村座か森田座かのうちでしたが、叔父ー助高屋ーの伊左衛門に半四郎の夕霧で吉田屋が出た時、奥座敷の場で(澤村)其答のおきさが例の蓬莱を持って出て伊左衛門にあひいろいろあッて、是非貴客のお目にかける者があるといッて呼出すので、俺が喜左衛門の娘お清といふ書加えた役で、銚子盃を持ッて出ます。スルト.伊左衛門が、オオ清坊か、いつぞや会ッた時はまだコレッバカリであッたがしばらく見ないうちにモウ此様に成長(おおき)くなッたか。といふやうな台詞があッて、これから各位方に可愛がッていただくやうに…といッたやうな一寸口上めいたことを叔父が白(まを)したやうにも覚えて居ます。多分それが俺の初舞台であッたらうと思ふのですよ。」(演芸画報大正5年9月号、当代俳優真相録より抜粋)

 

確かに村島氏が述べている様に慶応2年5月の守田座では其俤丸い左衛門という外題で廓文書が上演されていて伊左衛門は証言通り訥升が演じていますが、夕霧はというと六代目坂東三津五郎が演じている他、おきさ役の澤村其答も出演しておらず色々証言とは食い違っています。では、源之助の初舞台は何時だったのかと言うと4年後の明治3年11月の守田座の是筒丸伊左衛門となります。この時の筋書を見ると伊左衛門が訥升、夕霧が半四郎、そしておそのに其答と配役がぴったし一致する他、清子という役名で清三郎(源之助)の姿も確認できます。

つまり、源之助の初舞台を踏んでから芳野は東京に来て借金を返済しつつ写真を学んだのではなく、先に東京へ来て娼妓を続ける傍らで当時歌舞伎界に入って来たばかりの写真の存在を義弟源之助の初舞台の折に知って写真を学んだと考えるのが正解かと思われます。この1ヶ月前には有名な田之助の八重垣姫が撮影されており、恐らくこの時も訥升や田之助の写真が撮影されたと推察でき、義弟の初舞台という事で舞台関係者と接触している中で塙芳埜は写真と言う存在を知ったのではないかと思われます。

 

明治3年10月に撮影された田之助の八重垣姫


また、第六章の写真を元に油絵の加工を施したの項目で資料に挙げている写真(178P)について写っている役者をそれぞれ九代目市川團十郎、五代目尾上菊五郎としていますがこれは一部誤りで正しくは新歌舞伎十八番の伊勢三郎で伊勢三郎と妻浜萩を演じた九代目市川團十郎と四代目澤村源之助になります。

 

菊五郎の写真とされているの源之助の写真

 
また、間違いといった類ではありませんが、村島氏は章の文中で現存する日本最古の役者の写真である慶應4年8月、市村座での裏表先代萩の菊五郎の仁木について
 
この写真は現物が残されておらず、『演芸画報』および『五世尾上菊五郎』等に安倍が掲載したもので見る他ない。」(29P) 
 
と述べていて原写真が見つかって無いと記していますが他ならぬ村島氏自身が第13章で触れている安倍豊が戦後の演劇界に連載した演劇写真博物館に原写真が掲載されておりこれに関しては彼女の調査不足の感は否めません。
 
慶應4年8月、市村座での裏表先代萩の菊五郎の仁木の原写真

 
そして村島氏は主として東京の役者を中心に取り上げていますが、一方で上方の役者の写真については全く触れていません。
上方役者の写真の特徴としては私がtwitterなどで投稿している写真にもある様に
 
・写真館での撮影
 
・明治初期は大阪では役者の個人名を板書きして背後に貼り付ける
 
といった独特な特徴を含む東京とは違った形での撮影が行われていました。
 
同じく市川右團次の写真
後ろに役者名が板書きされてます
 
京都で撮影したと見られる若き日の嵐巌笑の写真
下部を見ると分かる様に写真館で撮影されたのが分かります。
 
これら上方役者の写真撮影は当時劇界の主役を占めた初代延若、宗十郎、初代右團次や二代目多見蔵、七賀助といったベテラン世代は元より二代目雀右衛門、二代目壽三郎、嵐巌笑、鴈治郎といった若手世代まで万遍なく撮影されていて松本良順といった役者と写真師を取り持つ強力なコネクションを持つ人が特段いなくとも東京と遜色ないスピードで浸透していったのは非常に興味深い物がありますがそれについてはこの本では特に触れられていません。
 
また、第4章で写真の権利について触れてはいますが、役者の中でも写真が大きな価値がある事というのが分かり肖像権を縦に雑誌の劇評などに批判めいた事を書くと今後写真の掲載をさせないと干渉した中村鴈治郎の事などは役者の写真に対する意識の変化の一例として第9章で触れても良かった事例ですが残念ながらこの途に関する言及はなされませんでした。
 
村島氏は最後に今後書き改める機会が来るだろうと述べていますがこれら上方役者の写真や鴈治郎の権利主張問題についても論文を書いて欲しいと切に願っています。
この様に色々欠点もありますが、掲載されている写真を含め小谷野や中川の様な五流三流風情とは一線を画す読み応えのある本ですので本屋で見かけたら購入する価値はある一冊です。