栢莚の徒然なるままに

栢莚の徒然なるままに

戦前の歌舞伎の筋書収集家。
所有する戦前の歌舞伎の筋書を週に1回のペースで紹介しています。
他にも歌舞伎関連の本の紹介及び自分の同人サークル立華屋の宣伝も書きます。
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今回は凄く久しぶりに角座の番付を紹介したいと思います。

 

大正12年7月 角座

 

演目:

一、岩見武勇伝

二、鰻谷

三、切支丹屋敷

四、大石東下り

五、生写朝顔日記

六、はねつき禿

七、賤機帯

 

前回紹介した番付

 

前回紹介した時から実に6年ぶりの紹介となる角座ですが流石に18年分の前振り紹介は長くなるので割愛しますが参考までにこの頃の角座の立ち位置だけ簡単に紹介したいと思います。

明治44年に松竹に買収された角座ですが、既に当時の座頭であった十一代目仁左衛門が東京へと活動の拠点を移して以降、振るわなくなり買収前から大阪における新派や浪花節の劇場として用途が多い劇場となっていました。買収後もその姿勢は変わらず買収以降の角座の歌舞伎の公演数を見て見ると

 

明治44年:2公演

明治45年/大正元年:2公演

大正2年:1公演

大正3年:2公演

大正4年:3公演

大正5年:1公演

大正6年:なし

大正7年:なし

大正8年:なし

大正9年:2公演

大正10年:なし

大正11年:3公演

大正12年:3公演

 

と1年中歌舞伎を上演しない年もある上に掛けたとしても多くて年に3回しか掛からず、大正9年、11年の公演は東京から下阪した四代目澤村源之助(大正9年)や尾上紋三郎と河原崎権十郎(大正11年)の公演と上方役者は全く出演しておらず純然たる上方役者が角座に出演したのは大正4年7月公演が最後と実に8年ほど上方歌舞伎の公演が無い状態が続いていました。

 

大正11年の概況についてはこちらもご覧下さい

 

そんな角座に久しぶりに歌舞伎の公演として足を踏み入れたのが四代目片岡我童であり、5月に一座と卯三郎、嘉七、紫香等を率いて10年ぶりとなる出演を果たすとそのまま6月、7月と3ヶ月連続で公演を開き叔父の得意とする沼津や家の芸である馬切などを演じて鴈治郎一色の道頓堀で一人気焔を吐いていました。

今回紹介する番付は月の前半部分に当たる7/1~7/15の公演に該当します。

 

岩見武勇伝

 

昼の部の最初に上演された実説岩見武勇伝は講談の岩見重太郎を元ネタに作られた時代物の演目になります。 

講談好きな人は兎も角、岩見重太郎と聞いても歌舞伎好きの人にはピンとこない人が多いかと思いますが、講談の世界では彼は薄田兼相と同一人物であり、薄田は徳川家康が豊臣氏を滅ぼした大坂の陣で豊臣方で活躍した武将に当たります。江戸時代には講談で人気演目となった故に何度か歌舞伎にも輸入されましたが専ら小芝居での上演が殆どで大歌舞伎では万延元年に守田座で復讐天橋立の外題で上演されたのと明治19年1月に講談岩見武勇伝の外題で春木座で上演された位でしたが、3年前に歌舞伎座で尾上眞秀の初舞台で上演された音菊眞秀若武者が記憶に新しい方も多いかと思います。

内容としては岩見が狒々や山賊を相手に豪快に剣を振って退治をしたり剣客赤星主膳や塙直之等の協力を得て父や兄の仇である広見軍蔵を討ち取り薄田兼相と改名するという仇討ち物の話ですが今回上演されたのは講談テイストの物ではなく「実録」と銘打っている事からも分かる様に内容も仇討の部分にだけ絞って役名も一部史実に則った物となっています。

 

今回は7月に入り病気で体調を崩して休演した卯三郎の代わりに加入した吉三郎が若き日に当てて以降十八番にしていた演目であり、岩見重太郎を吉三郎、赤星主膳を喜久太郎、村松平左衛門を卯十郎、伊藤亘を我運童、一松を愛之助、塙直之を我童がそれぞれ務めています。

 

さて、吉三郎と言えば前にちらっと紹介した通りかつてはこの岩見重太郎という当たり演目を引っ提げて自分の一座を率いる位の腕は有りながらも鴈治郎の天下である道頓堀では活躍の機会に恵まれずこの頃は延若や我童、右團次の相方やら敵役やらなどで使われる「便利屋」的側面が目立っていた人ですが珍しく立役での出し物と言う事で

 

重太郎に吉三郎が扮して勇ましい處で看客を喜ばしてゐる

 

と芸格は兎も角、肩肘張らぬ大立廻りで見物を喜ばせていたらしくその辺は素直に評価されています。

また劇評は若手の中で卯三郎の養子であった喜久太郎についても取り上げ

 

喜久太郎が赤星主膳で岩見重太郎の阿呆十との例の「蟇目」の問答などかあって見た眼の舞台を賑やかした

 

と蟇目が何を指しているのかが不明ですが見物受けが良かった事を評価しています。

 

喜久太郎についてはこちらもご覧ください

 

残念ながら我童の伴直之等については触れられておらず今一つ演目の全容が分かりませんが、見物受け自体は良かったらしく一番目としてまずまずの滑り出しだった様です。

 

鰻谷

 
次の鰻谷は松嶋屋十二集の1つである丸本物の演目になります。
 
今回は古手屋八郎兵衛を我童、おつまを愛之助、おはんを義直、源兵衛を喜久太郎、重兵衛を當之助、銀八を吉三郎がそれぞれ務めています。
いつぞや横浜座で上演した時は叔父の欠点は全て改善されているけど代わりに叔父の長所が全て無いとまで酷評された彼ですが今回もその低評価は免れず
 
我童の八郎兵衛例の如く熱に乏しいが殺しの處でいゝ形を見せた
 
と殺しの立廻り以外は相変らずの冷たい芸だと酷評されています。
その代わりと言っては難ですが我童の次男である義直のおはんについては
 
おはんは義直で可憐
 
と親と真逆に高評価されています。
 
我童の八郎兵衛、愛之助のおつま、義直のおはん
 

この義直は大正11年1月の天満八千代座で初舞台を踏んだばかりであり、既に13歳と声変わりにより子役を脱しつつあった兄一に代わり親の舞台で子役で出ていました。それだけにこの高評価は初舞台から1年半余りの彼にとっては予想外の高評価でしたが、名子役が必ずしも名優になれるとは限らないのが世の常でこの後も親の庇護の下で10代を過ごし青年歌舞伎と言った外部交流も経ぬまま成長し昭和15年に当時父親がよく共演していた市村羽左衛門に望まれて養子となり二代目市村又三郎を襲名、名題昇進したまでは良かったのですが年齢が20代とあって昭和14年と16年に召集されて兵役に従事中の昭和20年に養父が急逝し、更に日本に戻ってきた直後の昭和21年に実父の横死と後ろ盾を次々失い昭和27年には義兄十六代目までもが早世した事で34歳で完全に劇界の孤児になってしまい、実家の兄は独自の路線で女形として活躍するも没交渉、弟芦燕は当然頼りにならず羽左衛門の名跡も七代目坂東彦三郎に奪われてしまい、市村吉五郎なんていうお誂えの名跡を与えられてからは完全に埋没してしまうという悲運に見舞われる事になります。

 

やや年上ながらも初舞台はほぼ同じの二代目又五郎や七代目梅幸が歴史に名を残したのに比べるのは酷ですが、昭和9年に初舞台を踏み親の横死の時に28歳と芸が未熟の状態で孤児になってしまった弟芦燕と比べれば大名跡である羽左衛門家の養子になっているという点で待遇は恵まれていた方であり、矢張り一番大切な10代から20代を親の庇護の下で切磋琢磨せず育ってしまったのが彼の一生を決めてしまった部分があったのが否めない物があります。今の歌舞伎役者の子供たちの舞台を恰も天才子役の様に褒め称える人は多いですがそれがその子の為になるのか?というのを考えると如何な物かと感じます。

 

話が脱線しましたがこの様に主演の我童の低評価がそのまま舞台の評価だったのか愛之助や吉三郎に関しては特に言及もなく、何がともあれ盛り上がった一番目に比べても評価はあまり高くなかったのが分かります。

この鰻谷で昼の部は乄となり次から夜の部へと入ります。

 

切支丹屋敷

 
夜の部の最初を飾る切支丹屋敷は岡本綺堂が二代目市川左團次の為に大正2年3月に書下ろし5月の新富座で初演された新歌舞伎の演目になります。
綺堂物の中では修善寺物語辺りの次に位置する初期の作品に当たり切支丹信仰の罪で死罪となった美女朝妻が同じ牢に入れられている宣教師のヨハンに伊織との恋心を懺悔して最後は悟った様な笑顔で他ならぬ伊織に連れて行かれ最期を遂げるという内容となっています。
 
今回はヨハンを喜久太郎、朝妻を粂三郎、山下伊織を愛之助、弥市を松鶴、助七を當之助、井上筑後守を飛鶴がそれぞれ務めています。配役の顔触れから見ても分かる様に我童や吉三郎は出ない粂三郎の演し物兼若手向けの芝居になりますが劇評はどんな感じだったかと言うと何と
 
「切支丹屋敷」が出たが見落した

 

と若手の芝居だからか見ておらずどの様な評価だったのかは不明となっています。

 

大石東下り

 

 続いて上演された大石東下りはこれまた講談の話を歌舞伎化した時代物の演目に当たります。

こちらは岩見重太郎と同じく吉三郎の演し物であり、仇討ちの為に祇園での偽装隠遁生活を終えて大石内蔵助が江戸へ下る途中、島田の旅籠で予め偽装工作で用意した立花左近(講談だと垣見五郎兵衛)の名で宿泊した所、そこに運悪く本物の立花左近も宿泊しており、旅籠内で真贋を争う羽目になり、ここで偽者だとバレたら折角の仇討ちが水の泡になってしまう大石内蔵助が立花左近にだけ分かる様に自分の正体を明かして立花も大石内蔵助の真意を悟って自分が偽者だと嘘の告白をして事を納め、大石一行の手助けするという話の筋になっています。

最近だと新橋演舞場でなんちゃって忠臣蔵を演った某一座が垣見五郎兵衛(立花左近)を加古川本蔵に変更して金谷宿の本陣と称して上演したので見たと記憶に新しい方も多いかと思われます。

今回は立花左近実は大石内蔵助を吉三郎、大石主税を紫香、武林隆重を當之助、山田磯平を吉郎、立花左近を我童がそれぞれ務めています。

身分を偽る偽者を問い詰めるも偽者が大義の為に白を切る様は宛ら勧進帳を彷彿させる物がありますが劇評もそれを踏まえか

 

この芝居は大石内蔵助の貫禄で引立つ、只これだけであるが嵐吉にそれが足らない

 

と勧進帳なら弁慶に相当する吉三郎の貫禄不足故に演目全体が物足りない物になっていると厳しく批判しています。

 

吉三郎の大石内蔵助、我童の立花左近

 

一方で勧進帳では富樫に相当する立花左近を演じた我童は

 

我童の立花左近はよくしてゐる

 

 と流石に一座を率いる座頭だけあって吉三郎と比べると格の違いを見せたらしくこちらは評価されました。

 

劇評には他の役者の評は書かれていませんので額面通り受け取れば吉三郎が物足りなさがそのまま演目のクオリティに直結したらしく、あまり出来は良くなかった様です。

 

生写朝顔日記

 

 この様に煮え切らない演目が続いた夜の部でしたが次は我童の十八番物と言える生写朝顔日記です。

 

帝国劇場で上演した時の筋書はこちら

 

今回も我童が朝顔実は深雪を務めた他、駒澤次郎左衛門実は阿曽次郎を吉三郎、岩代多喜太を飛鶴、徳右衛門を嘉七がそれぞれ務めています。

こちらは叔父の当たり役ではなく自身の当たり役とあってか鰻谷では辛辣だった劇評も

 

 「我童に極め付の付いてある出し物、宿屋から大井川までで宿屋の方がよくしてゐる

 

と彼の深雪の演技には賛辞を送っています。

そしてこちらでは阿曽次郎を演じた吉三郎も

 

阿曽次郎は嵐吉、岩代が飛鶴で一通り

 

と高評価には至りませんでしたが貫禄不足と言われた大石東下りよりかはマシな評価となっていました。

劇評の言及はこれだけですがここにきて我童もようやく評価されており、昼の部よりかは夜の部の方は総じて評価が高ったのが分かります。

 

はねつき禿

賤機帯

 
そんな好評の生写朝顔日記の次に上演されたのが夜の部最後の演目であるはねつき禿と賤機帯の舞踊二種になります。
 
今回は我童の長男である一と吉三郎と同じく7月から新たに加入した粂三郎の出し物で禿を一、太鼓持を我久三郎、當之助、幸之丸、我久松等、班女の前を粂三郎がそれぞれ務めています。
劇評では見ないで帰るというこの時期ありがちな評価放棄はせず2つとも見た上で
 
切の上は一の「はねつき禿」で可憐に踊り下が「賤機帯」で粂三郎の出物であるが淋しい優が淋しい出物を選んだのは損、一通り踊ってゐるがあの長唄連中で二部興行の看客を前にしては踊り甲斐もなくてつまらぬ

 

と一のはねつき禿は評価していますが、粂三郎の賤機帯は華が無いと容赦なく酷評しました。

これはIfになりますが切支丹屋敷を観なかった理由の1つは劇評が粂三郎をこの様に華が無い役者だと判断して観なかった可能性も考えられます。彼は以前に浪花座に来た時の筋書も紹介しましたが市村座にいた事もあってそれ相応にこなせる腕はあるのですがどうにも腕より華があるのを好む上方での評価は低い傾向にあり、今回もその部分が足を引っ張ったのではないかと見られます。

この様に折角生写朝顔日記で盛り上げたものの、切の舞踊は今一つだった様で終わり良ければ全て良しと言う風にはなりませんでした。

 

冒頭にも書いた通りこの後2日間の休みを挟んで7月18日から27日まで二の替りとなり、

 

・堀部安兵衛の伝

・国訛嫩笈摺

・絵本太功記

・濡小袖月暈

 

を上演しました。

そんな大車輪の我童一座ですが、二の替り含めて入りなどの詳しい情報は書れておらず詳細は不明となっています。

というのもそもそもこの月は客枯れする7月と言う事に加えてこの前惜しまれて閉館した大阪松竹座が5月に完成したばかりで東京で飼い殺し状態であった二代目市川猿之助一門が乗り込み春秋座公演を開いていた事もあって大阪人の注目の的である大阪松竹座の劇評は出しても角座の劇評は出さない新聞もある事から元からあまり注目度は高くなかったそうです。

 

こんな飼い殺し状態が続く我童でしたがこの後彼は明確な記録にはありませんがどうも夏巡業に出たらしく帰阪後の9月に起きた関東大震災により東京から多くの役者が来阪し少しは待遇が変わる…かと思いきや、そんな事は余り無く相変らず微妙な日々を過ごす事になります。この後次に彼が出演する南座の番付は所有していますのでまた紹介したいと思います。

今回は2ヶ月振りに見た歌舞伎座の観劇の記事になります。

 

八月納涼歌舞伎 第一部 観劇

 

六月大歌舞伎の記事


ギリギリで行くのが決まりましたが何とか三階席を確保して観劇
 

牡丹燈籠

 

主な配役

 

伴蔵…巳之助

お峰…右近

お国…新吾

宮野辺源次郎…橋之助

萩原新三郎…染五郎

お露…辰之助

お米…緑

お六…菊三呂

山本志丈…精四郎

お竹、お梅…玉太郎

お絹…宗之助

飯島平左衛門…権十郎

三遊亭円朝、馬子久蔵…幸四郎

 

落語界中興の祖と謳われる初代三遊亭圓朝の新作落語の代表作であり、圓朝存命時の明治25年には歌舞伎にも移植されて五代目尾上菊五郎一門で上演して大当たりを取って以降、落語と歌舞伎双方で演じられる作品となっています。


歌舞伎座で大正5年に上演した時の筋書


帝国劇場で大正8年に上演した時の筋書

 

五代目尾上菊五郎のお米

 

五代目尾上榮三郎のお露

 

尤も今回は河竹新七が脚色したオリジナルの物ではなく大西信行が現代演劇を上演する文学座の為にオリジナルを下敷きに書き下ろした台本を採用していて河竹新七の牡丹燈籠とは

 

・黒川孝助と平左衛門、源次郎お国との関係は全部カットし伴蔵とお峰が話の中心に据えられている

 

・セリフが近代口語体となっている

 

・舞台に三遊亭圓朝が出てきてカットした部分を説明する下りを3回入れる

 

とオリジナルの牡丹燈籠とはかなり異なっており、更に今回は三部制の制約もあってか1997年の大阪松竹座の時と同じく

 

・幸手堤辻堂で終了し残りはカット

 

・それに伴い伴蔵がお峰を殺した後に唐突に川に引きずり込まれる形で死ぬ


・源次郎お国は中途半端に物語からフェードアウト

 

と何とも締まらない形で終わる上に源次郎お国の存在が宙ぶらりんとなり、ポスター等で強調されてる3組の男女の話みたいな展開にはならず話の本筋を知らない方にとっては?みたいな中途半端な結末となっています。

それともう1つ付け加えるなら伴蔵とお峰夫婦の悲劇を主役に据える関係で所々笑わせる箇所を入れているのがこの大西脚本の特徴ですが、当て込んで書かれた初演の杉村春子や仁左衛門と玉三郎の様に夫婦役者の息の合った演技目当てで芝居をするなら面白味がありますが他の役者が演じるとなると怪談物というより人間の業の深さを主に描くこの脚本では上記の設定の粗が悪目立ちするだけの状態になり、余りいい脚本と言えない物があります。

 

それを踏まえて観たのですが、脚本の粗に反して役者達は意外とニンに合っている役者がおり、先ず巳之助の伴蔵は女房は大事にしているが如何せん幽霊に逆らえない小心者という役をあまり仁左衛門に引っ張られずに演じられており、後半の荒物屋で成功するも家庭の不和やお峰殺し部分もダレずに演じきっておりそれだけに川に引きずり込まれて死ぬのではなく因果応報で祟られ関口屋店先の場で捕まる彼の演技や初演の菊五郎や羽左衛門が兼ねた孝助も見たくなって仕方がありませんでした。

対して右近のお峰は改変による影響もない為か、貧しいながらも幸せな女房が身の丈に合わない大金を得た事で身を滅ぼす様をのびのびと演じていてこちらも特段悪い部分はありませんでしたが宣伝ポスターの姿がまるでお国の様な悪人顔であるのは少々いただけない物があります。

彼にとっては敬愛する曽祖父六代目が女房役者と義弟、義母を演じた時に亡くした事で封印したという余り良くない因縁がある演目ではありますが、四谷怪談の時も述べた様に彼のスラリとした姿はまだお露でも出来そうな位に怪談物に打ってつけなので彼も大西脚本ではない怪異談牡丹燈籠を観てみたい気持ちにさせる良いお峰でした。

 

続いて大西脚本の弊害で怪談物の主を担うのに話の展開も存在感も今一つな新三郎とお露ですが演じた染五郎と辰之助は旬の若手とあって若さ故の悲恋が原因の祟りだと納得させるだけのヴィジュアルでした。

次いでに言うと緑が演じたお米も余り出しゃばらずそれでいて怪談部分の肝は押さえていたのでこれきりでは勿体無いく何回も演じて欲しい物がありました。


ここまでは良かった役者を挙げましたがそれ以外の役者は2つのパターンで芳しい物ではありませんでした。2つのパターンというのは


①大西脚本の関係で出番が削られている関係で役が死んでて頑張っても報われない役者


②それ以外の理由でダメな役者


であり、①に分類出来るのが新吾、権十郎、精四郎がになります。この3人の中でも特に脚本の影響が大きいのがお国の新吾で、本来なら源次郎や伴蔵を惑わせ身の破滅へと追い込み、孝助の仇討ちの相手となる後半の主役ポジションの役ですがこの大西脚本では浅慮で飯島平左衛門とお竹を殺したは良いが身ぐるみ剥がされ障害者の源次郎を抱える只の遊女でオマケに2人を殺した反省の色は無い挙句に結末も幽霊に祟り殺されもしないで暗転してフェードアウトするという活躍のしどころのない設定でこれでは新吾が幾ら頑張っても演じ甲斐が無い役になってますのでこれについては彼に罪は無いです。そしてお国の余波を受ける形で源次郎お国と新三郎お露を結び付ける前半の重要なキーパソンである飯島平左衛門も只出てきて殺されるだけの端役に成り下がっているので折角の権十郎が活躍する余白が無いのでこれも脚本の犠牲者と言えます。

最後の山本志丈の精四郎についても今回は伴蔵のお札剥がしの秘密を知る者として口封じの為に殺される結末がカットされている関係で序盤で顔を見せるだけで何の為に出てきたのが分からない状態になっていてこんな役に精四郎を使うのは完全に役不足の気すらしてしまいました。


そして②に該当するのが幸四郎になります。彼の場合、主となる初代三遊亭圓朝が先ず駄目で初日故か口跡が固く噺を覚えたての前座みたいな状態でありこれは日が経てば多少は良くなるのでしょうがそもそもこの役自体に話の場繋ぎ以上の意味は無い為、口跡が良くなった所であまり演目への貢献は低い役と言えます。最近講談師の神田松鯉が歌舞伎座に上がったり当代の金原亭馬生と大谷友右衛門が二人会を開く等異業種とのコラボレーションが盛んですので文学座では役者が兼ねるのはいざ知らず、こっちで出すのならもうこの役は正直本職の落語家に頼んだ方が客寄せも兼ねて良いんじゃないかと思ったりする程今一つでした。

そしてもう1役の馬子久蔵は圓朝役に比べると道化役としてまだ活躍所がありますがこれも幸四郎が演じる役にしては役不足であり、これは配役に難があると言えます。

そして幸四郎以上にお話にならなかったのが源次郎の橋之助です。源次郎についてはお国同様に活躍所が大幅に削り取られている部分があるのでそれ自体に橋之助には罪がありません。が、彼の場合は台詞廻しが最初から最後まで兎に角変で武士の欠片も感じられず、恰も一人現代人がタイムスリップしたかの様な違和感がありました。弟の福之助、歌之助にはこの様な違和感は感じられなかったので橋之助個人の問題になりますがこの悪癖はきちんと直さないと声の調子が安定しない父親の芝翫とは別のベクトルで弱点であり、芝翫は顔立ちの良さでまだ救われますが残念ながら顔立ちの良さは引き継いでいない彼にとっては役者として致命的になる足引っ張りになりかねないので直ぐにでも直すべきと言えます。


この様に今回は脚本然り、役者然り愚痴が多めとなりましたが、巳之助と右近の出来の良さで何とか芝居としては成り立ってはいますので夏に怪談気分を愉しみたい方には気軽に観れるので宜しいかと思います。

今回は久しぶりの紹介となる演芸画報です。

 

演芸画報 大正12年7月号

 

前回紹介した1月号はこちら

 

先ずはいつものグラビア紹介ですがこの6月公演は個別記事で紹介した公演も多いのでその公演は省略致します。

 

 

新富座についてはこちらをご覧下さい

 

帝国劇場の様子についてはこちらをご覧下さい


明治座についてはこちらをご覧下さい

 

南座についてはこちらをご覧下さい

 

そうすると残るのは何と普段なら演芸画報では久しく紹介されて来なかった御國座でした。

 

御國座についてはこちらをご覧下さい

 

勿論、これにはちゃんとした理由があり雑誌帝劇でも触れましたが4月公演から何時もの面々の中に特別ゲストとして猿之助が加わっていたからでした。

 

猿之助の縮屋新助と歌門の美代吉

 

これは猿之助の持つ集客力の高さが見込まれたという事はありますが無論それだけではなく父親という後ろ盾を失い単純に行き場の無い彼を持て余した松竹が訥子頼みの集客にマンネリ化していた御國座に体良く宛てがった形であり、それによって確かに御國座は今までの浅草に通う芝居好きとは異なる客層が流入したお陰でかなり盛り上がったそうです。

しかし、当の猿之助自身はそんな客寄せパンダの様な扱いに内心不満を溜め込んでいて松竹はそんな彼に対して7月は出来たばかりの大阪松竹座に出演させて春秋会でガス抜きを図るという生かさず殺さずの飼い殺し状態を取っていました。

この直後に関東大震災が起きて東京の劇場が壊滅状態になった事でそれどころではなくなった為に一旦は両者の関係は平穏を保ちましたが、劇場が次第に復興してきた大正13年に入ってもこの状態が続いた事で遂に臨界点に達して猿之助が行動に移す事になります。

 

さて、猿之助の話はここまでにして次の紹介に移ると紹介されているのが5月末に中座で行われた林長三郎の勉強会である五色座が紹介されています。

 

長三郎の彌一と新升のお高

 

五色座については後程本文紹介の方で詳しく述べたいと思います。

 

大劇場の紹介はここまでで6月とあってこれから夏の巡業シーズン到来という事で今回は吉右衛門&三津五郎組と延若の巡業が紹介されています。

 

吉右衛門の幡随長兵衛と三津五郎の水野十郎左衛門

 

延若の佐々木盛綱

 

吉右衛門と三津五郎は甲信越地方を、延若は中国・四国地方をそれぞれ巡業していて吉右衛門&三津五郎組はオフ時間で甲府を観光する様子も収められています。

ちょっとした裏話ですが吉右衛門と三津五郎は7月一杯で巡業を終えて帰京しそれぞれ夏休みに入りましたが、幸四郎&宗十郎や左團次、中車、秀調、市蔵と大阪松竹座公演を終えて合流した猿之助一門の様に6月公演を終えてから8月末までめい一杯巡業に繰り出した役者も多かった為、その際持ち出していた衣装と鬘、小道具等は関東大震災による焼失を逃れる事が出来たので10月末の震災後最初の東京公演や生活再建の為の各地への巡業が比較的短期間でスムーズに行えたのはこの夏の巡業で使っていた道具類をそのまま使えたというのが大きかったそうです。

もし震災が2~3日遅れて発生していればこうした物も一切焼失していただけにタイミングは選べないとは言え、歌舞伎界にとっては色々な意味で震災が起こったのが9月1日であったのは不幸中の幸いであったと言えました。

 

さて、グラビアページ紹介はここまでにして本文パートに入るとタイトルでも紹介した通り、林長三郎が5月末に開いた勉強会(文中では研究会)である五色座に関する特集が組まれています。

 

五色座の特集

 

既に実弟の扇雀が青年歌舞伎一座の座頭になり単独で公演を開いて収益を上げる程までに頭角を現していたのに対して兄の長三郎は中々父親の元から離れなかっただけに今回の公演は当時の人からしても

 

五色座について長三郎の熱心は実際驚くべきものがあった

 

と言わしめた程でしたが、特集ではそんな長三郎に対して特集では

 

五色座の稽古は約一ヶ月に互って殆ど不断に且つ熱心にやってゐたのであるが、而しその効果は、他の新劇団が十日間の稽古にも等しいものであった。

 

芸術の方では、彼がほんとうに真面目にゆくならばもっともっと延びる素質をもってゐる事を感じさせられた。

 

彼の問題の悪調子、親譲りの悪調子も、よく吟味してみると、鴈治郎、扇雀と三人並べてまだ彼の方が一番勝ってゐるやうにも思ふ。(中略)彼が今までに一番問題にされてゐた悪調子は、元来豊かではない声量をあらん限り一本調子に突張ることに原因する。更にその原因を尋ねて見ると舞台に熱中し過ぎるためである。

 

近来富に熟して来たのは彼の舞踊である。彼の得意とする軽快飄逸さを能ふ限り抑へて、努めて質実鈍重の方向に頻りに意をむけてゐるらしい。そのために可なり面白いものが出来上らうとしてゐる。

 

と賛否が分かれる結果になっており、まとめると

 

・新作の「明暗録」はこじんまりとしたシンプルな佳作に対して世話物演目である梅田の心中では声質の悪さが災いして1ヶ月以上の長期の稽古をしたにも関わらずあまり面白くなかった

 

・その代わり舞踊演目の「初音の旅路」と新作の「風」は長三郎ののびのびした踊りが見えて勉強会の目玉としては物足りない物があるが、演目としては悪くない

 

と演目によって出来不出来がハッキリした形になった様です。

この様に旗揚げ公演としては同じ勉強会である羽衣会や踏影会と違ってイマイチパッとしない結果に終わりましたが、羽衣会や踏影会が結局数回で終わってしまったのに対して長三郎の五色座は鴈治郎の生前という事もあって白井の庇護もあったのか昭和4年まで不定期ながらも京阪で開催し続け、その中で大正14年に開催した際に長三郎が通常公演なら端役しか付けられない弟子の長丸を前髪役を抜擢した事で初めて白井松次郎の目に止まり、昭和2年に林長二郎として華々しく銀幕デビューして松竹静画の売れっ子になり彼が後に長谷川一夫になった事は皆さんもご存知かと思われます。

そう言う意味ではこの五色座は歌舞伎方面は兎も角、日本映画方面においては実は大きな影響を及ぼした功績があったりします。

 

最後に五色座特集以外で1つ面白い記事があったので紹介させてもらいたいのが小山内薫が劇界の動向について語る鼴鼠の飛行機旅行です。

 

鼴鼠の飛行機旅行

 

いつぞや田村成義が室田武里名義で書いた霊界通信ではないですが、あまり触れ辛い劇界の状況に対して小山内が「辛辣に語る」というスタイルの文章で1回目は帝国劇場(と再建中の歌舞伎座の建物)、2回目は新富座(と半分市村座)、3回目は明治座というお題目になっており、3回目の最後に浅草について匂わす文言がある事から関東大震災で焼失した10月号には浅草特集の4回目が載る予定だったのかも知れません。

今回は2回目の新富座(と半分市村座)に当たります。

小山内は先ず現状の新富座は歌舞伎座との共同運用であり、本来の新富座の人間は吉右衛門と三津五郎であるとした上で

 

如何に贔屓目に見ても、一座は貧弱だ

 

と世話物役者と女形不足、踊り手が三津五郎のみという無人ぶりを指摘し今は歌右衛門や羽左衛門或いは中車、秀調、踊り手で福助や市蔵を入れて何とか成立しているとし、今は良くても

 

 

近来この一座の将来にとっての危機だと思ふ。

 

何れはには行き詰まるとしています。

一方で市村座に関しても

 

菊五郎一座も貧弱だ。女形がいないのは菊次郎に死なれた不運だと諦めても、菊五郎の相手になる敵役なり立役なりが友右衛門ではどう考へても不満足だ。

 

とこちら既に女形不足、立役不足という問題点を抱えていると指摘しています。

その上で小山内は

 

二つの興行機関(松竹と市村座)が腹を打ち明けて話し合へば連盟必ずしも不可能ではあるまい。

 

と女形不足は置いとくとしても嘗てのニ長町時代の体制に戻る事が一番望ましいと述べています。

勿論、これには不仲状態であった吉右衛門、三津五郎と菊五郎との和解が必須条件であるとして

 

菊五郎だって若しその点(吉右衛門の待遇)に目を注いでやれば、友情は油然湧いて来るだろう。

 

全く役者といふものは周囲が肝心だ。周囲が悪いと、好い役者もしまいには悪くなるよ。

 

と菊五郎が嘗ての様な独裁者ぶりを抑え吉右衛門も周囲の人間の讒言に耳を貸さずに菊五郎に真摯に接すれば無理な事ではないとしています。

この小山内の予言(?)は中々鋭い所を突いていて、翌年の大正13年に市村座と宝塚の提携が今一つな結果になると既に病魔に侵されていた岡本柿紅の秘策として両者の共演が計画され菊五郎が吉右衛門の元へ直談判に行き快諾を得た事もあって大正14年に小山内の発言通り菊五郎と吉右衛門の4年ぶりの共演に繋がる事となります。

 

次の8月号、9月号は所有していませんので震災前の演芸画報の紹介はこれまでですが震災後の分はまだありますのでまた時折紹介していきたいと思います。

 

今回も恒例の雑誌帝劇を紹介したいと思います。

 

帝劇 大正12年6月号

 

前月号はこちら

 

お馴染み山本専務の表紙挨拶は演劇界の構造改革の話でこれまで歌舞伎界では「奥役」「芝居茶屋」が長年担っていた劇場と役者の仲介斡旋人や切符取次業及び今でいう転売業者(文中では切符思惑業者)についてこの間に入る人間がこれまで多額の利益を拝領していたが為に中々観劇料の低減化に繋がり辛かったと語り芝居茶屋の制度そのものを創設時に排除した帝国劇場はこの頃から直接窓口販売をして転売業者対策もしていましたが歌舞伎役者を使う宿命上、奥役制度については取り組めておらずここの改革が出来れば更なる観劇料低減に繋がると指摘しています。

奥役制度が廃れて久しい現在の方が観劇料が値上がっているじゃないかという指摘が飛んできそうですが、歌舞伎ではなく他の演劇に目を向ければファンクラブ先行抽選申し込みやら転売でチケット代がプレミア化あるいは高騰化しているという現象は変わっておらず、山本の指摘は案外的を突いている所があります。この内、転売対策については現在業界を挙げて対策に乗り出していますが、先行申し込み制度などは(松竹ゴールド会員などで購買意欲を煽っている松竹含め)業界の思惑もあって変わっておらず、100年以上前から続いていると考えると実に因果な問題なんだなとしみじみ実感します。

 

さて、山本専務の話はここまでにして中身については歌舞伎と全く無関係な内容ばかりなので省略しますが一つだけ紹介するとこれまでジンバリストやクライスラー等海外の著名な音楽家を招いていた実績から帝国劇場ではここで更に勢いを付けようとバイオリニストのヤッシャ・ハイフェッツ、バリトーン歌手のヨゼフ・シュヴァルツ、ピアニストのヨーゼフ・ホフマンの3人の来日公演企画が掲載されています。

 

来日公演をする筈だった3人

 

皆様、ご存知の通り関東大震災が起きて帝国劇場そのものが焼失してしまった事もあり3人の公演は中止になりましたが、この内最初に来る予定だったヤッシャ・ハイフェッツに関しては他のスケジュールの都合上、丁度震災が発生した9月1日にニューヨーク発日本行きの船に乗り込んだばかりであり、船上で震災の一報を聴いて急遽慈善演奏会を開催して義捐金3,000円を集めて日本に寄付し予定を変更して11月9〜11日に帝国ホテル宴会場で本公演を、12日は日比谷公会堂で慈善公演を開き、ここでも義捐金2,800円を集めて被災者に寄付する男気を見せました。

しかしながら、残り2人に関してはこの中止により結局来日しないまま亡くなってしまい日本人が見る事は叶わなくなり日本の音楽界にも損失を与え帝国劇場の目指す開かれた一流劇場の野望は一旦ここで挫折を余儀なくされる事となりました。

 

最後に6月公演の紹介ですが6月と言う事で羽左衛門を松竹から借りて

 

加賀騒動
賎機帯
両国の秋
近江源氏先陣館
小野小町
 

と5演目を上演しました。

 

6月公演の広告ページ

 

今回の公演の目玉は何と言っても東の羽左衛門、西の鴈治郎の双璧と言われた夜の部の盛綱陣屋で東京では歌舞伎座の大正5年11月公演以来7年ぶりの上演でした。

 

前回上演した時の筋書

 

そんな高い期待に対して羽左衛門の盛綱はどうだったかと言うと新聞の劇評を見ると

 

羽左の盛綱は、修羅の太鼓の件や、注進受や首実検や、派手で腹をはっきりち見せて行く處は、絢爛を極めたもので此優の時代物としては矢張り折紙附きの役であった

 

羽左の盛綱は益益ふくらみと貫目とが認められた。肝心の首実検は、最初に不思議な思ひ入れをして、中ごろでハッと気がつき切腹した小四郎を見遣っての感心やら、愁嘆やら、さふいふ変って行く表情を長い時間見せた、此れが羽左の味噌であらうが、活動写真式にいふと盛綱の表情の分解とでも命名すべきものである、其れだけ複雑な表情をもつと短い時間に表現するとか俳優の芸だと思ふ

 

と大胆さと繊細さを兼ね備えた期待に反しない素晴らしい出来だったと高評価されました。

 

羽左衛門の盛綱

 

この演目では他の役者についても触れられており

 

幸四郎の和田兵衛が堂々として立派であった

 

幸四郎の和田兵衛は風采も音調も立派で申し分ない出来である

 

宗十郎の篝火と宗之助の早瀬が似合ひの女房振りであった

 

宗十郎の篝火、宗之助の早瀬、いづれも立役兼帯の役者で器用な事である

 

梅幸の母微妙も誇張がなく神妙で、それに絡る又五郎の小四郎が矢張り天才的に巧みであった

 

梅幸の微妙は其の人に適まらなかった、さすして斯ういふ老け役の適らない所に梅幸の値打ちがあるのである

 

又五郎の小四郎、子供としては利口過ぎる

 

と梅幸の微妙のみ劇評にって評価が分かれているものの、概ね幹部役者は高評価続きであり、特に小四郎を務めた又五郎はここでの子役の評価が幸四郎の眼に止まったらしく、震災後の大正13年の全国巡業で鴈治郎が盛綱陣屋を出した際にもわざわざ東京から招かれて小四郎を務める程の「当たり役」にまで昇華させてしまった程でした。

 

梅幸の狂女

 

他にも昼の部には写真にある梅幸の賎機帯や加賀騒動の三幕通し等がありましたが、加賀騒動が完全な通しでない点や羽左衛門と梅幸が同じ舞台上で出会ない点がマイナスに響いたのか、夜の部の盛綱陣屋ほどの完成度とは言い難い物があったそうですがそれでも盛綱陣屋1つでお釣りが来る位の出来だったらしく、歌右衛門、仁左衛門、菊五郎を擁する新富座を圧倒する程の大入りとなった様です。

この後羽左衛門と梅幸は2人の門弟達を従えて地方巡業へと繰り出しましたが偶然にもこの時の筋書を最近手に入れましたので来月に紹介したいと思います。

 

次の7月号と震災前最後の発行となった8月号までは所有していますので追々紹介したいと思います。

今回は予告通り久しぶりに南座の筋書を紹介したいと思います。

 

大正12年6月 南座

 

演目:

 

一、二の櫓
二、土屋主税

三、心中天網島

四、三人片輪

 

前回紹介した大正11年の筋書

 

前回の紹介から1年ちょっと空いているので本編に入る前に軽く空白期間に触れると3月以降の南座は

 

・5月

・10月

・12月

 

の3ヶ月のみ歌舞伎を行い5月は右團次と延若一門、10月は左團次一門で芝居を行い12月の顔見世は鴈治郎一座に梅幸・幸四郎・宗十郎が加わって行われたのは演芸画報で紹介した通りです。

 

5月公演のグラビアはこちらをご覧ください

 

10月公演のグラビアはこちらをご覧ください

 

顔見世公演のグラビアはこちらをご覧ください

 

そして大正12年に入ると3月に入って初めて歌舞伎の公演を開き延若と壽三郎を中心に左團次一座から鶴蔵を招いて

 

文治の頃
西郷とぶた姫
実録先代萩
恋湊博多諷
月の大漁
 

の5演目を上演しました。

その後4月はイギリス喜劇、5月の曾我廼家歌劇を経て今回の6月公演へと至ります。

 

主な配役一覧

 

座組としてはいつもの鴈治郎一座ですが彼にとって顔見世でのプレミア感を保つ為なのか顔見世以外の月に南座に出るのは珍しく今回は大正8年以来4年ぶりであり、しかも1月丸ごとではなく9日から21日までの13日間のみという中途半端な日程での出演でした(本来は8日の予定であったが北白川宮成久王の国葬の日の為に1日延期の為)。因みにそれまでは何をしていたかと言うと6月3日から6日まで岐阜市に開業した岐阜松竹座の杮落し公演に出演していました。

つまり今回の公演は杮落しに呼んだは良いものの、1ヶ月丸々公演を打てない為に鴈治郎一座の空いてしまう予定を穴埋めする為に杮落し用に出した演目をそのまま流用した「巡業の一環」での公演となりました。

余談ですが鴈治郎一座が去った後に岐阜松竹座で行われたのが市川左團次一座の公演であり、その初日に出演していた六代目中村傳九郎が旅館清水屋に戻った途端に急死してしまったのは新富座の筋書でも触れた通りです。

 

二の櫓

 

 一番目の二の櫓は大阪朝日新聞の懸賞で当選した大学教授であった国枝俊文の脚本を元に作られた新作歌舞伎の演目になります。

 

内容としては近松記念と銘打っている事からも分かる様に近松と同時代の貞享年間を舞台に義太夫の宇治加賀掾が迫りくる才能の衰えと自分の元を去り人気者になった竹本義太夫への嫉妬や娘お瑠璃が彼に恋慕しているのを知って気が狂い、同じくお瑠璃に恋していた若狭は自殺、加賀掾は劇場に火を放って焼身自殺し、お瑠璃も父親を追って焼死と義太夫以外が皆死んでしまうというい誰も幸せにならないという後味悪すぎる話となっています。

 

今回は宇治加賀掾を多見蔵、竹本義太夫を福助、お瑠璃を雀右衛門、野田若狭を吉三郎、甚六を蝦十郎、およねを莚女がそれぞれ務めています。

 

多見蔵の宇治加賀掾と福助の竹本義太夫

 
さて、この悪趣味極まりない新人脚本の出来はどうだったのかと言うと
 
最初の「二の櫓」は見なかった」 
 
と遅刻してきた訳でもなく内容からして最初から見る気が無かったらしく残念ながら(?)評価は不明となっています。


土屋主税

 

中幕の土屋主税は歌舞伎座や南座の筋書でも紹介した玩辞楼十二曲の1つである新歌舞伎の演目になります。

 

大正9年に上演した時の筋書

 

今回も土屋主税を鴈治郎、大高源吾を魁車、其角を市蔵、お園を福助と亡くなった梅玉が市蔵に変わった以外は3年前と全く配役に変化なく務めました。

 

さて次の心中天網島程では無いにせよ、大劇場、巡業問わず出している所謂鉄板物の演目だけに評価の方はどうだっだかと言うと

 

鴈治郎の主税は何と云っても「芸の力」が見る者の心を掴んでしまふ。子葉のだ句を昵っと見つめて、あした待たるゝ今夜の事をそれと気付き扇子を膝にトンっと突いた時の表情などは何とも云へない。源吾が太鼓の音で駆け込むあとを盛んに降る雪を隔てゝ見送って、感激の涙を見せる木無しの幕切れまで全く息も吐かせなかった。

 

と流石に彼に当てて書いた物だけあって仕草の一つ一つに二枚目の貫禄十分があると高評価されました。

そして鴈治郎に次に高く評価されたのが大高源吾を演じた魁車で

 

魁車の大高源吾は何にもしないが見応へがする。遉は風流も解する程の武士だと得心させられるが、向島の場で「あした待たるゝその宝船」と、大きく云って傘を翳し、花道から引込みの時の型が肩で風切る木葉武士になってゐる。傘を展げた時の意気そのまゝで、大きく空を仰いで眞直に(肩を振らず)行くのが人物が大きく見えはしないか。

 

と赤穂浪士としての精悍さと同時に討入を句に暗示させるだけの教養がありそうな人物感を出せているとしながらも目立ちがり屋な性分が災いしてか向島の場の挙動が下品だと指摘されています。

また、おそのを演じた福助についても

 

福助の侍女おそのは一鹽榮えない役だが、それでも見る者に得心させてゐる。

 

おそのが琴で「雪」を弾いてゐるが、琴の糸が緩んで耳触りであるのみならずあゝ眞直に体を立てゝ居ては本当の琴の音が出るものではない。

 

と琴の弾き方に注文が付いたり特筆する良さはないものの、それでも見ていてそれなり納得させる物があると評価されました。

この様に福助まではまだ評価されている部分もありましたが、梅玉に代わり其角を演じた市蔵が問題だらけだったらしく

 

土屋邸の奥座敷になってから「それは御前が迷って居らせられるから」と云ふ時に、両手をあげて引っ掻くやうな真似をするのは何の為だすっかり安女郎屋の花車の格好で見苦しい事甚だしい。

 

と原作の松浦の太鼓で松浦侯が担っていた三枚目要素を引受ける役所とは言え、余りに下品に演技過ぎた事が舞台の品格を著しく下げていると酷評されてしまいました。

 

そもそもこの演目自体の出来が余り良くない事を考慮しても鴈治郎以外は何処かしら欠点を抱えており、如何に鴈治郎ありきの演目である事が浮かび上がってきます。

 

心中天網島

 

 二番目の心中天網島は玩辞楼十二曲の1つであり説明不要の鴈治郎の十八番である近松門左衛門の書いた心中物の演目です。

 

大正6年に時雨の炬燵を上演した時の筋書

 

上記リンクにもある通り大正6年に時雨の炬燵は上演していますが河庄の上演は大正4年以来8年ぶりの上演となりました。

今回は8年ぶりの上演とあってなのか「近松原作上演研究会」の監修が入り、竹内栖鳳のデザインした舞台装置と角書が付くなど「プレミア感」を演出させていますが要するにいつのも鴈治郎が出す河庄だけでなく炬燵の時雨と大和屋の場を加えた三部構成となっています。

 

勘彌が大和屋の場を上演した帝国劇場の筋書

 

本来であれば大和屋の場の後に心中する場面である大長寺裏樋の口の場が続きますが今回は敢えてそこは出さず心中へと赴く2人が共に歩いて行き滅びを暗示させる終わり方に変更しているのが特徴と言えます。

今回は紙屋治兵衛を鴈治郎、小春を雀右衛門、孫右衛門を市蔵、太兵衛を箱登羅、五左衛門と太和屋伝兵衛を蝦十郎、伯母を莚女、女房おさんを福助がそれぞれ務めています。

さて、劇評はまず仰々しい角書にある竹内栖鳳監修の舞台装置について触れ

 

舞台は至極結構だ

 

と評価したのも束の間

 

理屈と写実を搗き混ぜて装置した舞台は見て立派でも肝心の芸そのものが殺される

 

と写実を突き詰めようとする鴈治郎好みなのか写実に作った装置が却って情緒を殺いでいるとして

 

曽根崎新地の街を下手に見せたのも好いには好いが河内屋の外に行燈の掛かった家が一つも無い。これでは気が滅入る。「行燈でも見て」の行燈が見られない

 

大和屋の場の切に暗転で藪にかゝった橋を見せ、小春の手を引いた治兵衛が笹を掻き分けるなど「原作その儘」と云ふのを打壊し、飛んでもない「芝居」を見せる

 

と2つの実例を挙げ台詞との乖離や拘り過ぎて舞台上が汚く見えてしまっているとして行き過ぎた写実を酷評しています。

続いて劇評はチョボを担当する榮太夫をやり玉にあげ

 

枕の「天満に年ふを千早ふる」から「今は結ぶの神無月せかれて逢はれぬ身となりはて、あはれ逢ふ瀬の首尾あれば」の所も「毎夜毎夜死に覚悟」も、高い甲声で無暗に節を振って語るのでしんみりした情緒が壊され、死覚悟でとぼとぼうかうか出る治兵衛が尻からげして鼻唄でもうたって出さうな気持がする。

 

と無闇矢鱈に高い榮太夫の声が風情も何もあったものではなくぶち壊しだとこれまた酷評しています。

この様に舞台装置、義太夫と酷評続きですが鴈治郎の治兵衛については

 

鴈治郎の次兵衛の出は、揚幕を出た時から、謂ふ所の「天下一は」である。恋に囚はれ魂ぬけたその恰好は他の何の俳優が真似ても真似られない姿である

 

と河庄の出から既に完成されきった鴈治郎の演技はこれらのマイナスポイントを差し引いても尚素晴らしい物であると絶賛されました。只折角の出も下の写真にもある格子先の場面に入ると

 

治兵衛一人が芸を見せるにはこれは至極好都合だらうが、これでは孫右衛門が小春の心底を見届け一思案しやうとする弟思ひの心遣りや、小春が口と心は裏表で、心中を不心中に見せ、死なずに事の済むやうと頼む痛苦の情などが、充分に見物に見せられない。

 

治兵衛一人だけは舞台の真中で思ひの儘の芸を見せ得られる。治兵衛一人を見やうとする観客には、之が都合が好いかも知れないだろう。けども、近松翁の書いた原作は、そんなに治兵衛一人のみを活かして孫右衛門や小春をお添へもの扱ひにはして居ない筈である

 

と「近松原作上演研究会」の監修と角書で書いておきながら、蓋を開ければ鴈治郎の治兵衛ありきの一人芝居の為に計算された近松の意思とは思えない演出をかなり厳しく指摘されています。

 

鴈治郎の紙屋治兵衛と市蔵の粉屋孫右衛門、雀右衛門の小春

 

そして当然と言えば当然ですがこの鴈治郎あり気の演出で割を食う形になった孫右衛門の市蔵と雀右衛門の小春については

 

河庄の場の市蔵の孫右衛門は、挙動があまりに年寄じみて居はしないか、故梅玉の孫右衛門でも今少しシャンとして居たやうに思って居る。大和屋の場ではすこしも難が無かったが

 

気の毒なのは雀右衛門の小春で孫右衛門が治兵衛に意見の間も「心中よしのに女郎」と皮肉られる痛い所も、治兵衛の悔み泣きを聴く間も、上手の隅に小さくなって芸をして居なければならなかった。

 

と市蔵は梅玉の穴埋めで慣れない孫右衛門を演じる中で本役の老け役の面影がチラつくとチクリと指摘され、雀右衛門は鴈治郎本位の為に娘役としての本来の魅力を抑えられる様な演技になってしまっている点を同情気味ではありますが指摘されています。

しかし、雀右衛門が小春に抜擢されてしまった関係でいつもなら小春を演じる福助がおさんに廻される事となりましたが

 

紙屋の内の場では福助のおさんが堪らなくよかった。余りに泣いて見せないでそして観客をよく泣かした、サワリの間もベタベタしないで情が溢れて居た。

 

といつもの河庄だけなら損な役のおさんですが炬燵の時雨が付いた事で一転美味しい役となり、いつもの淡白で抑え目な演技も良い方に解釈され総崩れ状態の役者陣で唯一満点評価という結果に終わりました。

 

こうして見て見るといつもの鴈治郎流河庄+αであり、竹内栖鳳の舞台装置も原作尊重の監修も悪い方にしか評価されず役者も鴈治郎は兎も角、それ以外は福助を除いて決して良い評価とは言えない結果となりましたが、他が二の櫓や土屋主税と比較対象があまりに微妙だったのもあってか

 

今度は劇らしい劇を見た訳だ

 

とこの狂言立ての中では良かったとこれまでの酷評を他所に一定の評価をしています。

 

三人片輪

 
大切の三人片輪は以前に市村座の筋書でも紹介した常磐津の舞踊演目になります。
 
今回は船岡主馬を新升、松尾を成太郎、貴船を扇、半之丞を福助、お槇を魁車、太郎助を長三郎がそれぞれ務めています。
 
さて、こちらはと言うと只でさえ長い心中天網島を炬燵の時雨や大和屋の場まで加えた長丁場であった事や面子を見れば察しが付く人もいるかと思いますが
 
切の三人片輪は見のこして出た
 
と相変わらずの若手の舞踊を軽視する御多聞に漏れず帰宅してしまいどの様な内容だったかは不明となっています。
 
この様に元々が岐阜松竹座の杮落し公演の演目流用という前提で出しているとは言え、4演目中2演目を見ていないという片手落ちみたいな状態+残る2つも満点評価どころか鴈治郎以外は殆ど評価されない状態の今回でしたが入りの方はと言うと
 
秋から冬へのお料理を二の膳三の膳つきで夏の初めの此の頃お客が食傷する程並べて居る夏でも小袖の京都人にはそれが人気になって南座は連日の大入りである。がその大入は組見、総見の大入である。
 
と演目流用や団体客頼みの動員を京都人らしく少し皮肉った様な言い回しながらも入りは大入りだったと記しています。
 

さて、本来ならここで紹介が終わるのですが、この時期の演芸画報を持って無い事もあるので最後にオマケとしてこの後鴈治郎の身に降りかかった「藤十郎の恋上演中止事件」について触れたいと思います。

この南座公演終了後、鴈治郎一座は7月から恒例の北陸巡業へと入り

 

・菅原伝授手習鑑

・關の馬子唄

・土屋主税

・藤十郎の恋

 

の狂言立てで新潟劇場、金沢尾山座等を巡り巡業を行いました。

 

事件は巡業も終盤に差し掛かった7月25日から行われた富山大正座で起こりました。当時の報道によると丁度藤十郎の恋を上演中に臨検(当時は警察が劇場の見回りに来るのが慣習でした)に訪れた石黒重吉警官が偶々お梶との口説き場面を目撃してしまい芝居に疎かった警官はそれを煽情的だと判断していきなり舞台に向かい大声で「座長中止!」と叫び上演中止を決めてしまいました。

その時舞台上にいた鴈治郎と福助はとっさの出来事にも動じず演技を続行しましたがそれを見た石黒警官は益々激昂し「中止!中止!幕を引けッ、幕を引けッ」と自ら幕を閉めてしまい無理矢理上演を中止に追い込んでしまいました。

そうなると黙っていないのが午前5時から行列に並んで観劇に訪れた1,300人以上の観客で石黒警官に向かい怒涛の罵声を浴びせ、石黒警官は尚も強硬的にその後の演目も中止しようとしましたが既に酒の入っている観客が劇場関係者や石黒警官に暴行する事態にまで発展してしまい数の暴力に恐れをなした同行した棚田警部補は応援を呼んだものの、10数人Vs1,300人では焼け石に水の状態で仕方なく警察は鴈治郎に再演を依頼するも舞台上では努めて冷静だったものの、部外者によっていきなり舞台をぶち壊された鴈治郎は怒り心頭で

 

一旦破壊された舞台の気分は再びとり戻されない、芸術擁護の上から断じてこの狂言は再びこの土地では上演しない

 

と断固拒絶してしまい、にっちもさっちも行かない事態へとなってしましました。結局中止から1時間後に懸命な説得を受けてもう1度中止された所から口説きの場面を大幅にカットするという条件付きで上演してその日は矛を収めました。

 

金沢尾山座での藤十郎の恋の様子


そして藤十郎の恋については27日まで口説きの場を上演しない改変した状態で上演しましたが舞台をブチ壊された鴈治郎の怒りは収まらず
 
こんな無粋な富山へは二度と来ない
 
富山県との絶縁宣言を発表してそのまま帰阪してしまい、白井松次郎もまた
 
かうした無理解な警察官の管下にある富山県へは、今後松竹合名社も中村鴈治郎も断じて足を踏み入れない事に決心しました。」(演芸画報大正12年7月号「藤十郎の恋」問題より引用)
 
と公式声明を出した事で見物の怒りの矛先は再び石黒警官へと向いてしまい警察への非難の声が再び燃え上がりました。

中止当日は「翌日も中止を決定した」と強気な態度を崩さなかった富山県警もここに至って慌てふためいて対応に追われる事になりました。何故当日は強権的だった警察がここまで及び腰に転じたのかと言うと富山県と言う場所柄故でした。

というのも4年前の大正8年に日本中に伝播した米騒動の発端の地が富山市であり、その時の警察の強権的な鎮圧行動が火種となって暴動が全国に波及してしまったという側面がありました。その為、この事件は最早単なる劇場の上演中止事件には留まらず地域の治安を維持する筈の警察官が下手すれば米騒動の二の舞の様な暴動に発展しかねない社会不安を自ら煽ったという事件となってしまい東京の新聞社までもが嗅ぎ付けて報道した事で富山県を飛び越えて東京の政界にも波及し警察を統括する内務省までが対応に動くという大騒動となってしまいました。

その為、何よりも内務省の顔色と治安維持を優先した富山県警は事件の原因を独断且つ強行的に上演中止を断行した石黒警官にあるとして法律的には瑕疵のない彼を巡査部長から解任して警部補に降格、警視庁への異動という名目で事実上の追放処分にさせてしまい事態の鎮静化を図る事で決着させました。

そして実は事件当時酔水状態であった石黒警官本人も自分の取った行動が飛び火して全国規模の社会問題になるまで話が大きくなるとは思ってもみなかったらしく、怒り狂った市民による自宅への襲撃の恐れや署内での周囲の冷たい視線に苦しみ続け夜間に同僚の家を度々訪れては

 

辞めさせてくれ

 

と泣きながら懇願するなど精神的にもかなり追い詰められてしまったそうです。

そんなこんなで大騒動となった7月巡業を強制終了した鴈治郎は8月も仕切り直しで巡業に出て

 

・仮名手本忠臣蔵(大序~七段目)

藤十郎の恋

・羽衣

 

と富山県の一件へのレジスタンスなのか藤十郎の恋だけは継続して長岡長盛座、静岡歌舞伎座など北陸・東海巡業を行っているのが確認できます。

因みに富山の一件が大々的に報じられた事もあり、警察が中止する程凄いのかと藤十郎の恋に対する前評判が広まったらしく、富山の一件で不快の絶頂にあった鴈治郎もこれを受けて漸く機嫌を直したというオチが付いています。

 

とこの様に本編よりその後の方がネタ満載であった鴈治郎ですが、9月に発生した関東大震災により東京の歌舞伎界が壊滅状態になった余波で永遠のライバルと目されていた十一代目片岡仁左衛門と29年ぶりの共演を果たす事になります。

その時の筋書もありますので後程紹介したいと思います。

今回は新富座の筋書を紹介したいと思います。

大正12年6月新富座

 

前回の筋書はこちら

 


演目:
一、家康の母
二、茅野三平
三、春興鏡獅子
四、人情夕話
五、松竹梅乙女舞振

主な配役一覧


本編に入る前に演芸画報でも紹介していない5月公演について軽く触れると4月公演を終えて仁左衛門は休養、中車は中座に出演、明治座に歌右衛門と吉右衛門、三津五郎が廻った関係で新富座は明治座と入れ替わりで左團次一座が入りそこに帝国劇場から幸四郎を借りて

熊谷出陣
大森彦七
一心太助

を上演しました。
今まで紹介してきた通り左團次と幸四郎の相性の良さもあり、幸四郎と左團次の顔合わせ演目である熊谷出陣が評判高く、市村座の大入りにこそ敵わなかったものの、入りについてはそれなりに盛況だったそうです。
そして今回の6月公演は歌右衛門、仁左衛門の2枚看板に窮地の市村座から一座を丸ごと借りての公演になりました。
余談ですがかつてこの劇場で大正7年に2回もドタキャン騒ぎを起こした前科がある片岡仁左衛門は本人なりに思う所があったのか(知る人曰く「ある事情」との事)大正9年6月公演に出て以来1度も新富座には出演しておらずこれが実に3年ぶりの出演でもありました。

家康の母
 

一番目の家康の母は松居松葉が歌右衛門の為に書下ろした新歌舞伎の演目となります。

淀君を上演した歌舞伎座の筋書はこちら


リンクにもある様にかつて歌右衛門に淀君物の新作を提供した彼ですが紹介していませんが実はその後も護国女太平記、明治第一年と継続的に作品は書いており3月の本郷座では新たに薩摩の淀君という新たな淀君物を書いたばかりであり、ここで再び淀君物…という訳には流石に行かなかったらしく、淀君に代わる物として徳川家康の実母であるお大の方を主人公に据えた烈女物として書いたのがこの演目となります。
こちらの内容は言うまでもなく生き馬の眼を抜く離合集散が繰り広げられていた戦国時代の心ならずも離縁となり可愛い我が子を置いて実家に戻らなければならなかった彼女の話を所々フィクションを交えつつもそのまま描いた物となっています。
今回はお大の方を歌右衛門、八橋を福助、竹千代を児太郎、水野元政を友右衛門、萬之助を男女蔵、浅井六之助を團右衛門、鳥居伊賀守を傳九郎、渡とお六を鬼丸、おうめを歌女之丞、梅壺を菊三郎、金田与左衛門を彦三郎、新六を菊五郎がそれぞれ務めています。
さて、既に重度のマンネリ化していた淀君物に代わる新たな烈女物として出したこの演目ですが劇評はのっけから

 

又かと思はれるのが損である

 

とのっけから役柄を替えただけのいつもと変わらない「歌右衛門印の烈女物」という烙印を押されており、案の定演技に関しても

 

芝居としては一向に詰まらない、深みもなければ面白味もない

 

とどれだけ歌右衛門が気品のある演技を見せてもただそれだけと全否定レベルの酷評を受ける羽目になりました。

歌右衛門のお大の方、児太郎の竹千代

 

そしてマンネリ化している父親の演し物ではそれなりに良い役を貰える福助は今回はお大の方の侍女として迫りくる危険から身を守る八橋という侍女役を演じていてこちらは

 

動かずして仕處もある

 

とある程度評価されましたが、その八橋の兄で水野元政に殺されてしまう百姓の新六を演じた菊五郎は

 

菊五郎が八ツ橋の兄新六で馬の口を執って殺される處に努力を見せてゐるが、此人の本領を発揮すべくもない

と何とか写実に見せようと努力は評価されているものの3年前に共演した宮内局の時と同じく完全に歌右衛門の新歌舞伎物では相性が悪い事を露呈してしまいました。

歌右衛門のお大の方、福助の八橋、菊五郎の新六

 

そして吉右衛門脱退以降、慣れない新作物を手掛けてそれなりに新作への経験値を貯めて来た市村座の役者達についても

 

友右衛門の下野守や男女蔵の萬之助は、余りに淋しい、若手には是れも物足らぬ役であらう。

 

と彼等にしてみれば役不足も良い所といえる位の端役だったらしく物足りないと評価されています。

この様に福助を除いては何れも低評価、酷評の連続であり一番目は完全な失敗作となりました。

茅野三平

 

続いて「義士外伝」と銘打って上演された茅野三平は三代目河竹新七が明治10年5月に春木座の為に書いた忠臣蔵年中行事の内、勘平こと茅野三平に関わる部分だけを切り取った見取での上演となります。

内容としては史実で父親の仕官話への義理と仇討への忠孝の板挟みに苦しみ切腹した萱野三平の話を仮名手本忠臣蔵の六段目に移植した形になっており、仮名手本でのおかやの役割を実父の三左衛門が担うという展開になっております。

 

今回は仁左衛門の出し物であり、茅野三平を仁左衛門、おはるを福助、矢頭右衛門七を千代之助、茅野三左衛門を傳九郎、神崎与五郎を友右衛門、寺坂吉右衛門を彦三郎がそれぞれ務めています。

余談ですが今回三平を演じる仁左衛門は実は初演の際にも矢頭右衛門七役で出演しており、福助同様に父親の演し物だと良い役を貰える千代之助が矢頭右衛門七役なのは仁左衛門なりにかつて自分の演じた役を振って覚えて欲しいという親心(?)があったのかも知れません。

それはさておき、この時我が子可愛さで千代之助に演じさせず65歳の高齢でありながらも自身が三平を演じるという大博打に打って出た仁左衛門ですが劇評は彼の三平について

 

仁左の三平は若返った白塗りで、動きも仕科も未だ斯うして見ると水気はある、それに此優の特色なる煩い技巧を余り用ゐずに、万事をさらりと見せたのも意外である

 

ととても65歳とは見えない程に瑞々しい演技で、しかも悪癖である凝り過ぎた技巧も見せずに王道的な勘平の演技で演じた事を驚きも含めて高く評価しています。


仁左衛門の茅野三平、傳九郎の三左衛門、福助のおはる

 
そしておかやに代わりこの芝居での憎まれ役を引き受けた傅九郎の三左衛門も
 
いやな役を、車輪で見せた努力を買ひたい
 
と難しい役所を演じ切る技倆を高評価されました。
また、仮名手本忠臣蔵ではないとは言え、父親が得意としたおかるの役を事実上引継ぐ形で演じた福助も
 
福助のお春が初々しいのが余計目立った
 
と外伝故なのか芸妓の心が無く初心な許婚っぽく見えたとは書かれているも、取り立てて批判する様な箇所は見当たらなかった様です。
余談ですがこの三左衛門を演じた傅九郎はこの役が東京での御名残となり翌月に彼は左團次一座に加わり横浜座で芝居をした後巡業に出て公演先の岐阜松竹座での初日にひらかな盛衰記の権四郎と心中浪華春雨の庄蔵を演じて宿泊先の清水屋に着いた途端に倒れて急逝してしまいました。
この様に仁左衛門の三平の演技は無論、傅九郎、福助といった脇も落ち度が無く、一番目の総崩れとは正反対に統率の取れた優れた出来となった様です。
 

春興鏡獅子

 

同じく中幕の春興鏡獅子は菊五郎の十八番と言える新歌舞伎十八番の活歴物の舞踊演目です。

 

初演した市村座の筋書

 

再演した帝国劇場の筋書

 

4度目の上演となった市村座の筋書

 

今回は小姓弥生後に獅子の精を菊五郎、胡蝶を菊丸と琴次郎、金右衛門を團右衛門、紅梅を菊三郎、竹川を伊三郎、三太夫を翫助がそれぞれ務めています。

さて、道成寺と並ぶ鉄板当たり演目を出して来た菊五郎ですが評価はと言うと

 

前のお小姓の中の皮肉な踊りにも、此優ならではと思はれる一糸乱れぬ立派さがあるが後シテになってからが一層よい、其溌剌たる活気と本行型の堂々たる動きは模範的であらう

 

と前半の小姓弥生も後半の獅子の精もどちらも高く評価され面目を保つ形となりました。


菊五郎の小姓弥生

 

次いでに劇評は普段なら評価の対象にすらならない胡蝶についても触れて

 

菊丸と琴次郎の胡蝶も、よく訓練されてゐた

 

と評価しました。因みにこの2人は菊丸が後に二世西川鯉三郎、琴次郎は尾上菊之丞となっていて共に舞踊の名手となっており、劇評がこの2人の腕を早くから評価している点も慧眼と言えます。

この様に自家薬籠中の物である春興鏡獅子だけあってかさしたる落ち度もなく、茅野三平と共に当たり演目となりました。

人情夕話

 

そして二番目の人情夕話は劇評家の岡鬼太郎が落語の「子は鎹」を元ネタに書き下ろした世話物系統の新歌舞伎の演目になります。

内容としては腕のいい大工ではあるが酒乱である辰五郎がふとした弾みで伊兵衛や女房のお浜を大喧嘩し別れてしまい1年後に酒を断った辰五郎が息子の亀松と再会し息子の苦労とおすぎの近況を聞いた上で親子で鰻屋で再会し親子夫婦水入らずになるという話で基本的な骨子は落語そのままなものの夫婦喧嘩の原因を酒に変えており、これは当時市村座の運営の苦労から酒量が増え既に肥満体気味になりつつあった菊五郎の体型を活かした脚色となっています。

今回は辰五郎を菊五郎、おすぎを鬼丸、亀松を亀三郎、長太郎を友右衛門、高蔵を彦三郎、市平を伊三郎、平次を蟹十郎、富助を鯉三郎、おりんを菊三郎、おたんを男女蔵、伊兵衛を仁左衛門、おみきを歌右衛門がそれぞれ務めています。

 

一番目の家康の母では役作りに苦労しながらも評価されなかった彼も得意の世話物となると水を得た魚の様に活き活きしていたらしく

 

辰五郎が狂酔して家を出される處も、総べて写実的の細い自然な技巧で躍動してゐるが、次の駄菓子屋前で我子に逢ふ處が、自然にほろりとさせ鰻屋で女房に逢ふのをてれてもぢもぢする處が、傑れて旨いものだ

とその技巧を高く評されています。

菊五郎の辰五郎と亀三郎の亀松

 

そして加入と共に市村座が傾き始めた故にこの時が初めての新富座出演となった鬼丸も

 

鬼丸の女房も斯うした役には一種の味がある

 

と小芝居出身故にか歌右衛門の新作では端役でしか出番の無かった彼も菊五郎と肌が合う世話物では歌右衛門には出せない味わい深さを魅せてこちらも評価されました。

そして劇評はお付き合いで出た歌右衛門と仁左衛門より優れていた役者としてこの話のキーマーである息子の亀松を演じた亀三郎を挙げ

 

亀三郎の倅が安手でそれらしく出来た

 

と夫婦喧嘩に巻き込まれ要らぬ苦労を背負い込みながらも両親の仲を取り持つ健気な役をベタに演じた事でそれらしくなったと評価しました。

一応は歌右衛門、仁左衛門、菊五郎の三者顔合わせの為に書かれた演目でしたが蓋を開ければ市村座の3人だけで芝居を成立させられたらしく茅野三平や春興鏡獅子程の完成度ではないにせよ、十分に当たり演目といえる位の充実感はあったそうです。

この演目は現在は内容を若干変えて前進座が偶に演じる位になっていて本場の歌舞伎では掛からなくなって久しいく体型が正にぴったしな講談物で新作を手掛けている松緑辺りが復活させても良い演目ではないかと思います。

松竹梅乙女舞振

 

最後に大切の松竹梅乙女舞振は新富座と市村座、帝国劇場の若手3人による長唄の舞踊演目になります。

 

今回は姫御寮を榮三郎、一重を男女蔵、双葉を竹松がそれぞれ務めています。

さて、こちらは既に前幕で満足してしまった劇評が帰ってしまい、言及は全くありませんでした。

 

この様に蓋を開ければ一番目と評価不明の大切以外はどれも好評であり、入りについても羽左衛門が加入した帝国劇場を相手に廻しても「此月の大芝居としては一等の人気を呼んでゐるらしい」と書かれる程の好調な入りだったそうです。

 

この様に役者の組み合わせ次第ではまだ十分に利用価値がある事を証明した市村座ですが、2ヶ月後に起きた関東大震災により市村座を焼失してしまい、他の劇場に出ようにも白井率いる大阪も名古屋も他の被災した東京の役者でごった返している為に仕事先すら無い状態となってしまい、そこに目を付けた意外な人物により意外過ぎる場所で震災後の生活を過ごす事になります。

 

そしてもう1つタイトルにも書いた通り、この公演が万治3年の創設以来263年間に渡って連綿と続いて来た守田座/新富座にとって最後の歌舞伎公演となりました。実際には翌7月には文楽公演、8月には曾我廼家五郎一座の公演が行われていますが歌舞伎公演としてはこれが最後となりました。

関東大震災による火災により焼失した新富座は一応再建されましたが、松竹の経営戦略の大幅な変更により「映画館」としての再出発となりそれも昭和20年の東京大空襲により焼失し文字通り跡形もなく消滅したまま80年以上が経過しています。

それもその筈で歌舞伎座の経営も万全とは言えない上に近くに新橋演舞場もあり更に演舞場と歌舞伎座の間に現在は映画館となっていますが元は劇場であった東京劇場もある飽和状態の中で直ぐ傍に新富座を再建するというのは劇場であれ映画館であれ余りに経営的にハイリスク過ぎるのは言うまでもありません。ただ、再興された中村屋一門により「平成中村座」方式で現在も不定期に公演が開かれる中、守田家に連なる大和屋一門が健在な中で誰も何もしないのは傍から見ていても淋しくもあります。

常設は無理にせよ新悟と巳之助辺りで自主公演の形でも良いので「守田座or新富座」を冠した公演を開催して欲しいと願ってやまない物があります。

 

それはさておき、東京の劇場の筋書はこの新富座の公演を以て震災前の分は全て終了となります。

その後は震災前後上方の劇場の筋書を幾つか紹介する予定で東京の劇場の紹介は震災直後に行われた10月の麻布南座の筋書を所有して無い為、大正13年の分からの再開予定になります。暫く間が空きますがお待ちいただけたらと思います。

 

今回は久しぶりに明治座の筋書を紹介したいと思います。

 

大正12年6月 明治座 

 

演目:

一、傾城酒呑童子
二、新朝顔日記
三、義経腰越状
四、月佳夏夜話
五、罷越路時江戸節

 

前回紹介した時の筋書

 

前回の紹介から丁度1年空いているので本編に入る前に大正11年から大正12年にかけての明治座の概要について触れたいと思います。

紹介した5月公演の次の6月と7月公演は新派の公演となり、8月は休場で歌舞伎公演の再開は9月となり左團次一座に上履きに中車を置き上方から我童、壽三郎を加えた座組で

 

・宇都宮釣天井
・絵本太功記
・謎帯一寸徳兵衛

 

を上演しました。

この公演では松蔦の弟子である市川蔦丸が藤左衛門娘お早と女髪結お松の役で師匠の前名である市川莚若を襲名しました。

続く10月は再び新派公演で11月は鴈治郎の上京に伴い新富座の幹部連が引越してきて公演を行いました。

 

11月公演の様子を紹介した演芸画報はこちら

 

12月は演芸大会に劇場を貸して大正11年を終え大正12年1月は本郷座との掛け持ち出演になった左團次一座に仁左衛門、中車を加えた座組で

 

・天竺徳兵衛
・伊賀越道中双六
・書初二人新兵衛
・仲蔵狂乱

 

を上演し東京では大正7年以来5年ぶりの上演となる仁左衛門の沼津が本道の義太夫物との評判が高く好評だったそうです。

2月は今度は歌右衛門、中車、幸四郎、三津五郎というこれまで中々実現しなかった斬新な座組で

 

・義経千本桜
・三人片輪
・御所桜堀川夜討
・心中二駕籠

 

を上演しました。

3月は曾我廼家劇へと貸し4月公演は雑誌帝劇でも触れた様に左團次一座で

 

・法論

・人形師

・慶安太平記

・神田祭江戸錦絵

 

を上演し高島屋のお家芸である慶安太平記の久し振りの上演もあり、新富座程では無いものの、安定した人気となりました。

最後に5月公演ですが以前に某三升本でも触れたのですがこの頃五代目市川三升は左團次一座を離れて独立し自身を主体とする自主公演の「團十郎座」を立ち上げようと奔走しており、本来ならこの5月公演こそが旗揚げ公演の予定だったそうです。

しかし、三升側が九代目の祥月である9月の方が良いという判断もあり旗揚げ公演は沙汰闇となるも、既に役者のスケジュールは押えられてあった事もあり、歌右衛門、吉右衛門、三津五郎に三升が加わって

 

・増補桃山譚
・道行初音旅
・聖母
・河内山宗俊
・春霞廓鞘当
 

と増補桃山譚や河内山など、どう見ても團十郎座旗揚げ用に組んだと思われる演目がチラホラ垣間見える内容の公演となりました。

余談ですがこの9月に旗揚げ予定だった團十郎座ですが、震災直前の各種資料を見る限り9月の各劇場は

 

新富座…左團次と宗十郎の公演

明治座…新派公演

帝国劇場…幸四郎と壽美蔵、亀蔵による女優劇公演

 

と決まっており、市村座も菊五郎の本公演と主要な劇場の予定は既に埋まっている事から團十郎座を開ける東京の主要な劇場は

 

・有楽座

・本郷座

 

位しかなく、仮に今回と同じ面子を揃えられて開催できたとしても会場的にスケールダウンするのは否めず素直に5月に開いて置けば良かったのではないのでは?と想像してしまいます。

それはさておき、この様な経緯を経て迎えたのがこの6月公演になります。

 

主な配役一覧

 

面子はいつもの左團次一座+壽三郎に新富座から中車、秀調、市蔵のいつもの3人組が加わった変哲の無い座組となりました。

 

傾城酒呑童子

 

一番目の傾城酒呑童子は中車の演し物で近松門左衛門が書き下ろし享保3年10月に竹本座で初演された時代物の演目になります。

外題に酒呑童子の名前がある事から分かるかと思いますが茨木でお馴染み酒呑童子の世界に初演の1ヶ月前に起きた大坂の傾城屋の茨木屋幸斎が処罰された時事ネタを入れて渡辺綱の酒呑童子退治と遊女の横笛とことじを絡めて彼女らを虐げていたひらぎ屋を遊女を虐げる奴=鬼と見立てて酒呑童子退治後の渡辺綱達が訪れてひいらぎ屋を捕らえると内容になっていてぶっちゃけ時事ネタであった当時は兎も角、今となっては話の筋が理解出来ない荒唐無稽な演目となっています。

その為、今回は大森痴雪が設定上無理がある酒呑童子絡みの部分をバッサリカットし、茨木屋幸斎の横暴により白妙とお笛が哀れな末路を迎えるのと茨木屋幸斎が奉行所によって捕えられる当時の事件の部分を主に写実風に整えた形で上演されました。

今回は加藤兵衛を左團次、茨木屋幸斎を中車、茨木屋多助を市蔵、せんよを芝鶴、花紫を勝太郎、玉の井を莚若、長門を莚升、白妙を秀調、お笛を松蔦、吉助を壽美蔵がそれぞれ務めています。

 

大森痴雪の脚色のお陰でスッキリした形となり、拐かされた娘のお笛を救おうとするも時遅く手遅れになる父親と今までとは毛色の違う役を演じた左團次ですが

 

左團次の浪人加藤兵衛は、誘拐されて遊女に売られた娘お笛を救はうと駆けつけた時は、既に自害して手遅れになったと云ふ役ので、この優には動き足らぬ處であらう

 

と幾ら中車の演し物へのお付き合いとは言え、損な役を引き受けた物だとやや同情気味に評価されました。

対して敵役ながらも脚色により事実上主役とも言える役となった中車の茨木屋幸斎は

 

中車の茨木屋幸斎が能の松風の姿で、新造横笛を責める場が劇としてのヤマである

 

中車の茨木屋幸斎は分別臭い中に、理詰めで自我の強い我儘を押へて行く處が、手強くて矢張堅実で老巧である、横笛を責めは能衣装を着けた儘でするのが、余りに芝居として拵へ過ぎた感があるが、是が此劇としての狙ひ處で又それだけ劇的情味を浮出させてゐる

 

とやや芝居臭い部分については批判されているものの、その臭さをも逆に魅力に変えている中車の力強い芸力の高さについては高評価しています。

 

中車の茨木屋幸斎、莚升の長門、市蔵の茨木屋多助

 

壽美蔵の吉助と秀調の白妙

 

しかし、中車以外の壽美蔵、秀調、松蔦に関しては

 

此劇では秀調の白妙と松蔦の横笛、壽美蔵の吉助等が、重要な人物になってゐるが、何れも何処かに物足らぬ気がする

 

と時代物に不得手な左團次一座の壽美蔵と松蔦はいざ知らず中車との共演も豊富な秀調さえも低評価と中車以外の総崩れ感が否めない形となりました。


新朝顔日記

 
続いて上演された新朝顔日記は片岡我童の十八番である朝顔日記を元に岡本綺堂が書いた新作の演目になります。
 
我童が帝国劇場で演じた時の筋書

 

今回は深雪を松蔦、熊澤蕃山を左團次、津山順之助を壽美蔵、乳母浅香を秀調と主役が我童がら松蔦に変わった以外はほぼ帝国劇場での上演時と同じ面子で務めています。

こと朝顔日記に関しては新旧共に絶品と言われていた我童の持ち役だけにそれに挑む松蔦はどうだったかと言うと

 

松蔦の新朝顔の深雪は冷たく淋しい此優の持味が、盲目としての若い女に嵌まり

 

と意外な事に松蔦も役にピタリと嵌る薄幸な女ぶりを見せれていると高評価を受けました。

 

熊澤蕃山の左團次と松蔦の深雪

 
そしてこちらでも本役ではない熊澤蕃山を演じた左團次は
 
鬱屈たる覇気を押へて、淋しく大井川で盲目の深雪に別れる處が矢張り余韻があって舞台も締まってゐた

 

と一番目の物足りなさとは逆に松蔦の深雪との別れを切なく演じきりこちらは頗る好評となりました。

その他秀調の乳母浅香も立派だと評価される等、特段誰も落ち度が無い出来栄えだったらしく昼の部の追い出し演目としては上々の出来だった様です。


義経腰越状

 
ここから夜の部に入り最初の義経腰越状は昨年の菊五郎襲名披露公演で出たのも記憶に新しい時代物の演目になります。
 
帝国劇場の筋書はこちら
昼の部の傾城酒呑童子と同じく中車の出し物であり、今回は軍師五斗兵衛を中車、高の谷を松蔦、泉三郎兵衛を市蔵、關女を秀調がそれぞれ務めています。

傾城酒呑童子では一人芝居状態であった中車ですが夜の部のこちらはどうだったかと言うと

 

中車の「五斗」は花道の出から鉄砲の件りまで、殆ど完璧に近いもの、腹に軍師かあって表面に凡夫の狂酔ーと云ふ處と其極り極りの型にも後進にお手本として見せる価値がある

 

といつぞやの仁左衛門の金藤次と同じく立派な立廻りと肚芸は後輩へのお手本にすべしと手放しに賛辞される程の完璧な出来栄えと高評価されました。

また一番目では不評だった秀調も

 

秀調の女房關女も本役

 

とここに来て本領を発揮出来たらしく、偏屈な五斗兵衛を支える堅実な女房ぶりを評価されました。

 

中車の五斗兵衛、秀調の關女

 

残る松蔦と市蔵も

 

立派な見ものである

 

と書かれており、新朝顔日記同様に注目度こそ低かったものの、内容としては充実した物となった様です。


月佳夏夜話

 
続いての月佳夏夜話は池田大伍が新たに書き下ろした世話物系統の新歌舞伎の演目になります。
 
名月八幡祭を上演した時の歌舞伎座の筋書はこちら
池田大伍と言えば名月八幡祭の様にこぢんまりとした佳作を書く事で知られていますがこの月佳夏夜話も小峰に横恋慕してストーカーと化す山田重右衛門に対して源之進から依頼を受けた甚三郎が小峰を引き取りに来るも小峰の実母を買収した山田といざこざにより山田とおくめ、佐助の3名を殺害してしまい、思いを寄せる小峰が若狭屋文次郎と恋仲だと知ると2人を守る為に罪を被って自害するというコンパクトながらも話が二転三転する内容になっています。

今回は片山源之進を中車、若狭屋文次郎を壽美蔵、山田重右衛門を壽三郎、廻しの佐助を左升、角平を團次郎、おくめを鶴蔵、おもんを勝太郎、おとよを莚若、小峰を松蔦、おくめを鶴蔵、おみのを秀調、甚三郎を左團次がそれぞれ務めています。

 

この月は珍しく柄にもない役を演じていた左團次にとっては待ちに待った本役と言える役だけに

 

左團次の手代甚三郎が新助と同じ意気で殺しが矢張り見せ場である

 

と無礼極まる重右衛門に怒り狂って3人を殺害する場面の躍動感が良かったと評価されました。

 

左團次の甚三郎、松蔦の小峰、壽美蔵の若狭屋文次郎

 

そしてこれまで左團次に付き合ってもらった見返りに中車が小峰の義兄である片山源之進を、秀調がその妻おみのを演じていますがこの2人についても

 

中車は小峰の義兄の旗本源之丞で秀調の其妻と共に手堅い舞台を見せてゐる

 

と脇に廻れば重厚な演技振りで主役を支えるバイプレイヤーぶりを遺憾なく発揮していたと評価されています。

 

しかし、劇評はそんな中車を上回る演技をした人物に目明しの権威を笠に着て執拗に小峰をつき狙う山田重右衛門を演じた壽三郎を挙げ

 

壽三郎の目明し重右衛門が、松蔦の芸妓小峰に付纏ふのが、じりじりと粘りがあってよい

 

とその気持ち悪いまでのストーカーぶりが如何にも迫真に迫る演技だったと大絶賛しました。

壽三郎はこの時期大阪では長らく冷飯喰らいが続き東京に来る事が恒例化していましたが、東京ではこの様な新歌舞伎に打ってつけの演技が出来る役者として重宝されており、もし彼が二代目壽三郎の子として生まれず、左團次の一族として生まれていたのであれば、その素質もあってかなり違う役者人生を歩めたのではないかと思ってしまう程です。

この様に左團次の水を得た坂の様な演技と壽三郎の迫真迫る演技も相俟って評判倒れに近い形となった傾城酒呑童子とは異なり、中車の五斗兵衛や松蔦の新朝顔日記を押さえてこの月の目玉演目と言える程の人気演目になったそうです。


罷越路時江戸節

 
大切の罷越路時江戸節は今回新たに書かれた常磐津の舞踊演目になります。
いつもなら舞踊演目は左團次が苦手な為、小團次辺りに投げていたのですがその小團次も前年に亡くなった事を受けて世代交代し左團次の実弟莚升と一座の若女形である芝鶴が担当し蔦吉を莚升、おつるを芝鶴がそれぞれ務めています。
内容としては莚升の獅子舞と芝鶴の芸者が賑やかに踊る物で重苦しい月佳夏夜話の清涼剤的な役目とあっていつもなら劇評は「見ずに帰った」とか平気で書いて来るのですが今回は

 

芝鶴の女太夫と莚升の角兵衛でしっとりとした所作を出してゐる。

 

と僅か1行足らずですがきちんと言及され舞踊馴れしていない2人の出し物としては比較的好意的な評価となりました。

さて、タイトルでも触れた通りこの公演が明治26年の創設以来30年間に渡り久松町の芝居の灯火を守ってきた初代明治座にとって最後の歌舞伎公演となりました。「歌舞伎」と銘打っている通り実際には翌月に志賀廼家一座公演に劇場を貸して公演を行っていてそちらが正真正銘最後の公演となりました。

そして9月1日に発生した関東大震災による火災により明治座も全焼してしまいました。震災後に他の主要劇場が大正14年までには概ね再建される中、明治座は跡地が転用された関係でそのまま使えず移転を求められた事もあり、代用地探しに難航し昭和3年まで再築に時間が掛かりました。

しかし、関東大震災直後に東京の歌舞伎役者の出演場所の確保を求められた松竹は何の閃きだったのか全く縁も所縁もない劇場を明治座に改称して一時的にではありますが明治座を強引に復活させてしまいました。その「幻の明治座」となった劇場の筋書も所有していますので後程紹介したいと思います。

今回は毎度おなじみ雑誌帝劇を紹介したいと思います。

 

帝劇 大正12年第5号

 

前月号はこちら

 

前回から商業誌デビューを果たした事もあり冒頭インタビューの第2弾は岡本綺堂を迎えて前月から話題にしている公演時間短縮問題などについて触れました。

 

岡本綺堂による上演時間問題や演目に関する寄稿文

 

 前に歌舞伎衰退論でインタビューを受けた際にも古典演目と新作の上演に関して持論を述べていた彼は今回の問題に関しても

 

短い時間に遣操って無理に幾種のものを詰め込まうとするのは賛成できない。

 

「春雨傘」にしろ、又は「塩原多助」にしろ、近来のやうな上演の仕方では何うしても面白くないものになってしまふのである。

 

時間短縮のために面白くない芝居を見せられるやうな結果をうみ出しはしまいかと恐れられる

 

と恰も今の歌舞伎座の見取り上演が並ぶ形態を評価しているかと錯覚する様な鋭い指摘が並んでいます。

 

歌舞伎衰退論に関するインタビューはこちらをご覧下さい

 

その上で綺堂は帝国劇場の5月公演について

 

観劇料低減の一環で、五月興行では一日二階興行を試むるといふことが掲げられてあったが、これにも私は至極同感である。これが都合よく実行さるれば、時間短縮と観劇料低減が同時に実現されるわけで、誰でもおそらく異論はあるまいと思はれる。

 

と多少のリップサービス込みと思われる好意的な評価をしていますが今現在上演時間は変わらず観劇料は上昇続きの今の歌舞伎座の有様を見ると「女優劇のみにとどまらず、更に進んで普通興行にも押し及ぼして貰ひたい」という綺堂の希望は果たして正しかったのか?と思ってしまう所が無きにしもあらずな気持ちになります。

 

続いて5月に帝国劇場で短期公演を開くバイオリニストであるクライスラーの紹介文を作曲家・指揮者として当時第一線にいた山田耕筰が寄稿しています。

クライスラーについて簡単に説明すると本名はフリッツ・クライスラーといい、オーストリアのウィーンで産まれ13歳の若さでバイオリニストとしてデビューして神童として持て囃された程の優れた才能の持ち主でした。この当時は1918年に終結した第一次世界大戦に従軍して負傷して活動を停止していた時期もあり回復を待ってヨーロッパで活動を再開し人気も徐々に回復していたタイミングでの初来日となりました。

 

クライスラー来日公演について

 

そんな訳で「まだ見ぬ欧州の売れっ子バイオリニスト」としての知名度の無さもあってか親交のある山田耕筰に白羽の矢を立てて紹介を依頼したとあって彼も

 

クライスラーは当代の名人イザイとともに、人としての生活の洗礼を通して、その最も円熟せる技能の上に、真の生活の歌を唱ひ流し得る、芸術の霊境にまで到達した、完成なる提琴家(バイオリニスト)であるといはなければならない。

 

クライスラーは、また、提琴曲などにもその卓越せる作曲家的楽才を示してゐるように、決して、ただ単なる提琴独演家ではない。嘗て私が、紐育(ニューヨーク)のある宴席で、同氏と親しく膝を交へて、種々ある芸術上の問題を語り合ったときの、その印象から推しても、氏が独自の意見をし言表し得られる程、芸術の総ての面に亘って深い真摯な研究を遂げてゐる楽人であるといふことを言ひ洩らしてはなるまい。

 

と前に来日したジンバリストを「若き秀才」とするなら彼は「完成されたバイオリニスト」だとして技術は折り紙付きだとしてその上で山田がニューヨークで会った際に芸術論を活発に語る等、人格面においても練れており、後進の育成にも熱心だと全面的な賞賛をおこなっています。

 

クライスラーのセットリスト解説

 

また続けて書かれているこのセットリストによると

 

5月1日(火) ヴィヴァルディ:協奏曲ハ長調、ガエターノ・プニャーニ:前奏曲と快速曲、バッハ:ソナタト短調

5月2日(水) ベートーヴェン:クロイツェル・ソナタ第9番、メンデルスゾーン:協奏曲ホ短調

5月3日(木) バッハ:ソナタホ長調、マックス・ブルッフ:協奏曲第1番ト短調、ルイ・クブラン:プ・ラレシューズ、シュヴァート:輪舞曲

5月4日(金) ブラームス:ソナタ第1番「雨の歌」、ヴィオッティ:協奏曲第22番イ短調、バッハ:G線上のアリア

5月5日(土) ベートーヴェン:ソナタ第7番ハ短調、バッハ:シャコンヌ、カール・ゴルトマーク:スラヴ舞曲

 

を演奏する予定であったらしく、クラッシックには疎い私ですが大体1時間前後で終了する様な曲目で構成されており、1日平均7~8曲をみっちり演奏していたジンバリストとは対照的な内容と言えます。

この公演には久邇宮朝融王と秩父宮雍仁親王も観賞に訪れ、朝融王に至っては5日間中4日間も観賞する等大変に気に入ったらしく、雑誌帝劇においてもその様子をこれでもかという位に書き連ねています。

 

この後クライスラーは

神戸(5/7、8)

大阪島公会堂(5/10、11)

名古屋(5/12、13)

京都岡崎公会堂(5/14、16)

横浜ゲーテ座(5/19)

 

を廻り再び帝国劇場でアンコール公演(5/18、20)を行い日本を去って行きました。(その後当時日本であった朝鮮で公演を開きそこで千秋楽を迎え帰国しました)

 

この後彼はドイツに移り音楽活動を続けましたが折しもナチスの台頭により、迫害を恐れた彼はニューヨークに再び拠点を移すなど身辺のゴタゴタも多くその後何度も来日したジンバリストとは対照的に来日はこの1回限りとなりました。

 

女優劇公演のページ

 
話は変わって前月号と今回の表紙で山本専務が表明した様に5月の女優劇公演は昼夜2回で合計の公演時間が8時間とほぼ現在の歌舞伎座の上演方法と変わらない形での上演となりました。(但し午前中にクライスラーのアンコール公演を入った5月18、20日の2日間に関しては1日3公演という過密スケジュールの開催となっています)
 
今回は宗十郎一門と宗之助、松助が残留し、女優達と
 
昼の部
人肉の市
紀国文左大尽舞
 
夜の部 
義民甚兵衛
白狐の湯
夏の日の恋
 
を上演しました。
こちらは初めての試みだっただけに見物や劇評の反応はどうだったかと言うと
 
帝劇の今回の革新的興行法は我々の賛成を吝まざる所以である。
 
と二部制導入については肯定的意見はあるも内容については
 
第一部の「人肉の市」や「紀国屋文左」などは、興味本位といふ意味すら充たしてゐない
 
第二部の新劇も内容が無さ過ぎる
 
と義民甚兵衛の宗十郎や夏の日の恋の女優が僅かに評価されている以外は評価外という何とも辛口な評価となっています。
 
それでも二部制により安価で見れるという謳い文句が功を奏したのか入りについては
 
割れる許りの大入
 
と初日が大入りとなり、以降も安価に観れる事もあって内容の酷評な割に入りは好調をキープし続けられた様です。
 
こうして何とか二部制導入に成功した帝国劇場は今度は本公演でも二部制導入に踏み切る事になります。その様子は6月号で紹介したいと思います。

 

今回は前回に続きパンフレット市村座の紹介になります。

 

パンフレット 市村座 第4号

 

市村座が発行した小冊子パンフレット 市村座の第4号になります。

 

第3号はこちら


月1回での発行であった第二次歌舞伎や雑誌帝劇とは異なりパンフレット市村座は半月ペースでの発行となっており、ページ数が少ないからこそ出来る利点もさる事ながら1ヶ月に2回ペースで出せば売上は兎も角、広告料は2回貰える算段となり厳しい市村座の台所事情が窺える物があります。

 

ただ、月2回ペースの代償として中身は前号よりもスカスカで大道具に続く幕内スタッフ紹介ページは続いているものの、肝心の5月公演に因む掲載は一切無く、幕内の儀式について語る2Pと後は読者投稿が5Pに渡って続く構成となっています。

 
幕内の儀式についての紹介

 
読者投稿ページ

 

その読者投稿ページも2年前の崩壊後から市村座を支え続けている生粋の音羽屋贔屓の為か、単なる菊五郎の賛美はまだ良い方で

 

飽まで市村座の意気を通して下さい

 

と新派を呼んだり新作を度々手掛けて集客を呼び込もうという座の姿勢が迷走していると発破をかける物から

 

明石屋君の光秀を是非見物致し度と存じ一寸役割連名を作成致し候、加藤清正(鯉三郎)、母皐月(菊三郎)、妻操(鬼丸)、羽柴秀吉(菊五郎)、重次郎(男女蔵)、初菊(榮三郎)、武智光秀(友右衛門)

 

と友右衛門の十段目が観たい余り配役表まで書いて送って来る者まで結構圧も強い意見が並び、衰勢著しい市村座に対して歯がゆさとあの頃の栄光をもう1度という熱意が伝わってくるものがあります。

 

正直これだけだと余りに物足らないので最後にここ位でしか書けない「もし震災が無く大正12年以降も市村座が進んで行ったら」というIfを資料を基に書くと初日に中止となってしまった9月公演は

 

・島鵆月白浪

・物草太郎

・伊勢音頭恋寝刃

 

であったのが新聞広告で分かります。この物草太郎というのは天保12年3月に市村座で上演された物草太郎作手管歌当と見られ読者投稿の発破に応えるかの様に新作無しの狂言立てとなっていました。続く10月公演は正式には発表されてはいませんが8月末の新聞記事には

 

市村座は仁左衛門を松竹から借りて忠臣蔵の通しを出す予定。おかるを三段目が榮三郎、五段目を鬼丸、六段目と七段目を菊五郎とおかるを3人で割る配役で交渉が進められている

 

と報じられています。役から見て勘平役者である筈の菊五郎がおかるに廻っている事が解せないですがそうなると仁左衛門は歌舞伎座の配役などから師直と由良之助を兼ねると見られ、漏れなく付いて来る千代之助が力彌、菊五郎はおかるに加えてもう1つの鉄板役である判官辺りを務める予定であったのが何となく察せられます。

11月以降は残念ながら情報はありませんがもし関東大震災が起きずに市村座が続いた場合、この様な感じで年に何回か松竹や帝劇から役者を借りてジリ貧状態ながらも何とか経営を続けて行く状態はそのまま継続していたのは間違いないと見られています。史実では昭和3年にバラック小屋になった市村座を菊五郎を手に入れる為だけに借りてその後アッサリ切り捨てた松竹ももし建物があれば史実よりかは幾分延命した市村座をそのまま建物ごと買収して復興した歌舞伎座と合わせて

 

・歌舞伎座…三衛門他

・明治座…左團次

・新富座…吉右衛門

・市村座…菊五郎

・本郷座…新派その他

 

の様なピラミッド式でそれぞれの持ち劇場を定めてそれぞれ月によってシャッフルさせて経営をしていったのではないかと思われます。そうなると後に作られる新橋演舞場や東京劇場も運命が変わっていた可能性が高く、今も江戸三座の2つが演劇用の劇場かどうかは置いとくとしても何かしらの形で残っていた可能性はあったかも知れません。

 

そうなるとこのパンフレット市村座も月2回発行計算が続くと仮定して大体4~50号辺りまでは出ていた可能性は高く雑誌帝劇が途中で路線変更したのと同じく中身も試行錯誤を繰り返しながら市村座のあれこれを紹介する貴重な内部資料になった可能性が高かっただけに震災により僅か4号で打ち切りになってしまった事は田村成義が三回忌に当たるこの大正12年11月に出版を目論んでいた続々歌舞伎年代記 坤の焼失と共に市村座関連で大変に悔やまれる物があります。

 

最後に少々脱線してしまいましたが、雑誌帝劇ももうすぐ私の所蔵分の紹介が終わりますが一応震災復興後に松竹が出した第二次歌舞伎や大阪の道頓堀は何冊か所蔵していますのでまた時期が来たら紹介したいと思います。

今回は久し振りに観劇の記事になります。


六月大歌舞伎 夜の部 Aプロ観劇


四月大歌舞伎を観劇した時の記事


今月は月初めに体調を崩した為に中々観劇出来ずにいましたが偶々休みが手に入り観劇してきました。


前日に休みが決まった為、席は初めてとなる3階西横になりました



華舞於河賑(俄獅子)


夜の部最初の演目は舞踊の華舞於河賑です。


主な配役


鳶頭…梅玉、歌六、松緑、又五郎、錦之助、獅童

芸者…萬壽、時蔵、米吉、辰之助

鳶…歌昇、萬太郎、種之助、隼人

手古舞…梅枝、種太郎、秀乃介、陽喜、夏幹、小川加奈絵


外題からして既にお察しくださいですが奇しくも4月に見た成駒屋一門による舞踊と対になる形の「小川家だョ!全員集合」状態の舞踊ですが、成駒屋の方は13名(中村、河村家の人間に絞ると11名、養子、芸養子を除く血族に限れば僅か5名)だったのに対してこちらは20名、純粋に小川家の人間だけに絞っても17名(しかもこちらは全員血族)と数の暴力面で圧倒していてしかも成駒屋の世代分布図が


80代…梅玉、魁春、東蔵

70代…梅花、歌女之丞

60代…福助、芝翫、松江

2〜30代…橋之助、福之助、歌之助、莟玉、玉太郎


と明らかに4〜50代の中堅世代が空白で二極化している上に60代以上が半数というバランスが悪いのに対して小川家は


70代…歌六、萬壽、又五郎

60代…錦之助

50代…獅童

30代…米吉、歌昇、種之助、時蔵、萬太郎、隼人

10代…梅枝

10代未満…種太郎、陽喜、夏幹、秀乃介、小川加奈絵


と綺麗にピラミッド型の三角形を形成していて若手の方が多く見ていてもこちらの方が若々しくエネルギッシュに見えてしまいます。


頭が固い歌舞伎好きの人からすれば後半に申し訳程度にやる俄獅子を外題に付けるのはけしからんとか梅玉や松緑、辰之助を今月これだけの為に起用するのは勿体無いとかやるなら昼の部でやれとか色々不満があるとは思いますが、夜の部にしたのは梅枝以下の子供達が出演出来る様にする為なのと、次の盟三五大切が余りに救いの無い話なので子供達の活動制限とバランスを取る観点から見るとここに落ち着くのは理に適っていると言えます。

かつて6月と言えば錦ちゃんこと萬屋錦之助が1971年以降、歌舞伎座で毎年公演を行っていた月であり、若き日の歌六、又五郎、萬壽、錦之助、獅童が出演していた他、最後の公演となった1994年6月公演には初舞台でギリギリ歌昇、萬太郎、時蔵も間に合っており小川家と6月は切っても切れない関係にあります。その錦之助が死去してから約30年を経て5人の子供、孫達が増えて「大スター萬屋錦之助」の看板無しの小川家一門だけで出し物や主要役を独占出来るまでに至ったという経緯を踏まえると歴史的な快挙と言えます。

演目としては評価の対象外ですが世代交代への心配と人気と実力に一抹の不安が残った成駒屋に対してこちらは一族の繁栄と繁殖力が強過ぎる小川ひなのDNAという明るい印象だけが残る芝居でした。


盟三五大切


続いての盟三五大切は変態鬼才四代目鶴屋南北が書き下ろし文政8年9月に中村座で初演された世話物演目になります。


主人公が不破数右衛門である事からも分かる通り仮名手本忠臣蔵の外伝作品であり、南北の代表作である東海道四谷怪談と同じ世界線にありながらも五大力恋緘を綯交ぜするという彼ならではの発想とエキセントリックと残酷な場面が奇妙に同居する南北らしさ全開の作品に仕上がっています。

特に殺る側、殺られる側が実は同じ「正義」の為に動いている点が斬新で本家の仮名手本忠臣蔵でもチラホラ垣間見える忠義の美名の下に行われる無法行為や横暴に対する「忠義の為なら美人局でも殺人でも許されるのか?」という南北の答えとも言える物で、「菊宴月白浪」、「東海道四谷怪談」と共に「南北忠臣蔵三部作」とも言っても良い作品でもあります。


主な配役


薩摩源五兵衛…勘九郎

笹野屋三五郎…松也

芸者小万…七之助

六七八右衛門…歌昇

お先の伊之助…巳之助

芸者菊野…新悟

内びん虎蔵…種之助

出石宅兵衛…精四郎

ごろつき五平…吉之丞

廻し男幸八…宗之助

里親おくろ…吉彌

ごろつき勘九郎…亀蔵

家主弥助…彦三郎

了心…権十郎

富森助右衛門…又五郎

※今回私が見たのはAプロでした


その余りの突飛さと残酷さの余りなか初演以降は歌舞伎では長らく再演されず僅かに大正15年に沢田正二郎率いる新国劇で上演されたのみで歌舞伎での再演は初演から151年後の昭和51年8月の国立劇場であり演目としては実質的に歴史が浅い演目になります。

国立劇場の初演では初代尾上辰之助の源五兵衛、仁左衛門の三五郎、玉三郎の小万で演じて以降、團菊、白鸚等錚々たる面子で演じられていて勘九郎は父勘三郎がコクーン歌舞伎で源五兵衛、三五郎を日替わりで初めて演じた際に六七八右衛門を勤めた事があり、その後三五郎を再びコクーン歌舞伎で演じていますが、歌舞伎座でしかも源五兵衛を演じるのはこれが初役になります。(七之助は前回の2018年に小万を演じている他、松也は六七八右衛門と菊野は経験あり)


そんな世代交代した顔触れでの今回ですが何と言っても勘九郎の薩摩源五兵衛が絶品でした。

顔見せ程度に出た序幕の佃沖新地鼻の場は特に書く事は無いですが深川大和町の場では仇討ちに興味を亡くし女にうつつを抜かす典型的ダメ人間をさらりと演じ、二軒茶屋の場で富森助右衛門に見捨てられ小万に裏切られたのを知り高笑いから闇落ちしてからはアクセル全開となり、五人切りの場では夜の茶屋で音も無く無機質に淡々と人を殺めていくのに対して、四谷鬼横町の場では一転して2人を追跡して警戒を解かせてから毒殺する為にわざと現れて偽りの和解をする狡猾さを見せますがここで現代でよくあるストーカー殺人みたいな小万への未練は見せずに只々執拗に殺しに来る言わばジェイソンみたいな不気味さで見せているのが実に不気味な心地良さがあります。

その後の小万と赤子殺しでは「助ける」と言って油断させてからの小万を嫐り腕の「三五大切」を見て怒りを爆発させて刀で削るわ、母親の手で赤子を殺させるといった残酷さを淡々とやってのけ「鬼だ」と言う小万に対して「そうだ、鬼だ」とあざ笑う場面は機械的に掛けてる様な大向うを除いて見物からは声一つ、鼾一つも聞こえず見物を集中させる程の演技力でやり通したのは流石でした。

切の愛染院門前の場では登場人物小万の生首を持ち雨に濡れての述懐や生首の隣で茶漬けを食べ生首に食べさせる猟奇的な場面には客席から軽い悲鳴が上がる程でしたがここからはやや落ちついた演技でしたが憎き三五郎の切腹まで見届けてから白々しく義士の仲間に入る様は8人も殺害した人間とは思えない偽善ぶりが素晴らしく4時間に及ぶ長丁場を息もつかせぬ緊張感に満ちた薩摩源五兵衛を完璧に演じました。

彼の今まで見た役の中でもかなり異色な役ですが、これを見事に演じきれたのは彼の技倆の深化と言えます。


続いて松也の三五郎ですがSNSでは日替わりで声が疲れているなんて投稿もありましたが私が見た分には演技に支障を来す程には感じず、彼に関しては深川大和町の場と二軒茶屋の場での強請が秀逸で示し合わせた一味と宥め透かしての源五兵衛から金を誘い出す手練手管が勘九郎との呼吸が合ってこの演目の喜劇パートと物語の転換部分を上手く担っていて素晴らしく、また彦三郎の家主弥助との幽霊件の場も面白可笑しく演じておりシリアスな場面よりも喜劇の部分での貢献が大きかったです。

無論、シリアスがダメだったという訳ではなく、自身の親孝行が皮肉にも父親の足を引っ張っていたという皮肉な展開も良く、もどりの芝居も悪くは無いですが如何せん勘九郎の凄まじさに若干食われ気味な感は否めませんでした。

彼の薩摩源五兵衛がどんな風に仕立てて来るのかは期待出来るのでBパートの日に休みが取れれば観に行きたいと思っています。


面白いで言うと彦三郎と騙しの一味で出た亀蔵が実に惚けた良い味を出していて彼らが笑わせてくれる事で後に控える悲惨な殺しの場面のメリハリが付く大事な役である為、その重役を敢えて自分の中村屋一門を出さずに世話に強い音羽屋一門に任せた事が功を奏したと言えます。


閑話休題、2回目となる七之助の小万ですが彼に関しては妲己の小万を名乗り遊女をしている前半よりも惨たらしく殺される後半に光る物があり、四谷鬼横町の場の出からすっかり世話女房染みた姿や台詞廻しで登場し、前半であれだけ色香で源五兵衛を翻弄していた人間が逆に彼に怯え彼の一挙手一投足に翻弄された挙句に兄や子供を殺され終いには自身すらも無残に惨殺されてしまう様は、皮肉で因果応報でありながらも思わず同情してしまいそうになる位で、それだけ七之助のヤラレぶり、プロレスで例えるならセル(ダメージ表現)の演技の良さで勘九郎を上手く引き立てています。


上記主役3名以外に良かったのは一途にダメな主君を支え、最後は主君を守る為に冤罪まで被る六七八右衛門の歌昇とおじの富森助右衛門の又五郎で、彼ら善人2人が源五兵衛の為に(六七八右衛門は喜劇パートも含めて)頑張れば頑張る程、彼らの期待を裏切り失望させた上に闇堕ちした源五兵衛の非道さが際立つ為、亀蔵や彦三郎とは別のベクトルで芝居に貢献していました。


了心の権十郎とおくろの吉彌は出番は少ないですが印象に残る儲け役。

新悟、精四郎、種之助、宗之助の茶屋の一味は出番は僅かなのに実に贅沢な配役でした。

巳之助のお先の伊之助は本当に只出てきただけなので評価出来ませんが巳之助の起用としては贅沢を通り越して勿体無い限りでこれだけは今回唯一いただけない点でした。彼は三五郎を演じれる候補でもあるので次回辺りには三五郎で観てみたいです。


とは言え、総じて見れば勘九郎の素晴らしさに只々圧倒されるだけの3時間であり、1階席で観ても十分お釣りが来る演目でした。

正味の話、今月の昼の部や来月の歌舞伎座を観るよりかはこちらを観るのをお勧めしたくなる位であり、歌舞伎好きでグロ耐性がある方であれば万難を排して観に行くべき一品と言えます。