今回は凄く久しぶりに角座の番付を紹介したいと思います。
大正12年7月 角座
演目:
一、岩見武勇伝
二、鰻谷
三、切支丹屋敷
四、大石東下り
五、生写朝顔日記
六、はねつき禿
七、賤機帯
前回紹介した番付
前回紹介した時から実に6年ぶりの紹介となる角座ですが流石に18年分の前振り紹介は長くなるので割愛しますが参考までにこの頃の角座の立ち位置だけ簡単に紹介したいと思います。
明治44年に松竹に買収された角座ですが、既に当時の座頭であった十一代目仁左衛門が東京へと活動の拠点を移して以降、振るわなくなり買収前から大阪における新派や浪花節の劇場として用途が多い劇場となっていました。買収後もその姿勢は変わらず買収以降の角座の歌舞伎の公演数を見て見ると
明治44年:2公演
明治45年/大正元年:2公演
大正2年:1公演
大正3年:2公演
大正4年:3公演
大正5年:1公演
大正6年:なし
大正7年:なし
大正8年:なし
大正9年:2公演
大正10年:なし
大正11年:3公演
大正12年:3公演
と1年中歌舞伎を上演しない年もある上に掛けたとしても多くて年に3回しか掛からず、大正9年、11年の公演は東京から下阪した四代目澤村源之助(大正9年)や尾上紋三郎と河原崎権十郎(大正11年)の公演と上方役者は全く出演しておらず純然たる上方役者が角座に出演したのは大正4年7月公演が最後と実に8年ほど上方歌舞伎の公演が無い状態が続いていました。
大正11年の概況についてはこちらもご覧下さい
そんな角座に久しぶりに歌舞伎の公演として足を踏み入れたのが四代目片岡我童であり、5月に一座と卯三郎、嘉七、紫香等を率いて10年ぶりとなる出演を果たすとそのまま6月、7月と3ヶ月連続で公演を開き叔父の得意とする沼津や家の芸である馬切などを演じて鴈治郎一色の道頓堀で一人気焔を吐いていました。
今回紹介する番付は月の前半部分に当たる7/1~7/15の公演に該当します。
昼の部の最初に上演された実説岩見武勇伝は講談の岩見重太郎を元ネタに作られた時代物の演目になります。
講談好きな人は兎も角、岩見重太郎と聞いても歌舞伎好きの人にはピンとこない人が多いかと思いますが、講談の世界では彼は薄田兼相と同一人物であり、薄田は徳川家康が豊臣氏を滅ぼした大坂の陣で豊臣方で活躍した武将に当たります。江戸時代には講談で人気演目となった故に何度か歌舞伎にも輸入されましたが専ら小芝居での上演が殆どで大歌舞伎では万延元年に守田座で復讐天橋立の外題で上演されたのと明治19年1月に講談岩見武勇伝の外題で春木座で上演された位でしたが、3年前に歌舞伎座で尾上眞秀の初舞台で上演された音菊眞秀若武者が記憶に新しい方も多いかと思います。
内容としては岩見が狒々や山賊を相手に豪快に剣を振って退治をしたり剣客赤星主膳や塙直之等の協力を得て父や兄の仇である広見軍蔵を討ち取り薄田兼相と改名するという仇討ち物の話ですが今回上演されたのは講談テイストの物ではなく「実録」と銘打っている事からも分かる様に内容も仇討の部分にだけ絞って役名も一部史実に則った物となっています。
今回は7月に入り病気で体調を崩して休演した卯三郎の代わりに加入した吉三郎が若き日に当てて以降十八番にしていた演目であり、岩見重太郎を吉三郎、赤星主膳を喜久太郎、村松平左衛門を卯十郎、伊藤亘を我運童、一松を愛之助、塙直之を我童がそれぞれ務めています。
さて、吉三郎と言えば前にちらっと紹介した通りかつてはこの岩見重太郎という当たり演目を引っ提げて自分の一座を率いる位の腕は有りながらも鴈治郎の天下である道頓堀では活躍の機会に恵まれずこの頃は延若や我童、右團次の相方やら敵役やらなどで使われる「便利屋」的側面が目立っていた人ですが珍しく立役での出し物と言う事で
「重太郎に吉三郎が扮して勇ましい處で看客を喜ばしてゐる」
と芸格は兎も角、肩肘張らぬ大立廻りで見物を喜ばせていたらしくその辺は素直に評価されています。
また劇評は若手の中で卯三郎の養子であった喜久太郎についても取り上げ
「喜久太郎が赤星主膳で岩見重太郎の阿呆十との例の「蟇目」の問答などかあって見た眼の舞台を賑やかした」
と蟇目が何を指しているのかが不明ですが見物受けが良かった事を評価しています。
喜久太郎についてはこちらもご覧ください
残念ながら我童の伴直之等については触れられておらず今一つ演目の全容が分かりませんが、見物受け自体は良かったらしく一番目としてまずまずの滑り出しだった様です。
この義直は大正11年1月の天満八千代座で初舞台を踏んだばかりであり、既に13歳と声変わりにより子役を脱しつつあった兄一に代わり親の舞台で子役で出ていました。それだけにこの高評価は初舞台から1年半余りの彼にとっては予想外の高評価でしたが、名子役が必ずしも名優になれるとは限らないのが世の常でこの後も親の庇護の下で10代を過ごし青年歌舞伎と言った外部交流も経ぬまま成長し昭和15年に当時父親がよく共演していた市村羽左衛門に望まれて養子となり二代目市村又三郎を襲名、名題昇進したまでは良かったのですが年齢が20代とあって昭和14年と16年に召集されて兵役に従事中の昭和20年に養父が急逝し、更に日本に戻ってきた直後の昭和21年に実父の横死と後ろ盾を次々失い昭和27年には義兄十六代目までもが早世した事で34歳で完全に劇界の孤児になってしまい、実家の兄は独自の路線で女形として活躍するも没交渉、弟芦燕は当然頼りにならず羽左衛門の名跡も七代目坂東彦三郎に奪われてしまい、市村吉五郎なんていうお誂えの名跡を与えられてからは完全に埋没してしまうという悲運に見舞われる事になります。
やや年上ながらも初舞台はほぼ同じの二代目又五郎や七代目梅幸が歴史に名を残したのに比べるのは酷ですが、昭和9年に初舞台を踏み親の横死の時に28歳と芸が未熟の状態で孤児になってしまった弟芦燕と比べれば大名跡である羽左衛門家の養子になっているという点で待遇は恵まれていた方であり、矢張り一番大切な10代から20代を親の庇護の下で切磋琢磨せず育ってしまったのが彼の一生を決めてしまった部分があったのが否めない物があります。今の歌舞伎役者の子供たちの舞台を恰も天才子役の様に褒め称える人は多いですがそれがその子の為になるのか?というのを考えると如何な物かと感じます。
話が脱線しましたがこの様に主演の我童の低評価がそのまま舞台の評価だったのか愛之助や吉三郎に関しては特に言及もなく、何がともあれ盛り上がった一番目に比べても評価はあまり高くなかったのが分かります。
この鰻谷で昼の部は乄となり次から夜の部へと入ります。
と若手の芝居だからか見ておらずどの様な評価だったのかは不明となっています。
続いて上演された大石東下りはこれまた講談の話を歌舞伎化した時代物の演目に当たります。
こちらは岩見重太郎と同じく吉三郎の演し物であり、仇討ちの為に祇園での偽装隠遁生活を終えて大石内蔵助が江戸へ下る途中、島田の旅籠で予め偽装工作で用意した立花左近(講談だと垣見五郎兵衛)の名で宿泊した所、そこに運悪く本物の立花左近も宿泊しており、旅籠内で真贋を争う羽目になり、ここで偽者だとバレたら折角の仇討ちが水の泡になってしまう大石内蔵助が立花左近にだけ分かる様に自分の正体を明かして立花も大石内蔵助の真意を悟って自分が偽者だと嘘の告白をして事を納め、大石一行の手助けするという話の筋になっています。
最近だと新橋演舞場でなんちゃって忠臣蔵を演った某一座が垣見五郎兵衛(立花左近)を加古川本蔵に変更して金谷宿の本陣と称して上演したので見たと記憶に新しい方も多いかと思われます。
今回は立花左近実は大石内蔵助を吉三郎、大石主税を紫香、武林隆重を當之助、山田磯平を吉郎、立花左近を我童がそれぞれ務めています。
身分を偽る偽者を問い詰めるも偽者が大義の為に白を切る様は宛ら勧進帳を彷彿させる物がありますが劇評もそれを踏まえか
「この芝居は大石内蔵助の貫禄で引立つ、只これだけであるが嵐吉にそれが足らない」
と勧進帳なら弁慶に相当する吉三郎の貫禄不足故に演目全体が物足りない物になっていると厳しく批判しています。
吉三郎の大石内蔵助、我童の立花左近
一方で勧進帳では富樫に相当する立花左近を演じた我童は
「我童の立花左近はよくしてゐる」
と流石に一座を率いる座頭だけあって吉三郎と比べると格の違いを見せたらしくこちらは評価されました。
劇評には他の役者の評は書かれていませんので額面通り受け取れば吉三郎が物足りなさがそのまま演目のクオリティに直結したらしく、あまり出来は良くなかった様です。
この様に煮え切らない演目が続いた夜の部でしたが次は我童の十八番物と言える生写朝顔日記です。
帝国劇場で上演した時の筋書はこちら
今回も我童が朝顔実は深雪を務めた他、駒澤次郎左衛門実は阿曽次郎を吉三郎、岩代多喜太を飛鶴、徳右衛門を嘉七がそれぞれ務めています。
こちらは叔父の当たり役ではなく自身の当たり役とあってか鰻谷では辛辣だった劇評も
「我童に極め付の付いてある出し物、宿屋から大井川までで宿屋の方がよくしてゐる」
と彼の深雪の演技には賛辞を送っています。
そしてこちらでは阿曽次郎を演じた吉三郎も
「阿曽次郎は嵐吉、岩代が飛鶴で一通り」
と高評価には至りませんでしたが貫禄不足と言われた大石東下りよりかはマシな評価となっていました。
劇評の言及はこれだけですがここにきて我童もようやく評価されており、昼の部よりかは夜の部の方は総じて評価が高ったのが分かります。
はねつき禿
と一のはねつき禿は評価していますが、粂三郎の賤機帯は華が無いと容赦なく酷評しました。
これはIfになりますが切支丹屋敷を観なかった理由の1つは劇評が粂三郎をこの様に華が無い役者だと判断して観なかった可能性も考えられます。彼は以前に浪花座に来た時の筋書も紹介しましたが市村座にいた事もあってそれ相応にこなせる腕はあるのですがどうにも腕より華があるのを好む上方での評価は低い傾向にあり、今回もその部分が足を引っ張ったのではないかと見られます。
この様に折角生写朝顔日記で盛り上げたものの、切の舞踊は今一つだった様で終わり良ければ全て良しと言う風にはなりませんでした。
冒頭にも書いた通りこの後2日間の休みを挟んで7月18日から27日まで二の替りとなり、
・堀部安兵衛の伝
・国訛嫩笈摺
・絵本太功記
・濡小袖月暈
を上演しました。
そんな大車輪の我童一座ですが、二の替り含めて入りなどの詳しい情報は書れておらず詳細は不明となっています。
というのもそもそもこの月は客枯れする7月と言う事に加えてこの前惜しまれて閉館した大阪松竹座が5月に完成したばかりで東京で飼い殺し状態であった二代目市川猿之助一門が乗り込み春秋座公演を開いていた事もあって大阪人の注目の的である大阪松竹座の劇評は出しても角座の劇評は出さない新聞もある事から元からあまり注目度は高くなかったそうです。
こんな飼い殺し状態が続く我童でしたがこの後彼は明確な記録にはありませんがどうも夏巡業に出たらしく帰阪後の9月に起きた関東大震災により東京から多くの役者が来阪し少しは待遇が変わる…かと思いきや、そんな事は余り無く相変らず微妙な日々を過ごす事になります。この後次に彼が出演する南座の番付は所有していますのでまた紹介したいと思います。




































































































