今回は南座の筋書と番付を紹介したいと思います。
大正12年11月 南座
演目:
一、増補信長記
二、壇浦兜軍記
三、今様薩摩歌
四、双面水照月
鴈治郎一座が出演した6月公演の筋書
鴈治郎と仁左衛門の歴史的共演に大賑わいの道頓堀の活況を他所に京都では震災から逃れた左團次一座の生活再建の為の公演が開かれていました。左團次は自宅こそ焼失したものの、素早い状況判断で震災直後からいち早く避難を始めた事もあって家族共々無事であり、他にも帝国劇場に出演予定だった壽美蔵も何故か高田馬場を歩いていた為に無事と比較的運に恵まれた人が多く、一座そのものは無事でした。そんな中左團次は当分は芝居どころじゃないという考えだったらしく白井松次郎から大阪で公演をしないかという誘いがあったのを断ったそうですが10月2日に改めて京都で芝居をしないかという話が来た事で一座の人間の生活再建もあってかそれを承諾し京都南座に出演が決まりました。
そして10月21日にまだ東海道本線が復旧していなかった事から東北本線・信越本線・北陸本線経由という長丁場の移動を経て京都に23日に到着しました。南座と左團次と言うと一見そこまで関係が深い様には見えませんが大分以前に触れた興行改革に失敗して失意の内に演劇革新運動にのめり込み明治41年6月に初めて出演して以降、大正5年、8年、11年と3年おきではありますが定期的に南座へと出演しており、それだけに何かと辛辣な京都人も
「左團次が一年後の南座に避難劇の第一声を挙げたと云ふので翕然として同情が集まり」
と震災後最初の公演地に南座を選んだ左團次に対して好意的な対応を示していた事が分かります。
さて座組に関しては一座に7月で孤軍奮闘していた角座での公演も終わり、かと言って叔父仁左衛門のいる中座にも、東京から猿之助一座が来た事でいつもなら出ていてもおかしくない浪花座にも出演が叶わず持て余していた片岡我童一座が加わる形となり演目の方も震災により東京の衣装、小道具、鬘等、脚本の一式がほぼ全て焼失してしまった影響もあるのか、演目は我童の演し物である壇浦兜軍記や新歌舞伎故に小道具等にそれ程用意が掛からない今様薩摩歌、7月の巡業で出したばかりで体で覚えていた増補信長記といった演目が並ぶ避難劇ならではの珍しい狂言立てとなりました。
一番目の増補信長記は左團次のブレーンである岡本綺堂が大正4年に書き下ろし、大正7年3月の中座で初演された新歌舞伎の演目になります。
こちらは資料として現存する同名の増補信長記とは全くの無関係で小瀬甫庵の書いた信長記を元に比叡山焼討に焦点を当てて積年の恨みから比叡山を焼き討ちして満足な信長や焼き討ち回避に奔走する僧侶や貴族達、明智光秀が焼き討ちに反対して信長の不興を買った俗説等を膨らませた戦国時代の人間模様を描いています。7月の巡業で出していたとはいえ、何故数ある左團次の新歌舞伎の中からこの演目を選んだかと言うとこちらはまんま舞台が京都と言う事もあり一種の御当地演目的な側面もあった模様です。
今回は織田信長を左團次、善住坊を壽美蔵、森蘭丸を莚升、堀尾茂助を荒次郎、法達を長十郎、六右衛門を左升、お松を芝鶴、明智光秀を壽三郎がそれぞれ務めています。
幾ら7月の巡業で出したばかりとは言え、僅か5回しか演じていないこちらの演目でしたが劇評の評価はと言うと左團次の信長については
「数度の舞台で十分手に入った役柄、左團次の芸風が癇癖で押し通した自我の強い信長」
と戦前の信長像そのものである破壊神キャラを力強い演技力で演じきっていると高く評価されました。
しかし、対する比叡山側の僧侶である善住坊を演じた壽美蔵の出来が今一つ良くなかったらしく
「約まり大詰…では善住坊の働きがモウ一つ強烈でない為に場面全体に深刻な味が出ない」
「今少し劇的刺激…唯山上の火焔を望んだだけでは喰ひ足らぬ気がする」
と折角の左團次の好演の足を引っ張ってしまっていると批判されています。
また、史実では無い俗説とは言え比叡山焼き討ちに反対して信長に頭を打たれるという場面を入れた光秀に関しても
「今少し信長の将来を痛切に暗示させる働きがあって欲しい。」
と折角後の本能寺の変の原因に繋がりそうな場面を入れたにも関わらずその後大詰まで特に何も無いのは味気なさ過ぎると作自体に苦言を呈しています。この様に脇の役者の不甲斐無さ故にやや左團次の一人芝居の様相を呈していた部分も無きにしもあらずな状態だった様ですがその左團次の信長の良さもあり、無難な出来に落ち着いたそうです。
余談ですが作者の岡本綺堂は震災で書いていた原稿や取材ノート諸共自宅と共に焼失してしまい失意のどん底にあった時に左團次がこの演目を出すと聞いて
「自分の物もまたま何か残ってゐると云ふやうな一種の心強さを感じました。わたしの作で震災後はじめて上演された物といふだけでも、自分としては記念になるやうに思はれます。」(第二次歌舞伎 昭和4年3月号より抜粋)
とこの時の上演が精神的に物凄い励みになったと記しています。
その意味では評価は兎も角として岡本綺堂にとっては忘れられない演目となったそうです。
続いて中幕の壇浦兜軍記は我童の十八番である時代物の演目になります。
新富座の筋書はこちら
今回は傾城阿古屋を我童、秩父重忠を壽三郎、岩永宗連を鶴蔵、榛沢成清を左團次がそれぞれ務めています。これまで度々上演しては我童に冷たい東京の劇評家達もこれには惜しみない絶賛を送ってきた我童の十八番中の十八番ですが、京都の劇評にはどういう風に見たかと言うと
「ビールと一緒に味醂を飲んで居る様な格好」
と一見すると何を言っているのか分からない評価を述べていますが戦前は味醂は「甘い酒」として飲用されていた事があり、苦いビールと割って飲むと「死ぬ程不味い」そうなのでつまる所、かなりの酷評をしています。そしてその理由として
「舞台も以前出した時と違って極古風に三曲の間弟子達をズラリ舞台に並べたり何処迄も松嶋屋式の大気取り」
と自分の弟子を舞台一杯に並べる様が田舎芝居臭く感じたらしくそんな中いけしゃあしゃあと三曲を弾く我童が気に入らなかった様です。
そしてこれも我童の拘りだったのか壽三郎の秩父重忠と鶴蔵の岩永宗連の2人も人形式で演じていたらしく
「壽三郎の重忠生締めの羅紗張りのお誂えを文楽で行った為め歌舞伎に見馴れた見物は躄の上野と間違ひさうだった」
と壽三郎は箱根霊験躄仇討の滝口上野に見えてしまうと微妙な評価だったものの、鶴蔵については
「鶴蔵の岩永之れは全然文楽になり切って恐らく一人舞台を負ふてゐた格好であった。」
と唯一人素晴らしかったと絶賛されました。
我童の阿古屋、壽三郎の秩父重忠、鶴蔵の岩永宗連
この様に劇評の我童に対する反感が若干入っている気がしなくも無いですが東京の絶賛状態の様には行きませんでした。
この様に微妙な評価の演目が続く中で二番目に上演された今様薩摩歌は杏花十種に入る岡本綺堂が書いた新歌舞伎の演目になります。
初演した新富座の筋書はこちら
今回は菱川源五兵衛を左團次、おまんを松蔦、笹野三五兵衛を壽美蔵、千草屋次右衛門を左升、千草屋女房おあきを左喜之助、千草屋手代茂三郎を莚升、富士屋後家おきたを我童、笹野杉斎を鶴蔵がそれぞれ務めています。
こちらは大正9年初演とあってこの時でまだ4回と増補信長記よりも上演回数は少ない準新作に近い演目でしたが劇評は増補信長記の信長と比較した上で
「信長記より薩摩歌の方が遥かに上乗のものであると云ふ事は云へる」
「生一本に猛進する薩摩人の強烈な性格が溢れて大詰めで三五兵衛を手にかけ何処迄も我物にした積りのおまんに死なれて自失した無我の儘に自刃する刹那月を見上げてニッコリ凄婉な笑を漏らす…。」
とある意味信長と似た様な自我の強い役柄でありながらも片や覇道を行く独裁者、片や惚れた女目当てに何処までも執拗に迫り人を殺め、愛した女にまで死なれ狂気の儘に自分の命さえ笑って絶ってしまうサイコパスな人間と見事に演じ分けて信長より数段上を行っていると大絶賛しています。
そして劇評は続けて一番目では左團次の足を引っ張っていると酷評した壽美蔵についても
「壽美蔵の三五兵衛も矢張り隼人風の一途な強い性格を出して立廻り抔は他に見ぬ写実な行き方で見物を満足せしめてゐる」
とこちらでは見事挽回して高評価を受け、これまで一切評価が無かったおまんを演じた松蔦もここに来て初めて言及され
「松蔦のおまんは又夫れにしても可憐に情艶な舞台を見せ千種屋二階から脱出する場面抔は全くいゝ」
と狂気じみた源五兵衛によって人生を狂わされてしまう哀れな女を見事に演じれているとこちらも高評価でした。
今回は吉田松若丸を莚升、おくみを松蔦、勘次を鶴蔵、おくみを芝鶴がそれぞれ務めています。
濃厚な今様薩摩歌の後、しかも左團次も出ない舞踊物だけに劇評もシカト…と思いきや舞踊を習う芸妓を抱える祇園を持つ京都という土地柄故にかしっかり無視されず観劇されており、
「法界坊で松尾太夫一派の常磐津が鶴蔵の勘蔵、芝鶴のおくみ莚升のおます抔を躍動せしめ頗るハンナリ(優美)打出す狂言の排列が整頓してゐるのは嬉しい」
と柔らかみのある喜劇を演じる3人と緊張感溢れる今様薩摩歌の後に出す締めの演目に選んだ劇場側のセンスを高く評価しました。
舞踊が不得意な左團次一座の舞踊でここまで評価されるのは相当珍しく、その背景にはこれまで南座で出す舞踊演目が役者の得意な物から選ぶが故の二番目とのミスマッチがあったのを匂わせていてなまじ舞踊が苦手なだけに役者の好き嫌い無しに二番目の後に出すのに合った舞踊を選べたという背景があった様です。
この様に前半は低調でしたが後半に入ってから盛り返した形となりましたが入りの方はどうだったかと言うと
「三十一日の初日は天長祝日(大正天皇の誕生日は8月31日ですが諸事情で休みは10月31日に設定されていた為)の大紋日もあったが爪の立たない大入満員で開場前から既に入場を止めた」
と初日から大入満員を迎えており、3日までの4日間は一般客だけで満員状態でその後も近畿地方からの総見も相次いだ事で10日過ぎまで11日間連続大入満員と顔見世以外の公演としては異例の記録となったそうです。
盛況の内に14日に南座公演を終えた左團次一座はそのまま我童を引き連れて11月後半は東海、中国、九州巡業、12月15日から21日まで御園座へ出演して大正12年一杯を過ごす事となりましたが、左團次はどうにもこの巡業が周囲の「今度の震災で焼け出されたのね。」という憐み等を感じて嫌だったらしく大谷竹次郎から「(麻布)南座で良いなら演らないか?」と知らせを受けると「どんな小屋でもタダでも構わない」と気持ちになり喜び勇んで承諾し他の役者が東京を離れる中一番早く東京へと舞い戻り大正13年1月を東京で迎える事になります。その左團次が1月に出演した劇場の筋書は所有していますので次の南座の顔見世公演の後に紹介したいと思います。























































































