明治45年2月 新富座 伊賀越道中双六の岡崎 | 栢莚の徒然なるままに

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今回は再び新富座の筋書を紹介したいと思います。

 

明治45年2月 新富座

 

 

演目:

一、伊賀越
二、どんどろ
三、夕霧伊左衛門
四、荒波男

 

今回の主な配役一覧   

伊賀越

唐木政右衛門…鴈治郎

山田幸兵衛…梅玉

お袖…鴈童

お谷…成太郎

およし…珊瑚郎

和田志津馬…福助

        
どんどろ

お弓…梅玉

おつる…扇雀

尼妙林…成太郎

       
夕霧伊左衛門

藤屋伊左衛門…鴈治郎

お順…梅玉

おふく・お雪…成太郎

小栗軍兵衛…箱登羅

松山清蔵…延二郎

        
荒波男

源義経…成太郎

政吉…福助     

武蔵坊弁慶・知盛の亡霊・源氏車光次…延二郎

 

 

初代中村鴈治郎が松竹の傘下になった新富座に初めて出演したのは前に紹介した帝国劇場の杮落し公演の直後の明治44年5月の事でした。それまでは田村成義を始めとする東京の劇界を無暗に刺激する事を控えて出演をさせていなかった鴈治郎ですがこの公演をきっかけに新富座が焼失する大正12年まで大正3年を除いて毎年1~2回基本的に2~3月or11月に定期的に新富座の舞台に出演する事になります。

本来であれば鴈治郎ほどの大物であれば松竹が歌舞伎座を買収した大正2年以降は歌舞伎座に出演してもおかしくは無いのですが、歌舞伎座には座頭として歌右衛門襲名問題を巡って当時険悪な関係となっていた歌右衛門がいた為に余計なトラブルを起こすのを防ぐのと基本的に鴈治郎は自身の一座の大所帯を率いての出演となる為に座組の関係上、売れっ子の両者が一座するよりかは別々の舞台に出演させた方が望ましいという松竹側の思惑があったのではないかと思われます。

余談ですが鴈治郎が大正時代に歌舞伎座に初めて出演したのは大正6年で、新富座が関東大震災で焼失した後は歌舞伎座の舞台に出演するようになりました。

 

岡崎

 

それはさておき、明治44年の初出演時には玩辞楼十二曲の一つで十八番の心中天網島を演じて万座を唸らせた鴈治郎ですが、今回も得意役である伊賀越道中双六から藤川新関と岡崎の段を上演しました。

岡崎の段は唐木政右衛門と和田志津馬が敵である河合股五郎の行方を探る為に政右衛門の剣の師匠山田幸兵衛の家を訪れそこで巻き起こる残酷な悲劇を描いた演目です。

今では伊賀越道中双六=沼津と言って元で過言ではないほど沼津の段の六段目ばかり上演されていて、この藤川新関と岡崎の八段目は戦後には

 

・1952年

・1970年

・2014年

・2017年

 

75年で僅か4回しか上演されていない幻の演目で2014年の上演に際しては「44年ぶりの復活上演」と謳われるほど演じられない事で有名になるような演目でした。

歌舞伎の世界では絵本太功記の十段目や芦屋道満大内鑑の四段目(葛の葉)など往々にしてある演目の見取りで一部分しか上演されない演目が数多くありますが、復活狂言に名作なしとか宣う半可通のN川は無視してこの岡崎の段は戦後は上記の様にあまり演じられませんが私が筋書を持っている公演でも大正2年4月の歌舞伎座、昭和14年11月の東京劇場などがあるなど戦前はこの様にしばしば演じられる演目でした。演じられなくなった理由としては単体で上演できる沼津に比べて岡崎の段が単体だと意味が分かりにくく前の藤川新関や序段の和田行家屋敷をセットで上演しなければならない事、そして何よりも頼まれた仇討を果たす為に離婚した妻を見捨て我が子さえ殺めるという極限の心理状態を演じなければならない難しい役どころである政右衛門を演じられるだけの役者がいなくなったのが最大の原因で唐木政右衛門を得意役とした初代中村吉右衛門が昭和29年に亡くなるとパタッと上演が絶えるのもその表れだと思われます。今日上演されない演目全てが名作でないという事は決してありません。

 

鴈治郎の唐木政右衛門

 

この時は上記の様に政右衛門を鴈治郎が、幸兵衛を梅玉がそれぞれ務めています。

劇評では

 

「(鴈治郎の欠点は)熱が無く、観客の眼色を見ながら芝居の手順を陳列している気色ある事」(岡鬼太郎)と何処かいつもと違う東京の見物の反応を手探りしていたのかはたまた沼津と違い世話物要素が無い時代物である岡崎について見物の反応を見ていたのか大車輪な演技で有名な鴈治郎が珍しく冷静に演じてたそうですが、一方で演目のハイライトとなる子殺しについては「(殺した後の)泣笑いの技巧は流石」と称賛されています。

それに対して梅玉の幸兵衛は穏健な芸風が災いしてか「武芸の達人とは受け取り難かった」とあまり評価は芳しくありませんでした。

 

その他何かと主役を差し置いて目立ちたがる悪い癖があるお谷の成太郎は意外にも「悪くジタバタせずに締めて神妙にしているは感心。」と大人しく演じていたり志津馬の福助も関所での立ち廻りを含めて珍しい若衆役を好演しています。

 

夕霧伊左衛門

 

続く夕霧伊左衛門は一応新作となっていますが実際は鴈治郎が玩辞楼十二曲に入れた当たり役の廓文章を下敷きにして小説家・渡辺霞亭が夕霧の話などの脇筋を盛り込んで補綴した鴈治郎版廓文章と言っても良い作品です。夕霧を抱えていた扇屋が生家である鴈治郎は明治38年1月にこの夕霧伊左衛門で初役の伊左衛門を演じていて今回は3度目の伊左衛門になります。もっとも彼は廓文章の方でも明治31年6月に伊左衛門を初演して以来、伊左衛門を9回、夕霧を4回の都合13回も演じている上に上述の様に生家の関係もあり幼い頃から遊郭を生で見ていた事も相まって完璧に色男の役を物にしており、「天晴れの和事役者」と文句のつけようのない出来栄えだったそうです。

そして夕霧にはこの頃から女房役となった福助を起用していています。この時はまだ2回目でしたが劇評でも既に廓文章で夕霧を務めている事からも「品位はともかく色っぽい」と評価された芝居運びで演じていてこの後も鴈治郎が亡くなるまで持ち役としてこの役を演じ続けました。(もっとお彼は梅玉芸談の中で「誠につまらない役」とばっさり切り捨てていますが…)

 

大阪で演じた時の鴈治郎の藤屋伊左衛門

 

最後の荒波男は若手3人による演目で鴈治郎流のこってりした芝居に対して早変わりあり、立ち廻りありの清涼剤も兼ねたアグレッシブな演目だったらしく劇評にも「賑やかなる打ち出しは大阪俳優の大手柄というべし。」と評価されています。

この様に上方歌舞伎勢のオールスター投入もあってか当時低迷を続けていた歌舞伎座とは対照的に非常に人気を呼び大入りだったそうです。


最後に余談ですが、この筋書は当時にしてみるとかなり手の込んだ斬新な筋書でした。

①写真入り

大正に入って漸く役者の顔写真が載る様になった筋書ですが今回は伊左衛門の墓や夕霧の直筆の書状の写真などが掲載されている豪華仕様となっています。

 

伊左衛門の墓の写真

 

②筋書と番付が一つになる

今では当たり前すぎてピンときませんが明治時代は筋書と番付が別々に売られていました。

既に帝国劇場では一つになって売られていましたがそれは新劇場だからこそできた事であり、利権やしがらみがある旧来からある劇場で初めて踏み切ったのはこの新富座が初めてであり、松竹が2つであったものを1つにする=売り上げが減るのを覚悟の上で観客にとって便利なこのスタイルに踏み切った事で歌舞伎座買収後にこの形がスタンダードになりました。

 

③表紙も変わる

今まで出演している看板役者の姿と演目をセットに表紙にするのが一般的でしたが、松竹は敢えてこれを破り中々お洒落な表紙にしました。

この後大正時代には演目を表紙に乗せるのは残りましたが、役者の姿を載せる慣習は無くなり今の筋書に繋がるデザインへと繋がる事になりました。

 

今の筋書をお持ちの方は是非見比べてみてください。