延若芸話の時に書いたように今回はこの本を紹介したいと思います。
梅玉芸談
上方歌舞伎の名女形である三代目中村梅玉の芸談本です。
この本は梅玉の最晩年に当たる昭和22年から23年の1年あまりの期間に彼に取材して書かれた物です。
著者が書いているように延若と違い1日5回でも会話したらえらい喋っているとすら言われるほど寡黙な事で有名な梅玉への取材は「二つ三つの質問に対して一つの答えしか返ってこない」という状態で難航を極めたらしく、「(梅玉の急逝もあって)本来の予定していた量の1/3程度」の内容になったと書かれています。
そうはいっても芸談だけで187ページもあるのでかなりボリュームはあります。(もしかしたら延若同様に梅玉の記憶に残る名優を語ってもらう予定だったのかも知れません)
三代目中村梅玉(右は初代中村鴈治郎)
まずは簡単に三代目中村梅玉について紹介したいと思います。
彼は二代目中村梅玉(当時は高砂屋三代目中村福助)の養子となり高砂屋二代目中村政治郎の名で初舞台を踏みました。何故高砂屋と屋号が付くかというと二代目中村福助の死去後102年間に渡って東京と大阪にそれぞれ中村福助がいた時期があり、中村政治郎も同様に二代目だけは東京と大阪にそれぞれ2代目が存在した事から区別する為にこの様な形を取ってます。
養父の二代目梅玉は上方歌舞伎においては初代實川延若、中村宗十郎の一世代後に当たり同年代には四代目嵐璃寛、初代市川右團次がいます。先の二人が立役として活躍したのに対して二代目梅玉は立役でも「日蓮記」の日蓮など当たり役はあったものの、どちらかと言えば伽羅先代萩の政岡などの片はずし物を始め女形や老け役も出来た事もあって脇を務める事が多く2人より長く活動を続けました。
同時に二代目梅玉は早くから初代中村鴈治郎と親しくしていた事から明治40年の梅玉襲名前後から鴈治郎一座に入り亡くなる大正10年まで鴈治郎の相手役を数多く務めていた事もあり養子の三代目梅玉もその父の影響を受け自然と鴈治郎一座の若女形に収まりその頃から四半世紀以上に渡って鴈治郎の相手役を務めるようになります。
昭和10年1月、鴈治郎の死去直前に三代目中村梅玉を襲名すると同時に立女形として上方歌舞伎の頂点に立ち、戦前から戦後までその腕を買われて度々東京の舞台にも上がるという多忙な日々を送り、昭和23年に73歳で亡くなりました。
亡くなると同時に芸術院会員に選出されるなど女形の頂点を極めたとも言っていい三代目梅玉ですが、
当の本人は
「私は若いころから芝居には、どうも興味がおまへんだ、というよりも役者稼業といふものが嫌ひだったといった方が本当の気持ちだした」
とかなりぶっちゃけた本音を語っています。
中にはこれを謙遜と取る人もいるのではないかと思われますが、芸談の中でも梅玉のはっきり本音を言う考え方は終始一貫していて今まで演じてきた役についても
芦屋道満大内鑑の葛の葉について
「いずれにしてもこの「機屋」の葛の葉という役もホン(本当に)詰らない、やり甲斐のない役で別にどこといって見せ場もありません。わずかに子別れの一くさりだけの芝居でございます。」
実録先代萩の浅岡について
「まことに仕所(やる事)のない仕栄えのせぬ(パッとしない)役、然(しか)も一倍と気骨の折れる(気疲れする)損な役どころ」
仮名手本忠臣蔵の顔世御前について
「(大序の顔世御前は)どちらかと言へば、損な役どころで、私は嫌いです。」
同じく仮名手本忠臣蔵の判官について
「この大序の判官ほど、つまらぬ役はおまへやろな」
「三段目の「喧嘩場」の判官はこれも、相当に骨の折れる役で、その割に仕甲斐のない損な役」
鴈治郎の相手役で何度も演じた心中天網島の小春について
「ほんまに、この小春ほどむつかしい仕難い嫌な役はございません。」
と後に六代目中村歌右衛門が「長年の女形生活には、それは泣きたくなる程の苦しさもありましたが、私はこれを天職として勤めておりますので、とりたてて女形の苦心談などはございません」(昭和22年、幕間)と語ったのとはまるで正反対のあまりに率直で歯に衣着せぬ物言いで見てる読者の方が逆に困惑する内容の連続であり、役に対して先輩役者から教わった事や自身の工夫による成功を綴る事が多い他の歌舞伎役者の芸談とは一線を画したあまりに異色すぎる芸談となっています。
更に梅玉は自身の事を
「下手な役者」
「人と喧嘩するのが嫌い」
「(役者稼業が嫌いなので)なんぼ大根(下手)といはれても、そのため馬力を出して勉強せんならんといった気持ちもおまへんでした」
と常に正直に自己評価し、気難しい初代中村鴈治郎の女房役を四半世紀以上付き合えたのも
・父二代目梅玉と鴈治郎の友好のおこぼれを預かった
・大根でしかも寡黙で役者としての自我が無かった事が自分の好き勝手演じたい鴈治郎には使い勝手が良かった
・たまたま自分の身長と体つきが鴈治郎に合った
と自分の事をどこまでも醒めきって書いています。
しかし、この一見役者に不向きな彼の考え方が難しいとされる女形に必要不可欠な心構えである「一歩引いて相手を立てる」、「自我を殺して相手役の演じ易いのを念頭に動く」に見事に合致し、更に向上心が皆無で磨こうとすらしなかった演技力も演じ方を毎日変える鴈治郎に合わせる事で否応なく鍛えられた事で演技の引き出しの多さを買われて他の役者の女房役にも起用されるようになった事は何も役者は判を押したようにがむしゃらに芸道に血道をあげるだけが道ではなく梅玉曰く「狭い梯子を一段づつゆっくり登っていく。(中略)後ろから追い抜く人がいたら譲ればいい」という大器晩成的な考え方もあるのが分かります。
役者嫌いという考えばかりが目に行きがちですが本の中では
・舞台で本当に役にのめり込むので本気で力を出す大車輪な演じ方をする初代中村鴈治郎と反対に役のハラさえ理解すれば鼻ほじっくてようが尻掻いていようが一向にかまわないという演じ方の六代目尾上菊五郎を例に挙げて同じ役での演じ方の違いを述べる
(因みに本人はどちらかと言うと菊五郎のようなタイプの役者の演じ方が本当の芝居の「芸」で好きだそうです…)
・延若芸話の中で批判された襟の出し方に反論する
・昭和22年8月の南座の若手芝居を観た批評が乗せて、次世代を担う役者達の演技に付いて鋭い指摘がある一方で若手が芝居を勉強する場が無い事を憂いて現代ではすっかり無くなって久しい「もらい芝居」(東京風に言うとそそり芝居。若手が主役をやり、ベテランが脇に回るという千秋楽のみ行われる特別な芝居)の復活を願う
など役者が嫌いだという割には芸の矜持はしっかりあるなど意外な一面も見せています。
高砂屋は梅玉の死後、養子の高砂屋五代目中村福助(二代目梅玉の実子)が跡を継いだものの、福助が昭和44年に死去した後は後継者であった四代目中村政治郎が昭和38年頃に廃業していた事から高砂屋の系譜は途絶え、梅玉の名跡は本家成駒屋へと返還され今の四代目中村梅玉が襲名して現在に至ります。
普通の芸談と思ってみると面喰いますが、戦前の女形の芸談としては六代目尾上梅幸の「梅の下風」と、上方歌舞伎の芸談としても前に紹介した「延若芸話」と対を成す本ですので興味のある方は平成に入ってから出された再販本もあるので比較的入手しやすいので古本屋で置いてあったら是非買ってみてください。