明治41年4月 歌舞伎座 四代目市川九蔵襲名披露&七代目市川團蔵の仁木弾正 | 栢莚の徒然なるままに

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今回は再び歌舞伎座の筋書を紹介したいと思います。

 

明治41年4月 歌舞伎座 四代目市川九蔵襲名披露


絵本筋書

 

演目:

一、伽羅先代萩        
二、醍醐の花見        
三、御存知幡随長兵衛        
四、春霞空住吉

 

明治29年以来12年ぶりに七代目市川團蔵が歌舞伎座に出演した時の筋書です。

角座の回で團蔵のこれまでの経歴は書きましたので宜しければそちらを参照ください。

 
 

 

さて、前回の歌舞伎座の筋書で当時歌舞伎座の社長であった井上竹次郎が辞任した所まで書きました。

 

そこから今回の公演に至る経緯を書きたいと思います。

井上の後に社長の座に就いたのは大河内輝剛という人物でした。

彼は井上以上に演劇には縁の無い人生を送ってきた人物で彼は江戸時代初期に老中を務めた名君松平信綱を先祖に持つ高崎藩主の松平輝聴の次男に生まれました。

明治維新後に松平信綱の実家の姓であった大河内に改めて慶應義塾に入り教師を務めた後に民間企業を渡り歩き1902年には衆議院議員に当選して務めるなどしてました。

何故こんな経歴の人が歌舞伎座の社長になったのか不思議ですが、どうやら他にも出資者がいた事で大損するリスクが少ない事や本業の日本郵船が日露戦争による特需で儲けた事で経済的な余裕が出来た事で道楽気分で手を出してみたかった所に慶應義塾の同窓生であり歌舞伎座の専務を務めていた三宅豹三の手引きもあって引き受けた様です。

彼が社長になると早速改革を始め幹部技芸委員という幹部制度を作り以下の9人が最初に任命されました。

 

中村芝翫

市川八百蔵

市川猿之助

尾上梅幸

市村羽左衛門

市川高麗蔵

澤村訥升

 

準幹部

尾上菊五郎

中村吉右衛門

 

後に幹部に尾上松助と中村鴈治郎が加わり合計11人となりました。

その上で中村芝翫を委員長、つまり座頭に任命して専属にする事で当時の人気役者達を独占にする事に成功しました。

そして公演においても仮名出本忠臣蔵や勧進帳の1日替わりなどの従来にない目新しいやり方をするなどして順調に1年が過ぎました。

しかし、そろそろそれらもマンネリが生じてきた為に当時大阪にいた團蔵を呼び寄せる事になりました。

が、前にも書いたように團蔵は癇癖が強く超トラブルメーカーとして有名な人で普通に頼んだ所で上手く行かないのは目に見えていた為、交渉を担当した田村成義は團蔵の師匠に当たる五代目市川海老蔵(七代目市川團十郎)の五十回忌追善(当時生存していた唯一の弟子であった為、必然的に公演の座頭となる)とセットで実子の市川茂々太郎の市川九蔵襲名を打診した所一度は渋ったものの、「親の目の黒い内に名前を継がせてやるのが本人の為だ」と説得した事で話がまとまり明治34年以来9年ぶりの東京への出演、歌舞伎座へは12年ぶりの出演が決まりました。

 

配役一覧

 

醍醐の花見は懸賞で募った一般人の作品で鴈治郎を除く技芸委員を勢ぞろいをさせる為の演目であり、桐一葉などで淀君役を務めた芝翫が今回も淀君役を勤めるのかと思いきや今回は梅幸が務めているのが意外だったりします。

因みに高麗蔵は秀次の亡霊役を演じていますが幽霊役の凄みを出す為に念入りに隈を拵えたりわざわざ入れ歯を作りはめて頬をこけさせる工夫をして好評だったそうですが、後述するあるアクシデントの日に演じた際に「明かりが暗いからそんなに手の込んだ事をしなくても怖がってくれるだろう」と普段念入りにする隈を簡略化した所、却ってはっきり顔が分かってしまい大恥をかいたと自伝「一世一代」で懺悔(?)しています。

 

高麗蔵の関白秀次の亡霊

 

余談ですが醍醐の花見を書いた山田桂華という人は自分の書いた作品が歌舞伎座で上演された喜びのあまり気が狂ってしまい上演後間もなく亡くなってしまったそうです…。

 

さて、今回の注目すべきなのは市川團蔵の十八番である伽羅先代萩です。

團蔵は得意とする仁木への思い入れが深く、初演の五代目松本幸四郎が大当たりした為に後から演じる役者は幸四郎にあやかって仁木の頬にホクロを付けるのがお約束になりましたが、ひねくれ者の團蔵は

 

「幸四郎を見せるのではなく仁木を見せるんだ」

 

と敢えてホクロを付けませんでした。

それでも明治15年3月の久松座の初演以来地方巡業でも幾度となく演じて見物を唸らせたという馬盥の光秀、佐倉義民伝の宗吾に並ぶ彼のお家芸でした。

 

この時の仁木。確かにホクロがありません。

 

この公演を見た伊原敏郎は「團菊以後」の中で床下について

 

「(見物した4月9日は季節外れの大雪で)まだ盛んに雪が降っているのに土間も桟敷もギッシリの見物である。(中略)雪で電燈が無い(停電していた)から昔の差出(蝋燭に長い柄を付けた明かり)を使っていた。(中略)その(蝋燭から出る煙の)間から盛り上がった仁木の顔が差出の蝋燭火に照らされた光景は、何とも言えない味わいがあった。

 

と凄みのある古風な演技を絶賛しています。

そしてこの日のアクシデントから生まれた怪演が評判を呼んでこの日以降は床下の時のみ差出を用いる演出に変わったそうです。

続く刃傷も團蔵型とも言うべき特殊な型で

 

通常の型:改心を装って渡辺外記に襲い掛かる

團蔵型:更に一捻りして一味の連判状を差し出して油断した隙に隠し持ってた刀で刺す

 

という感じで最後も息途絶えるはずの外記が生きているなどかなり変わった型となってます。

 

こんな怪演もあってか公演成績は大入りで制作費用が4万円(約1億3500万円)だったのに対して売り上げが8万6千円(約2億9000万円)、純利益が4万6千円(約1億5000万円)を記録したらしく、田村成義が言うには「芝居をして、倍額の利益が上がったのは今まで一度もない事。」と言うほどの記録的な大黒字となりました。

この時の売り上げ記録は大正5年10月に当時帝劇の専属だった六代目尾上梅幸が5年ぶりに歌舞伎座に出演した時まで7年間もの間一度も抜かれなかったそうです。


今回の記録を更新した大正5年10月の歌舞伎座の筋書


因みにこの時前半の御殿では芝翫がこれまた十八番の政岡を演じていて好評でしたが、流石に團蔵の怪演ぶりには叶わず呑まれてしまい公演の売り上げも上記の様に自分が出演している時よりはるか上をいかれた為か自伝にもこの公演の事は一切書かれていません。

また、この時梅幸は八汐の役を務めましたが彼はこの配役に対して「亡父(五代目尾上菊五郎)は私を立女形にしようとして仕込んでくれたんです。先代萩が出れば今は成駒屋さんの政岡で、私は八汐をするわけですが、父は私を政岡にしようと仕込んでくれたので、八汐をさせる為に私を育てたのではありません。」と不満を露にしており、この後の公演でも團蔵のクレームで不本意な立役を演じさせられるなどの配役面での不満が後日帝国劇場に移籍する一因になったと言われています。

 

さてもう1つの御存知幡随長兵衛の方はというと息子の九蔵襲名披露と師匠海老蔵の追善の意味合いもあってか劇中口上もあり衣装も師匠張りの三升格子といった調子で兎に角渋く古い型で行った為、あまりに単調になり過ぎて不評でした。

そしてこの時由緒ある名跡、市川九蔵を継いだ茂々太郎ですが親の七代目の芸風である渋みのある芸風は引き継いだものの次男の生まれで当初は役者を志望していなかった上にクレーマーの父親と違って真面目で常識人な性格もあってか父親の死後は小芝居で父親の得意役を演じるなどの活動が増え父親の様な売れっ子主役役者にはなりませんでした。

彼については八代目市川團蔵襲名披露公演の筋書も持ってるのでその時改めて紹介したいと思います。

 

12年ぶりの出演にも関わらず前代未聞の大入りもあって團蔵の劇界での価値は今までかつて無いほど跳ね上がり超トラブルメーカーにも関わらず大河内時代には単純に動員が期待できる事に加えて「團蔵を出すと言えば他の役者たちが(團蔵が出演して大入りになると面子丸潰れになる事から)不満を言わなくなる」と思わぬ副産物(?)まで生み出した事から何かと重宝されて招聘されて馬盥の光秀や佐倉義民伝といったお家芸を演じています。

 

團蔵についても最後の舞台の筋書を持っているのでその時改めて紹介したいと思います。