芸談 一世一代 | 栢莚の徒然なるままに

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3回目になる歌舞伎の本紹介はこちらを紹介したいと思います。

 

芸談 一世一代

明治から昭和にかけて活躍した七代目松本幸四郎の自伝です。彼は昭和12年に「松のみどり」という自伝本を出版していますが彼曰く

 

それは故人となられた井口政治氏がお書きになったもので(中略)随所に誤謬や思い違いなどがあり、私としては甚だ不本意に思っておりました

 

自らの聞き書きを中心にゴーストライターが書いたと認めていて、その上で今回も益田甫という人物がインタビューを基に書いたとあっさり書いています。もっとも、この時幸四郎は取材当時76歳と非常に高齢であり一人で文章を書くより誰か介助者がいなければまとめるのは難しいだけに目的も前作の誤りを正したいという事を考えるとこれは止むを得ない事だと思えます。

 

最晩年の七代目松本幸四郎

 

さて、七代目松本幸四郎については高麗蔵襲名の時に襲名までの経歴は紹介しましたのでその後について少し紹介したいと思います。

高麗蔵襲名後、東京座に移籍したり歌舞伎座に戻ったり、と思ったら明治座に移籍したりと一所に落ち着かない様な活動が目立ちましたが西野恵之助の誘いもあって帝国劇場に移籍してからは昭和4年12月の松竹の帝国劇場買収まで一貫して在籍し、明治44年11月に七代目松本幸四郎の名跡を62年ぶりに復活させて襲名すると六代目尾上梅幸と共に座頭格として全盛期を迎えます。

その中には文中でも触れられている様に師匠、九代目市川團十郎の当たり芸である勧進帳や助六所縁江戸桜を始め歌舞伎十八番の上演したかと思えば専属女優に混じって翻訳劇に挑戦したりと新旧関わらず様々な演目を演じる日々を過ごしました。

 

師匠譲りの團十郎型で演じる「菅原伝授手習鑑」の松王丸

 

上述の様に昭和5年に松竹に移籍してからは幹部役者として活躍する傍ら本来なら自分が育てるべき3人の息子の内、次男順次郎と三男豊をそれぞれ初代中村吉右衛門、六代目尾上菊五郎の所へ修行に行かせて後に両優の芸の後継者に育て上げました。

(もっとも次男の初代松本白鸚の話によれば「家出だよ(笑)」と自発的に出て行ったそうですが…)

一方病弱の為に傍に置いた長男治雄は一時期東宝に移籍したので勘当したりしたものの松竹に戻ってきてから師匠の家である市川宗家の養子となり、戦後師匠の名を継ぐ事になるなど後継者にも恵まれました。

そして五代目歌右衛門、十五代目羽左衛門亡き後は劇界の最長老となり、戦後に入ってからは

 

・76歳で勧進帳の武蔵坊弁慶助六所縁江戸桜と花川戸助六

・77歳で暫の鎌倉権五郎景政

・78歳で仮名手本忠臣蔵の大星由良助

 
と死去する前年まで驚異的な体力で数々の大役を演じました。
そして最後の舞台から僅か1か月後の昭和24年1月に体調を崩して78歳の大往生を遂げました。
 
最後に勧進帳を演じた昭和21年6月の東京劇場の筋書
 
余談ですがこの76歳での勧進帳の弁慶役と助六所縁江戸桜の花川戸助六役についてですが弁慶に関しては平成21年に1日限りの勉強会ではありながらも五代目中村富十郎が79歳で、通常公演でも令和3年4月に孫の二代目松本白鸚が78歳で75年ぶりに抜きましたが、助六は平成30年10月に74歳で演じた十五代目片岡仁左衛門でありこちらは本人が一世一代を匂わせている事から75年間未だに抜かれていない史上最高齢での助六であり、弁慶についてはこの本の中でも
 
まさかもう77歳の喜寿(幸四郎は数え年で計算してます)を迎えた自分に弁慶をやれといふのではあるまい
 
と思っていたもののいざ自分が弁慶役だと聞かされた時びっくりしたと書いています。
因みによく七代目幸四郎といえば必ずと言っていいほど歌舞伎の関連資料の中で
 
「勧進帳で1600回以上上演した」
 
と当たり前の知識のように語られていますが、当の本人は
 
十年前ばかり前に調べてもらった時に確實な打日が千日と不明なのが二、三興行あったのですから(最後を含めて)今ではもう優に千三百日は越していようと思います
 
1300回以上しか上演していないと書いています。
これを幸四郎の単なる記憶違いと考える方もいるかと思いますが、これは言い出しっぺの河竹繁俊自身が幸四郎の亡くなった直後は1500回に近いなどと述べているなどかなり数をブレブレに語っていて確たる証拠も無く数を200回以上増やした1600回という数字が本人の中で固まるのは1956年になってからです。
 
証拠画像
 
更に言うと300回という数字は通常公演の25日でも12回分に相当する数であり、誤差で説明が付く数ではありません。この事に関しては今私自身も初演から最後の上演までの大劇場及び地方巡業での上演記録を調べていて、
 
本人曰く一度調べて1000回は確実に演じたという昭和11年までの大劇場及び地方巡業での上演日数:986
 
約1210回以上演じたという報道資料がある昭和17年までの大劇場及び地方巡業での上演日数:1235
 
本人曰く少なくとも300回以上演じたと言われている昭和12年から昭和21年までの大劇場及び地方巡業での上演日数:386
 
と昭和12年以降の数字は幸四郎の記憶が合っている事や昭和17年までに1230回以上は上演しているのが分かり、通説の1600回上演を証明するには判明しない残り4年余りで大劇場上演分を除く370日分以上を通常公演より上演日が少ない地方巡業で上演しなければならない計算となり物理的に達成不可能なのが分かります。
(因みに昭和21年は最後の公演以外勧進帳を上演していないのが判明している為、実質3年です。)
この回数に関しては2024年時点でおよそ1380~1390回の辺りではないかという見立てであり正確にどれくらい地方巡業で勧進帳を上演したのかはまだ鋭意調査中ですので分かり次第その都度ここに加筆しています。
 

話を戻すと本の内容はタイトル通り芸談もありますがそれ以外にも師匠九代目市川團十郎の回想や教え、自身と関係が深い役者たちとの思い出、自身が宗家を務めた藤間流についてなど多岐に渡る芸の話が綿々と書き連ねてあります。

それだけだと何処にでもある芸談ですが、76歳にもなり関係者も殆ど亡くなっている為か時々裏話ともいえる話が所かしこに盛り込まれていて左團次最後の舞台の回で書いた三代目市川米蔵の引退の真実や自身の帝国劇場移籍の経緯、團十郎未亡人堀越ますとの確執、更には舞台でのアクシデントで3回(それもその内2回は同じ日に起きたとか…)も事故死しかけた話などバラエティーに富んでいて読んでいる人を飽きさせないよう工夫されています。
 
個人的に興味を持てたのはまず幸四郎が幼少期から役者になるまでに目撃したり体験した明治初期の芝居見物の仕方や風習、舞台裏での仕事などについてで経験者だけに非常に細部まで語られていて古き良き時代の芝居見物を浮かび上がらせてくれます。
次に興味を持てたのはやはり芸談で特に師匠團十郎に関する話は豊富で團十郎と菊五郎の教え方の違いや九代目に身体のハンディキャップを紛らわす為の工夫を「師匠がやっているから」という理由だけで見よう見まねで悪い癖まで真似しようとしたのを
 
お前はなんだって俺の癖を真似したりするのだ。癖に良い事は無いのだから止めろ。
 
世間をよく見て良い事と悪い事を見分けなければいけないぞ。悪いと思ったら避けるようにし、良い所があったら真似るようにするのだ。(中略)それは荒蕪地(こうぶち)を開拓するような心持でやらなければだめだ。
 
と戒められた話、高麗蔵襲名の時にも書きましたが余命幾ばくもない團十郎が幸四郎に残した最後の教えの話など役者だけでなく一般社会でも通用する教えの数々が書かれており覚えている記憶力もさることながら師匠の教えを愚直に守ってきた幸四郎の真面目さが伝わってきます。
また勧進帳や助六、暫、景清と言った十八番以外にも得意役とした
 
・大森彦七
・御存知鈴ヶ森
・伽羅先代萩
・仮名手本忠臣蔵
・菅原伝授手習鑑
・桐一葉
・京鹿子娘道成寺
 
といった古典物から新作物、舞踊に至るまで幅広く語っています。
芸幅こそ延若には負けるものの、立派な肉体と豊かな声量と裏打ちされた演技力で超辛口で有名な岡鬼太郎にすら賛辞の言葉を書かせただけに師匠團十郎の演じ方から自身が会った名優の型などの違いや様々な失敗談も書かれていてその知識量の多さには驚かされます。
 
伽羅先代萩の仁木弾正
 
さて最後にこの本には書かれていませんが三男である二代目尾上松緑が最晩年に出した自伝「松緑芸談」で父同様に暴露(?)した話で締めたいと思います。
幸四郎は前述の様に息子3人が全員役者になった他、娘の晃子が七代目大谷友右衛門(四代目中村雀右衛門)に嫁ぐなど三男二女に恵まれましたが一方で夫人には3回も先立たれるなど家庭面では不幸続きでした。
しかし、松緑曰く
 
ちょっと数えても外に十人くらい(認知していない)子供がいた
 
と曾孫にあたる十一代目市川海老蔵と十代目松本幸四郎の隠し子騒動など比べ物にならない程の凄まじい絶倫ぶりだったそうです。
これだけ聞くと曾孫達のイメージから自分から女性を漁りに行った印象が浮かびますが松緑に言わせると「あれだけのいい男の上にまた親切でしたから、とにかくもてました」という女殺しタイプだったそうです。
古い資料を漁っていると幸四郎の女好きはかなり昔からだったらしく、明治40年11月には万朝報に「高麗蔵を葬れ」と物騒な見出しと共に貴婦人と不倫及び複数の女性問題をすっぱ抜かれた事があります。
この時は連日の報道もあって事が大事になり、東京俳優組合でも彼を除名(=廃業)すべきかという所まで話が行ったそうですが、70歳になっても前髪役が似合う甘いマスク天真爛漫で誰にも物おじしない性格で幸四郎とは別ベクトルで常に女をとっかえひっかえするほどモテにモテた稀代の色男である十五代目市村羽左衛門が
 
何言ってあんでぇぃ!役者でもって女の一人や二人なくてどうするんでぇ!!俺ぁ知らねぇよ
 
と啖呵を切って反対した事で沙汰闇になり助かったそうです。流石は花の橘屋。
羽左衛門については文中でも「俺は藤間の弁慶じゃなければ富樫はやらねえよ」と語るくらいの信頼関係があったとのべていますが、背景にはこういった色話での大きな借りがあったのを考えると微笑ましいものがあります。
自伝には書かれていないこんな一面もある偉大な歌舞伎俳優の残した名著であり今でも古本屋でも結構転がっているので見つけたら松緑芸話と合わせて購入するのをお勧めします。