明治44年1月 歌舞伎座 帝劇開業前夜 | 栢莚の徒然なるままに

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今回の筋書は帝劇開業に揺れる歌舞伎座の筋書を紹介したいと思います。

 

明治44年1月 歌舞伎座

演目:

一、菘種蒔        
二、曽我の春駒        
三、寿門松        
四、春日山        
五、神明恵和合取組        
 

のっけからでこんなこと言うのは恐縮ですがこの公演自体は羽左衛門がめ組の辰五郎を2度目にして歌舞伎座で初めて主演した事くらいしか特筆するような逸話が少ない興行なので今回は思いっきり脱線して主にこの頃の劇界を取り巻く状況について話したいと思います。

前回紹介した10月公演から今回の公演までの間にいよいよ会場を目前に控えた帝国劇場が専属俳優を手に入れるべく各劇場への引き抜き工作が始まりました。

帝国劇場側によると元々は今の国立劇場の様に各劇場から公演に応じて出演する俳優を融通してもらう考えで別に専属にするつもりは無かったそうですが、歌舞伎座の田村成義が先手を打って明治43年11月にかつて歌舞伎座が開場する際に守田勘彌が作った四座同盟の進化版と言える劇場組合を結成し東京の劇場主たちと互いの俳優の貸し出しを制限するなど帝国劇場への牽制策を打ち出してきた為に引き抜く考えに変わったそうです。

 

結果的に帝国劇場専属になった俳優たちについては帝国劇場の筋書紹介の際に書きますが、今回は逆に帝国劇場からの話に乗らなかった俳優たちの事情について幹部技芸委員を中心に少し触れてみたいと思います。

 

中村芝翫

まず歌舞伎座の座頭であった彼ですが、自伝においてまだ劇場の建築が始まる前に明治政財界のトップである伊藤博文(元総理大臣、元老)、渋沢栄一(次の一万円札に選ばれた事で有名な明治時代を代表する実業家)、林薫(当時の外務大臣)ら錚々たる面子に呼ばれて協力を要請されたと語っています。伊藤は明治42年に暗殺されている上に林薫が現職の外務大臣であった事からその話があったのは明治39~41年頃かと推察されますが、比較的早い段階から打診があった事を伺わせるエピソードです。

しかし、明治43年11月からいざ具体的な交渉に入ると「これまでの恩義があるから歌舞伎座の田村(成義)にそっちから一応(出演について)話してくれなくては」と芝翫が田村成義の了承を求めた為に話が拗れて交渉が決裂したそうです。

これだけ見ると芝翫側は出演するつもりだったのに帝国劇場側の都合で実現しなかった…と読めますが、伊原敏郎の「團菊以後」では上記のエピソードからも伺えるように当初は国立の劇場=皇室御用達の劇場を想定して話が進んでいたので芝翫も乗り気だったものの伊藤博文の暗殺で国立劇場の話が立ち消えになった事に加えて当時歌舞伎座一の高給取りであった芝翫にとって帝国劇場の給金があまりに低額過ぎたので相手が絶対に呑めない条件である上記の条件を持ち出して体よく断ったという説を紹介していて芝翫側の都合も幾分あった模様です。

 

市村羽左衛門

帝国劇場の座頭になった尾上梅幸の相手役として既に人気役者であった彼も芝翫と同じ頃に当然誘いがあったそうですが、当時新派の伊井蓉峰との女性関係を巡るトラブルが原因となり劇場完成を祝って行われた帝国ホテルでの落成記念パーティに招待されなかった事でへそを曲げてしまい芝翫と同様の断り文句条件を提示したので交渉決裂してしまったそうです。

 

市川八百蔵片岡仁左衛門

当時歌舞伎座の立役のトップであった2人ですが、開場公演に中村鴈治郎が特別出演する話を聴いて即座に断ったと言われています。

しかし歌右衛門襲名問題などで関西中の歌舞伎関係者を敵に回すなど長年の宿敵因縁がある仁左衛門は兎も角、八百蔵に関しては八方美人である鴈治郎のリップサービスが原因で歌舞伎座での共演話が流れた事位しか接点が無いので鴈治郎が出演した程度で不参加を決めたという理由は訝しいと伊原敏郎も書いてます。

実際の所は立役のポジションにオペラ劇などにも出演した経験があるなど使い勝手がいい高麗蔵を獲得できたので芸域も被るこの2人を無理してまで引き抜く必要が無かったのが実情かと思われます。

とはいえこの頃の八百蔵は井上竹次郎引退後に戻ってきた芝翫や猿之助、高麗蔵といった東京座組に良い役を奪われ続け高麗蔵が脱退したと思いきや今度は仁左衛門の出演する事になり益々不遇を託っていて不満は燻り続けていた事もあって明治45年11月の公演における酷い扱いを端に発して歌舞伎座を脱退し、東京の役者を欲しがっていた松竹に移籍しています。

 

市川段四郎

10月に襲名したばかりの彼の所にも劇評家の伊坂梅雪から話があったそうですがこの時対応した段四郎夫人の喜熨斗古登子は吉原で複数の妓楼を経営していたという当時としては珍しく数字に明るい女性だった為、提示された給金が満足いかない額だったのと跡継ぎである二代目猿之助もまだ22歳と若く残る次男以下に至っては全員が10代という事もあり海の物とも山の物ともつかぬ帝国劇場に一家を挙げて出演するのはリスクがありすぎると判断して早急に断ったそうです。

 

尾上菊五郎

自身の結婚式を福沢捨次郎の別荘で開くなど梅幸と同じくらい彼の支援を受けていただけに福澤は無論の事、田村さえも帝国劇場に移籍するだろうと思われていただけに残留したのを一番驚かれたと言います。

一説には移籍する梅幸が留まるよう勧めたとも父五代目からの弟子である尾上菊三郎の諫言だとも言われています。

もし、菊五郎を含む音羽屋一門全員が移籍したら歌舞伎座の優位も揺らぐばかりでなく後の市村座の菊吉時代も到来せず歌舞伎の未来も大幅に変わったに違いないだけにこの時の残留を田村成義が深く感謝して後年の市村座において彼を特別優遇したのも納得できます。

 

市川左團次中村吉右衛門市川團蔵

この3名については細かい動向が伝わっていませんが、明治座の経営者であった左團次は置いとくとして吉右衛門に何もそういった話が無いのは不思議です。もっとも彼は後年市村座を脱退した時も周囲に真相を話す事無くただ病気療養の為だという以外は黙秘を貫いた人だけに仮に引き抜きの話があったとしても他人に話さなかった事は十分に考えられます。

團蔵については開業後の6月公演 には上置きで呼ばれて出演しているだけに出演自体は問題なかったはずですが高齢(当時75歳)もあって専属の話は無かったようです。

そして一見すると縁の無さそうな左團次ですが翌明治45年には明治座を売却して松竹に移籍している事や帝国劇場開場前の明治41年に左團次が行っていた興行改革や自由劇場といった新しい演劇に関する取組そのものは帝国劇場の目指す方向性と全く同じであり、事実自由劇場としての短期公演では彼は何度も帝国劇場に出演している事からもし開場が1年後になりタイミングさえ合えば左團次も帝国劇場へ専属で移籍していた可能性は十分にありました。

 

という感じで役者ごとにそれぞれ異なる事情もあって残留を決めたそうです。

 

曽我の春駒(左:尾上梅幸 右:澤村宗十郎)

 

そんな様々な思惑が混じる中行われた1月興行では残る者、離れる者関係なく淡々と舞台を務めたそうです。

しかし、見物側にしてみればこれが名夫婦コンビと言われた羽左衛門・梅幸の見納めになるという思いもあって2人の贔屓は名残惜しんだそうです。この興行の後、この2人が再び共演するのは大正5年3月の事でありそれまで6年間も長い間待つ事になります。

ただ、2人の贔屓は別として多くの人は帝国劇場の会場を目前に控えた時期だけに見物の関心もそちらに行った為か興行成績は普通だったらしく、梅幸・松助・宗十郎にとって最後の歌舞伎座公演を有終の美を飾るというわけにはいきませんでした。

千秋楽の打ち上げを帝劇へ移籍する人たちの送別会と兼ねて築地の新喜楽で開き、後腐れなく送り出したそうです。

そして3月にいよいよ帝国劇場が開場し、大正時代の歌舞伎界を象徴する三座鼎立が幕を開ける事になります。