明治37年6月 明治座 初代市川左團次最後の舞台 | 栢莚の徒然なるままに

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年代が前後しますが、ずっと探していた筋書が最近ようやく手に入ったので今回はこの筋書を紹介したいと思います。

 

明治37年6月 明治座

 

演目:

一、敵国降伏

二、熊野

 

タイトルにもある様に初代市川左團次最後の舞台の筋書です。

前にも明治座設立以前の左團次について書きましたが、まずはその後について触れたいと思います。

 

念願の明治座の(実質的な)座主になった左團次は文字通り全てを捧げるような勢いで明治座での活動に没頭し、明治27年から亡くなる明治37年までの10年間に明治座の劇場以外に出演したのは明治29年の浪花座と京都常盤座、明治35年の御園座の杮落し公演、後述する問題から明治36年の1年弱の東京座と短期の地方巡業だけでした。

それだけに一見すれば座主として自由気儘に好きな演目をやれて幸せに見えた左團次でしたが明治36年に突如として明治座から東京座に移籍しました。その理由は明治座開場の際にまで遡ります。

開場の際して多額の資金を提供するなど事実上の座主として尽力した左團次でしたが当時の法律的問題から彼は座主になることが出来ず、止む無く大向こう(3階席などの升席以外の入場料)の売り上げの半分を渡す条件で10年契約で高木、高浜という人物に名義上の座主になってもらう契約を締結しました。

丁度明治36年は契約満了の年に当たり左團次は10年間の活動で被った財政問題を解決する為に両名に契約解消を通知した所、寝てても年間7000円(現代の貨幣価値に換算して約2700万円)の大金が懐に入る両名は契約解消に反発し チンピラを雇って左團次に危害を加えようとする有様で当時の左團次には警視庁の刑事が護衛に付いていたほどでした。

当時明治座によって利益を得ていた茶屋などの主人が仲裁に入っても一向に解決しなかった事から左團次は弁護士を雇い法廷闘争を開始すると共にそれまでの当座の食い扶持を稼ぐ為に明治座への出演を取りやめて東京座へ出演することになりました。名ばかりの座頭で何の実務にも関与したことがない為に明治座で独自の芝居が掛けられず一切の利益が絶たれてしまった両名はそれまでの豪奢な生活を維持できなくなり遂に契約解消に同意せざるを得なくなりました。

こうして晴れて正式な座頭に就任し明治座に戻ってきて1月公演を開いた左團次ですが、盟友であった團菊の死や1年に渡る明治座を巡る闘争が心身に影響を及ぼしたのか体調を崩し公演終了後は鎌倉で4ヶ月近く静養していました。

そして今回の6月公演を迎えました。

 

主な配役一覧

 

敵国降伏

漁師弥藤次…左團次

北条時宗・元皇帝忽必烈(クビライ)・河井通有…高麗蔵

大納言中御門…芝翫

社世忠・宗助国…小團次

安南の使者・河井通時…壽美蔵

合田五郎・竜造寺…訥升

元皇后弘吉刺…女寅

武蔵守義政・マルコポーロ・小太郎義春…莚升

秋田泰盛…時蔵

 

熊野

熊野…芝翫

平宗盛…小團次

朝顔…米蔵

 

 

敵国降伏の場面

 

従来の左團次一座に加えて東京座で共演していた誼もあってか当時東京座に所属していた芝翫、高麗蔵、女寅、訥升、時蔵ら錚々たる顔ぶれが出演し当時の歌舞伎座を遥かに凌ぐ座組となりました。

一番目の敵国降伏は一応元寇を舞台にしてますが、実際にはこの当時行われていた日露戦争の旅順港攻略作戦を当て込んだ作品となっており元をロシア、実際は最後の戦いである御厨海上の戦いを旅順港の戦いに比定している為、後半の山場として描かれています。

この時4ヶ月の静養期間を経たにも関わらず左團次の体調は優れず当初は北条時宗の役も演じる予定でしたが、稽古中に高麗蔵に代わる事になった上に一度も稽古に入れないなど衰退ぶりは誰の目にも明らかでした。

既に家族や周囲の人は病気が胃癌であると伝えられており、一時は出演も危ぶまれたものの彼は出演を希望し何とか初日(23日)は務めましたが、25日、26日と休演し24日と27日は2つの出演場面の内、座って台詞を述べるだけの比較的体力の負担が少ない元王宮の場のみ出演し後半の元寇大敗の場は五代目市川壽美蔵に代役してもらう状態でした。

そんな状態で出演したにもかかわらず劇評では

 

漁師弥藤次は汐風吹き曝された心で癖のついた鬘に日に焼けた顔の拵えが好いが、鼠色の肉(襦袢)を着ていたのは死神らしく見えた。(中略)宏装華美なる舞台の装飾も、錦繍を纏った登場人物もこのそぼろな漁師一人に消されてしまう様に見えるのは、役者の貫目ほど争われぬものは無いと思った

 

と左團次の演技は絶賛されました。

また既に初日の時点で相当顔色が悪かったのは見物にも分かったらしく、

 

俳優が舞台で倒れるのは武士が戦場で死ぬのと同じ事様に思うのは愚である。團菊を失った劇壇は左團次一人を頼みにするので、その左團次に病中出勤を強いるのは明治座当局者の大失態である。速やかに彼の出勤(出演)を止めさせよ

 

とさえ書く劇評もあるくらいでした。

 

これに対して明治座側は座頭たる左團次が出演しなければ客足や成績にも影響が出る旨を説明し理解を求めました。

実際に24日、27日に壽美蔵が代役で出た時は見物は皆前半で出演した左團次が出るとばかり思っていたので壽美蔵が出た途端、それまで熱狂してた劇場が音一つしない静寂に包まれたという少し可哀そうな逸話もあるほどでした。

結局28日以降は動く事もままならず完全に休演となり、左團次が出演できたのは僅か3日間(全て出演できたのは初日のみ)だけになり病気を患い不評ながらも千秋楽まで務めた團十郎半身不随になりながらも千秋楽2日前まで務めた菊五郎と比べると些か寂しい最後の舞台となってしまいました。

そして上記の釈明通り公演成績に直結してしまい、薄々この公演が左團次の最後の舞台になると気づいていた見物が初日から27日までは押し寄せたものの休演決定後は客足がすっかり落ちてしまい不入りに終わりました。

それだけに明治座の人気は初代左團次一人で保っていた事が分かり、実子の莚升が二代目左團次を襲名して人気を得るまでの2年近くの間一座は苦難の道を歩む事になります。

 

そして左團次の休演で騒がれていた裏でもう1人最後の舞台を迎えた役者がいました。

それは左團次の実兄三代目中寿三郎の養子、つまり義理の甥に当たる三代目市川米蔵です。

左團次一座の立女形として活躍した彼はこの公演の終了後に突如廃業を発表しました。理由としては病気の治療の為と言われていて、事情を知る関係者も裏があるような言い方をしながらも真実について沈黙してましたがこの舞台にも出演してた八代目市川高麗蔵(七代目松本幸四郎)が戦後の最晩年に出した自伝「一世一代」で本当の理由を暴露してしまいました。

 

それによると米蔵は立女形と言われながらも実際は義父や叔父の御蔭で役に恵まれていただけで役者としての実力によるものではありませんでした。普通ならそこで芸を磨く道を選びそうですがそこで彼が取った行動は新聞などで劇評を書く人間などに盛んに金銭を渡して絶賛する劇評を書いてもらったり、人気のある役者の投票などでもかなりの金額をつぎ込んでさも人気がある若手立女形に見せかけるといった裏工作活動でした。

しかし、そんな自転車操業の裏工作で作り上げた人気と活動資金はいつまでも続くわけが無く、既に工作により資金繰りが火の車状態になっていた所に叔父左團次の余命を知って自身の役者としての限界を悟って高麗蔵の養家である藤間流に入り藤間勘壽郎の名前をもらい振付師に転向したそうです。

その後の彼の行方は幸四郎の自伝にも触れられておらず殆ど知られていませんが、僅かに戦後名女形として歌舞伎座の頂点を極めた六代目中村歌右衛門が初舞台(大正11年)を踏む前に踊りの稽古で藤間勘壽郎に教わったと自身の芸談を含む著書「六代目中村歌右衛門」に書いている事から大正11年くらいまでは存命しており、木村綿花が昭和3年に出版した「明治座物語」では既に故人と記されている事からその間に亡くなられたようです。

 

さて何度も記している様にこの舞台を最後に左團次は闘病生活に入り2か月後の明治37年8月7日、61歳で死去しました。

左團次の死により明治時代の歌舞伎を代表する名優であった團菊左の全員が亡くなり歌舞伎は新しい時代に移る事になります。