今回は筋書ではないですがこんなものを紹介してみたいと思います。
明治39年3月 角座
演目:
佐倉宗吾実伝記(佐倉義民伝)
今では相撲などでもお馴染みの辻番付です。
歌舞伎でも発行していて実は今も出しています。
画像右下の印判にある様にこの番付は出演していた二代目中村玉七の関係先に配られた物だと分かります。
右下に中村玉七の文字が見えます。
まず今回の主役の七代目市川團蔵について少し紹介したいと思います。
吉右衛門劇団で渋い脇役で鳴らした実子の八代目團蔵や曾孫に当たる九代目團蔵が脇役として菊五郎劇団にいる事から團蔵というと脇役のイメージが強いですが、七代目の彼は当時の劇通の言葉を借りれば「明治(時代)の名優は團菊左と呼ばれるが團蔵が(地方巡業に出ずに)東京に居続ければ團菊九(当時は九蔵だった為)と数えられたであろう」とさえ言われた劇界屈指の実力者でもありました。
六代目市川團蔵の養子となり初舞台を踏んだ彼は大阪で五代目市川海老蔵(七代目市川團十郎)に、江戸で幕末の名優の四代目市川小團次にそれぞれ師事して主に小團次の芸風を継承し時代物においては他の追随を許さない程の人気と実力を持っていました。
しかし、前名の市川九蔵をもじって「市川苦情」とあだ名されるほど給金から始まって配役や序列、果ては舞台の立ち位置などイチャモンとしか思えない事までクレームを付ける超トラブルメーカーでもあり当時の團菊とも何度も衝突した結果、明治中期頃には大劇場からお呼びが掛からなくなり小芝居を中心に活動してましたが、
他の俳優と些細な事で衝突する
↓
不満があるとすぐに退座して巡業に出る
↓
人気と実力はあるので暫くすると呼び戻される
↓
また衝突する
(以下略)
という状態を繰り返す流浪の役者人生を歩んでいました。
明治30年に明治座で七代目市川團蔵を襲名した後も上記の奇行は変わらず明治34年から東京を出て地方巡業の末に行きついた大阪を気に入り漸く活動の拠点を固定しました。
しかしこの公演の2年前の明治37年11月の弁天座に出演予定でしたが、演目のタイトルを巡って弁天座の座主の尼野と喧嘩してしまい「大阪の舞台には上がらない」と言って1年ほど再び巡業に明け暮れるようになりその後間に立つ人がいて和解して「旅巡業として出る」という名目(←ここ大事)で弁天座の舞台に出演する予定でしたが「舞台が狭い」と早速クレームをつけた為に急遽空いていた角座を借りたのが今回の公演になります。
この時大阪では松竹が中村鴈治郎一門を率いて中座を4ヶ月連続で借りて大阪の舞台に本格的に進出してきた時であり、大阪の座主はこれに対抗して角座(この3月は上記のクレームで弁天座で)に右團次や我當といった他の上方役者を集めて公演をしていたので役者が手薄だったのと大阪でも彼の奇行は知れ渡っていた為に共演してくれる俳優は少なく、主な上方歌舞伎の俳優で共演したのは芸達者な脇役で知られる二代目尾上卯三郎と女形の二代目中村玉七のみでした。
玉七についてはこちらをご覧下さい
しかし、團蔵はそんな事などお構いなく小團次から直接教わり、辻番付に書いている様に自身の初演の時にはわざわざ主人公佐倉惣五郎の故郷佐倉にまで赴いて役作りに励んだ事で知られる十八番の佐倉義民伝を今日でも上演される「印旛沼渡し小屋」、「木内宗吾内(子別れ)」、「上野東叡山直訴」に加えて滅多に上演されない
「門訴」
「仏光寺祈念」
「堀田家詰所廊下」
「東勝寺宗吾百年祭」
を加えた「通し」で出して中座の鴈治郎や弁天座の我當を相手に日延べするほどの大入りとなりました。
明治25年の三座競演の時の中座と何だか状況が似てますね。
観劇した見物も
子別れ
「(直訴の)決意のひらめきがひしひしと迫って来る。(中略)役者の至芸の有難さ、天下の名称絶景に感嘆する心持、巨匠描く絵の神品とまさに共通する人間審美鑑賞の絶境である。」(七世市川團蔵)
仏光寺祈念
「公然の憤慨、凄い、怖い、鬼気とだんだんに迫って来るあの凄惨味(中略)あの相好の変わりゆく運びまつはる衣の袖がひらひらするとそこにも鬼気が漂い経文を焼き、煙の中に悪鬼の様に悄然として立つ所、実に恐ろしい」(七世市川團蔵)
と團蔵を大絶賛しています。
その凄さはこの舞台を見た二代目實川延若が
「同業の舞台は見ても普段泣かないのに子別れの場面を見た時は思わず感動して泣いてしまった」(延若芸話)
と同業者さえも唸らせる程の熱演だったそうです。
因みに共演した卯三郎は「(時代物なのに)生世話でやっているがよくやってる」、玉七も「芝居上手。あの不器量が良く見えた。おさんとの別れ、実に今の人に見せてやりたい」とそれぞれ好評だったそうです。
現在もこの佐倉義民伝は七代目團蔵を崇拝し子役時代に團蔵に直接手ほどきを受けた初代中村吉右衛門が継承し、彼の孫である二代目松本白鷗や二代目中村吉右衛門が受け継ぎ現在も繰り返し上演される演目となっています。
仁左衛門が演じた新富座の筋書
さて、大成功に終わったこの公演ですが1つオマケが付いていてこの舞台に出演していた実子である八代目市川團蔵によれば
「大夫元(興行主)が3日間日延べしたいと言い出したのですが、当時の大阪の習慣である入日(例えば3日間延長すると2日間分は日割りで給金を出すものの、1日分は無料で出演する事)に父は「大入りで日延べするのだから5日間分の日割りを出演者全員払うのなら3日間日延べしても良い」と十八番のクレーム皮肉を言い出し、大夫元は「そんなの大阪では前例がない」と食い下がると父は「大阪には旅巡業(上記参照)で来ているのだから大阪の例(ルール)なんか知らない、嫌なら日延べしなければいい」とごねた結果、遂に折れて出演者全員に4日分の日割りを支払って3日間日延べして一座は喜んだ」(一部意訳)
だそうです。その為興行主は「三河屋(團蔵)は人は呼べるが言う事がえげつない」と辟易してしまい、この公演の後入日という習慣は廃止となったそうです。
流石は市川苦情團蔵ですね。
その後も色々揉めながらも大阪の舞台に立ち続けましたが、この頃に歌舞伎座の社長となった大河内輝剛の肝いりで9年ぶりの帰京する事になります。その事については彼が出演した歌舞伎座の筋書の時に改めて紹介したいと思います。