明治25年3月 三座見比べ ①中座 | 栢莚の徒然なるままに

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今回からは同じ月に行われた3つの劇場の筋書を順番に紹介したいと思います。

まずは中座からです。

 

明治25年3月 中座

 

演目:
一、絵兄弟朝日万歳                 
二、老後の政岡        
三、祇園万燈九重錦

四、邯鄲枕物語

 

前々回に25年1月の中座を紹介しましたが、その後2月は同じ顔触れで公演を行いました。

しかし、ここで大阪の歌舞伎界に激震が走る知らせが飛び込みます。

角座に五代目尾上菊五郎、浪花座に初代市川左團次がそれぞれ下阪し2カ月に渡り公演を行う事でした。

この事は上方歌舞伎の役者にも大きな影響を及ぼしました。

まず初代中村鴈治郎と初代市川右團次は角座に専属している関係上菊五郎との共演が決まると

鴈治郎のライバルである三代目片岡我當が「敵の敵は味方」理論で中座を脱退して左團次の浪花座に出演する事を決め、中座に出演してた他の役者も彼に追従しました。

 

となると必然的に割を食うのは無人となってしまった中座でした。

そこで四代目嵐璃寛を急遽呼び出して他の二座に対抗する形を取りました。

主な出演者は璃寛親子に五代目嵐吉三郎、初代實川正朝、中村福松郎(後の二代目中村玉七)という顔ぶれになりました。

 

ここで知らない方も多いと思われますので四代目嵐璃寛について少し紹介したいと思います。


今でこそ六代目嵐橘三郎以外に歌舞伎界で嵐姓を名乗る役者はいなくなってしまいましたが、

かつて上方歌舞伎界において一大勢力を成したほどの一門で映画「鞍馬天狗」シリーズで有名な俳優の嵐寛寿郎は四代目璃寛の曾姪孫(妹の曾孫)に当たります。

芸域が広く若かりし頃には彼に恋い焦がれて死んだ娘がいたという噂が流れたほどの人気俳優で同年代の「延宗右」に匹敵するほどの勢いがあったそうですが時代の変化と共に人気は下降の一途をたどり晩年の彼と共演した事もある二代目實川延若によれば

 

「(彼と共演した明治中頃には)殆ど人気らしい人気は無かった」(延若芸話)

 

という落ちぶれ様でした。

その原因は芸風にあったらしく、

 

元々(演技に)粘り気味の上方役者の中でも璃寛はねばり気の多い、厚ぼったい、重苦しい、その代わり落着きもあり、深みも重みもあつて、堅実といふ感じには富んだ役者(坪内逍遥)

 

台詞回しにこの人一流の癖があって、いつも物を言うときには「それがエー」といった風に唇を尖らせて言ってた」(二代目實川延若、延若芸話)

 

と大時代な演技に加え台詞回しにも癖がありすぎた事が写実本位の演技が主流になっていた劇界から取り残されていったと思われます。

前回紹介した市川右團次と若干似てなくもないですが彼はそれでもまだ道頓堀の舞台に踏みとどまり続けましたが、璃寛はこの頃には道頓堀だけでは仕事が無いので京都や神戸の劇場に出る事も多くなっている状態でした。

とはいえ、無人の中座にとっては喉から手が出るほど欲しい存在であり、対して大劇場ではせいぜい脇役しかもらえず二流の劇場でしか主役を演じれなくなっていた璃寛にとっても久しぶりに一流の劇場で主役を演じれる絶好の機会とあって十八番の片はずし物で最も得意である政岡を始め五役を演じるという大車輪ぶりを見せてます。

 

番付もご覧の様に彼だけ特別扱い

 

その甲斐あってかこの公演は菊五郎の角座、左團次の浪花座を向こうに回しながら大当たりし、中座も引き続き璃寛に主役を務めさせ4月はこれまた得意の和田合戦女舞鶴の板額女、5月は卅(三十)三間堂棟由来の柳の精と3ヶ月連続で中座の主役を務めるという栄誉を勝ち取りました。

 

しかし、その栄光も長くは続かず菊五郎、左團次の帰京後は元の位置に逆戻り…どころか一公演に一役か二役、それも酷い時には端役に近いような役を当てられたりするなど不遇を託ったまま明治27年1月の角座で得意の政岡を演じたのを最後に死去しました。

この公演はそんな璃寛が最晩年に咲かした最後の花舞台だったと言えると思います。