前回は中座について紹介しましたので今回は角座の筋書を紹介したいと思います。
明治25年3月 角座
演目:
一、老女村岡九重錦
二、戻橋
三、神明恵和合取組
左團次・我當擁する浪花座との公演合戦となった訳ですが、そもそも何で大阪の地で両優が全面対決をする事になった原因から紹介したいと思います。
東京では「團菊左」と九代目市川團十郎を加えて三幅対で紹介される五代目尾上菊五郎と初代市川左團次ですが明治25年前後の彼らを取り巻く状況は概ね以下の様になってました。
團十郎…興行主:千葉勝五郎 専属の劇場:歌舞伎座
菊五郎と左團次…興行主:十二代目守田勘彌 専属の劇場:新富座など
しかし、何かにつけて勘彌が自分より菊五郎を優遇する事や左團次を保証人にしてる借金を踏み倒し彼に肩代わりさせた事などが積もりに積もった不満が爆発して明治24年5月に左團次は勘彌と絶縁してしまい、続いて同じ年の夏に左團次が地方巡業に行く際に菊五郎一門の四代目尾上松助を菊五郎に断りも入れずに連れて行った事で菊五郎とも険悪な関係となっていました。
そんな中、左團次は浪花座からの出演依頼を受けて快諾し29年ぶりに大阪の舞台に出演が決まりました。
その情報が角座の興行主の尾張屋→高砂屋三代目中村福助の母親→菊五郎の順番(鴈治郎談)で伝わり、客を浪花座に持って行かれてしまうのを危惧する角座と左團次に対する敵愾心むき出し(笑)の菊五郎の利害が一致しすぐさま両者の間で出演話がまとまりこのような形となりました。
さて演目ですが主な配役で以下のようになってます。
老女村岡九重錦
村岡局…右團次
平野次郎…菊五郎
梅田源次郎、月照…鴈治郎
西郷隆盛…我童
戻橋
小百合実は鬼女…菊五郎
渡辺綱…右團次
右源太…菊之助
左源太…高砂屋二代目中村政治郎(後の三代目梅玉)
源頼光…我童
神明恵和合取組
め組の辰五郎…菊五郎
三河町の藤松…鴈治郎
辰五郎女房お仲…四代目澤村源之助
露月町亀右衛門…四代目尾上松助
四ツ車大八…右團次
九竜山浪右衛門・焚出し喜三郎…高砂屋福助
座元喜太郎…我童
菊五郎一門+四代目澤村源之助に鴈治郎、福助、我童、右團次と売れっ子を集めた事もあって公演成績は浪花座にこそ叶わなかったものの全席売り切れの日が続く大盛況になったそうです。
それだけにこの公演では様々な逸話が伝わっています。
まず戻橋では渡辺綱の役は当初は片岡我童に決まっていたものの、鴈治郎や福助がこの役を演じたいとゴネてしまい仕方なく座頭の右團次が演じる事で収まりました。菊五郎はこの配役に不満だったものの右團次がクライマックスの立ち廻りで宙乗りからの宙ギバ(直接尻から落ちて着床する高度なケレン芸)を行い菊五郎から「こればかりは(東京の戻橋で相手役を務めた)左團次や芝翫も及ばない」と激賞され座頭としての面目を保った話が伝わっています。
またこの戻橋を含め四役で出演した二代目尾上菊之助は養父から勘当後尾上松幸と名乗って5年間に渡って過ごしてきた大阪の地に凱旋とあって観客からの歓声の割れんばかりの熱狂で迎えられ感極まったとか。この3年後に30歳で若くして亡くなっただけに彼にとっては晩年における輝かしい舞台の1つとなりました。
鴈治郎は明治23年の新富座以来となる菊五郎との共演となりました。新富座では鴈治郎の自分に対する対応がなってないとして菊五郎がご機嫌斜めとなり共演を拒否するなど気まずい雰囲気となりましたが、この時はライバルの左團次の故郷大阪とあって元々菊五郎への風当りが強い事に加えて贔屓先への挨拶回りの時にうっかり靴を脱がずに入ってしまい贔屓筋の不興を買ってしまった事もありそれ以降は極めて平身低頭で通した事で何のトラブルもなく2ヶ月間共演しました。
因みに鴈治郎は東上した時に菊五郎、左團次の双方に「下阪した際には是非ともご一緒しましょう!」とリップサービスで言ってしまっており、まさか双方が同時に下阪するとは夢にも思わず(笑)対応に苦慮したと自伝に書いています。
この時は専属契約していた事もあって菊五郎との共演をしましたが、後日明治29年に左團次が単独で下阪した時に浪花座で共演して約束を何とか果たしたそうです。
一方菊五郎はというと毎日終演後に鴈治郎と伊右衛門町の料亭に繰り出しては朝までどんちゃん騒ぎをした上、そこで出会った新人の芸妓に菊五郎が一目ぼれしてしまい2000円(現在の貨幣価値で約1300万円)の身受料を即金で支払って愛人にしてしまい東京に一緒に連れて帰ったというオマケ話まで付いています。
菊五郎にとって非常に得るものが多かった(?)大阪遠征となったのでした。