明治25年3月、4月 三座見比べ ③浪花座 | 栢莚の徒然なるままに

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今回は三座の最後、浪花座の筋書を紹介します。

この浪花座だけは3月公演と4月公演の両方を持っているので一緒に紹介します。

 

明治25年3月 浪花座

 

演目:
一、夜討曽我狩場曙        
二、神霊矢口渡        
三、名高慶安太平記        
四、薩摩踊街賑        
 

明治25年4月 浪花座

 

演目:
一、細川血染御書        
二、壇ノ浦兜軍記        
三、金看板侠客顔寄        
     
角座の回でも紹介しましたがこの浪花座の公演は角座の菊五郎との全面対決となりました。

東京では菊五郎に後塵を拝する左團次ですが大阪の観客たちは約30年ぶりの帰阪となる左團次に同情し、中には浪花座の公演終わるまでは角座には行かないという贔屓も現れるなど開演前から盛り上がり2月24日の大阪乗り込みの際には大勢の見物が押し寄せたらしく、

この時子役で出演していた莚升(後の二代目市川左團次)は自伝で「男衆に肩車されてやっとの思いで(劇場に)った」と書いています。

そして懸案であった人材不足も角座に鴈治郎が加わると知った三代目片岡我當が「敵の敵は味方」と言わんばかりに中座を脱退して加わった事で解決し演目も「神霊矢口渡」と左團次の出世作「慶安太平記」とあってか連日札止めの大入りになりました。

 

因みに筋書には記載がありませんがこの時は口上もあったらしく、左團次は大阪を去ってから今日に至るまでの経緯を述べた後、

本来は市川宗家にしか行えないとされる「にらみ」を披露したそうです。

もっとも後に二代目左團次が明治座に初代の胸像を建てた時や、三代目と四代目の左團次も襲名披露の時にも披露している所を見る限りどうやら高島屋は例外的に「にらみ」を行えます。

 

話が脱線しましたが主な配役は

 

夜討曽我狩場曙

曽我五郎…左團次

曽我十郎…我當

鬼王新左衛門…三代目中村壽三郎(左團次の実兄)

團三郎…三代目市川米蔵(寿三郎の養子)

喜瀬川の亀菊…市川升若

 

神霊矢口渡

船人頓兵衛…左團次

船人六蔵…初代市川荒次郎(左團次の実弟)

新田義岑…我當

頓兵衛娘お舟…壽三郎

傾城うてな…米蔵


名高慶安太平記 

丸橋忠彌…左團次

松平伊豆守…我當

由井正雪・弓師藤九郎…壽三郎

大竹八郎…米蔵

忠彌女房おせつ…升若


薩摩踊街賑

国友…左團次 

吉江…我當

 

細川血染御書    

大川友右衛門…左團次

細川候…我當

堀帯刀…壽三郎

印南数馬…米蔵

横山図書…荒次郎


壇ノ浦兜軍記        
阿古屋…米蔵

榛沢六郎…左團次

畠山重忠…我當

 

金看板侠客顔寄

木崎久藏…左團次

金看板甚五郎…我當

久藏妹およね…米蔵

甚五郎妻おてう…升若

 

となっています。

基本的に左團次一門に我當が客演という形をとっており、それまで中座でそれなりの役を演じていた澤村源平(後の七代目澤村宗十郎)や初代實川延二郎(後の二代目實川延若)もこの時は端役に甘んじる程でした。

そして少しでも気に入らない事があると相手が誰であろうが平気で舞台上でも奇行を行い滅茶苦茶にする奇人変人として知られる片岡我當ですが、この時は自分の配役に大変満足していたのか何もトラブルを起こす事無く舞台を務めました。

 

続いて4月も「細川血染御書」と珍しい「壇ノ浦兜軍記」を出して大入りを続け無事故郷に錦を飾る事に成功しました。

因みにこの公演対決ですが2ヶ月に渡って続いた後場所を名古屋に移して引き続き行われました。
この時に2人の間に入る人がいて一応和解をしましたが、翌26年7月の歌舞伎座を最後に共演する事は二度とありませんでした。

 

それまでは温厚な性格故に團菊の2人に比べて控えめであった彼もこの前年に守田勘彌と絶縁して市村座を拠点に独り立ちし、今回の大阪遠征で自分に自信が付いた事もありいよいよ念願であった座元を兼任する明治座を立ち上げて専属となり自身の芸技を磨く道を選びます。

一方菊五郎はというと自身の留守中に息子の丑之助の面倒を團十郎が観た事もあり、團十郎と和解して晩年の10年間を歌舞伎座に出演する事が多くなりそれまで一劇場に過ぎなかった同座を一躍「歌舞伎の殿堂」と呼ばれる様になる事に寄与しました。


余談ですが両優の実子である六代目尾上菊五郎と二代目市川左團次もこの時の親達の方針によりがこれ以降共演する機会が無くなり、昭和11年12月26日、27日に行われた「大日本俳優協会演劇会」(現在の俳優祭の様な特別興行)を除いて同座する事はありませんでした。

(よく勘違いされているので一応書いておきますが2人の共演自体は親たちが仲良かった頃は普通に新富座で共演しており、双方が菊五郎と左團次を襲名してからの共演したのが昭和11年の演劇会のみとなっています)

その後も紆余曲折があり菊五郎と左團次を名乗る役者が同じ舞台に立つのは最後の共演から何と85年後の昭和54年2月の四代目左團次襲名まで待つことになります。